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当家は“平家”の流れ !?(2)

 以下は大場陣内なる人物が、山形に落ち延びて来たということを事実と仮定して述べていきたいと思います。
 そこで気になるのは、その人が言った「入ったのは上山だ」ということです。ご存知の方もおいでかもしれませんが、今日では上山(かみのやま)は奥羽山脈の秀峰・蔵王山の麓に開けた賑やかな温泉町です(現在は上山市)。大場陣内がやって来たという昔々はもちろん今のように開けた町ではなく、温泉がわずかに出るくらいの山里で、地形的にその山奥に隠れ住むには案外格好の場所だったのかもしれません。

 私が生まれ育ったのは東置賜郡(当時)であり、上山とは山々を隔てただいぶ離れた場所にあります。
 しかし私が30代半ば過ぎ頃、亡母が何かの折り「父ちゃんの先祖は上山だったんだど」と、ぽつりと話したことがあります。私はそれ以上突っ込んだことは聞きませんでしたが、もしそれが事実なら、当家の先祖も元々は上山に住んでいたことになります。今となっては、「何で上山から東置賜郡に引っ越してきたのか」「それはいつのことだったのか」など、肝心なことをしっかり聞いておけばよかったと思います。

 それにしても、大場陣内はいつの時代に上山に入ったのでしょう?
 やはり壇ノ浦の合戦(元暦2年/寿永4年-1185年旧暦3月24日-新暦4月25日)の頃のことでしょうか。一ノ谷、屋島と源義経を総大将とする源氏方に追いつめられていった平家一門は、最終決戦の地・壇ノ浦で遂に滅亡しました。
 しかし中には、生きて各戦場から敗走し、各地の僻地に隠棲することになった平家一門の者たちもけっこういたわけです。いわゆる「平家の落人(おちうど)」たちです。それは主に平家一門及びその郎党、平家方に加担した者たちのことです。そのため「平家の落武者」とも言われますが、落人の中には武士だけではなく公家や女性や子供たちも含まれていました。

 私は大場陣内が、その時の落人の一人であることには懐疑的でした。というのも、源平合戦の舞台は主に西日本、特に壇ノ浦は瀬戸内海、本州最南端であるからです。それに一連の合戦により、京都など近畿圏から関東圏はいよいよ源氏の勢力が強まったわけで、もし敗走を試みるとすればその影響力が比較的及ばない、四国、九州、山陰などの山里なのではないだろうか、と考えたのです。
 事実平家の落人の多くは、今挙げたそれらの地方を目指したようです。九州最南端の鹿児島には、落人伝説の地が特に多いようです。
 しかし今回少し調べましたら、平家の落人の子孫を主張する村は、何と全国に132ヶ所もあるそうです。

 そしてその中には、平定義が落ち延びたと伝えられる宮城県仙台市青葉区定義地区や、落ち着いた平氏、藤原氏の者が土着したと伝えられる福島県南会津郡桧枝岐村など東北地方の例もあるそうです。そうなると、今回問題となる山形県上山市もあながちありえないことではなくなります。(但し全国に点在する落人部落のほとんどは、その信憑性に欠けるそうです。)
 また平家の落人にゆかりのあるとされる姓として、「大庭」という姓があげられています。大庭氏は「坂東八平氏」中の一氏ですが、茨城県久慈郡大子町古分屋敷には大庭景親(おおば・かげちか)の残党が落ち延びた伝説があるそうです。(都合上、大庭から大場への改姓も考えられないことではありません。)

 以上から、大場陣内なる人物の敗走ルートなどを推理するとこうです。
 大場陣内は元々坂東平氏の流れを汲み、そのため一連の源平合戦にも平家方の一武士として加わったのではないだろうか。しかし平家方は敗北してしまった。そこで合戦を生き延びた陣内らは、リスク覚悟でともかくも故郷の坂東つまり関東地方を目指して敗走を重ねた。そしていざ故郷にたどり着いたものの、そこは今や源氏勢力が制圧していて平家の残党狩りが続くなど、とても長く住み続けられる所ではなくなっている。そこで陣内はやむなく故郷を捨てて、更に北上を続け、ようやく安住の地として上山に隠れ里を見出し、その子孫たちが農民として土着した。
 
 また源平合戦とは何も壇ノ浦だけではありません。先に挙げた大庭景親は、平氏の武士団を率いて挙兵間もない源頼朝の軍を、石橋山(現小田原市)の戦いで撃破しています。しかし大庭景親は、後に再挙兵した頼朝軍による富士川の戦いでは、投降し処刑されました。
 壇ノ浦に至る前哨戦として、関東でも何度かの合戦があったわけです。ここから、例えば富士川の戦いに参加した大場陣内も、故郷には入れず、北を目指して敗走を続けたというケースも考えられます。
                        *
 その人は、「大場じんない」という名前や「上山」という地名を何の根拠があって挙げたのか、確かめようがありません。それに当家も先祖代々の品々は悉く散失してしまっていて、家系図などももちろんありません。ですから、以上の話はすべて仮定の話であることをご了承いただきたいと存じます。
 以上、しがない一市井人が時折り想い描く、ロマン、夢想のたぐいでした。 

(追記) 今回の記事をまとめるにあたり、フリー百科事典『ウィキペディア』の「壇ノ浦の戦い」「平家の落人」の項などを参考にしました。  ― 完 ―  
 (大場光太郎・記)

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思い出」カテゴリの記事

コメント

はじめまして。
ドラマJINを観たら、自分の苗字に由来が気になり検索したところ、こちらのページにおじゃましました。

そして、(1)でビックリ!
私も山形なんです。
酒田のちっさい村なんですけど。

曾祖母が亡くなったとき、
住職が先祖代々の名前を延々と読んでいて
自分の名前になるまでに1時間以上かかった気がします。

その時、先祖は落武者だったのよ。と教えられていたのですが

まさか平家とは!!!!

投稿: Kaory | 2011年6月27日 (月) 02時45分

kaory様
 コメントありがとうございます。ドラマJIN私は見ていませんが、大評判のようですね。同ドラマでは「苗字のルーツ探し」のようなストーリーがあるのでしょうか?
 kaory様もひょっとして「大場姓」?だとしたら、大場姓は酒田にもあるんですね。上山から酒田へさらに移動した、大いにあり得ますね。とすると、kaory様のお家と当家は、昔々の縁戚だったりして !
 当家の場合は本文中にありますとおり、何も裏づけとなるものがなく、「平家」は夢想のたぐいです。が、先祖代々のお名前の読み上げで1時間もかかるというのは由緒正しい家柄、そして「落武者だった」とのお話、ひょっとしてやはり「桓武平氏」に繋がるお血筋なのかもしれませんね。
 いつか御家の家系図を徹底的に溯って調べられれば、さらに興味深い事実が判明するかもしれませんね。

投稿: 時遊人 | 2011年6月27日 (月) 09時42分

検索していて辿り着きました。
大庭景親の子孫の一人です。
景親は斬首されましたが、その遺児は足利氏に預けられ、後に三河に送られたと言われています。
裏付けとなる決定的な史料は見つけていませんが、うちの家系図を見ると、そのようになっています。
なお、三河に送られてからは名字を変えています。
大場(大庭)に戻すのは、ずっと後、室町時代になってからです。
さて、足利一門で鎌倉時代に三河を治めていたのは吉良氏です。
吉良氏にはいくつかの系統がありますが、そのうちの一つが室町時代に奥州管領(後に探題)になっています。
三河でいくつかに分岐した大場の家系に、それに随伴していったものがあったとしたら、奥州でさらに分岐して奥州に留まった方がご先祖様かもしれませんね。
奥州探題を務めた吉良氏ですが、やがて斯波氏との争いで劣勢になり、鎌倉公方足利氏に呼ばれて関東に下りました。
私の家は、その吉良氏の重臣の流れです。
なお、我が家の墓所は450年ほど前からのものですが、墓碑を見ると明治に戸籍ができて字が固定されるまでは「大場」「大庭」のどちらの字も使っていたことがわかります。
ご参考になれば幸いです。

投稿: 大場某 | 2017年2月 7日 (火) 08時05分

大場某 様

 大変貴重なコメントありがとうございました。

 うわぁ、正真正銘、大庭景親直系のご子孫ですか。本記事における当家の件は全くの妄想の類ですが・・・。大庭景親の子孫には種々数奇な運命があったのですね。ひょっとしてして私も大庭景親に連なるのかもしれない、などと想像するとワクワクしてしまいます。貴重な情報、大変ありがとうございました。

投稿: 時遊人 | 2017年2月 7日 (火) 18時13分

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