« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

2009年2月

神奈川県庁本庁舎にて(2)

 神奈川県庁本庁舎の屋上には、何人かの人がいました。いずれもお役人のようです。この屋上だけが唯一の喫煙場所になっていて、業務の合い間横浜の景色を眺めながらの贅沢な一服なのでしょう。中には『アンタも一服?ホントかよ』と思うような、県の制服に身を包んだ知的で綺麗な女子職員が混じっていたりします。
 もちろん屋上からは、横浜市街が360度ぐるりと見渡せます。しかしどうせ横浜に来たからには、自ずと横浜港の方向に視線が惹きつけられ、足は自然とそちらの壁ぎわへと向ってしまいます。

 早春の淡い西日を浴びて、横浜港が大パノラマで一望できます。すぐ目に飛び込んでくるのが、何といっても左手の横浜赤レンガ倉庫、そして真ん中から右よりの大桟橋(横浜港大さん橋国際客船ターミナル)です。そのさらに右手は山下公園ですが、手前の大きなビルに阻まれて全体は確認できません。
 さらには向う岸の神奈川区や川崎市鶴見区などの途切れることなく建ち並ぶ建造物群が、夕霞に霞みがちに見えています。本夕さして風はなく、鶴見区の工場の高い煙突から白い煙がほぼ真上にもくもくと立ち上っているのが認められます。
 その間港内を中くらいの大きさの真っ白い客船が、ゆっくりこちらに向って来ます。少しすると、赤レンガ倉庫から張り出した停船所に着船しました。乗客を降ろすのでしょうか。

 横浜港に接する手前に、赤レンガ倉庫や大桟橋埠頭そして山下公園などに行くための、高架の遊歩道が見られます。老若男女さまざまな人がひっきりなしにそこを行き交っています。その道を中央部から視線を左に赤レンガ倉庫の方にたどってみると、なるほど名高い観光スポットの一つなわけです。その手前の道あるいは倉庫前広場に、小さな人影がいっぱい集まっているのが認められます。

 そうこうしているうちに、停船していた例の客船がまた出航していきました。新たな乗客を乗せ終わったのでしょうか。まるで亀の歩みのように、じれったいほどのろのろです。
 するうち、倉庫と大桟橋埠頭のちょうど中間くらいの海面でパタッと停まってしまいました。『んっ?』と思って見守ること何分か。そのうちゆっくりゆっくり時計回りに旋回し始めました。『そうか。あそこまで船尾方向から進んで、本来の向きに変えてるんだな』。そのとおりで、海面に丸いやや大きな波紋を広げてぐるっと180度向きを変えていきます。その時一瞬、見えている側の黒い船窓が西日にキラッと光りました。そしてまた何分かのじれったい停止。それから静かに動き出しました。

 後には小さな水脈(みお)を残しながら。一時大桟橋の陰に隠れ再び姿を現して、そのままゆっくり右手の港の外へと。
      ……  ……
    黒い煙をはきながら 
    お船はどこへ行くのでしょう
      ……  ……
 私は紫煙をくゆらしながら、『みかんの花咲く丘』を口ずさんでいました。お船は本当にどこへ行くのでしょう?早春の潮風に吹かれてどこまでも…。
 ぼんやりそんなことを想う、それはつかの間ささやかなロマンです。  ― 完 ―
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (6)
|

神奈川県庁本庁舎にて(1)

 25日(水)、久しぶりで横浜に行ってきました。行き先は神奈川県庁本庁舎です。以下にそのもようを小紀行文的につづってみました。
                         *
 「冬は名のみの風の寒さや」のこの季節、ことに先週末頃から今週にかけては、曇ったり雨が降ったりのぐずついた寒い日が続いています。この日も午前中は雨がちで、午後当厚木市を出た時雨は降っていないものの、何となく湿っぽい冷気を感じ、横浜への遠出で途中どうなるか分からず、傘を持って出かけました。
 この日目指したのは神奈川県庁の本庁舎でした。海老名市内某建築会社の、一級建築士事務所登録の変更届提出が目的です。

 昨年10月の『横浜の秋風に吹かれて(3)』でもご紹介しましたが。神奈川県本庁舎は昭和3年に建てられた我が国初の帝冠様式による建造物です。外壁は茶色いレンガ張り。遠目から見ても、いかにも時代を感じさせるノスタルジックな外観です。
 また本庁舎は、建造からしばらくは横浜市内では図抜けて高かったため「横浜三塔」の一つとして市民に親しまれていたようです。三塔はそれぞれキング、クイーン、ジャックという愛称で呼ばれました。この本庁舎は、その筆頭格の「キング」の愛称です。ちなみにクイーンは横浜税関本関庁舎、ジャックは横浜市開港記念会館です。
 そういえばここに来るまでの途中に、「横浜三塔物語」というシャレたネーミングの布幟(ぬののぼり)がありましたっけ。

 横浜スタジアムからドーンと真っ直ぐ伸びているみなと大通りの鋪道を歩いて、あと少し歩けば横浜港という手前に本庁舎はあります。外観もさることながら、中もグレー系の大理石造りの四角て大きな柱が所々にあったりして、何かタイムスリップして戦前のさる大きな建物の中に迷い込んでしまったかのような錯覚すら覚えます。(建物内の角を曲がろうとして、ひょいと怪人二十面相に出くわしそうです。)
 目指すは、同庁舎5階の建築指導課。庁舎内は現在一つのエレベーターしか稼動させておらず(以前お伝えしましたとおり神奈川県もかなりの財政難です)、それに乗り込んで5階の建築指導課に行きます。この部署のチェックは至極あっさりしたもので、ものの数分で受付が終わりました。書類第一面上部余白に、丸くて大きな朱の収受印をポンと押して、それぞれの副本を返してくれました。

 同部署を辞して通路に出て、時計を見ると4時15分過ぎ。折角本庁舎に来たのですから、このまま帰るのももったいなく、6階の屋上に上ってみることにしました。
 雲が多目ながら、きょうはもう雨が降ることはないようです。それのみか、雲の切れ間から、早春の柔らかな西日さえ射してきています。さすが屋上に出てみると、老朽化はいかんともし難いものがあります。雨ざらしの床板の端辺りには深緑色の苔が生えていたり、屋上をぐるりと囲んでいる黒ずんだ防護コンクリート壁(高さ1m強)の、至る所にひび割れてコーティングした跡が見受けられ、痛々しいほどです。
 
 でもいいのではないでしょうか?このような老朽化した建物を役所の建物として使い続けても。耐震補強さへ磐石であれば。
 本庁舎と大通りを挟んで反対側には、10階建くらいの超近代的な新庁舎が建てられています。その無個性で冷ややかな外観と比較しても、「昭和は遠くなりにけり」の平成21年の今日、このような歴史的建造物を遺し続ける価値は大ありです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

早春賦

          作詞:吉丸一昌、作曲:中田 章
 
 1 春は名のみの風の寒さや     3 春と聞かねば知らでありしを
   谷の鶯歌は思えど            聞けば急かるる胸の思いを
   時にあらずと声も立てず         いかにせよとのこの頃か
   時にあらずと声も立てず         いかにせよとのこの頃か

 2 氷解け去り葦(あし)は角(つの)ぐむ
   さては時ぞと思うあやにく
   今日もきのうも雪の空
   今日もきのうも雪の空

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 立春(2月4日)はとうに過ぎたけれども、それは暦の上のことだけで。この時期は、突如暖かくなったかと思えばまた冬に逆戻りの寒い日となり、冬とも春とも決めかねるモラトリアムな季節です。『早春賦』は、そんな今頃のことを歌った歌です。
 立春頃から3月上旬頃まで、ふと何気なくこの歌のワンフレーズを口ずさんでいる―ある一定以上の方なら、そんな経験がどなたもおありなのではないでしょうか?
 ともかく。詞も曲も、早春の雰囲気をあますことなく伝えている、叙情歌の名曲です。

 その歌から現在住んでいる土地(たとえそこがどこであろうとも)、あるいは北または南の故郷のことが懐かしく甦ってくる。そういう普遍性が、叙情歌の名曲にはあるように思います。
 その意味で、早春といえば『早春賦』。その後作られた早春の歌で、この歌の右にでそうな歌は思い浮かばないほど、この季節を代表する名曲です。

 私のこの歌の思い出として―。
 高校2年の3学期、ちょうど今頃か少し先の季節。雪深い山形のこととて、長井市の外れの(校歌にも歌われている)「早苗(さなえ)が原」にある校舎の周りは、まだ一面雪に埋もれていました。
 音楽の最後の授業で、クラス全員一人ひとり前に出て好きな歌を披露することになりました。音楽の先生は当時50代の女性教師で、若い頃は東京で活躍されていたという名物先生でした。前の週、この先生からその旨提案があったのです。

 当時も今も大学進学を目指す場合、高校2、3年は「音楽」という余計な授業など、ないのかもしれません。私の高校も一応進学校でしたが、当時は高2から進学コース5クラスと、就職コース2クラスに振り分けられ、私は後者の方でした。そのおかげで、高校2、3年でも、引き続き音楽の授業を受けられる恩恵を与えられたのです。
 
 余談ながら申せば。高校時代は、人生の中で一番多感な時期です。その中で、たとえ大学進学のためであろうがなかろうが、その期間「音楽教育」を受けないというのは、余りにも大きな損失だと思います。
 『シューベルトのセレナーデ』『嘆きのセレナーデ』『モスクワ郊外の夕べ』『別れの曲』『アフトン川の流れ』『ソルベーグの歌』『花の街』等々。多感な情操を刺激され、その後も長く印象に残ることになる歌の数々は、皆この時期に教わったものです。
 これらの歌は、その年頃に習うから意義があるのであって、30代、40代になってから新たに聴いても、その頃のような沸き立つ情感はまず得られないと思います。

 …男子は特に、当時流行っていた『二人の世界』や『霧の摩周湖』などを歌った者が多かったように思います。そんな中私は、大まじめでこの『早春賦』を歌ったのでした。その頃この歌を、高校で習った記憶はありません。あるいは中学校で既に教わっていたか、自然に覚えたかのどちらかです。
 おそらく。東北の遅い春を待ちわびる気持ちと、当時17歳だった文学少年の心情に、この叙情歌はぴったりフィットする歌だったのだろうと思います。

 (『早春賦』のmp3演奏は、『二木紘三のうた物語』でお聴きになれます。また『シューベルトのセレナーデ』以下『二人の世界』までの曲も同様です。)
 (大場光太郎・記)

| | コメント (2)
|

やったぞ ! 『おくりびと』!!

 『おくりびと』が、第81回アカデミー賞・外国語映画賞を受賞しました。そのことにつき、以下にくまさん様と私のやりとりを記します。
                         *  
 「おくりびと」、やりましたね。地元のローカル放送では、滝田監督の実家が映し出され、ご両親や近所の人たちの喜んでいる様子が流れていましたよ。いかにも日本の田舎らしい情景でほほえましくなります。日本では、当然ながら、各メディアともこの受賞を大きく取り上げていますが、当のアメリカではどうなんだろうとニューヨークタイムズのオンライン版を覗いてみると、取り上げられているのは真のオスカー賞受賞作(best picture)に選ばれたslumdog millionairの記事がほとんど。申し訳程度にDirector Yojiro Takita -- surrounded by the cast of "Departures" -- hoists the trophy for best foreign language film という記事に添えられた監督やモックン、広末サン達の写真が掲載されているだけでした。これが、現実でしょうね。
 この「おくりびと」につきましては、少々思うところもありますので、実際に映画を見た上であらためてコメントすることをお許しいただけたらと思っております。
 (くまさん・記)
                         *
 ええ、やりましたね。既に記事として取り上げていた上に、くまさん様のおかげでロケ地が山形であることが分かって、私としても何か他人事でないような嬉しさがあります。くまさん様も、原作者・青木新門氏、滝田監督共に富山の人とあって、感激もひとしおのことでしょう。
 『おくりびと』。英語題では「Departures(ディパーチャーズ)」つまり「旅立ち」という意味らしいですね。彼岸への永遠の「旅立ち」。それをお見送りする仕事。「死」という普遍的なテーマを深く厳粛に描いたことが、文化や言葉の壁を越えて高く評価されたのでしょうか?
 今回の受賞もさることながら、既に海外36ヵ国・地域での公開が決まっているとのことでこれまたすごいですね。

 また関連で知ったことには。『おくりびと』は、そもそも主役を演じた本木雅弘の企画から始まったもののようです。今から十数年前たまたま旅先で見た葬儀の光景がヒントになったとのこと。納棺師の青木新門の『納棺夫日記』を読み込み、現役納棺師の特訓も受けたとのことです。
 だいぶ前なら、「シブがき隊」の「モックン」の愛称でしたが。彼のアイディアが具現化され、遂に世界中が注目するアカデミー賞の晴れ舞台の上。人間的に何段階も成熟度が増し、実に引き締まった良い顔をしていましたね。
 それに奥さん役の広末涼子。早稲田の学生の頃は、奇行が目立ち周りの顰蹙をかい、『この娘どうしちゃったんだ。壊れちゃったのか?』と思ったものでした。その後結婚などを経て立派に再生、新生し、これまた一世一代の晴れ舞台。彼女、とても輝いていましたね。
 
 更に滝田洋二郎監督。スタートはマイナーなピンク映画からだそうです。斜陽化時代の映画界の厳しさを知る、たたき上げの苦労人ですね。日本映画界のヒットメーカーでありながら、これまでは国際映画賞とは無縁。それが『おくりびと』で、カナダのモントリオール映画祭、日本アカデミー賞そして本場アカデミーと各賞総なめで、国際舞台に大きく羽ばたきました。ようやく、日の当たるべき人に日が当たったという感じですね。
 その他脇を固める役者さんたちも、山崎努、余貴美子、吉行和子、笹野高史…。それぞれ味のあるいい役者さん揃いです。
 
 後は「観てのお楽しみ」ですね。ええ、また観てのご感想など是非どうぞ。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (5)
|

『おくりびと』の舞台など

 映画『おくりびと』が、日本アカデミー賞10冠に輝いたことなどを、前記事でお伝えしました。すると早速くまさん様より、以下のようなコメントをいただきました。

 映画『おくりびと』はまだ観ていませんが、この映画の原作となった『納棺夫日記』は以前から注目していました。原作者の青木新門氏は富山市の作家であり、映画監督の滝田洋二郎氏は我が家の隣町である高岡市(旧富山県西砺波郡福岡町)出身の方なので、地元でもおおいに話題になっています。ところで、この映画のロケ地には地元の富山県ではなく、大場様の郷里の山形県が選ばれたと聞いています。山形のどのあたりなのでしょうか。
 
 くまさん様は富山県在住の人。そして『おくりびと』は、原作者の青木新門そして映画化に当たった監督の滝田洋二郎も共に富山県の出身と、富山県と縁の深い映画だったわけです。
 それがなぜか、映画の舞台は今度は私の出身県である山形。これまた奇縁と、くまさん様のご文に接して驚いています。そういえば、日本アカデミー賞公式サイトを調べた時に、
   最優秀作品賞  おくりびと
 続いて、TBS=セデックインターナショナル=松竹=電通=アミューズソフトエンタティンメント=小学館=毎日放送=毎日新聞社=テレビュー山形=TBSラジオ
と、なぜか「山形」の文字があるのが気になりました。

 そんな具合で、「山形のどのあたり?」とのお尋ねに即答できず、調べてみました。以下は、「山形新聞 Yamagata News Online」の記事などからピックアップしてご紹介します。

 先ず、舞台は山形の庄内平野のようです。庄内(しょうない)平野は、山形県北西部(秋田県寄り)の日本海側に位置する平野で、古くから県内有数の米どころで農業が盛んな穀倉地帯です。最上川の河口付近に、県内唯一の港湾都市・酒田市、平野の南西部にはかつての城下町である鶴岡市があります。

 脚本の小山薫堂にとって、今回が初めて手がけた映画脚本で、シナリオを書くことになった時には「山形を舞台に納棺師の物語を」とだけ言われ、そのため3年前初めて山形県を訪れたのだそうです。当初は『難しいなぁ』と思っていたものの、庄内に行ってみてすぐに、『この風景にはチェロが似合う。そうだ、主人公は元々チェロ奏者を目指していたことにしよう ! 』というように、次々とストーリーやアイディアが浮かんできたそうです。
 こうして『おくりびと』は、チェロ奏者の夢をあきらめ庄内に帰郷した小林大悟(本木雅弘)が、遺体を棺に納める納棺師の仕事に就き、死をめぐる人間模様をとおして次第に成長していく物語。2007年冬から酒田、鶴岡、三川、遊佐、上山でロケを行ったそうです。

 ところで「山形は映画の都」として、今地元では大盛り上がりのようです。そもそもは、時代小説家の藤沢周平が鶴岡市の出身で、氏の一連の時代小説の多くに登場する「海坂藩(うなさかはん)」は庄内藩がモデルだったことから、藤沢時代小説の映画化に当たって『ならば、庄内ロケを…』ということで、始まったと推察されます。そうして、山田洋次監督の『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』『武士の一分』などの作品は、主に庄内ロケで撮られました。
 その後「県おこし」の一環として、黒土三男監督の『蝉しぐれ』のオープンセットを活用するため、第三セクター的な「庄内映画株式会社」を設立し、撮影協力やロケ誘致活動に力を入れているようです。

 そのようにして以後もそこから、三池崇史監督の『SUKIYAKI WESTERN DJANGO』、篠原哲雄監督の『山桜』、曽利文彦監督の『ICHI』などが制作されていきました。今回の『おくりびと』もおそらく、企画が起こされたのを庄内映画(株)が聞きつけ、売り込んでロケ地の誘致に成功したといったところなのではないでしょうか?更には、庄内のみならず2004年矢口史靖監督の、『スィング・ガールズ』のロケ地は米沢でした。

 他の地では例えば、かつての大林映画は尾道市、『世界の中心で愛を叫ぶ』『機関車先生』などは四国、『ALDAYS 続・三丁目の夕日』『K-20 怪人二十面相・伝』などは北九州というように、各地に際立ったロケ地が存在します。しかし上記のような堂々たる作品群が、山形で撮られていたわけです。
 我が出身県でありながら、今改めて知り、「頑張れ。やまがた !! 」とエールを送りたくなります。この映画、いよいよ観ないでは済まされなくなりました。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (2)
|

『おくりびと』のことなど

 20日夜、第32回日本アカデミー賞授賞式が東京都内で行われました。
 その結果、13部門で優秀賞に選出されていた『おくりびと』が、作品、監督、主演男優、助演女優など最優秀10冠に輝きました。これは、1997年(第20回)『Shall we ダンス?』の13冠に次ぐ快挙です。
 授賞式では、『おくりびと』がたっぷりと“贈られる”夜となりました。

 『おくりびと』が受賞した最優秀各賞は、以下のとおりです。
     最優秀作品賞      おくりびと
     最優秀監督賞      滝田 洋二郎
     最優秀脚本賞      小山 薫堂
     最優秀主演男優賞   本木 雅弘 
     最優秀助演男優賞   山崎 努
     最優秀助演女優賞   余 貴美子
     最優秀撮影賞      浜田 毅
     最優秀照明賞       高屋 粛
     最優秀録音賞      尾崎 聡・小野寺 修
     最優秀編集賞      河島 章正
 
 ついでながら、その他の最優秀賞を―。
           最優秀主演女優賞   木村 多江   (『ぐるりのこと』)
     最優秀音楽賞      久石 譲     (『崖の上のポニョ』)
     最優秀美術賞      桑島 十和子 (『パコと魔法の絵本』)
     最優秀外国作品賞   『ダークナイト』 (ワーナー・ブラザース映画)

 映画『おくりびと』は、葬儀の際に遺体を棺(ひつぎ)に納める仕事(納棺師)に就いた男性(本木雅弘)を主人公に、その目を通して生と死の尊厳を描いた物語のようです。米国ロサンゼルスで22日(日本時間23日)行われる、本場アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされていて、そちらの結果がどうなるかも楽しみなところです。

 近年邦画産業の衰退傾向を反映して、アメリカ・ハリウッド映画などの洋画が我が国映画界を長く席巻していました。しかし1月に発表された、‘08年の映画興業収益では、邦画が洋画を上回り、その差は300億円以上もあったとか。興収第1位は『崖の上のポニョ』で、昨年末で155億円のメガヒット。(そのかわり、二極化も進んでいるとのこと。)
 
 ハリウッド映画の、CGを駆使した一都市丸ごと果ては地球全体の大パニック、大破壊もの。西洋のおとぎ話の焼き直しのような、ヒーローとヒロインがさざまな難局に遭遇し、次々にそれをクリアーし、最後に2人は固く結ばれる。『ホントかよ !? 』と絶句したくなる、およそ信じられない極限の状況に立ち向かう超人的ヒーロー。予め「善」と決められたスーパーヒーローが、これも予め「悪」と決められている側に不可能と思われるチャレンジをし、見事悪を打ち破る…。(余談ながら。ホントにアメリカは「善」で、タリバンやイラクは「悪」なの?逆の見方だって出来るでしょうに)。
 
 それはそれで面白くて、一時的なストレス解消にはなるけれど。同じようなパターンを手を変え品を変えして、大量生産されて次々に送り込まれた日には…。終いには、ゲップが出てきます。
 西洋のおとぎ話一つ取ってみても。それと我が国の昔話は、精神的深層からして根本的に異なっていると、ユング研究家だった故・河合隼雄は指摘しています。なのに若い人から、時にハリウッド映画の刷り込み(マインドコントロール)のような「善になり切り行動」を見せられて、愕然とすることがあります。

 私は、我が国映画ファンの「ハリウッド映画離れ」は健全なことで、大いに歓迎すべきことだと思います。
 今回の『おくりびと』などのように、CGなど一切使わず、どちらかというと地味で普段あまり注目されない社会の種々相を、内面的に深く描き切る。これこそが、真の映画ファンが求める方向性だと考えます。
 『おくりびと』。機会があれば観てみます。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (2)
|

『天地人』について(3)

 『天地人』への批判色濃い内容ですが、これも同番組への愛情とお取りください。
                         
                         *
 何日か前ある人が「天地人 おもしろくない」という検索フレーズで、「『天地人』について(1)」を訪ねてこられました。私も興味を持ち、グーグルの同検索を当たってみました。すると、何と56万件もあるではありませんか ! 私だけかな?と思っていたら、けっこうそう感じている人は多かったわけです。
 理由は「なぜかわからないけど…」「だらだらしていて盛り上がりにかける」「ナレーションで誤魔化す場面も目立つ」「撮影で手抜きしている」etc.その結果ある人は、「『武蔵』以来の面白くなさ。途中で見るの止めるの、2度目になりそう」。

 私も思うに、第7回はまあおもしろくありませんでした。第5回、第6回で、すわっ織田信長(吉川晃司)と上杉謙信(阿部寛)が全面衝突。せっかくおもしろくなりかけたぞ、と思っていたのに。また逆戻りの感じです。

 いくら歴史ドラマとはいえ、ドラマはドラマ、しょせんは作り話です。そんなことは私たち視聴者とて先刻承知しています。しかし今の視聴者は目が肥えています。そこで、作り話を作り話と思わせず『さも有りなん』と思わせるのが、監督や演出家や脚本家の腕の見せ所なのではないでしょうか?
 一般的な感想として、昨年の『篤姫』は面白かったと評価されています。それには、主演の宮崎あおいの好演などいろいろな要素があるのでしょう。その一つとして、『篤姫』には作り話らしいわざとらしさがあまりなかったということもあるのではないでしょうか。私は『篤姫』は観ていませんので、何とも比較のしようがありません。しかし今回の『天地人』には、わざとらしさが出すぎているキライがままあるように思います。

 漏れ聞くところこの不況下、飛ぶ鳥も落とす勢いだったテレビ業界も大変な状況のようです。特に民放各社は、広告収入が激減して青息吐息のようです。そのためドラマの制作費なども削減せざるを得ず、そのためドラマの質が落ちていくという、負のスパイラルに陥ることが懸念されているようです。
 そんな中、NHKだけが一人勝ち状態で、‘08年は6,500億円の事業収益があり‘09年はそれ以上の収益の見通しだというのです。『ならば、NHKの顔の一つである大河ドラマにもっとカネをかけて、しっかりした面白い番組にしてよ ! 』と言いたくなります。

 それにこれは、昨年末番組が始まる前から言い続けていることながら。やはり主役のミスキャスト(と、あえて言います)が「おもしろくない」一番の要因なのではないかと思います。
 NHKの大河ドラマ制作部局は、一体どこにピントを合わせてキャスティングをしているんだろうか?変にポピュリズム(視聴者への迎合)で行こうとすると、とにかく「今人気のあるタレントを主役に押し込んでおけばいいだろう」ということになるのでしょう。そのタレントが、主役の人物像に本当にマッチするか否かなどは、二の次三の次。
 
 ここで面白い情報を見つけました。今巷では、「レキジョ」という新たな呼び名が生まれているそうです。レキジョ?これは「歴史大好き女性」の略。今OLの間で、時代劇の人気が高まっていて、戦国武将が好きで歴史物の本を読みあさったり、戦国武将のフィギュアを集める女性が増えているとのこと。
 NHKの大河ドラマも、レキジョを取り込もうと必死なのだとか。どおりで、『天地人』にはやたらにイケメン俳優が多いわけです。主役の妻夫木聡を始め、北村一輝、小栗旬、小泉孝太郎、上地雄輔…。(なるほどね。そんな薄っぺらい理由でキャスティングしてたのかぁ。ダメだ、こりゃ ! 但し、北村・景勝は重厚でOK ! )

 そんな中で、唯一胸を打たれたのが、幼少与六の回想シーンでした。母・お藤と与六の、庭での別れの場面です。あの場面は何回繰り返し見せられても、新たな涙がこみ上げてきます。
 あのシーンも多分事実ではないでしょう。かと言って、いかにも作り話然としたわざとらしさがありません。田中美佐子の好演もさることながら。何と言っても、加藤清史郎君(7歳)の演技などというものを越えた素直な表現が、大人たちの心を激しく揺さぶるのでしょうね。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (1)
|

雨水(うすい)

    早春の街日があふれ人あふれ   (拙句)

 きょう2月18日は、暦の上の「雨水」です。雨水は二十四節気の一つで、太陽黄経が330度の時のことをいいます。空から降るものが雪から雨に変わり、雪が溶け始める頃ということから、この呼び方がされるようになりました。暦便覧には「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となれり」と記されています。
 この時節から寒さも峠を越え、いよいよ春に向うと捉えることもできます。また今年は少し早めでしたが、例年はこの頃に春一番が吹き、鶯が鳴き始める地方もあります。雨水は昔から、農耕の準備を始める目安とされてきました。さらにこの日に雛人形を飾りつけると良縁に恵まれるとも言われています。

 なおこれまで二十四節気のそれぞれを述べるさい、たびたび「太陽黄経」という用語を用いてきました。これを簡単にご説明致します。
 太陽の天球上における見かけの通り道を、黄道(こうどう)といいます。そしてこの黄道が南から北へ交わる方を春分点といい、その点を起点(0度)として黄道を360度に分けたものが「黄経(こうけい)」です。

 雨水のこの日、神奈川県県央地区の当厚木市は、朝からすっきりした晴天に恵まれました。とは言っても、昼過ぎ外に出てみますと、風はやや強く吹いていてどちらかといえばまだまだ薄ら寒い北風のよう。
 つい何日か前は四月頃のぽかぽか陽気の日もありました。しかし、今週はまだ「一気に春には向わせんぞ ! 」と、冬帝が最後の抵抗を見せているような具合の日が続いています。

 昨年5月頃近所の『水路道』のことを記事にしました。またその前、道の片側の土の所で、去年最初のふきのとうが2、3個大きく芽を出しているのを発見したのは、2月10日のことでした。その時のようすは、「二木紘三のうた物語」の『サーカスの唄』コメントの末尾に記しました。
 きょうは既に2月18日。しかしふきのとうはまだなのです。いえ、この先永久に芽吹くことはないでしょう。なぜなら、この冬砂利が敷かれていたスペースに、緑色の除草マットを施し、その上に改めて砂利を敷きなおしたからなのです。道の中央部コンクリートの両側それぞれ十メートル長くらいです。

 砂利まじりの土の所でも、春から秋にかけてありとあらゆる雑草が繁茂します。ですからそういう施工をすれば、雑草は生えず見てくれもすっきりします。しかし同じく5、6月頃の『黒アゲハ』『小さき花』記事で述べたような、可憐なピンク色の花の姿も、黒アゲハの姿ももう見かけることはないでしょう。
 これまで何度か述べましたが、こうしてわが町の「身近な自然」は年々歳々狭められていくのです。

 高度経済成長期さんざん公害をまき散らかした、いわゆる一流企業は近年になってにわかに、「地球にやさしく」などとテレビCMなどで呼びかけています。
 しかし、この際はっきり申し上げておきます。各国際機関、我が国政府、大企業、各行政機関、各種メディア…。どれ一つとして、「ガイア」という「巨大な意識体」とはまるで波長が合っていません。同調出来ていないし、また同調しようともしません。
 これが何を意味するのか、皆様よくよくお考えください。

 三寒四温のこの季節、自然界の多くの生命は、来るべき本格的な春の季節を前に、地面の下で、木の枝々の中で、どこかの野山の穴ぐらで、じっと身を潜めている象(かたち)です。そんな中、春の先駆けの紅梅、黄梅、白梅が、家々の庭先などで見かけられるのは、嬉しいことです。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

私の所感(2)

 以下は、『どこまで続くぬかるみ政局ぞ!?(1)(2)』へのくまさん様のご感想です。

                        *
 現内閣に対する国民の支持率が1割にも満たないという混迷を極める政治情況の真っ只中、全世界が注目するオバマ政権下の国務長官が最初の外遊先として日本を選び、本日来日しましたね。ヒラリーさんの初めての訪問先が日本になった理由については、これまでの日本軽視説を打ち消し、あらためて日米同盟の重要性をアピールするのが狙いとされているようです。アメリカの本音としてはもちろん中国を最重要視しているに決まっていますが、しかしそのためには子分である日本にスネられては困るので、仕方なくやって来たというのが正直なところでしょう。しかし、ここであらためて考えなければなりません。
 こんなグニャグニャな日本政府であるにも拘わらず、それでもアメリカが日本を頼りにする理由は何かということです。
 私はこう思います。アメリカは「国家(政府)State」としての日本についてはあまりアテにはしていませんが、「民族Nation」としての日本には信頼を置いています。このことは、日本人の民族的感情に深く関わる「拉致問題」をオバマ氏はかなり重要視していることから、それとなく窺われるのです。
 日本という国は、小泉政権の国家、安倍政権の国家、福田政権の国家・・・と変転極まりないでしょう。しかし草の根である民族国家としての日本には、他のアジア諸国には見られない伝統に裏打ちされた精神的文化的インフラの基盤があり、それが信頼の基礎となっているのではないかと思っています。しかしそれもだんだん危うくなりつつありますが・・・。
                          *
 先の私のコメントを若干訂正したいと思います。
 「日本の精神的文化的インフラの基盤」というものを安易に評価し過ぎました。大場様のおっしゃる通り、現在の政治状況には目を覆いたくなります。あらためて中川金融財政相のG7サミットでの記者会見の体たらくとその後の成り行きを見ていると、沸々と憤りを感じるというより、日本の将来に対する危機感を覚えますね。この100年に一度ともいわれる金融経済危機をなんとか打開しようとして開かれた重要な国際会議を一体なんと心得ているのでしょう。日本一国のみならず、全世界にも影響を及ぼす立場にある人間が、あのような醜態を天下にさらすとは何事。むかしの恥を知る武士であれば、即刻切腹して国民に謝すべきところです。当人にそれだけの甲斐性がないのであれば、主君の方から直ちに「その方の仕方はなはだ不届きにつき、その身は切腹および家名断絶を申しつくるものなり。」と言い渡されるくらいのものですよ、まったく。もちろん、主君も同罪です。
 大場様の列挙された種々の難問に対処する方策は、それぞれあるでしょう。しかしその前にやるべきことは、もはや人心の一新しか無いのではないかという気がします。現在の為政者に最も欠けているのは、責任とモラルそして恥を知る心、それに裏打ちされた強い信念、これです。オバマ大統領にはその片鱗が感じられます。
 この際思い切って若い有為な人材を活用してみることです。大阪の橋下知事、なかなかやるじゃないですか。現今の甘ったれた、責任感の麻痺した世襲議員や、企業倫理など屁とも思わない財界のリーダー達にはもはや期待できないかもしれません。
 ところで、そんな右往左往している日本の総理大臣のもとに、ホワイトハウスから招待の声が届いたというニュースがありました。外国の首脳への招待としては第一号だそうですが、これが事実ならば、それほどまでに日本を案じてくれるアメリカの心情がいじらしいいとも、心憎い気配りとも感じられます。我々日本人、もっとしっかりしなきゃ。
 
 (くまさん・記)

| | コメント (0)
|

どこまで続くぬかるみ政局ぞ !?(2)

 中川昭一財務相の一件は、百歩譲ってお笑いで済まされるとしても。こんな呆れた迷走政局のさなか、笑い事では済まされない怖ろしい指標が発表されました。
 政府は16日、2008年10~12月(四半)期のGDPが前期比年率12.7%マイナスになったことを発表したのです。2ケタを超える落ち込みは、第1次オイルショック(昭和49年)以来35年ぶりのことです。それに1~3月は、更に落ち込むだろうと推測されています。

 専門家の一人である吉崎達彦氏(双日総研チーフエコノミスト)は、「…想像を超えるレベルだ。ここまでくると、副作用なんか気にせず、劇薬でも何でも飲むしかない。普通に考えて、公共工事と減税で15~20兆円の財政出動が必要だし、それでダメなら、次は政府紙幣の発行ということになる」と言っています。
 氏が言うように、果して公共工事や政府紙幣に頼るのが良いのか悪いのか、議論の余地は残ります。しかし、事態は緊急を要します。実効性のあるスピーディな政策実行が何にましても必要です。
 しかし何かというと「選挙より景気対策」とのたまわる麻生首相は、定額給付金一つですったもんだしている状態です。なのに、何をこの上望めましょうや?

 悪化の一途と言われている、今次の世界同時不況の元凶であるアメリカでさえ、GDPの下落は3.8%(10~12月)、イギリスでもマイナス6%(同期)に止まっています。
 まさに世界同時不況の最大の被害国は、我が日本であることがハッキリしてきました。これは一体何を物語るのでしょう?一言でズバリ申し上げれば、「政治的失政」が最大の要因であるということです。それも現麻生政権のみならず、小泉政権下で強力に推し進められてきた、小泉・竹中ラインによる、アメリカ追随、新自由主義・市場原理主義礼賛などにより、我が国経済は極端な「外需頼み」構造に偏ってきたことによるものであるということです。

 すべてはアメリカや中国など外国頼みですから、向うの国が景気が良い時は、トヨタがいとも簡単に史上最大益を挙げたり出来たわけです。(しかし一旦悪くなると…。もう先刻ご承知ですよね)。
 輸出系大企業や増殖する外資系企業や投資系の何とかファンドなどは、大もうけ。役員報酬は倍増し、株主はにわかに優遇され高配当。しかしそんな中で、国内の中小企業は火の車、地方は容赦なく切り捨てられ、非正規社員は増大し、正規社員だって給料は据え置き…。格差は開きに開き、民主主義などという美名は名ばかりの、歴然たる階級社会が現出致しました。
 戦後最長というあいまい模糊とした好景気の中、一体どれだけの国民がそれを実感できたというのでしょう?実感出来ぬ間に、気がつけば今や奈落に真っ逆さまですから。

 一時は14,000円台にまで回復した株価は、サブプライム問題、リーマンショック以降下落につぐ下落で。今やその半分近くの7,000円台後半にまで落ち込んでいます。これはまさに、小泉政権が発足した2001年当時の水準にまで戻ってしまったのです。(おそらく、まだまだ下がり続けることでしょう)。
 小泉政権からの8年間は、一体何だったのかという話なのです。そんな張本人が、国民への謝罪ならともかく、今さら「麻生首相がどうだこうだ…」もないものです。『それじゃあ、あなたの5年数ヶ月は何だったんですか?自民党をぶっ壊すはずが、本当に壊してしまったのは、この日本の国そのものなんじゃないんですか ! 』。

 それに、時の宰相である麻生太郎殿。
 あなたは、「小泉改革」なるものの巨大な負の部分をきちんと見据えて、それを是正、軌道修正していけるのですか?内需と外需のバランスをきちんと取り戻す、我が国産業の質的転換が出来るのですか?これだけ広がった格差を、是正出来るのですか?疲弊しきった地方を再活性化出来るのですか?巷に溢れつつある失業者をストップ出来るのですか?これ以上犯罪者を出さない平和な社会を、私たちに取り戻していただけますか?

 私たちは、今本当に未曾有の危機的状況を迎えています。「百年に一度の危機」が、まさに現実のものになろうとしているのです。以上述べてきましたとおり、この事態は「政治的失政」が引き起こした「政治的危機」なのです。
 なのに肝心の政治の世界は、迷走、混迷の極みです。私たち国民は、ぬかるみどころか、このまま底無し沼にぶくぶくと沈められたのではたまりません。 ― 完 ―
 (大場光太郎・記)

| | コメント (2)
|

どこまで続くぬかるみ政局ぞ !?(1)

 麻生現政権がどうしようもないことは、今や多くの国民の目にも明らかです。最近の世論調査の結果がそれを如実に示しています。先週末に実施された各社の調査では、内閣支持率が10%を割り込んで一ケタ台に突入したものまで現われました。あの森内閣以来のどうしようもない低さです。反比例して、不支持率は軒並み70%以上。
 国民の10人に1人の支持もない、10人のうち7人以上が不支持の内閣に、果してこれ以上の存在理由があるのでしょうか?

 そんな中、小泉元首相が久々に吼えました。13日は列島各地の広い範囲で春一番が吹き荒れましたが、その先触れのようだった小泉純一郎氏の、麻生太郎氏への批判の言葉に注目が集まりました。どろんと澱みがちだった永田町界隈に、時ならぬ春の嵐が吹いたかと。
 麻生首相の「郵政民営化に私は賛成ではなかった」発言が、よほど腹に据えかねたのか。「(麻生首相のさまざまな発言には)笑っちゃうくらい呆れている」。「衆議院の2/3再可決を使わなければならないほど、定額給付金が大事なものだとは思っていない」等々。元首相が現首相をここまでこき下ろすのは、極めて異例のことです。

 既に政界からの引退を表明しているものの、この停滞しきった政治状況を打破するのはやはり小泉純一郎しかいないとばかりに、各マスコミは「すわっ。政権打倒ののろしか ! 」と大々的に報道しました。しかしさすがに、4年前の郵政選挙時のご威光はだいぶ薄れたようで。水面下での動きは定かならぬものの、今のところ政局が一挙に流動化するのでは、という憶測どうりにはなっていないようです。
 『ものはためし』と、少し大きめな石を永田町池に投げ入れたけれども。その時はそれなりの波紋となって中の自民党魚の面々はにわかに色めき立っても、当面のボス魚である麻生太郎を皆で守り抜こうという大勢は変わらず、再び静かな池面になってしまいました。

 それに政界きっての千両役者たちによる、出来レース、お芝居のにおいまでしてきました。12日夜の森元首相の「知らない。うるさい。邪魔だどけ ! 」。何やら4年前の、例の「腐ったチーズ演出」が思い出されます。今回もまた、マスコミと国民を「腐りきった」自民党に再び目を向けさせるための、巧みな演出だったりして。主演:小泉純一郎、助演:森喜朗。
 とにかく政権維持のためなら、何でもやりますから。自由民主党は。

 そんな折り中川昭一財務相の、ローマにおけるG7後の記者会見での信じられない映像が飛び込んできました。見れば、ヘロヘロ、ロレロレ、目はトロン&ドロン、ウトウト…。口を開けばロレツが回らず、まるで酔っ払いのよう。
 同会見のもようは、日本国内のみならず広く全世界に配信されました。「KY(漢字読めない)首相」とともに、とんだ赤っ恥、国辱ものです。
 
 ご当人は「かぜ薬の飲みすぎで…」と弁解しているようです。専門の医師も、薬を過多に飲むと起こりえるという見解のようです。しかし中川氏は以前から、大酒のみなのは、関係者の間では有名な話です。一例をあげれば―。中川番の女性記者は、中川氏はしっちゅう酒くさいので、取材するのを嫌がっているとか。
 もし本当にかぜ薬の副作用だったとしても。そんなことを知らない、あの映像を見た世界中の多くの人は、「アナタ、オサケノノミスギデスネ !」。国益を損なうこと甚だしいものがあります。
 
 聞けば中川氏は、「東大の東大」と言われている東大法学部のご出身だそうじゃありませんか。衆に抜きん出た知性と教養をお持ちのお方のお振舞いとは、とても思われません。東大の地盤沈下は今に始まったことでもないけれど、これでさらに拍車がかかったんじゃありませんか?中川さん !  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (2)
|

私の所感(1)

 『第22回・サラリーマン川柳』について、くまさん様と大変有意義な意見交換ができました。そのほぼ全文を、以下に公開させていただきます。
                         *
 第一生命の「サラリーマン川柳」は、私も毎年楽しみにしているファンの一人です。思わず噴出したり、ニンマリしたり、身につまされたりと、本当に秀逸な作品が多いのに驚かされますね。笑いは何より心のゆとりの証しですし、ウイット、諧謔は知性の閃きです。それにつけても痛感するのは、日本の政治家に見るこの方面での素養の乏しさです。国会での答弁のやりとりにも、いま少しこの精神がほしいところです。麻生太郎氏のお祖父さんなどは、英国仕込のウイットがありましたね。私は川柳も好きですが、狂歌や都々逸も大好きです。(シブ過ぎますか!)
 ところで今日、北陸でも春一番が吹きました。春といえば、私の大好きな蜀山人のこんな狂歌があります。
 『 早蕨の 握りこぶしを振り上げて
     山の横づら はる風ぞ吹く 』
 また、毎週土曜日のNHKラジオでやっている「織り込み都々逸」という番組も好きでよく聞きます。ちなみに、私の一番好きな都々逸はこれです。
  『 あきらめましょうよ あきらめました
      あきらめ切れぬと あきらめた 』(都々逸坊扇歌)

 大場様は都々逸のほうはいかがですか?

       投稿: くまさん | 2009年2月13日 (金) 22時00分

 私は都々逸や狂歌はさっぱりです。
   三千世界の烏(からす)を殺し 主(ぬし)と朝寝がしてみたい
 高杉晋作が好んで口ずさんでいたという、この歌は狂歌でしたか、都々逸でしたか?
 俳句も川柳も都々逸も狂歌も。元をたどれば皆々「和歌」に行き着くのでしょうね。ですから、一つにこだわらずに満遍なく探索してみると、人生の諸相が一段も二段も味わい深いものになるのでしょうが…。
 ところでだいぶ以前、太田蜀山人の逸話を少し聞きかじったことがあります。蜀山人は、若い頃から読んだり人から教わったりして、心に残った言葉を亡備録としてこまめに記録し、そのため後に博覧強記を賞賛されたとか。
 くまさん様の博覧強記も、かなりのものです。大いに刺激になります。
 

       投稿: 大場光太郎 | 2009年2月13日 (金) 23時29分

 「三千世界の烏を殺し・・・」は、七・七・七・五の形式を踏んでいますから都々逸ということになります。
 川柳で思い出したのですが、昨年の12月にベルギーの新首相に選ばれたヘルマン・ファンロンバウという人は、俳句をたしなむ風流人という一面をもつ、という報道記事を眼にしました。俳句といってもオランダ語のベルギー風「ハイク」らしいのですが、こんな句(?)が紹介されていました。
    『 髪と風 何年たっても風はある 残念ながら髪はない 』
 これはハイクというより「センリュウ」というべきでしょうね。

       投稿: くまさん | 2009年2月14日 (土) 10時09分

 「三千世界の…」は都々逸でしたか。それにしても気宇広大な内容ではあります。たかだか六尺にも満たない肉の身でありながら、「心的体」は無限大に広がっている感覚ですね。
 俳句は今や「HAIKU」。国際的な拡がりをみています。東欧圏では特に盛んなようです。しかしどうしても「言語」の壁が立ちはだかります。日本語であるがゆえに、五七五の表記ができるのであって、他の言語ではそれは適わないわけですから。西洋などの原詩を邦訳する際の、隔靴掻痒の感をぬぐえないのです。
 「俳句の精神」の何たるものかさえ理解してくれていれば、「俳句もどき」でも「川柳もどき」であっても、致し方ないと思われます。
 

       投稿: 大場光太郎 │2009年2月14日 (土) 12時56分

 東欧の国ではHAIKUの愛好家が多いという言及をされましたが、そのことで思い出したことがあります。もう10年程も前になりましょうか、NHKで旧ユーゴスラビアから独立したボスニア(だったと思います)で勃発した内乱についての特集番組が放送されました。それまで仲良く暮らしていたムスリム系・セルビア系・クロアチア系の住民が民族や宗教上の対立からお互いに反目し合い、コミュニケーションが全く途絶えてしまいました。そのとき唯一彼らを結びつけることが出来た糸が、HAIKUでした。銃撃戦の合間でも句会による交流があったのです。撮影をゆるされた或る会員の家の戸棚の上に、大事そうに芭蕉の肖像画が飾られているのを観た瞬間、私は言いようの無い感動に打たれました。それは私に俳句というものの力を再認識させてくれた瞬間でした。
 それ以来、言語の違いという致命的な壁を超えてなにか普遍的な力が俳句の中にあるのではないか、それは一体何なのか、俳句というものをここまで魅力的な詩の一形式として確立した松尾芭蕉とは一体どんな人だったのか、また俳句をあえて「第二芸術」と言った桑原武夫先生の本当の意図は何だったのか等々、考えるようになった次第です。

       投稿: くまさん | 2009年2月14日 (土) 21時45分 

| | コメント (0)
|

私の歴史観(4)

 「『天地人』について(2)」への、矢嶋武弘様のご感想の第二弾を、以下に公開させていただきます。
                         *

 「あまりに荒唐無稽なもの以外は大目に見ても良いのでは」と先に述べましたが、基本は出来るだけ史実に忠実であるべきだと思います。例の兼続と信長の場面は、先にも述べたように「やり過ぎ」だと考えます。ただし、あれで兼続(さらには、その背後にいる謙信)と信長の信条の違いがはっきりと分かったということでしょうか。
 概して自信のない脚本家や演出家が、あえて史実を捻じ曲げることがあると思います。面白く見せようという魂胆ですが、それも見る側の個人差で許容範囲が違ってくるでしょう。
 本当に自信のある脚本家だったら、史実に忠実であっても興味深く見せる技量を持っていると思いますが。

 それよりも、時代によってドラマの作り方が大きく違ってくる方が問題ではないでしょうか。
 例えば、戦前であれば足利尊氏は“逆臣”であり悪い奴となっていたはずです。しかし、尊氏が悪くて、新田義貞や楠木正成が“忠臣”であり善人だと決めつけて良いのでしょうか。大いに疑問です。戦後のドラマではそんなことはありませんが、時代や体制によって人物像が大きく変わる可能性があります。脚本や演出以前に、その方が大きな問題です。
 しかし、われわれ人間はその時代の体制や常識などに拘束されているため、ドラマ自体がその時代を“反映”するものと理解した方が良さそうです。
 戦前よりは戦後の方が良いと思いますが、例えば女性の扱い方、見方も大きく変わったはずです。戦国時代に女性があんな言い方、あんな動作をするはずがないと思っても、現代人はそれをあまり疑わずに受け入れてしまう所があるのではないでしょうか。これも厳密に言えば史実とは違いますが、時代状況によってそれが自然に受け入れられるということでしょう。ドラマもその時代を“反映”するものだと思います。
 (矢嶋武弘・記)

| | コメント (0)
|

バレンタインデーのこと

 きょう2月14日はバレンタインデーです。そして今や、バレンタインデーといえば=チョコレート。皆様はチョコレートを幾つもらったでしょう?また幾つ上げたでしょう?
 
 ちなみに、いただく方の立場である私は「ゼロ」です。それは何も今年に限ったことではなく、10年以上サッパリです。最後にもらったのは、今から12年前。当時20代前半のある女性からでした。3月14日のホワイトデーには、私もきちんとお返しをしました。
 以来久しく蚊帳の外です。ですから、私くらいこの日を語るのにふさわしくない者は他にいないかもしれません。しかしそれを承知で、無謀にも何とか。

 ここで「バレンタインデーの起源」について、ご一緒におさらいしてみましょう。
 バレンタインデー(St.Valentine‘s Day)は、2月14日に祝われ、世界各地で男女の「愛の誓いの日」とされてきました。その歴史は、古代ローマ帝国の時代にまでさかのぼります。
 当時ローマでは、この日は女神ユノの祝日で、ユノはすべての神の女王にして家庭と結婚の神とされていました。また翌2月15日は、豊年を祈願するルペルカルア祭の始まる日でもありました。祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていました。翌日男たちは桶から札を1枚引きます。引いた男と札の名の娘は、祭りの間中一緒にいることと定められていました。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、結婚したそうです。

 さてローマ帝国皇帝クラウディウス2世は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由から、ローマでの兵士の婚姻を禁止しました。その時のキリスト教司祭だった「ウァレンティヌス(英語名:バレンタイン)」は秘密裏に兵士を結婚させましたが、発覚し捕らえられ処刑されてしまいました。
 処刑の日は、ユノの祭日であり、ルペルカリア祭の前日である2月14日があえて選ばれました。バレンタインはルペルカリア祭に捧げる生贄(いけにえ)にされたのです。
 こうしてキリスト教では以来、この日は祭日になり「恋人たちの日」となったというのが一般的な説のようです。
 しかし今日のバチカンでは、バレンタインの実在を疑問視しており、ためにカトリックではこの日のウァレンティヌスの記念日は除外されているそうです。

 ヨーロッパなどでこの日は、男女を問わず、花やケーキ、カードなどさまざまな贈り物を、恋人に贈ることがある日だそうです。また欧米では、日本で見られるホワイトデーの習慣はありません。なおこの日に(他の贈り物と共に)「チョコレート」も贈る習慣は、19世紀後半のイギリスで始まったもののようです。
 しかし女性がチョコレートを贈る習慣は、日本で始まったものです。それも最初は意外にも戦前の1936年(昭和11年)。神戸某洋菓子店が国内英字雑誌に「バレンタインチョコレート」の広告を出したのが最初のようです。但しあまり売れなかったとか。

 やはり習慣化されたのは戦後で、1960年(昭和35年)森永製菓による大々的な新聞キャンペーンにより、以後日本の文化として定着していきました。そして現在では、我が国のチョコレートの年間消費量の2割程度を、この日1日で消費するといわれているほどの「国民的行事」です。
 そして皆様先刻ご承知のとおり今や、新たな愛の告白のみならず、既に交際中の恋人、既婚の夫婦、上司や同僚、ただの友人と広がっています。さらにはすっかりおなじみの「義理チョコ」、女性から女性に贈る「友チョコ」、逆に男性から女性に贈る「逆チョコ」…。なお逆チョコも、森永製菓が仕掛け人だったようです。

 以上、にわか仕込みのこの日のことを駆け足でみてきましたが。要はチョコレート1個が、日頃言えなかった愛の告白のキューピット役をしてくれたり、今後とも互いの人間関係がスムーズにいってくれるのだったら、こんな良いことはないわけで。
 本当は(チョコレートを1個ももらえない者のひがみからか)、その陰にある商業主義をこきおろそうかと思っておりました。しかしそれによって当事者たちが「パッピー&パッピー」なら、他の者がとやかく言うことでもありません。

 それと。今の若い人たちは、男女関係がすごく滑らかで自然体ですね。それに与え方も、受け取り方もとてもスマートです。当今の教育は悪い悪いと言われるけれど、この点は私など年配者が大いに見習うべき点だと思います。
 (本記事は、フリー百科事典『ウイキペディア』の「バレンタインデー」の項を参考、引用してまとめました。)
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

雪に埋もれし我が故郷(5)

 以下は父がまだ元気だった頃の、ある冬の真夜中の思い出です。

 再三述べましたとおり、太郎村の私の家は吉野川の土手の上の平らになった土地の一角にありました。すぐ上を村で唯一の街道が通っていました。その街道から川の方に坂を下りてすぐの右手が私ら親子の家でした。奥にあと2軒ありました。
 土地は、街道の上の高台にあった村で何軒かの豪農からの借地でした。

 『当家は“平家”の流れ !?(2)』でも述べましたが。当家は明治、大正の頃、上山(かみのやま)から何らかののっぴきならない事情があって、あまり資金もなしに太郎村に移って来たものと推測されます。当時の村落共同体のしきたりで、いつまでもよそ者扱いで極貧の小作農だったのでしょうか。
 家は周囲を薄い板張りで囲んだ、物置小屋を少しましにしたような粗末な家でした。家の裏側(東側)は1m強くらいの空きがあったでしょうか。そこから3mくらいの崖状の土手となり、その上を村の街道が通っていたのです。

 街道は当時のこととて当然砂利道です。この道を北の方向に行くと両側に山がいっそう迫り、下荻、上荻、小滝部落に行けます。また南は少しずつ山は離れて盆地状に広がり、金山(かねやま)そして宮内町へと行けます。
 この道を通って、小滝にある日本鉱業系の吉野鉱山(昭和40年代後半廃鉱)へ行き来するトラックを、日に何度も見かけました。また昭和30年前後の映画に出てくるような、前面にボンネットが張り出している桃色(当時の呼称)の、山形交通の乗り合いバスも日に何度か通りました。
 また雪のない季節街道端で遊んでいると、宮内に行商に出ていた水林のズサマ(じい様)が、夕方自転車でこの道を通って帰っていきました。ズサマは私を見かけると、自転車を止めて手招きするのです。私は走って行きます。するといつも村外れの「しみずみしぇ(清水店)」で買ってきたのか、飴玉やお菓子をくれるのです。案外それが楽しみで、日暮れ近くはいつも街道に出ていたのかもしれません。

 冬のある夜、土手沿いの部屋で、家族5人が並んで寝ていました。真夜中の12時も過ぎた頃だったと思います。ぐっすり寝ているところに、「バリバリバリッ」と音立てて突然雪の塊りが、ドッとばかりに部屋になだれ込んできたのです。
 雪は上から落ちてきたものです。粗末な板囲いの外壁などいとも簡単に突き破り、壁の方に頭を向けていた親子の枕元にまでなだれてきました。いやあ、びっくりしたの何の ! 私たちはとんだ不意打ちをくらって、慌てて飛び起きました。

 原因は宮内町のブルドーザーでした。街道の除雪のために、交通のない深夜に町の方からやって来たものでした。道の中央部の雪を路肩の方に押しのけようとして寄せすぎて、勢いあまった雪がどうとばかりに、我が家目がけて落下してきたようなのです。運転手はそんなこととは露知らず、そのままゆっくりと下荻の方向にブルを走らせていきました。

 心地よい眠りを突然の雪に襲われ、その上壊された壁からは、真冬真夜中のしんしんとした冷気が容赦なく入り込んで来るし…。子供の私などは一体何が起きたのか、ただ呆然として寒さにブルブルふるえているのみでした。
 さすがに父と母は原因がすぐに分かったようです。「父ちゃん、早ぐブルを追っかけで文句言ってきてけろ ! 」という母の叱咤に促されて、父は外套を着るももどかしく、外に飛び出して行きました。
 それから先のことは、あまりよく覚えていません。私ら子供は、土間からすぐの囲炉裏のある部屋に寝かしつけられたのかもしれません。もちろん板壁の補修は、町で間もなくやってくれたのでしょう。

 とにかく。そんな際立った思い出でも、先に述べました炭焼き小屋の思い出でも、その他の思い出でも。「父の話し声」がまるで聞こえてこないのです。母の声ならさまざまな場面で、半世紀以上前の時の彼方から今でも聞こえてきます。しかしなぜか、父の声は…。
 きっと寡黙な百姓だったのでしょう。徴兵で北満州に行き病を得て帰還し、貧困のうちに35歳で死んでいった父でした。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (5)
|

雪に埋もれし我が故郷(4)

   吹雪く中団子の木持ち立ち去れり   (拙句)

 私の郷里では、確か小正月(こしょうがつ-今年は2月9日)の頃に、「団子の木」というのを山から切ってきて、居間などの天井近くの角の部分に掲げる習慣がありました。子供の頃でしたから、団子の木とは何の木なのか全く分からなかったものの、枝が赤茶色の変わった色だったのです。(今回調べましたら、「ミズキ-水木}という木のようです)。
 それを、小正月の前に男衆が山に分け入って、飾るのに適当な大きさに切ってくるのです。私の記憶では、立春を過ぎた2月上旬から中旬くらいが一番雪の多い季節でした。

 団子の木は枝々の先端に団子をいっぱい指したり、所々に太郎部落にただ一軒あった雑貨屋さんで買ってきた「ふな煎餅(または「ふな菓子」)」というのを、糸でつるして飾りつけして取り付けるのです。ふな煎餅は、鯛焼きくらいの大きさで鯛や大判のような形の餅菓子で、赤や黄色やうす緑色をしていました。
 そのようにして、その年の五穀豊穣を願う、我が郷里における予祝(よしゅく)行事の一種だったと思われます。

 昭和31年の冬、父の病はかなり重篤になっていました。床に臥せったきり、もはや起き上がることさえ出来ません。団子の木を予祝的なものとして飾りつけるには、そこそこ枝振りのいいものでなければなりません。それを探して山に分け入り、適当な所から鉈で切り、しかもそれを家まで担いで来なければならないのです。とても女手で出来ることではありません。
 そこでその年は、部落内の親しい男衆に我が家の分も切ってきてくれるよう、頼んだようです。

 ある日の昼頃、くだんの人はやってきました。自分の家のと私の家の2本分を担ぎながら。その日は雪がもさもさ(とは「ごっそりと」という意味の我が郷里の言葉)降り、しかも風が強くて吹雪く日でした。
 その人は我が家に入ってきて土間に立ったのを見ると、頭からつま先まで、雪で真っ白になっていました。
 「えやえや、こだな吹雪くなが、大変だったなっす。どうも、おしょうすななっすーぅ。まずは上がって、おじゃでも一服すてあたまってってけろ。(標準語訳:いやあ、こんなに吹雪く中を大変でしたねぇ。どうもありがとうございました。先ずは上がって、お茶を一服飲んで温まっていってくださいよ)」
 「えや。折角だけんども、うずに帰ってがら、まだするごといっぱいあっからよ。そうもすてらんにぇなだー。(奥の方に目をやりながら)力あんにゃ、具合どうだ?(同じく:いや。家に帰ってやることがいっぱいあるんで、そうもしてられないんだよ。ところで、力兄さんの具合はどうだい?)」
 「ほだがー。んじゃしょうがねなぁ。父ちゃんは相変わらずだー。(同じく:そうかぁ。それじゃぁ、仕方ないねえ。―以下省略)」

 そんなやり取りを交わしながら、我が家の分の団子の木を土間の所に置いてその人は出て行きました。
 私は母に言われたのか自分の意志だったのか、わらわら(「大急ぎで」という郷里の言葉)長靴を履いて、その人を追って外に出てみました。その人はもう坂の途中を上っています。私も坂を上り、上りきった所でその人を見送りました。
 雪はなおも小止みなく降り続き、吹雪がともすれば、団子の木を担いで街道を去っていくその人の姿をかき消そうとしていました。
                         * 
 なおこの行事は、今でも続いているようです。
 昭和30年初頭の頃、我が国はまだ農耕型社会でした。それが30年代後半からの高度経済成長により、工業型社会そして欧米型の生活環境へと変貌していくことになります。それに伴って、その行事の意味合いも大いに変わっていったものと思われます。(その辺の、全国各地の「変わりゆくもの、変わらないもの」を、NHKの『新日本紀行ふたたび』はなかなか良く伝えてくれていると思います。)
 何せ私が子供の時分は、我が太郎などはおしなべて自給自足的貧農の村でした。その年の五穀野菜が豊作か否かは、死活問題だったろうと思われます。それゆえ、そんな小さな行事に込められた思いも一層切実だったことでしょう。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (1)
|

第22回・サラリーマン川柳

 9日に、恒例の「サラリーマン川柳コンクール」の入選100句が発表されました。これは第一生命保険の主催により、毎年全国から応募された川柳の中から優秀句を絞り込んでいくという催しです。今回は第22回目で、21,455句の応募があったそうです。
 今回の100句を更に絞り込むために、3月13日まで「私が選ぶサラ川ベスト10」を実施。第一生命webサイト上でお気に入りの1句を投票することができます。その結果は5月中旬、webサイト及び小冊子「第22回サラリーマン川柳傑作300選」にて発表されるそうです。

 ちなみに、前回(第21回)までの歴代第1位の10作品を、以下に最近の順からご紹介します。後の固有名詞は雅号です。
    
    「空気読め ! ! 」 それより部下の 気持ち読め ! !     のりちゃん 
    脳年令 年金すでに もらえます                満33歳
    昼食は 妻がセレブで 俺セルフ              一夢庵
    オレオレに 亭主と知りつつ 電話切る           反抗妻
    「課長いる?」 返ったこたえは 「いりません ! 」     ごもっとも
    タバコより 体に悪い 妻のグチ               ―小心亭主
    デジカメの エサはなんだと 孫に聞く           浦島太郎
    ドットコム どこが混むのと 聞く上司           ネット不安
    プロポーズ あの日にかえって ことわりたい       恐妻家
    コストダウン さけぶあんたが コスト高            四万十川 信彦
    
 読んでいくと、時々の世相がたどれそうです。さすがにその年第1位作品ともなると、川柳の精髄である諧謔、風刺、エスプリの効いた傑作ぞろいですね。中には笑いながらも、『待てよ…』と笑った顔がひきつりそうな、ブラックジョー句(?)もあるようです。しかし「笑いは神聖なり」。ネガティヴ極まりないと思われる事象も含めて全部笑い飛ばせるのが、真の諧謔精神なのかもしれません。

 今回の作品の何句かは既にテレビなどで紹介されていますから、ご存知の方もおいでかもしれません。出口の見えない深刻な不況の中、そんな暗い世相を反映した切実な句が多かったようです。
 その中でも特に私の印象に残った作品をいくつか、簡単なコメント付きでご紹介してみたいと思います。
    
     三ツ指を ついてた妻は つの三本       悲しい夫
    ぼくの嫁 国産なのに 毒がある         歩人
    妻からは いつも低額 交付金          毎日が酔曜日
 いずれも夫婦生活の実相(?)を詠んで秀逸です。長引く不況下、男どもはますます元気をなくし、逆に奥さん方が「頼りない亭主の分も !」ということなのでしょうか。「男の威厳今いずこ」といったところです。今の世の中夫婦関係のみならず、相手を思いやる心、理解する心、敬う心の欠如が、あらゆる人間関係の根底にあるように思います。

    まだ来ない…カネは天下を まわるはず   ブリ大根
    バラ撒きを 批判しつつも 待ちわびる    複雑な庶民心
    金融危機 慣れたものです 我家では     読み人知らず
 いやあ、確かに 。 皆々そのとおり。それぞれが当今の世相を実によく読み込んでいます。
    子供らに また教えてる 総理の名      ゆきこ
    篤姫に 仕切らせたいな 国会を       玲子命
 共に、今の政治状況の痛烈な批判ですね。「百年に一度の危機」と、政治家の先生方は口では言いながら、緊張感なくだらけて有効な打開策も打てないありさまで。この先本当にこの国はどうなるのでしょう !?
    崖の上? いいえ私は 崖っぷち       中級な人
 映画『崖の上のポニョ』は、昨年の邦画、洋画部門を通して最大の興業収益を挙げました。ポニョなら絵になるけれど…。政治的無策が続きますと、このような切実かつ深刻な人たちがこの社会に溢れかえることになります。

 ところで「サラリーマン川柳」と並ぶ毎年恒例のイベントに、「今年の漢字」があります。こちらは、当ブログでも既に紹介しましたとおり、昨年末「変」に決まりました。
 それを主催する財団法人・日本漢字能力検定協会(京都市)が、奇しくも「サラリーマン川柳100選」が発表された9日、文部科学省の立入り検査を受けました。同協会は税制上優遇されている公益法人であるにも関わらず、検定事業で毎年数億円以上の利益を出した上、大久保昇理事長(73)やその親族が役員を務める企業に、3年間で約66億円もの業務委託費を支払っていた等の問題によるものです。

 そこで最後に、私の拙い川柳を―
    主催する 協会いちばん 「変」じゃない?   変人二十面相
 どうもお粗末でした。  
 (大場光太郎・記)    

| | コメント (6)
|

私の歴史観(3)

 今回は、 『天地人』について(2) の私の、大河ドラマは「史実どおりであるべきか否か?」という問題提起に、くまさん様と矢嶋武弘様が感想をお寄せになりました。お二人とも大変示唆に富む内容ですので、以下で公開させていただきます。
                        *
 ご指摘のように、このNHKの大河歴史ドラマというのは日曜日の8時台というゴールデンタイムを占有する国民的ドラマです。したがってその影響力には看過できないものがあります。
 実は、私は以前からこのような実名を冠した歴史ドラマには一種の危惧を抱いている者です。たとえどのように綿密に資料を精査し、どのように綿密に時代考証を重ねても、詰まるところ、原作者や脚本家、演出家の想像の域を出ないものではないかと思います。つまり100パーセント史実に忠実ということはあり得ないということです(まあ、当然ですが)。言い換えれば、この番組はNHKが作り上げた人物像、歴史像を、茶の間の私たちに知らず知らずのうちに植えつけている可能性があるということです。
 この番組は、主人公に人気タレントを起用するのが常であることから、娯楽番組の部類に入ると思われます。だからあまりかた苦しいことをいうのは野暮だという考え方もできます。また、この番組は多くの人に歴史に関心を持たせる良い機会を提供しているではないか、という見方もできます。しかし、物事にはすべて功罪両面があります。その一方で、我々がこの番組により歴史上の人物について固定したイメージを持ってしまう、という危険性をも十分考慮する必要があるように思うのです。
 宮本武蔵という剣豪は確かに存在しました。しかし私たちが知っている武蔵像は、ほとんど吉川英治の宮本武蔵ではないでしょうか。実は昨年の秋、富山市にある水墨美術館という所で、細川家伝来のコレクション(永青文庫)の一部の展示会がありました。たまたま私が訪れたとき、現当主の細川護煕元首相が来館しておられ、殿おんみづから縷々説明がありました。その折武蔵の水墨画についての話のあと、小説の巌流島の決闘の描写は当家に残された資料とは少々異なるが、小説のほうが一人歩きしてしまったのでそのままにしてある、という話をしておられました。真実の歴史を知るのは至難の業だと痛感した次第です。
 (くまさん・記)
                          *
 小姓の身分の直江兼続が織田信長と直接対面するなんて有り得ないことですが、テレビの歴史ドラマは往々にしてそういう場面がありますね。あれはやり過ぎだと思います。
 ただ、今の視聴者はどうせ「娯楽もの」と割り切って見ていますから、それを本当と思い込む人はまずいないと思います。だからと言って、あまりに荒唐無稽なことはして欲しくありません。NHKの大河ドラマは1年間放送しますので、とにかく脚本の成否にかかっていると思います。(半年ずつにすると、製作費が膨大になるのでしょう)
 歴史に興味を持ってもらうという点では、史実と多少異なっても良いと考えます。それに、ドラマは「歴史学」とは別次元のものなので、あまりに荒唐無稽なもの以外は大目に見ても良いのではないでしょうか。

 昔、NHKの大河ドラマで、信長に扮した高橋幸治が大変な人気になり、本能寺の変が近づくにつれて、主に女性ファンから「信長を殺さないで!」という声がNHKに殺到しました。
 いくら何でも信長を生かして、光秀や秀吉を殺すわけにはいかないので、NHKは史実どおり本能寺で信長を死なせました。ただし、本能寺の変の放送は予定日より遅れてしまったのです。ドラマとはそんなものです。やはり「娯楽」でしょう。
 要は面白いかどうかですが、今の『天地人』は前の『篤姫』に比べるとやや劣っている感じがします。まあ、大目に長い目で見ていくつもりですが。
 (矢嶋武弘・記)

| | コメント (8)
|

『天地人』について(2)

 NHK大河ドラマ『天地人』は順調に物語が進み、2月8日放送分で第6回となりました。前回の第5回は「信長は鬼か」、そして今回は「いざ、初陣」。いずれも、「天下布武(てんかふぶ)」を掲げて着々と覇権を手中に収めつつある、織田信長が絡んでストーリーは展開されていきました。

 私は第5回を観て、『少し面白くなってきたぞ』と思いました。一概に大河ドラマといっても、年令や性別や好みなどにより、受ける感想はさまざまだと思います。日曜の夜全国のお茶の間で観ている夥しい視聴者の、たった一人に過ぎない私なら―
 やはり大河ドラマは、ドラマの時代を代表する登場人物とそのライバルによる、交流、対立、あつれき、抗争、戦闘などをつい期待してしまいます。今回の『天地人』のように、激動の戦国時代が舞台ならなおのこと。そのプロセスでの心理的駆け引き、実際の戦闘シーンなどに、『今日でも通用する普遍的な教訓とは何だろう?』というような観点からつい観ているのです。

 今進行中のドラマでは、それは上杉謙信VS織田信長という構図です。共に戦国時代を代表する歴史的人物です。
 演じているのは謙信役に阿部寛、信長役に吉川晃司。『天地人』は上杉藩の変遷に力点を置いて進められていくドラマですから、謙信の阿部寛の方がより強烈で個性的な人物として描かれており、対して吉川晃司の信長はそれよりやや迫力不足のように感じます。
 
 その中で、妻夫木聡演じる主役の直江兼続(この時はまだ樋口与六)はその頃15歳、元服前後の一小姓にすぎません。そんな兼続は謙信に直訴して、天正2年(1574年)5月上杉家の使者の一行に加わり、織田信長の居城である岐阜城を訪れる設定にしています。
 そして初音という信長方のくノ一(女忍者・架空の人物ー長澤まさみ)の手助けにより信長と会見し、その席で謙信直伝の「義の精神」をぶちかまします。信長は「古くさい !」と一喝し、兼続は危うく一命を落としそうになります。その危機を佐吉(後の石田三成ー小栗旬)が救い、生涯代わらぬ友情が芽生えます。

 これはもちろん史実ではありません。いくら後の大知恵者・直江兼続でも、わずか15歳前後(現代でいえば中3か高1)の洟垂れ小僧が、大信長に何の能書きを垂れられるというのでしょうか?第一序列厳しい戦国の世で、謙信も直属の主君・上杉景勝(北村一輝)も、たかが小姓身分の者に信長謁見など許すはずがありません。
 ドラマの主人公を、このような架空の物語の中にねじ込むのは、いかがなものかと思います。まあ大河ドラマそのものが、歴史物に名を借りた作り話(フィクション)と思って観れば、そんなに目くじらを立てるほどのことでもないのかもしれませんが。

 しかし大河ドラマという「国民的ドラマ」は、20代以下のこれから日本史を本格的に学んでいくことになる若い世代もけっこう観ているようです。その時戦国時代のことなどほとんど白紙状態の彼らに、間違った歴史認識を植えつけることになりはしまいか?最近の戦前・戦中史の方向性のこともチラッと頭をかすめつつ、ついそんな余計なことを考えたりします。

 歴史ドラマを面白くするために、主役に時として架空の行動を取らせる―これも確かに、ドラマ作りの一手法なのかもしれません。しかしまるで門外漢の私から言わせていただければ。そんな安直な手法に頼るよりは、主役なら主役の綿密な歴史考証を重ねて、史実を極端に捻じ曲げずに実際にあった事実を深く掘り下げて描ききる―この方がずっと、視聴者の感銘を深くするのではないだろうかと思いますが。

 (追記) 今回は第5回、第6回をまとめて述べるつもりでしたが、紙面が尽きてしまいました。第6回のことは、近いうちまた記事にしたいと思います。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (2)
|

薬物汚染の拡がりを憂う(4)

 私としては「薬物汚染の拡がり」というテーマについて、早く結論に持っていきたいと思っています。導入部として小向美奈子容疑者(23)の件を取り上げたのは、汚染の拡がりについての最近の好例を示すつもりでした。そこに本考を開始した途端若麒麟容疑者(25)の事件が新たに起こり、ちょうどいいタイミングで格好のサンプルが見つかったのでそれを追いかけてみました。
 日本相撲協会は「国技」である大相撲を主催する、文科省所管のもと税制上も優遇されている財団法人です。同協会は、今回の大麻事件のみならず朝青龍の品格問題、八百長疑惑、新弟子暴行死事件など多くの問題を抱え、内外からその根本的な体質改善を強く求められている最中です。
 よって事の重大性にかんがみ、今回もこの事件をさらに述べていきたいと思います。

 特に今回の若麒麟逮捕は、角界として昨年のロシア人3力士の事件以来2回目で、しかも日本人力士としては初めてのケースです。
 相撲協会はロシア人力士の事件発覚後、全力士を対象に尿検査を実施しました。その際若麒麟は3回目でやっと「陰性」と確認されOKということにしています。1回目と2回目は陰性とならず、限りなくクロに近いグレーだったわけです。その段階で検査結果を知りえた協会関係者は『こりゃおかしいぞ』と思ったに違いありません。
 
 しかし結果的に「シロ」にしてしまいました。協会は何としても「日本人力士が大麻使用」という疑惑を公にしたくなかったのではないか、と勘ぐりたくなります。
 なおその検査の折り、疑わしかったのは若麒麟だけではありません。九重部屋の千代白鵬は尿検査すら受けていませんでした。このような相撲協会の対応ぶりを見ていると、『ひょっとして大麻力士は他にももっといるんじゃないの?』と、つい疑惑の目を向けてしまいます。
 若麒麟は逮捕直後、「以前から吸っていた」と常習性を認めながら、その後「六本木で外国人から買った」「吸引は2度目だ」と供述を翻したのは、仲間の大麻力士をかばうためとも見られているようです。
 これらのことから、大麻汚染は角界に深く広がっていると見られても仕方ないのではないでしょうか。

 また相撲協会は理事会での協議の結果、若麒麟容疑者を「除名」という最も重い処分ではなく、2番目の「解雇」処分に決しました。昨年のロシア人3力士と同じ処分です。そして退職金(協会名称:力士養老金)も支払う予定でした。それを支給することよって、相撲界の大麻汚染の実情やその他協会の不都合な真実をばらされるのを恐れての、口封じではないかという批判も挙がっていたようです。
 さすがにこの問題については、若麒麟容疑者の方から辞退するという形にして、結果として「退職金なしの解雇処分」ということで決着をみました。

 すべては角界の大麻汚染の捜査が、若麒麟からどこまで波及するのかにかかってきたようです。
 逮捕から1週間以上が経過して新たに分かったことは―。1月30日昼過ぎ神奈川県警は別件で、東京・六本木4丁目の雑居ビル内の「D.OFFICE」というCD制作販売の音楽関係会社を家宅捜索したところ、そこにたまたま若麒麟容疑者が居合わせたということのようです。同社はヒップホップ系の音楽を手がけ、社員らは「ラッパー」を称しているそうです。
 県警が踏み込んだ際若麒麟はソファに座り、別室に一緒に逮捕された自称ミュージシャンの平野力(30)もいて、共に大麻吸引中だった。そこに別の男が現われ、カバンから今度は新たにコカインらしき粉末も見つかった。県警はこの会社が音楽事務所という看板に隠れ、事務所内で薬物を日常的に使用していた疑いもあるとみて、捜査を進めているもようです。

 しかし角界の薬物汚染の実態について、若麒麟が取調べの中で他の大麻力士の名前を口にしなければ、今後どこまで切り込んでいけるかは疑問のようです。今回は瓢箪から駒のように若麒麟が逮捕されましたが、大麻取締法違反は原則として所持か吸引の現行犯でなければ逮捕出来ないからです。
 
 だからなおのこと。相撲協会は若麒麟と尾車親方の処分だけで一件落着とするならば、それは「トカゲの尻尾切り」で、真の角界浄化になるものではないと思われます。
 もう二度と大麻力士を出さないためにも、相撲協会は臭いものにフタ式の旧来の隠蔽体質から脱却すべきです。この際武蔵川理事長以下全理事が自分の進退を賭けるくらいの強い決意で、自らメスを入れて、角界の薬物汚染の実態がどれだけのものであるかを明らかにしてもらいたいものです。  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

雪に埋もれし我が故郷(3)

    がうがうと木立に深山(みやま)吹雪かな   (拙句)

 当時太郎村で住んでいた家は、北の下荻の方から流れてくる吉野川沿いの平らな土地にありました。この吉野川は、母の実家(私の生家)のある水林が源流です。そのためその昔米沢上杉藩は、水源としての水林部落を重要視したのだろうと思われます。
 
 古代中国の伝説の王、尭(ぎょう)舜(しゅん)の昔から、「水(河川)を治める者は国を治める」と言われ、治水事業は古今東西の為政者にとっての重要課題だったわけですから。
 余談のついでに。現在「吉野石膏株式会社」という住宅建材メーカーの大企業があります。タイガーボードのテレビCMでおなじみの会社ですが、この社名はこの吉野川から採られているのです。というのも、同社の創業者一族は宮内町出身だからなのです。(いつかまた、その辺をもう少し詳しくお話できればと思います。)

 吉野川は、太郎村ではまだ川幅も狭くせいぜい10m弱くらいなものだったでしょうか。冬中川原は一面雪に覆われ、その中を一筋の川が黒く冷たく流れているのでした。雪の中家の前で近所の同じ年頃の子供たちと一緒に、何かをして遊んでいた記憶がありますが、さてどんな遊びだったのか?今となってはよく覚えていません。
 川の向うは西の小山になっていて、川の際から山全体に杉の木が植えられていました。春先は我が家の外で立って見ていると、川近くの低い所の杉が風であおられて茶色い花粉を振りまくさまが見てとれました。しかし「花粉症」というオシャレな病気になる者など誰一人いませんでした。
 また真冬の夜中などに、杉の枝に積もった雪がどさっと落ちる音が聞こえてきたりしました。

 父がまだ元気だった頃は、根雪になって野良仕事が出来なくなると土間でよく藁打ち仕事をしていました。父は亡くなる前の2年ほど床に臥せっていましたから、私が5歳頃の記憶ということになります。そうして打って柔らかくした藁を編んで、蓑(みの)やハケゴ(農作業用などの藁製かばん)を作って売っては、冬場のわずかな収入にしていたようです。
 母は囲炉裏端で、小作の畑から採れた大豆を煮込んでは、それを藁に包んで昔風の自家製納豆こしらえなどをしていました。何やら『母さんの歌』の一節が思い起こされてくる、そんな生活ぶりでした。

 一度父に連れられて、真冬に東の方の山に行ったことがあります。山深くに当家の炭焼き小屋があったのです。父も私も「かんじき」という、雪の中を歩くための、木製の丸くて大きなゲタの親分のようなものを履いてです。履き慣れない私と一緒ですから、父もさぞ難儀な道行だったことでしょう。
 今となって考えますに、父は余命が長くないことを覚って、父としての仕事ぶりを長男である私に見せておきたかったのかもしれません。
 
 一面雪また雪の山の道なき道を行くのです。ただ木立の幹ばかり黒々として、本当にしーんとした静寂そのものの世界です。けっこう歩いて、だいぶ山深くに炭焼き小屋はありました。

 とにかく貧困な小作農ですから、生計のためには何でもしていたようです。都市ガスやLPガスなどがまだ普及していない昭和30年前後は、炭は重要な燃料でした。それで当家に限らず、冬場炭焼きをする農家は多かったものと思います。
 確か当時高価な炭と言えば「サクラ炭」だったかと思います。しかし当家で作っていたのはそんな高級炭ではなく、その山にいくらでもある楢の木を雪が降る前に切って積んで置いたのをくべて炭にする、安価な「ナラ炭」の類いではなかったかと思います。

 その時の詳しいようすは覚えていません。しかし周りが真っ白な景色の中、炭を焼くカマドだけが赤々と燃え盛っている、その炎の色が何となく記憶に残っています。(以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (1)
|

“ブログ”について(3)-ブログ炎上に思うこと

 ここのところ、有名人の「ブログ炎上」が後を絶たない状態です。
 昨年は、春風亭小朝師匠と離婚して暴露記事を綴った泰葉(47)や、キャディーへの蹴りが報じられた女子プロゴルファーの古閑美保(25)のブログが炎上しました。一昨年は同じ上田桃子(22)のブログも同じような被害にあいました。

 そしてこの度は、ブログ炎上に関してネットへの悪質な中傷に、初めての一斉摘発が行われました。ある男性タレントのブログに、「人殺し」「死ね」などの中傷コメントを書き込んだ男女19人(17歳~45歳)が、名誉毀損容疑で近く一斉に書類送検されることになったというのです。
 「炎上被害」にあったのは、お笑い芸人のスマイリーキクチ(37)。同氏のブログに、皆様ご存知の‘98年に東京都足立区で起きた「女子高校生コンクリート詰め殺人事件」の殺人犯だった、とのデタラメな書き込みが何度も続き悩まされていたのだそうです。
 そのため「芸能活動に重大な支障が生じた」として被害届を提出。接続記録の分析から、悪質な書き込みをした19人を特定し、刑事責任を追及することが決まったというものです。

 この件では既に昨年12月、20代の派遣OLが「殺してやる」と書き込んで脅迫容疑で書類送検されています。その女性はネット上の情報から、スマイリーキクチ氏の上記事件への関与を本気で信じていたのだそうです。
 そもそも3、4年前から、「元警視庁刑事の著書に“女子高生コンクリ殺人の主犯格の一人がお笑いコンビを結成”と書かれていた」という話がインターネット上に出回り、騒動に火がついたようです。それ以前にも、年令や出身地から「スマイリーが怪しい」というデマがあり、何の根拠もなしに多くの人が信じ込んで誹謗中傷の連鎖が起きたもののようです。これに関連して、昨年末病死した飯島愛も「関与している」という、デタラメな「都市伝説」が独り歩きしていたという話もあるようです。

 この辺がインターネットの「怖さ」でもあります。「誰が書いているのか」をあまり重要視せず、また「この記事は本当なのか?」とよく確かめもせず、そのまま鵜呑みにしてしまうネット閲覧者が多く存在するということです。
 そうなるとネット上のブログなどは、単なる「電子版・三面記事的かわら版」になり下がってしまいますが、そういう人は「ネットのやりすぎで感覚がマヒしている人が多い」という指摘もあるようです。

 確かに「ネット社会」は、日本中あるいは世界中の人々との情報のやり取りが瞬時に出来てしまう、超のつく利便性があります。ネット上のやり取りや交流も、しょせん人間が行っているわけです。その意味では通常の現実での人間関係と何ら変わらない、その延長線上にあるものとの捉え方も可能です。
 しかし一方では、それはお互いの顔と顔を向き合ってのリアルな交流ではありません。いわばあくまでも、バーチャルな世界におけるやり取りなわけです。ここにこそ、ネットの怖さが潜んでいるように思います。相い対の場合なら当然、無意識で感受した「ハートの五感感覚」が働き、セーブすべきところはセーブ出来ます。それがネットの場合は、単なる「頭つまりマインド」がこねくり回した虚構で、向こう側の人のことなど忖度(そんたく)せずに、勝手な判断をしがちな危険性は多分にあるように思われます。(そしていつの場合でも、マインドはロクな判断を下しはしません。)

 前の本シリーズ記事で述べたとおり、ブログ記事またはコメントとして何か書き込むということは、ネットで公開されている以上、何がしかの「公共性」を帯びています。つまりある特定人への誹謗中傷や攻撃やデマの類いは、皆の前でその人を傷つけていると同じ行為であるわけです。それはネット参入者として避けるのが、マナーであると思います。それでなくとも、「悪口、陰口は世を乱す元」です。
 但し、社会的地位が高く影響力の大きい人物、あるいは組織に対しての批評は大いに結構だと私は考えます。今は時として、大メディアが「権力のチェック機能」を放棄しているようなケースがままありますから。代わってしっかりチェックしていくことが、各ブロガーに与えられた使命の一つと言えるのかもしれません。

 現実世界で未成熟な人間が、ネットに乗り込んできた場合、その未熟さが更に増幅されてしまう傾向があるようです。現実の人間関係も、ネット上の顔が見えない相手でも、やはり「fou you(フォーユー)の精神」が基本なのかなと、未熟者の私は考えます。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

雪に埋もれし我が故郷(2)

   めめろんと雪に埋もれし百戸村   (拙句)

 私を産むために一時水林の実家に帰っていた母は、私が無事産まれたので間もなく太郎村の家に戻りました。
 ですから私は、既に『父と妹の死の頃』『唐傘の思い出』などで述べましたとおり、生後間もなくから小学校1年の秋10月宮内町の母子寮に入るまでの7年余を、太郎村の家で過ごしました。

 なお、私の「光太郎」の名前のもとともなった「太郎」を、これまで「太郎村」とご紹介してきました。しかしつい先日千葉の人が、検索により前回の『雪に埋もれし我が故郷(1)』にアクセスしてこられました。その時の検索フレーズは、
     山形県東置賜郡吉野村字太郎
というものでした。『んっ?』。私は気になって、私の住民票の本籍欄と照らし合わせてみました。(私は懐かしくもあり、今はキレイに更地になっている我が家跡を未だに本籍にしています)。その結果は、「山形県南陽市太郎○○番地」。これは昭和40年代半ばに、宮内町と(温泉の町でもある)隣の赤湯町などとの合併後の表記で、昭和30年代当時は、
     山形県東置賜郡宮内大字太郎
ではなかったかと思われます。
 
 その方の「吉野村字太郎」表記は、吉野村が宮内町と合併する以前の、昭和20年代頃の表記かと思われます。あくまでも類推でしかありませんが、その方はだいぶ昔に、太郎を含めた吉野村(下荻、上荻、小滝など)にお住まいだったことがある人、あるいはご両親がそうでそれを伝え聞いていたご子息なのではないでしょうか。
 
 私が当ブログで「宮内町立母子寮」の思い出を何度か述べたことにより、グーグルなどにその名称での検索が載るようになりました。実際たまには、その検索でご訪問の方もおられます。今回の千葉の方といい、大変嬉しく思います。ただ出来得れば、『ご感想なり何なりのコメントをお残しいただきたかったなあ』と、これは欲張りな注文です。
 以上のような経緯があるものの、私にとって太郎はやはり「太郎村」ですので、今回も以後もこの名称で通させていただきます。

 太郎村。私たち5人家族(父、母、私、すぐ下の妹、2番目の妹)が、掘っ立て小屋のようなあばら家で身を寄せ合って暮らしていた昭和30年代初頭、戸数は数十軒か多くても百軒弱くらいの部落でした。しかしそれが太郎村の「最盛期」で、私の家族が町に移って以降少しずつ宮内町あるいは遠く関東などに移り住む所帯が多くなりました。
 今から20余年前に、村の真ん中を貫通して宮内から小滝、上山方面に抜けられる幅広の舗装道路が造られました。そのおかげで便利になったものの、村のシンボルでもあった鬱蒼たる鎮守の小高い森は切り拓かれて真っ平らとなり、どこかよそよそしい別の村のように変貌してしまいました。
 それに昔並んでいた家々はなく、ぼろぼろに欠けた櫛の歯のようにあっちにぽつりこっちにぽつりと、飛び飛びに家が認められるだけで…。

 村は東西を小高い山々に囲まれ、部落の中を北から南へと吉野川(最上川の一上流)が流れる、山形県内陸深くの山間僻地の集落でした。
 水林もそうでしたが、貧しい村には似つかわしくないほど、豪勢で豊かな白雪に恵まれた(笑)村でした。冒頭の句はそんな太郎村を思い出して、10年ほど前に詠んだ句です。「めめろんと」とは、すっぽりとという意味の我が郷里の言葉です。実際は「めろんと」という用法が通常ですが、時には「めめろんと」とも使っていたように記憶しています。その場合は、「めろんと」を更に強めた用法ということになります。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)    

| | コメント (1)
|

けふ立春

    立春の雲東(ひむがし)に流れけり   (拙句)

 ぽかぽか陽気は節分のきのう一日だけで。きょうは立春だというのに、終日曇り空のやや寒の一日となりました。

    春は名のみの風の寒さや
    谷の鶯(うぐいす)歌は思えど
    時にあらずと声も立てず
    時にあらずと声も立てず
 
 叙情歌の名曲『早春賦』の一番の歌詞ですが、暦の上で「立春」とはいえまさに「春は名のみの風の寒さや」です。これでは、折角きのうの陽気に誘われて「角(つの)ぐ」みかけた木々の芽も、また引っ込んでしまいそうです。
 そういえばきのうは通りで、乳母車を押している若いお母さんをずいぶん見かけましたが、きょうは全くその姿がありません。

 「立春」とは太陽黄経が315度を含む1日で、春の初めとされる日です。江戸時代の『暦便覧』には、「春の気立つを以って也」と記されています。俳句の世界でも、この日を境に目にする自然界の事物に春を感受し、春の季語を使って句を読むことになります。そこで私も、しばらく冬眠させておいた、角川文庫版『俳句歳時記・春の部』を取り出しました。
 しかし暦の上では「春」でも、実際はきょうがそうであるように余寒が厳しく、大寒とともに最も寒い季節でもあります。
 
 現代では正月は元旦からですが、旧暦(太陽太陰暦)では一年の始まりは立春からと考えられていました。そうするときのうの「節分」は、大晦日の役割をもっていたわけです。そのほか、茶摘時として知られる「八十八夜」や、台風が襲来する可能性が高いため農家にとっての厄日であった「二百十日」などは、いずれも立春から数えた日にちです。
 またかつてキャンディーズの歌で注目を浴びることになった「春一番」は、立春以降に初めて吹く南からの強風のことを言います。

 ところで「立春大吉」という言葉があります。これはそもそもは立春の早朝、禅寺で厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣からきているのだそうです。この文字は、縦書きすると左右対称となり一年間災難に遭わないというおまじないであるようです。
 道理で。と申しますのも、当家が所属しております郷里のお寺から、毎年1月にこの立春大吉のお札が送られてくるのです。ちなみに宗派は、曹洞宗(そうとうしゅう)です。当地に来てから無作法なことに、しばらく音信不通状態でした。それが母が4年前に亡くなったことにより、ご縁が復活したのです。
 それ以来毎年曹洞宗太陰暦やお便りと共に、このお札が送られてくるようになりました。
 
 ちょうど今、曹洞宗の開祖である道元禅師の伝記映画『禅 ZEN』が公開中です。道元の生涯をたどった映画で、道元役を歌舞伎役者の中村勘太郎が、ヒロインおりん役を内田有紀が、執権・北条時頼役を藤原竜也が演じています。道元は、親鸞や日蓮のように外的にドラマチックなことが少ないため、映画化されるのは珍しいことです。しかし道元は以前から関心があったので、そのうち観てみようと思っています。
 ついでながら。『K-20怪人二十面相・伝』の予告編で観た、洋画『マンマ・ミーア ! 』の評判が良いようです。ABBAの懐かしい歌声に乗っての主演のメリル・ストリープの熱演。それに美智子皇后が試写会でご覧になったことも、大きな宣伝効果になったのでしょうか。こちらの映画は、風光明媚なギリシャが舞台の、一足お先に春真っ盛りの映画のようです。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

節分のこと

    節分の闇にものゐる気配かな   (拙句)

 ここのところ寒い日が続きましたが、節分のきょうは久しぶりで暖かい一日となりました。当地でも午前中から昼過ぎまでは、まるで「うららかな」と形容しても良いような暖かい晴天でした。
 午後街角で、奥さん2人が立ち話をしていました。通りすがりに、「きょうは3月上旬頃の陽気らしいわよ」「道理で暖かいわけよねぇ」。聞くともなしにそんな会話が聞こえてきました。

 とある家の庭先の梅の木の、細い枝々がしなやかに下へ下へとしだれて、見事なうす紅梅をいっぱい咲かせていました。そこはよく通る道なのに、きょう初めて梅の開花に気がつきました。私が今まで気づかなかっただけなのか、それともきょうのぽかぽか陽気に誘われてにわかに開花したものなのか。
 花といえば水仙は、少しでも春を先取りせんとばかりに、南に面した日当たりの良い土手などには、気の早いことに12月から群生で咲いていました。また花屋さんの店先には、黄花、赤花など色とりどりの春の色が溢れかえっています。
 そんな花々を眺めていると、「どこかで春が生まれてる…♪」兆しを感じます。

 本来「節分(せつぶん・せちぶん)」は、「季節を分ける」ことを意味しており、立春、立夏、立秋、立冬の前日のことを言いました。しかし江戸時代以降は、特に「立春の前日」を指すようになりました。

 今さら申すまでもなく、節分といえば「豆まき」です。昼頃のニュースでは、恒例の成田山新勝寺の「節分会(せつぶんえ)」の豆まきのようすが映し出されておりました。当ブログでも取り上げていますように、大相撲は今若麒麟の大麻事件で大騒動です。しかしこの日ばかりは、朝青龍、白鵬の両横綱が、デンと据えつけられた巨大桝から塩ならぬ豆をむんずとばかりに掴んで、つめかけた大観衆ににこやかにぶんまいていました。
 境内の会場ではまた、NHK大河ドラマ『天地人』で主役の直江兼続役の妻夫木聡と、将来奥方となる直江家の息女・お船(おせん)役の常盤貴子も、揃って豆をまいていました。
 幸いうららかな天気に恵まれた今年の豆まき。出来れば大荒れが予想される今年一年の「世の中模様」を、きれいさっぱり祓ってもらいたいものですが…。

 なお余談ながら、「鬼は外」の「鬼」に関して興味深いお話を―。
 「艮の金神(うつとらのこんじん)」とは、お筆先(『大本神諭』のこと)で有名な大本教における根源神です。その教義では艮の金神は、実は神代に悪神たちによって艮(うしとら-鬼門・東北の方角)に押し込められた神で、本当の御名は日本書紀にもその名が見られる「国常立大神(くにとこだちのおおかみ)」のことだとしています。
 そして我が国で上古から「追儺(ついな)」という悪霊祓いをしたり豆をまいて鬼を追い払う習俗は、厳正無比なこの神を二度とこの世に出さないために「鬼」に仕立てた名残りだと言うのです。(だから本当は、「福は内」なら「鬼も内」だと)。
 近代日本の霊的巨人・出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう-本名:上田喜三郎)は、出口ナオ教祖の補佐をするにあたり、艮の金神から「出口鬼三郎(でぐち・おにさぶろう)」と名乗るよう命じられます。しかし「いくらなんでも、“鬼”はあんまりでございます」とばかりに、神との交渉(?)の結果「王仁三郎」に決した経緯があります。
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

私の歴史観(2)

 前回の文を寄稿させて頂いたのは、昨年ノーベル賞を受賞された日本人物理学者のことを思い出したからです。
 悲しいかな、私はコテコテの文科系人間なので、物理学の話など聞いただけで貧血を起こします。でも湯川秀樹博士の大ファン(ミーハー的な表現ですみません!)なのです。私には湯川博士は物理学者というよりも、大思想家という表現の方がふさわしいという気がします。高校時代は先生の随筆を読んでしびれました。
 「自然は曲線をつくり、人間は直線をつくる。」
という一節など今も深く印象に残っています。
 先生は和歌もよくされましたが、老荘思想(特に荘子)や空海についてのお話は実に深いものです。あのπ中間子理論の発想や後年の素領域の理論も、その奥にはどこかで老荘や仏教哲学(たとえば般若心経)が関係しているのではないかと想像しています。たしかこの湯川先生の素領域の概念が、後に南部博士や益川・小林先生の「ひも理論」に発展して行ったのではないでしょうか。
 湯川先生のお師匠さんは仁科芳雄先生、仁科先生のお師匠さんが東北大学創設者である長岡半太郎博士。湯川先生の話によると、長岡先生はもし物理学者にならなかったら漢学者になるつもりだったそうです。その長岡博士がスェーデンのノーベル賞選考委員会に湯川先生を推薦したから、日本人初の受賞のとなったのですね。
 話は違いますが、私が俳句というものに関心を持つようになったのも、寒月すなわち物理学者寺田寅彦博士の『俳句の精神』と題する随筆を読んだのがきっかけでした。寒月先生に俳句を入れ知恵したのは、もちろんクシャミ先生ですね。
 (くまさん・記)

 (上記ご文への返信)
 くまさん様ご存知かと思いますが、湯川博士の自叙伝で『旅人-ある物理学者の回想』というのがあります。高校時代感激して読んだことを懐かしく思い出しました。湯川博士のことはあまりよくは知りませんが、中間子理論の発見には、幼年時代の「老子の素読」が目に見えない形で影響している、というようなことを述べておられたようですね。
 「自然は曲線をつくり、人間は直線をつくる」。根源に限りなく迫った深い洞察だと思います。過去・現在・未来と「直線的時間」に束縛されてきた人間は、各種建造物などからもうかがえるとおり、なるほど直線的かつ不調和なものしかつくれませんでした。対して「無時間に属する」自然は、すべてがフラクタル的かつ調和の取れた優美な曲線です。人間は本当に謙虚に、自然界から学ばなければならない時期を迎えているのかもしれませんね。

 (追記) くまさん様がまたまた素晴らしいご文をお寄せになりました。そこで『私の歴史観(2)』として再び公開させていただきました。なお今回は、私の返信の一部も掲載させていたたきました。
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

薬物汚染の拡がりを憂う(3)

 大相撲の十両力士・若麒麟真一容疑者(25)の大麻所持容疑での逮捕から一夜明けた31日、少し詳しい状況が分かってきました。

 若麒麟容疑者は逮捕時、洋服に帽子姿。所持していた乾燥大麻は約16gで、葉巻の葉と一緒にティッシュに包まれていたそうです。
 神奈川県警の調べに若麒麟容疑者は、「葉巻の中身を抜き、大麻と混ぜて葉巻に戻して吸う方法で、以前から吸っていた」と、具体的な吸引方法を供述しているようです。
 同供述では更に、逮捕場所の東京・六本木の音楽CD販売店の事務所には3年前から出入りし、「事務所で逮捕直前の29日と30日の2度だけ吸引した」とか「大麻は六本木の路上で外国人から買った」などと供述が翻ったりあいまいな点もあるため、県警は慎重に裏付けを進めているもようです。

 若麒麟容疑者の供述によれば、一緒に同容疑で逮捕された友人でミュージシャンの平野力容疑者(30)とは、3年前六本木でCDを販売している人物の紹介で知り合ったとのこと。「1年くらい前に飲み屋で知り合った」としている平野容疑者の供述と食い違いがあり、県警はその辺も詳しく調べているようです。
 一方で若麒麟容疑者は、「(所属部屋の)尾車親方には迷惑をかけた」と反省の言葉も口にしているとのことです。

 また日本相撲協会は昨年9月に実施した尿検査で、若麒麟の陰性が確認できず、3度目の検査でやっと陰性を確認したという事実があったようです。神奈川県警はこの経緯を重視し、常習的に大麻を吸引していた可能性もあるとみて捜査を続け、入手経路を中心に他にも大麻を所持していた仲間がいないかなど、更に調べを進めているもようです。
 これについて一言コメントさせていただければ。1回でも陰性確認不可だったら、「クロだな !」と思うのが一般的なのではないでしょうか。それを3回試みてむりやり「シロ」ということにしてしまった。その時厳しく問題視していれば、4人目のしかも日本人初の大麻力士となっていたかも知れませんが、少なくても今回の事件はなかったと思われます。相撲協会の、「隠蔽体質」の根深さを感じます。

 東京・墨田区の両国国技館では31日、元小結栃乃花らの引退相撲が行われるため、午前10時頃から取組を行う関取らが続々と会場入りしましたが、皆一様に険しい表情で中に消えて行きました。引退相撲には若麒麟容疑者の取組も予定されていましたが、急遽別の力士に代えて行われました。
 引退相撲の観戦に訪れた都内墨田区の自営業Uさん(58-男性)は、「昨年は外国人力士の問題があったのに、一体何を考えているのか。力士一人ひとりが自覚を持たないと、ファンは離れていくよ。あきれ果てた」と怒り心頭のコメント。また品川区の会社員Oさん(42-男性)も、「朝青龍の活躍で初場所が盛り上がったのに、水を差す格好になってしまった。とても残念だし、悔しい」と表情を曇らせていたそうです。
 (今回の記事は、ネット版『中国新聞』と『YOMIURI ONLINE』の関係記事を参考にまとめました。)  (以下次回につづく)
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »