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雪に埋もれし我が故郷(4)

   吹雪く中団子の木持ち立ち去れり   (拙句)

 私の郷里では、確か小正月(こしょうがつ-今年は2月9日)の頃に、「団子の木」というのを山から切ってきて、居間などの天井近くの角の部分に掲げる習慣がありました。子供の頃でしたから、団子の木とは何の木なのか全く分からなかったものの、枝が赤茶色の変わった色だったのです。(今回調べましたら、「ミズキ-水木}という木のようです)。
 それを、小正月の前に男衆が山に分け入って、飾るのに適当な大きさに切ってくるのです。私の記憶では、立春を過ぎた2月上旬から中旬くらいが一番雪の多い季節でした。

 団子の木は枝々の先端に団子をいっぱい指したり、所々に太郎部落にただ一軒あった雑貨屋さんで買ってきた「ふな煎餅(または「ふな菓子」)」というのを、糸でつるして飾りつけして取り付けるのです。ふな煎餅は、鯛焼きくらいの大きさで鯛や大判のような形の餅菓子で、赤や黄色やうす緑色をしていました。
 そのようにして、その年の五穀豊穣を願う、我が郷里における予祝(よしゅく)行事の一種だったと思われます。

 昭和31年の冬、父の病はかなり重篤になっていました。床に臥せったきり、もはや起き上がることさえ出来ません。団子の木を予祝的なものとして飾りつけるには、そこそこ枝振りのいいものでなければなりません。それを探して山に分け入り、適当な所から鉈で切り、しかもそれを家まで担いで来なければならないのです。とても女手で出来ることではありません。
 そこでその年は、部落内の親しい男衆に我が家の分も切ってきてくれるよう、頼んだようです。

 ある日の昼頃、くだんの人はやってきました。自分の家のと私の家の2本分を担ぎながら。その日は雪がもさもさ(とは「ごっそりと」という意味の我が郷里の言葉)降り、しかも風が強くて吹雪く日でした。
 その人は我が家に入ってきて土間に立ったのを見ると、頭からつま先まで、雪で真っ白になっていました。
 「えやえや、こだな吹雪くなが、大変だったなっす。どうも、おしょうすななっすーぅ。まずは上がって、おじゃでも一服すてあたまってってけろ。(標準語訳:いやあ、こんなに吹雪く中を大変でしたねぇ。どうもありがとうございました。先ずは上がって、お茶を一服飲んで温まっていってくださいよ)」
 「えや。折角だけんども、うずに帰ってがら、まだするごといっぱいあっからよ。そうもすてらんにぇなだー。(奥の方に目をやりながら)力あんにゃ、具合どうだ?(同じく:いや。家に帰ってやることがいっぱいあるんで、そうもしてられないんだよ。ところで、力兄さんの具合はどうだい?)」
 「ほだがー。んじゃしょうがねなぁ。父ちゃんは相変わらずだー。(同じく:そうかぁ。それじゃぁ、仕方ないねえ。―以下省略)」

 そんなやり取りを交わしながら、我が家の分の団子の木を土間の所に置いてその人は出て行きました。
 私は母に言われたのか自分の意志だったのか、わらわら(「大急ぎで」という郷里の言葉)長靴を履いて、その人を追って外に出てみました。その人はもう坂の途中を上っています。私も坂を上り、上りきった所でその人を見送りました。
 雪はなおも小止みなく降り続き、吹雪がともすれば、団子の木を担いで街道を去っていくその人の姿をかき消そうとしていました。
                         * 
 なおこの行事は、今でも続いているようです。
 昭和30年初頭の頃、我が国はまだ農耕型社会でした。それが30年代後半からの高度経済成長により、工業型社会そして欧米型の生活環境へと変貌していくことになります。それに伴って、その行事の意味合いも大いに変わっていったものと思われます。(その辺の、全国各地の「変わりゆくもの、変わらないもの」を、NHKの『新日本紀行ふたたび』はなかなか良く伝えてくれていると思います。)
 何せ私が子供の時分は、我が太郎などはおしなべて自給自足的貧農の村でした。その年の五穀野菜が豊作か否かは、死活問題だったろうと思われます。それゆえ、そんな小さな行事に込められた思いも一層切実だったことでしょう。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記) 

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コメント

 本文でご紹介しました、私の郷里の小正月の「団子の木」だけではなく、昔は全国各地にさまざまな年中行事があったことでしょう。
 高度経済成長は、この国の仕組みを根底から変えてしまいました。その傾向が特に顕著になったのは、昭和40年代半ば以降からでしょうか。生活様式はどんどんアメリカナイズされ、都市への一極集中による各地方の過疎化現象も起きました。
 それが約20年ほども続きました。伝え部、語り部も世を去り、その間代々受け継いできた、伝統芸能、行事、習俗などがどれほど失われていったことでしょうか。
 私たちがようやくハッと我に返って、この国の足元を見直し始めたのは、バブル崩壊以後のことです。中には立派に復元されて今日に残っているものもありますが、返す返すも惜しいことに、消えてしまったものも数多くあることでしょう。

投稿: 時遊人 | 2011年2月22日 (火) 02時26分

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