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雪に埋もれし我が故郷(2)

   めめろんと雪に埋もれし百戸村   (拙句)

 私を産むために一時水林の実家に帰っていた母は、私が無事産まれたので間もなく太郎村の家に戻りました。
 ですから私は、既に『父と妹の死の頃』『唐傘の思い出』などで述べましたとおり、生後間もなくから小学校1年の秋10月宮内町の母子寮に入るまでの7年余を、太郎村の家で過ごしました。

 なお、私の「光太郎」の名前のもとともなった「太郎」を、これまで「太郎村」とご紹介してきました。しかしつい先日千葉の人が、検索により前回の『雪に埋もれし我が故郷(1)』にアクセスしてこられました。その時の検索フレーズは、
     山形県東置賜郡吉野村字太郎
というものでした。『んっ?』。私は気になって、私の住民票の本籍欄と照らし合わせてみました。(私は懐かしくもあり、今はキレイに更地になっている我が家跡を未だに本籍にしています)。その結果は、「山形県南陽市太郎○○番地」。これは昭和40年代半ばに、宮内町と(温泉の町でもある)隣の赤湯町などとの合併後の表記で、昭和30年代当時は、
     山形県東置賜郡宮内大字太郎
ではなかったかと思われます。
 
 その方の「吉野村字太郎」表記は、吉野村が宮内町と合併する以前の、昭和20年代頃の表記かと思われます。あくまでも類推でしかありませんが、その方はだいぶ昔に、太郎を含めた吉野村(下荻、上荻、小滝など)にお住まいだったことがある人、あるいはご両親がそうでそれを伝え聞いていたご子息なのではないでしょうか。
 
 私が当ブログで「宮内町立母子寮」の思い出を何度か述べたことにより、グーグルなどにその名称での検索が載るようになりました。実際たまには、その検索でご訪問の方もおられます。今回の千葉の方といい、大変嬉しく思います。ただ出来得れば、『ご感想なり何なりのコメントをお残しいただきたかったなあ』と、これは欲張りな注文です。
 以上のような経緯があるものの、私にとって太郎はやはり「太郎村」ですので、今回も以後もこの名称で通させていただきます。

 太郎村。私たち5人家族(父、母、私、すぐ下の妹、2番目の妹)が、掘っ立て小屋のようなあばら家で身を寄せ合って暮らしていた昭和30年代初頭、戸数は数十軒か多くても百軒弱くらいの部落でした。しかしそれが太郎村の「最盛期」で、私の家族が町に移って以降少しずつ宮内町あるいは遠く関東などに移り住む所帯が多くなりました。
 今から20余年前に、村の真ん中を貫通して宮内から小滝、上山方面に抜けられる幅広の舗装道路が造られました。そのおかげで便利になったものの、村のシンボルでもあった鬱蒼たる鎮守の小高い森は切り拓かれて真っ平らとなり、どこかよそよそしい別の村のように変貌してしまいました。
 それに昔並んでいた家々はなく、ぼろぼろに欠けた櫛の歯のようにあっちにぽつりこっちにぽつりと、飛び飛びに家が認められるだけで…。

 村は東西を小高い山々に囲まれ、部落の中を北から南へと吉野川(最上川の一上流)が流れる、山形県内陸深くの山間僻地の集落でした。
 水林もそうでしたが、貧しい村には似つかわしくないほど、豪勢で豊かな白雪に恵まれた(笑)村でした。冒頭の句はそんな太郎村を思い出して、10年ほど前に詠んだ句です。「めめろんと」とは、すっぽりとという意味の我が郷里の言葉です。実際は「めろんと」という用法が通常ですが、時には「めめろんと」とも使っていたように記憶しています。その場合は、「めろんと」を更に強めた用法ということになります。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)    

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コメント

 私にとって、断片的ながらこの人生の記憶が始まるのは5歳頃からです。昭和31年秋には太郎村を離れていますから、太郎村の思い出はわずか2年半ほどしかないわけです。
 しかしこの『雪に埋もれし我が故郷』が(1)から(5)まであり、それが太郎村までの記録であるように、飛び飛びではあるもののそこでの思い出はけっこう鮮烈なのです。
 特に昭和31年は、早春の父の死、初秋の妹の死、晩秋の離村と、我が家にとって激甚な変動に見舞われましたから、余計そうなのかもしれません。

投稿: 時遊人 | 2011年1月27日 (木) 02時11分

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