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雪に埋もれし我が故郷(5)

 以下は父がまだ元気だった頃の、ある冬の真夜中の思い出です。

 再三述べましたとおり、太郎村の私の家は吉野川の土手の上の平らになった土地の一角にありました。すぐ上を村で唯一の街道が通っていました。その街道から川の方に坂を下りてすぐの右手が私ら親子の家でした。奥にあと2軒ありました。
 土地は、街道の上の高台にあった村で何軒かの豪農からの借地でした。

 『当家は“平家”の流れ !?(2)』でも述べましたが。当家は明治、大正の頃、上山(かみのやま)から何らかののっぴきならない事情があって、あまり資金もなしに太郎村に移って来たものと推測されます。当時の村落共同体のしきたりで、いつまでもよそ者扱いで極貧の小作農だったのでしょうか。
 家は周囲を薄い板張りで囲んだ、物置小屋を少しましにしたような粗末な家でした。家の裏側(東側)は1m強くらいの空きがあったでしょうか。そこから3mくらいの崖状の土手となり、その上を村の街道が通っていたのです。

 街道は当時のこととて当然砂利道です。この道を北の方向に行くと両側に山がいっそう迫り、下荻、上荻、小滝部落に行けます。また南は少しずつ山は離れて盆地状に広がり、金山(かねやま)そして宮内町へと行けます。
 この道を通って、小滝にある日本鉱業系の吉野鉱山(昭和40年代後半廃鉱)へ行き来するトラックを、日に何度も見かけました。また昭和30年前後の映画に出てくるような、前面にボンネットが張り出している桃色(当時の呼称)の、山形交通の乗り合いバスも日に何度か通りました。
 また雪のない季節街道端で遊んでいると、宮内に行商に出ていた水林のズサマ(じい様)が、夕方自転車でこの道を通って帰っていきました。ズサマは私を見かけると、自転車を止めて手招きするのです。私は走って行きます。するといつも村外れの「しみずみしぇ(清水店)」で買ってきたのか、飴玉やお菓子をくれるのです。案外それが楽しみで、日暮れ近くはいつも街道に出ていたのかもしれません。

 冬のある夜、土手沿いの部屋で、家族5人が並んで寝ていました。真夜中の12時も過ぎた頃だったと思います。ぐっすり寝ているところに、「バリバリバリッ」と音立てて突然雪の塊りが、ドッとばかりに部屋になだれ込んできたのです。
 雪は上から落ちてきたものです。粗末な板囲いの外壁などいとも簡単に突き破り、壁の方に頭を向けていた親子の枕元にまでなだれてきました。いやあ、びっくりしたの何の ! 私たちはとんだ不意打ちをくらって、慌てて飛び起きました。

 原因は宮内町のブルドーザーでした。街道の除雪のために、交通のない深夜に町の方からやって来たものでした。道の中央部の雪を路肩の方に押しのけようとして寄せすぎて、勢いあまった雪がどうとばかりに、我が家目がけて落下してきたようなのです。運転手はそんなこととは露知らず、そのままゆっくりと下荻の方向にブルを走らせていきました。

 心地よい眠りを突然の雪に襲われ、その上壊された壁からは、真冬真夜中のしんしんとした冷気が容赦なく入り込んで来るし…。子供の私などは一体何が起きたのか、ただ呆然として寒さにブルブルふるえているのみでした。
 さすがに父と母は原因がすぐに分かったようです。「父ちゃん、早ぐブルを追っかけで文句言ってきてけろ ! 」という母の叱咤に促されて、父は外套を着るももどかしく、外に飛び出して行きました。
 それから先のことは、あまりよく覚えていません。私ら子供は、土間からすぐの囲炉裏のある部屋に寝かしつけられたのかもしれません。もちろん板壁の補修は、町で間もなくやってくれたのでしょう。

 とにかく。そんな際立った思い出でも、先に述べました炭焼き小屋の思い出でも、その他の思い出でも。「父の話し声」がまるで聞こえてこないのです。母の声ならさまざまな場面で、半世紀以上前の時の彼方から今でも聞こえてきます。しかしなぜか、父の声は…。
 きっと寡黙な百姓だったのでしょう。徴兵で北満州に行き病を得て帰還し、貧困のうちに35歳で死んでいった父でした。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記) 

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コメント

 このシリーズを拝読してつくづく思うのは、雪女さえ寄り付かない(笑)というふるさと太郎村に寄せる大場様の思慕の何と熱いことか・・・。すばらしい記憶力のなせる細密な描写を拝見するにつけ、故郷に寄せる愛情がひしひしと伝わってきます。このように確かな心の故郷を持つことの出来る大場様は幸せなお人だと思いますね。
 ところで、鈴木牧之という江戸時代後期の人をご存知かと思います。『北越雪譜』という本を著した越後の魚沼の人です。
この本は世に知られない雪国の生活を綿密に描写して、当時江戸でベストセラーとなり、今日まで知られているものです。
どうです、ひとつ大場様も『太郎村雪譜』として上梓してみては?
 

投稿: くまさん | 2009年2月14日 (土) 23時16分

 私の太郎村についての本シリーズに対し、過分なお褒めのお言葉をたまわり恐縮に存じます。実はこのシリーズには、どなたからか是非何らかのコメントを、と望んでおりました。さすがくまさん様。大変ありがとうございました。
 「思慕が熱い」のは事実です。何しろ私がこの世に生を享け、もの心ついて最初に認識したのが、太郎村の諸風物だったものですから。太郎村は、私にとっての原点であり原風景です。
 記憶力は決して良い方ではありません。述べたことはすべて事実ですが、細部につきましては今日の想像力で補った部分がありますこと、ご了承ください。
 いえいえ。かの有名な『北越雪譜』の向うを張るなどは、とてもとても…。それに私の記憶の引き出しには、あと少ししか残されていませんし。それにつきしては、おいおい当ブログでささやかに公開させていただければと思います。

投稿: 大場光太郎 | 2009年2月15日 (日) 00時25分

   夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に

 以前記事にしました、立原道造の詩『のちのおもひに』の冒頭の一節です。
 記憶のたどれる5歳頃から7歳までの2年余でしかない太郎村での「雪の思い出」。そんな短期間の遠い思い出が、今でも時折り甦ってくるのはなぜなのでしょうか。
 もの心ついて初めての生活の場が太郎の我が家であり、よくもあしくもその後の私の半生の原風景であり原体験であったためと思われます。

 以来半世紀余。父も妹・菊子も母も世を去りました。思えば一家5人が一つ屋根の下で生活出来ていたのが、唯一太郎村の我が家であったのです。
 極貧小作農のあばら屋ではあったものの、今となってはかけがえのない尊い思い出であるのです。

投稿: 時遊人 | 2011年2月28日 (月) 03時18分

 私は父を知りません。
覚えている感覚は、お風呂の中で雷が鳴り、窓いっぱいの赤い光そして恐怖、そしてしっかり抱きしめられた感覚が父でした。・・・それは2・3歳の事のようです。

戦争・父は鹿児島生まれ、母は宮内と言葉は通じたのと聞きたい二人は、戦争を境に離れて暮らしました。

私たち4人姉妹は、父を知らない子供達でした。
母の実家には人が多く不自由はありませんでしたが・・・
時々、この空虚な寂しさが襲います。

それでも、母や姉妹で過ごした家があったから、今があると思います。
不足を不足と考えてはいけないようです。
     

投稿: 妙理 | 2011年2月28日 (月) 22時10分

 妙理様もやはりお父上を幼くして亡くされましたか。
 それにしても2、3歳頃の幼児記憶をお持ちとは、素晴らしいですね。
 当ブログでも8・15などで決まって「戦争と平和」について述べています。とにかく戦争は愛する者を情け容赦なく離別させるなど、多くの人の運命を狂わせてしまいます。
 そして敗戦国の運命をもです。それも戦争中、戦後間もなくというようなものではなく、65年余経った今でも。「対米従属」がこの国のすべての病根、これを見直すべきだというのが昨今当ブログで訴えているテーマの一つです。
 片親でも幼児に死別するというのは、子供のその後の人生には大きなダメージとなるものです。しかし過ぎ去った過去は「加光」(とは岡本天明の三典夫人の言です)、どれも皆懐かしく尊い思い出ですね。
 

投稿: 時遊人 | 2011年2月28日 (月) 23時55分

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