桜の名句(1)
松尾 芭蕉
さまざまのこと思い出す桜かな
…… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
桜のシーズンのこの季節。「桜の名句」を私の独断と偏見で何句かご紹介していきたいと思います。
俗に「富士山の句に名句なし」と言われるように、桜の名句もなかなか生まれづらいと思います。桜は富士山がそうであるように、共通の日本人の心情あるいはイメージが共有され過ぎていることによるものと思われます。
そうとうユニークで斬新な視点から「桜」を詠まない限り、先人の誰かの句の模倣の域を出ないばかりか、日本人誰しもが共有している桜のイメージすら超えることが出来ないからです。といっても、奇をてらった句では、よけい変な句になってしまいます。そう考えますと、『桜を詠むのはホントに難しいよな』と思ってしまいます。
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松尾芭蕉は、誰も文句のつけようのない完成度の極めて高い名句を数多く残しました。そんな芭蕉にしては、何の技巧もなく単純素朴に「桜」を詠んだ句です。その意味でこの句なども、「名句か、凡句か?」と論議を呼びそうです。
この句は元禄元年(1688年)芭蕉が奥の細道の旅に出る1年前、故郷の伊賀の国(現在の三重県伊賀市)に帰省した時に詠まれた句です。その地で、思い出の桜を実際目の当たりにして詠んだものと思われます。
「思い出の桜」とは、芭蕉がまだ武士だった若い頃、主君だった藤堂良忠の花見の宴に招かれ、その時藤堂家の庭に咲いていた桜のことです。だからこの句の「さまざまのこと思い出す」とは、その桜の木が触媒のように作用して、良忠の近習として使えていた若かりし頃の自分自身あるいは今は亡き主君のことなどが、フラッシュバックのように次々に思い返されてきたということなのかもしれません。
主君・藤堂良忠はその花見の宴の後、25歳で急逝してしまいました。そしてその時23歳だった若き日の芭蕉(本名・松尾宗房)は、主君の野辺の送りが終わった後、武士の身分を捨てて「俳諧の道」で生きていく決心をするのです。
もし主君の死に直面しなかったなら、その後松尾宗房は生涯武士のままだったかもしれず…。そうすると我が国の歴史は松尾芭蕉という俳聖を持つこともなく、私たちが数々の名句に接することもなく、今日に至る俳句というものもまたなかったかもしれません。
ともかく芭蕉は一俳諧師となるため、当時の厳しい封建社会にあってあえて脱藩の罪を犯して、故郷の伊賀を後にしたのでした。自分よりわずか年上の主君の若すぎる死に、世の無常を痛感したものか、それ以前から俳諧の道への止みがたい希求があったものなのか。
芭蕉は、「風雅の道」の先人である西行法師(1118年~1190年)を生涯敬愛していました。その西行も20代前半まで、鳥羽院を警護する北面の武士(俗名・佐藤義清)でした。西行はやはり23歳の時意を決して武士を捨て、出家しその後の人生を僧侶、歌人として諸国を放浪しながら生きていくことになるのです。
願わくば花の下にて春死なむその如月(きさらぎ)の望月(もちづき)の頃
(西行法師)
歌人と俳人の違いはあっても、共に「風雅を極めん」との志は同じ。芭蕉は西行が出家したいきさつなども既に知っていて、敬愛する先人の跡を慕おうとしたものなのでしょうか?
芭蕉ではないけれど。桜花というものは、確かに「さまざまのことを思い出」させる作用があります。私自身もそうです。郷里での子供の頃、山に咲いていた山桜や校庭の桜のこと。当地に来てから何度も見てきた桜、それにまつわる思い出。特に数年前母を荼毘に付すべく向う途中、相模川沿いの桜並木が満開で「母の最後の花道」のようだったこと…。
そういう意味で、桜の持つこの不可思議な「思い出喚起作用」をズバリ言い当てている点、この句は平凡な句のようでありながら『なかなかどうして』と思います。
(大場光太郎・記)
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