春風の詩(うた)
ものの芽がほぐれるように
心地良い春風に吹かれて
僕の固まっていた詩想が
少しずつほぐれてきた
さあ 春風の微細な衣(ころも)を
輝きのないこの世の衣の上に
しなやかにまとって
陽光の中を
どこまでも歩いて行こう
見なれた景色が
真新しい景色に変わり
詩が躍り出す処(ところ)まで
(大場光太郎)
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コメント
大兄のこの春風の御作、大変気に入りました。
無礼千万と思いつつも、以前の「ビニールの詩」の二番煎じを
ひねってみました。お気に触りましたらなにとぞお許しを。(くまさん 記)
*
なべての芽にし ほぐるごと
優しき春の 風吹きて
わが凝り居たる 詩のこころ
おのずとなりや ほぐれけり。
いざ春風の 微かなる
うららかなりし 綾ごろも
荒ぶるこの世の 衣の上に
すずしく重ねて 歩みなん。
光をあびて いずくまで
見なれし世界の その先の
あらたなる世の 詩のいのち
躍り出でけん その地まで。
投稿: くまさん | 2009年3月22日 (日) 23時05分
またまた拙詩に対して、格調高くリニューアルしていただき、大変ありがとうございます。冒頭但し書きを一部変更の上、早速公開させていただきました。
なお拙詩について補足させていただければ、
見慣れた景色 → 真新しい景色
は、外の景色は元のまま。しかし気持ちが深くなって、「変性意識状態」になったことを指したつもりです。私の経験から、多少なりとも変性意識に入りませんと、詩は作れません。たとえ(普通の意識で)作ったとしても、ほぼ間違いなく駄作、失敗作です。
変性意識状態の時は、実際見慣れた景色が常と少し違って感じられてくるものです。でもご想像のとおり、変性意識状態にはなかなかはいれません。
投稿: 大場光太郎 | 2009年3月22日 (日) 23時37分
大場様
無作法をお許しいただき有難うございます。
実は大兄ご指摘の箇所は、小生もそのように認識しておりましたので、いろいろ推敲はしたのですが、いかんせん小生の力量ではその変性意識という微妙なところがうまく表現できず、これが精一杯でした。その結果、原詩のもつ深いニュアンスが失われたことは明白だと自覚しております。失礼しました。
投稿: くまさん | 2009年3月23日 (月) 00時39分
いいえどう致しまして。畏兄の御詩は前回も申しましたとおり、拙詩とはまた別個の詩として、皆様味わわれることと思います。
投稿: 大場光太郎 | 2009年3月23日 (月) 00時51分
この詩は「詩カテゴリー」に収録してある私の詩のラストとなるものです。と言っても、私としてこれで詩作をおしまいにするつりもないのですが、最近はどうも「詩が躍り出す」までに至りません。詩が自然に湧き出てくるくらい、心を鋭敏していければと思います。
投稿: 時遊人 | 2012年5月 2日 (水) 20時31分
本日3月30日は大晴天の暖かい一日です。むしろ汗ばむほどの陽気となりました。当地の桜(染井吉野)も、先週まではちらほらだったのに、週が明けて一気に7、8分咲きとなってしまいました。まさに盛春の候です。
ところで、2月中だったか、「大場光太郎 春風の詩」という検索フレーズでこの詩にアクセスして来られた大変奇特な方がおられました(笑)。思わず懐かしくなって、その時読み返したのでした.。
2009年3月22日公開のこの詩以降、残念ながら詩をほとんど作っていません。
この詩への「くまさん」様への返信でも触れたことですが、思うに「詩」は、いざ作ろうと思ってもそう簡単に作れるものではなく、私の実感ではある種の「変成意識(トランス状態)」に入らないと良い詩は生まれないもののようです(この『春風の詩』が良い詩だといっているわけではありません)。
見えている事物の奥に潜んでいる隠された意味を掴み取る、インスピレーションをキャッチする、日常意識をギアチェンジした研ぎ澄まされた鋭敏な知覚状態・・・。
その後の私は、日々生起する政治的事象などについ関心が移ってしまいました。それももちろん大切です。が、それはたとえてみれば、大海原の表面に見えている大小さまざまな波に過ぎないのかもしれません。そのずっと奥の深海には、波立ちなど一切ない、非常に深い静寂があるわけです。
私たちはともすれば世の変転する事象に惑わされ、一喜一憂し、時に激しい怒り、憎しみ、不安混迷を覚えるわけですが、この現世(うつしよ)の事共は、それがどんな大波のような出来事のように感じられても、いずれは収まるべきところに収まり、何事もなかったかのように過ぎ去っていくものなのかもしれません。
なのに、「詩想」が枯れてしまうほど、現実に前のめりになり振り回されてしまっているのではないか、などとつい考え込んでしまいます。
投稿: 時遊人 | 2015年3月31日 (火) 00時55分