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2009年4月

春だより(4)

  我が生(あ)れし麗(うるは)し四月尽きにけり   (拙句)

 早いもので、4月もきょうで終わりです。私は最近、新聞・テレビをあまり見ていませんから分かりませんが、きのう29日の「昭和の日」をもって、今年のゴールデンウイーク突入ということでOKなのでしょうか?(それにしては、きょうを含めて平日が続くようですが。)
 きのうまでは、晴れても何となくうすら肌寒い日が続きました。きょうはうって変わって汗ばむような暖かい晴天の一日となりました。
 
 開設満1年のきのう29日に、当ブログの背景を『若葉』に変えました。本当に今は、遠くに望む野山も、通りながら眺める近い街並みも、若葉がまぶしく輝いている季節です。眺める者の目にしみこんで、心の内なる無意識層から深く癒されそうな鮮やかな緑緑で溢れかえっています。
 たとえば、今月初旬は満開だった桜はとうに散り敷き、今は豊かな緑葉を繁らせた葉桜並木。あれほど妖しいまでに花盛りだったのが、まるでウソのようです。葉桜の根元に立ちしげしげと見上げては、宴の後のような物悲しい奇異な感じにとらわれます。

 若葉は、萌え初めの黄緑色から、日に日に緑の色を増し加えて濃くしていくようです。桜が散り始めた頃は、どこもかしこも一斉に諸花(もろばな)で溢れかえり、我が街もさながら「花の街」といった趣きでした。
 しかし、木々の若葉の繁りとともにそれも一段落。菜の花の黄なる色はすっかり褪せ、にぎやかだった道端のタンポポも早や白くて丸いわた状となり、後はその中の種が風で吹かれて飛んでいくのを待つばかり。二番手のタンポポが今もチラホラ見かけられる程度です。
 
 そのさまは、きょうのこの初夏のような暑さとあいまって、最早盛春は過ぎて早や晩春か?と思わせられます。
 そんな中ひときわ目につく花は、何といってもサツキです。今の季節どこの町でもそうなのかもしれませんが、当厚木市では市の花であるせいかことの外多く見られ、車を走らせていると、サツキが到る所でとりどりの色で今を盛りと咲き誇っているのを目にします。

 気の早いお宅では、もう半月以上前から、庭先に立派な鯉のぼりを立てて泳がせているのが見かけられます。中にはマンションのベランダに、小さな鯉のぼりが垂れ下がっているのを見かけることもあります。大きなのは立てようにも立てられないし、かと言って我が子の無病息災と健やかな成長も願いたいし。
 その家の親御さんのそんな想いが伝わってくるようで、思わずほほえましくなる光景です。

 (大場光太郎・記)

 (追記) 本記事とは関係ありませんが―。過日の『君なら蝶に』につき、野口芳信様より大変重要なご指摘をいただきました。私は折笠美秋について、大変な勘違いをしておりました。それは独断と偏見などでは済まされない、根本的誤謬です。ご指摘いただきました野口様には、あらためまして感謝申し上げます。
 このような、お恥ずかしい誤りを致しましたことを謹んでお詫び申し上げ、『君なら蝶に』をかなり加筆、訂正させていただきました。なにとぞご了承ください。

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開設満1年を迎えて

 本日4月29日をもちまして、当ブログ開設してより満1年を迎えました。あっという間に過ぎてしまった1年間という感じがします。しかしこの1年間には、実に感慨深いものがあります。その前の『二木紘三のうた物語』への4ヵ月ほどのコメント期間を含めまして、私としては大いに充実した月日でした。

 ささやかながら当ブログは、私がこの1年間をともかくも「生きてきた」という、確かな存在証明のようにも思われます。そもそも人間が生きるとは、外に向って何らかの自己表現をすることに他なりません。それは時として仕事の場であったり、日常生活であったり、趣味の世界であったりしますが。
 そしてその自己表現の形もこれまた千差万別です。顔の表情によるものだったり、口から発する声による会話だったり、手足による身振り手振りだったり、あるいは体全身を使ったパフォーマンスだったりと。いずれの表現方法であるにせよ、「好きこそものの上手なれ」で、その人にとってツボにはまった表現方法でなら、人は倦むことなく時にワクワクしながら、そのことに熱中出来るものです。

 私にとってのその表現方法とは、まさに「書くこと」でした。書くことは私にとって、(上手いか下手かは別として)唯一の取り得みたいなものです。これこそが諸事飽きっぽい私が、当ブログを1日1更新を心がけながら1年間続けてこられた一番の要因だったのかな?と思います。
 およそ自分のブログを持つことなど考えもしなかった私に、ブログ開設をお勧めいただいた二木紘三先生には、改めて深く感謝申し上げたいと存じます。

 開設した昨年4月29日の訪問者は、確かたったお一人でした。そのお一人とは二木先生だったかもしれません。それが月日の経過とともに、5人、10人、20人、30人…となり、1年を経過した今現在では、コンスタントに40~60人の1日訪問者数にまでなりました。
 当ブログのように、自分の思うこと感じたことをきちんとそれなりの文章のみで述べるタイプの、いわゆる「大人のブログ」は、今後とも爆発的訪問者数は見込めないと思います。
 私はそれで良いと思っています。本当に当ブログ記事を読みたいという方だけにご訪問いただいて、そのうちのたとえ少数の方だけにでも、私が言わんとしていることをお汲み取りいただければ。当ブログ運営者として、これに勝る喜びはありません。
 その点、開設と同時くらいにほぼ毎日のようにご訪問くださっておられます、れいこ様、碧野圭(あおの・けい)様には、特に深く感謝申し上げます。

 私は以前も申しましたとおり、開設当初は『そのうち自分の中のストックが尽きて、何も書くことがなくなっちゃうんじゃないの?』と心配しておりました。しかし何ごとも「必要は発明の母」と言うべきで、やはり必死になって探していると書くべきことは、その時々に私の頭の中にあるいは目の前にちゃんと現われてくるようです。そうして書き続けてきた結果、400余の記事となりました。
 出来得れば、私自身「宇宙的な水脈」にまで想いが到って、今後はそこから汲めども尽きない叡智の閃きを吸い上げられればなお良いのですが…。

 なお開設満1年を迎えて、当ブログ背景を季節柄『若葉』に変えました。これまでの『本を開いて』には愛着があり半年以上使用してきましたが、これで当ブログスタート時のテンプレートに戻ったわけです。今後しばらくはこの背景でいくことになろうかと思いますので、どうぞご了承ください。

 それでは当ブログ、また来年の4月29日を目指して、ただ今より心新たにリスタートしていきたいと思います。
 本当に変化の加速化が著しい「今この時」。向う1年間社会や私自身の身の上にどんなことが日々生起するのやら、全くもって予測がつきません。しかしその時々に起きる出来事や事象に、私なりの何らかの意味を探り出してみたり、また従前のように季節の移り変わりをたどってみたり、名詩・名句・名歌に私独自の解釈を試みたり、さらには遠き「あの日あの時」に想いを馳せてみたり…。その時々にまた気ままに記事を書き綴ってまいりたいと思います。
 当ブログ今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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記事数400越えました

 前回記事『王者と賢者』で、当ブログ開設以来の記事数が400に達しました。今月は既報のとおり私が満60歳を迎えた月ですが、当ブログにおきましてもこれも既報のとおり、今月日に総訪問者数1万人を越え、また29日は開設満1年を迎えるなど、何かと節目が多い月でもあります。

 この中には度々申し上げておりますとおり、開設当初全く記事のストックがないため、既に『二木紘三のうた物語』にコメントしていた文を二木先生に特別にお願い致し、幾つか当ブログに移させていただいたものも含まれます。また矢嶋武弘様、くまさん様より、折りにふれて記事にコメントいただいた中から秀逸な御文を特に当ブログ記事としてほぼそのまま公開したものも十幾つほどあります。
 しかしそれらを差し引きましても、370ほどの記事数になり、一日平均1更新以上となります。改めまして、我ながら『よくもまあ、飽きずに書き続けてこれたものよ』と驚いています。

 ただ先月あたりから、零細自営業者である私は、現下の厳しい経済状況のあおりをまともに受け、ために四苦八苦、日によっては記事更新がままならないこともあります。そのこと、どうぞご了承たまわりたいと存じます。
 「貧乏はこの世で最大の罪悪です」。ある人の言葉です。私は生来金銭的なことには本当に無頓着なまま、これまで通してきました。しかし今なら、この智恵の言葉の重みを少しは真剣に受け止められます。貧困の対極にある、真の意味での「豊かさ」とは一体何なのだろうか?私の今後の人生で追及していくべき、大きなテーマの一つだと思います。
 
 再三申し上げておりますとおり、当ブログは「検索」によるアクセスが極めて多いブログです。その時々の関心事や興味などにより、アクセスしてこられる記事は多岐に亘ります。最近では季節柄、開設当初記事の例えば『柿若葉』『クレマチス』『鯉のぼり』『風薫る』『みどりの季節』『みどりのそよ風』などへのアクセスがたまに見られるのは大変嬉しいことです。
 そんな中で特にアクセス検索の頻度が高い記事を10挙げれば、おおむね以下のとおりです。

   二木紘三のうた物語  (1)~(5)
   しあわせ少女  (1)~(4)
   天の数歌
   厚木市と♪夕焼け小焼け♪  (1)~(5)
   天皇家3代の御名考  (1)~(3)
   児玉神社参拝記  (1)、(2)
   2012年12月22日
   当家は平家の流れ !?  (1)、(2)
   千曲川旅情の歌
   秋風の辞

 なお今現在アクセスが最も多いのは、『レッドクリフ&三国志』『呂布と貂蝉』『レッドクリフpartⅡ』などのレッドクリフ物、そして『天地人』シリーズや時々の時事的な話題記事です。でもこれらは、ブームが去るとともにアクセスも減少しますので、上記から除外しました。
 驚くのは何といっても、『二木紘三のうた物語』シリーズへのアクセスの多さです。その(1)を公開しました昨年7月以降、ほぼ毎日といっていいくらい一人または複数人がこのシリーズのどれかにアクセスしてこられます。『うた物語』の愛好者の方は先刻ご承知のことと思いますが、その前身の『MIDI歌声喫茶』以来の総アクセス数は、何と1500万件をゆうに越えるというお化けのような驚異的ブログです。どなたかが「『うた物語』は今や国民的ブログである」というようなことを述べていましたが、当ブログへのアクセスからもその一端がうかがえます。
 そんな中、私が昨年前半『うた物語』にコメントしその後当ブログに移しました、『「赤い靴はいてた女の子の像」実見記』『雨―哀感ただよう童謡』『浜千鳥―この歌の哀しさの源泉とは?』などに今もってアクセスがあり、読み継がれていることも大変嬉しいことです。(『雨』は当ブログ記事として新たに作成したものでした。)

 以前、「言語 English」で定期的にご訪問される方のことに触れました。そこで以後、「アクセス解析」を興味をもってチェックしておりました。すると今度は、「言語 Chinese」「言語 Korean」などででもたまにアクセスがあることを発見しました。
 「Chinese」の方は、『偶成』や『秋風の辞』といった漢詩などへではなく、何と『桜の名句』シリーズに繰り返し訪問され、熱心にお読みになっておられました。また「Korean」の方は、例のWBC記事へのアクセスでした。
 こうしてみると当ブログも、北は北海道から南は沖縄までという国内的なものに止まらず、(国際的とはオーバーとしても)今や「東アジア的」にまで広がったのかな、と大変喜んでおります(大笑い)。

 先ほど述べました次第により、今後は更新の回数が少し減るかもしれません。しかし今後とも情熱はいささかも失うことなく、その時々に観て、感じて、想ったことを、私なりのユニークな視点から記事にしていきたいと存じます。

 (大場光太郎・記)

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王者と賢者

アレキサンダー大王とディオゲネス

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「ディオゲネスを訪れるアレキサンダー大王」 ニコラ=アンドレ・モンシオ  フランス ルーアン美術館

 アレキサンダー(ギリシャ読みではアレクサンドロス)大王は、漢の武帝、ジュリアス・シーザー、チンギス・カーン、ナポレオンなどと並んで、在世中にその領土を世界的版図にまで拡大した古代マケドニアの英雄です。
 しかし今回焦点を当てたいのはアレキサンダーの方ではなく、同時代の哲学者・ディオゲネスの方なのです。もちろんアレキサンダーほどには名前を知られていませんが…。

 ディオゲネス。紀元前412年?~紀元前323年。古代ギリシャの哲学者。両替商の子としてシノペに生まれたが、彼の父もしくは彼自身が通貨改鋳の罰を犯したため、国外追放となりました。

 ディオゲネスは、古代ギリシャの中心都市・アテネにやってくると、ソクラテスの弟子であったアンティステネスに弟子入りを志願しました。しかしアンティステネスは弟子を取る考えはなく再三入門を断られます。だが哲学を志すディオゲネスの意志は固く、我が国の高名な禅僧に修行者が入門したのと同じような粘りで、遂に師から弟子入りを認められます。

 彼は師の「徳」に対する思想を受け継ぎ、物質的快楽を全く求めず、粗末な上着のみを着て頭陀袋(ずだぶくろ)一つだけを持って、町外れの大きな樽(たる)の中で生活するという、ずっと後世のキリスト教の聖人・聖フランチェスコを彷彿(ほうふつ)とさせるような生き方に徹した人でした。(そのため彼は「樽の中の賢者」とも呼ばれました。)

 このディオゲネスは、かのアレキサンダー大王とただ一回だけ、接点をもったことがあります。古代ローマ時代に著された『プルターク英雄伝』にも出てくる、有名な故事です。
 ―アレキサンダーがオリエント(インド西部に及ぶ東方世界)征服の途中、アテネに立ち寄りました。アテネ中の名だたる人たちはこぞって、大王を表敬訪問しました。しかしただ一人ディオゲネスだけは挨拶に行きませんでした。「アテネに行ったらディオゲネスに会いたい」と日頃考えていたアレキサンダーは、わずかばかりの供の者を従えて自ら高名な哲学者に会いに行きました。

 その時大王と賢者(ディオゲネス)との間でどんな会話が交わされたのか、幾つかのバージョンがあってハッキリとは分かりません。そのうちの一つは、以下のようなものです。

 ディオゲネス   「あなたはどこへ行こうとしているのか?」
 アレキサンダー 「私は全世界を征服するためにインドに行くところだ」
 ディオゲネス   「その後で、あなたはどうするつもりなのか?」
 アレキサンダー 「それから私は休む」
 ディオゲネス   「あなたは狂っている。私は今休んでいる。しかし私は世界を征服しなかった。その必要があるとは思わないからだ。最後に休んでくつろぎたいのなら、なぜ今そうしないんだね?」

 アレキサンダーは元々、賢者の言に耳傾ける度量と素質を持っていました。ディオゲネスがその時どんなことを話したにせよ、とにかく大王は深い感銘を覚えました。そこで大王は賢者へのお礼として、「お望みのものは何なりと与えよう」と言いました。するとディオゲネスは意外なことを所望したのです。

 「大王よ。私はついさっきまで日光浴を楽しんでいたところだ。どうかそこをどいてくださらんか」

 ちょうどアレキサンダーは、樽の中で寝そべってるディオゲネスの正面に立っていたため、太陽を遮(さえぎ)るかたちになっていたのです。そこで大王は深々と一礼して、去って行ったそうです。そして帰路供の者に話したことには、「私がアレキサンダーでなければ、ディオゲネスになりたかった」。
                          *
 この故事は、多くの教訓を含んでいると思います。それはこれをお読みのお一人お一人にお考えいただくとして。以下で私の拙い考えを少し述べさせていただきます。

 当時の世界観でいけば、ほぼその全土を征服したアレキサンダー大王。その大王が、アテネの町外れの樽の中に居住する一人の哲学者を訪ねて行った。全世界を征服してもなお満たされない、我が心の内の飢えや虚しさや欠落を埋めたくて。
 そして、教えを傾聴したアレキサンダーは、ディオゲネスに深々と頭を下げた。これは「外的世界の征服者」である王者・アレキサンダーも、「心内の征服者」である賢者・ディオゲネスには敵(かな)わなかったということを指し示しているのではないでしようか?

   山中の賊を破るは易(やす)し。心中の賊を破るは難(かた)し。

 明代の陽明(ようめい)学の創始者・王陽明の有名な言葉です。ここで言う、最難関である心中の賊を破った者こそ、ディオゲネスだったと言えると思います。(この名言について、また「心中の賊」とは何を指すのかといったことについては、また別の機会に述べてみたいと思います。)

 片や全世界の所有欲に駆られ、賢者から「あなたは狂っている」と指摘されたアレキサンダー。片や必要最低限のものしか所有していないディオゲネス。我が国の今日的状況に引きつけてみれば、時の内閣総理大臣がさるホームレス男性に頭を垂れたような格好です。

 何という価値の転倒なのでしょう。現代人にはこれは単なるお話で、まともに受け止める人はほとんどいないことでしょう。しかし価値観が転倒しているのは、実は私たちの方であるのかもしれないのです。今を生きる私たちは、その多くが昔の王侯貴族のような生活レベルにあります。されど、「さてそれでは心の内は?」と深くのぞいてみると…。

 ディオゲネスは、地位、名誉、金銭、物質など、通常人にとって必要不可欠なものを何一つ所有していなくても、全く何の不自由も感じませんでした。不自由を感じないどころか、やせ我慢ではなく、心は常に至福で満たされていたと思われます。
 ディオゲネスは、仏教で説く「無一物中無尽蔵」の三昧(サマーディー)の境地に、真に到っていたのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

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草なぎ剛への(架空の)手紙

 既にご存知かと思いますが、本日23日人気アイドルグループ「SMAP」のメンバーの一人である草なぎ剛が、「公然わいせつ罪」で警視庁に逮捕されました。よって現在は留置場に身柄を収監中。いやそんな事態ではなくとも、私如き者の拙文が、草なぎ剛に届きそして読まれることなど金輪際ないことでしょう。
 しかし私はそれを百も承知で、彼に手紙を出したくなりました。そこで以下の一文は、「草なぎ剛への架空の手紙」として認(したた)めてみたものです。
 
                        *
 草なぎ剛君。君とはまったく縁もゆかりもない人間ながら、今回の君の事件が午前のニュースで流された時にはびっくりしたよ。
 私は君が所属するSMAPというグループは、実のところあまり好きではない。中井正広、キムタクなど「オレが、オレが…」の「我」の強い自己顕示欲の塊りのようなメンバーの集まりのようだと感じていたからだ。しかしそんな中で君は、他の者とは少し違って見えた。そんなに自己主張をしない、どちらかというと温和な好青年という印象が強かった。
 
 SMAPの仲間との活動や、君独自のテレビCM、地上デジタル放送の普及推進キャンペーンのメーンキャラクターなど、君の活躍の場面はいっそう広がり続けていた。しかし私が君を最も評価したいことは、実はそれらではなく、君が韓国語をマスターして、心底韓国を理解しようとしていたことだ。
 まだ筑紫哲也存命の頃、TBS『ニュース23』で前韓国大統領をスタジオに招いて、日韓関係を巡る諸問題を討論した生番組があった。その時君も出演して、流暢なハングル語で前大統領に的を得た質問をしていた。また最近では、地球環境保全の日韓キャンペーンで、韓国の人気女優、チェ・ジウと共演するなど、益々日韓友好の架け橋的活動もしていたそうだ。私はこの面で、SMAPの他のメンバーとは一味も二味も違う君を評価していたのだ。

 ところで君は、駆けつけて身柄を拘束しようとした警官に対して、叫んだそうじやないか。「裸だったら何が悪い!」。君はその時酒気帯び運転の約5倍ものアルコールにより、酩酊状態だったようだ。だからその言葉は、泥酔酔っ払いで無意識的に発した言葉で、全裸になったのもその延長線上のことだったのだろう。しかし私は、深夜の公園で全裸になったことも、大声で何をか叫んでいたことも、全部君の本心から出た行為だったのではないかと思う。
 昔私の友人で、私より二つほど若いのがいた。一緒に仲間と酒を飲んでいた時、その男がふと「オレは素っ裸になって町に飛び出したい衝動に駆られる時があるんだよ」と言った。もちろん君ほど酔っぱらってはいなくて、冷静にそう言ったのだ。彼はなかなかハンサムな上、筋骨逞しい男だった。私は思った。『何だコイツは。変な妄想抱きやがって』。
 しかし今なら違って考える。自分の肉体に自信を持っている若い奴は、そういう衝動を誰もが抱くのかもしれない。私の場合は虚弱体質で、とても人様に見せられる体ではなかったから、そう思わなかっただけで…。

 君は自慢の肉体をさらしたい無意識的願望を、ともかくもそういう形で実現した。凄いじゃないか! 常人だったら、例え泥酔していてもなお抑えてしまうタブーを、君はいとも簡単に破ったのだ。痛快この上ないではないか!
 しかしその結果は、この世の刑法という法律に触れて、
 同法第174条(公然わいせつ)
 公然とわいせつな行為をした者は、6ヶ月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
という刑事罰が待っている。多分君の場合は初犯だから、執行猶予付きでそんなに遠くなく保釈されるだろう。しかしそれでも世間的代償はとてつもなく大きい。芸能活動、テレビCM、地デジのメーンキャラクター…。君がこれまで営々として築き上げてきたことが、すべて水泡に帰してしまうことになるだろう。

 だが草なぎ剛君。君にとってそれで良かったのだよ。君は限度を超えて、何もかもを一身に背負い過ぎていた。「SMAP」のメンバーとしてその虚像を長いこと維持し続けること、地デジの「国民的」メーンキャラクターとしての役割等々。言ってみれば君はそんな「良い子ちゃん」を演じ続けることに、かなりのプレッシャーとストレスを感じていたんじゃないだろうか?その思いを君は必死で抑圧しながら、一生懸命良い子ちゃんを演じ続けて来た。しかしそれは地下のマグマのようにたまりにたまって、今回あのような形で一気に爆発したのだ。
 今留置所の中でしみじみ『大失敗だ』と思うと同時に、『いやこれで良かったんだ。これでやっと少しは楽になれる』という、相反した気持ちがないだろうか?

 君は実は何一つ失っちゃいない。失ったのは単なる外側の虚名だけで、そんなものは所詮幻(まぼろし)に過ぎないんだから。
 君はお見受けするところ、本当は物静かで内省的な人間なのではないだろうか。留置所は多分越し方を振り返り、内省をさらに深めるには格好の場所かもしれない。その場所でとことん問い直してもらいたい。『オレは本当に芸能活動に戻りたいのか?』と。もし本心から強く戻りたいなら、世間やファンがどう思おうと戻って、また一からやり直せばいい。
 しかし本心がまったく別の、例えば芸術の世界か公益活動か何かに進みたがっているんだったら、虚名などかなぐり捨てて、ゼロからその方向でやり直してもらいたい。
 いずれにしても、何の関係もない者ながら、君の真の再起を心よりお祈りしている。

 (大場光太郎・記)

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春だより(3)

   昼下がり小さき蝶の孤遊かな   (拙句) 

 きのうは久しぶりの春の雨。おととい20日は二十四節気の「穀雨(こくう)」でしたが、当日は曇天ながら雨は降らず、一日遅れの21日午後から穀物の生育を促す春の雨がけっこう降りしきりました。
 そして本日はうって変わっての晴天。暖かうららかな春の一日となりました。今のこの季節は植物特に道端や空き地の雑草が見る見る繁茂していく季節です。何週間か前は坊主頭のように短かった若草が、今ではもう20、30cmほどに丈を伸ばしています。そんな名もない草々に混じって、タンポポの小さな丸い黄色もずいぶん目立つようになりました。
 ことほどさように、春は自然界のもの皆の確かな再生の季節です。

 春夏秋冬が実にはっきりしている我が国で、人々はこのきちんきちんとした四季の巡りに、どれだけ深い影響を受けてきたか測り知れないものがあります。「雪月花」という日本的四季を表わす言葉もあります。おそらく日本人の民族性を醸成する上で、自然豊かな風土性は、決定的役割を果してきたのは間違いないと思われます。

 この季節はもちろん草々のみならず、多くの植物があっという間に繁茂する季節でもあります。家の庭先などでよく見かける柿の若葉も、日に日に黄緑色の葉を大きくして、日にやわらかく照り映えています。街の大通りの街路樹もとある道路のケヤキ並木も…。それぞれが若葉を豊かにしつつあります。

 私がよく通る近所の“水路道”には、藤の花がみごとに垂れ下がり、うす紫の高貴な色で今を盛りに咲き誇っています。
 いつか述べましたが、この道にあった大きな八重桜は先年根元から伐られ、道の先の方10mくらいは除草マットを敷かれたりと、ご多分に漏れずおエライ人間様の手によってさんざんな目にあっています。しかしともすると、中央のコンクリート部とマットの隙間からさえ、草は何とか少しでも地上に出んものと必死ではい出してきています。
 また八重桜はなくなったものの、なお小さな木は数本残っておりそれぞれが若葉で覆われて、わずかばかりの緑陰を作っています。びっしり住宅が建て込んだ中では、ちょっとした小自然の趣きで、モンシロチョウがゆらゆら飛翔していたり、小鳥たちさえ集まっては耳に心地良い囀りをしきりに交わしたりしています。

 ところで当厚木市の「市の花」は「皐月(さつき)」です。よそ者である私にはその由来はよくは分かりませんが、昔から当地の野山にはさつきが多く自生していたからなのでしょうか。
 そのため厚木市内の道路沿いの植え込みや一般家庭の生垣などにも、さつきがよく植えられています。そしてさつきも、今を盛りに咲いているのです。赤やピンクや白と色とりどりのさつきが、びつしりと生えた葉に負けないくらいいっぱいに咲き誇っているのを眺めて通るのも、なかなか乙なものです。

    吹けそよそよ吹け 春風よ
    吹け春風 吹け柳の糸に
     吹けよ吹け 春風よ
     やよ春風吹け そよそよ吹けよ
           
        (『春風』1番 歌詞:加藤義清 作曲:フォスター)

 爽やかな春風に吹かれながら街を歩いていると、昔習った『春風』が思わず知らず口をついて出てきます。(太字クリックで、mp3演奏が楽しめます。)
 そういえば街行く人たちの装いも、だいぶカラフルで軽装になりました。中には、夏の季語である日傘をさして歩くご婦人たちの姿も早や見受けられる、きょうこの頃です。

 (大場光太郎・記)         

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天使の歌声

 つい最近テレビなどで報道されていますから、既にご存知の方も多いかと思います。イギリスのある女性の歌声が世界中で絶賛され、今や「現代のシンデレラ」と大評判を呼んでいるようです。
 まるで天使のような歌声の持ち主は、スーザン・ボイル(Susan Boyle)さん(47歳)。スコットランドの(それまでは)無名の独身女性です。ことの発端は、今月11日に放映されたイギリスのオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント(Britains God Talent)」に一人の歌い手としてステージに登場したことから始まります。

 ステージ上のボイルさんは、あか抜けないおよそ晴れ舞台には似つかわしくないような中年女性にしか見えませんでした。そのためステージに立つ(歌う前の)彼女への男性審査員の質問も、おちょくったような辛口なものでした。それに対して少しぎこちないながらも胆が据わった彼女の受け答えに、会場びっしりに埋め尽くされた聴衆が失笑する場面もありました。

 だがしかし。ボイルさんがミュージカル「レ・ミゼラブル」の名曲『夢やぶれて(I Dreamed a Dream)』を歌い出した途端、会場の雰囲気は一変します。審査員たちの顔から冷ややかで皮肉っぽい表情が消え、何かに撃たれたように見る見る驚愕の表情に変わりました。
 それと共に、歌う前は彼女の敵のようだった聴衆たちも、彼女が『夢やぶれて』を歌い進むほどにうっとり聞きほれ、時に狂喜してスタンディング・オベーション状態。誰もがその歌声に魅了されていきました。
 そして歌い終わるや、会場全体から割れんばかりの拍手大喝采。さきほどは辛辣を極めた3人の審査員も、全員がノー文句の「イエス!」「イエス!」「イエス!」。同番組でかつてない高評価を与えました。その中の最年長の男性審査員は、「審査員を3年間つとめて来たが、こんなに驚いたのは初めて。あなたが目標とする歌手として(ミュージカル歌手の)エイリン・ペイジと言った時、皆笑い飛ばした。でももう笑い飛ばす者など誰もいない。言葉にならない。ショックだ」というような絶賛の言葉が与えられました。

 このオーディション番組は、イギリス中で30%以上を誇る高視聴率番組だそうです。ですからそんな番組で歌が歌えて、審査員から最高の評価を与えられ、全国に放映されるだけでも大成功というべきです。
 しかし、彼女の成功はそれのみにとどまりませんでした。そのステージのもようが4月11日に動画投稿サイト・YouTubeで全世界に配信されるや、何と短時日のうちに3,500万回以上も視聴されたというのです。これには外国のメディアも注目し、こうして日本の私たちもボイルさんを知ることが出来たわけです。
 以来彼女の自宅には国内外のメディアが連日押しかけ、さらには既にレコード会社からCD発売などの具体的な契約の話や、テレビなどへの出演依頼も殺到しているそうです。歌った歌は「夢やぶれて」だったのに、まるで「夢が奇跡に」です。

 地元メディアによりますと、ボイルさんは政府助成の公営住宅にペグルスという猫と暮らしていて、定職は持たず普段は教会のボランティアをしているそうです。ここ数年は母親の介護に追われ、その母親が最近死去しました。
 これまで大勢の前で歌を披露したことはなく、教会で歌い続けていただけでした。その母親から生前、「あなたは歌がうまいんだから、挑戦してみなさい」と励まされ、同番組に出ることにしたようです。しかし12歳から歌のレッスンをしていて、彼女自身会場入り直前のインタビューで「大観衆の前で歌いたいとずっと思っていました」「観客の心を掴んでみせます」と答えていましたから、確かな自信があったのでしょう。

 「現代のシンデレラ」とは言いつつも、ボイルさんはお世辞にも美人とは言えない少し太り気味の中年女性です。しかし彼女がひとたび歌い始めるや否や、声量豊かでクリアーな澄んだ歌声で、本当に「天使の歌声」のようです。ボイルさんは、「現代社会は人を見かけで判断しすぎる」と、英紙に話したそうです。
 大女優のデミ・ムーアは、「彼女の歌を聴いて涙がとめどなく流れて仕方なかったわ」と語ったとか。私もテレビで2度、3度と紹介されるに及んで、さすがにくだんのYouTubeをのぞいてみました。いやぁ、凄い ! 本当に聴きほれてしまいました。その歌声を少し聴いただけで、なぜか涙がぼろぼろこぼれてきました。
 「すべての芸術は音楽に憧れる」というような西洋の誰かの言葉があったかと思います。確かに美しい歌声や美しい調べというものは、人の心の奥深くに直接届いて、心の琴線を激しく揺さぶるもののようです。

 私たちは誰しもが、無数の切断面を持つ巨大なダイヤモンドの一つの輝きのようなものです。スーザン・ボイルさんにとって、その輝きとは類い稀れな美声でした。しかし別の人にとっての輝きは、多分それとは違うことでしょう。
 自分だけの輝き(それは「才能」と言い換えてもいい)を既に見つけた人、まだ見つけられず眠ったままの人。さまざまでしょうが、他人とは異なった「ユニークな才能」は必ずあるはずです。その独自の輝きを見出すプロセスこそが、人生という時空の旅の主目的の一つだと思います。
 たとえボイルさんのような、世界的スターダムに一気に駆け上る奇跡的なものでなくとも。願わくば、私たちは独自の才能を開発・発揮して、自分なりに少しでも「世の中の光明化」のお手伝いをしていきたいものです。

 (追記) YouTubeには、スーザン・ボイルさんのステージのもようを、現在3、4バージョンくらい配信しています。今回その中の一つを紹介しようと試みましたが、どうもうまくいきません。「スーザン・ボイル」などで検索して、是非一度その歌声を聴いてみてください。

 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(9)

 今回(第16回)の『天地人』は「信玄の娘」。御館の乱で上杉景虎(玉山鉄二)を破った上杉景勝(北村一輝)が、武田信玄の娘(武田勝頼の妹)である菊姫を妻に迎える話が中心でした。前回自害して果てた景勝の妹・華姫(相武紗季)に代わって、菊姫登場という感じです。
 菊姫を演じているのは、比嘉愛未(ひが・まなみ-22歳)で沖縄県出身。菊姫を演じるに当たって、廊下の歩き方や曲がり方、身分によって頭の角度が違ったとされるお辞儀の仕方など、予め“お姫様修行”をしてから撮影に臨んだそうです。
 
 今後ドラマに頻繁に登場するのでしょうから、その菊姫について少し―。
 永禄6年(1563年)武田信玄の六女として生まれました。母は油川信守の娘で信玄の側室となった人でした。天正7年の御館の乱の折り締結された甲越同盟の、武田家と上杉家の同盟の証として同年景勝に嫁ぎました。戦国の世で頻繁に行われていた政略結婚だったわけです。それまで20余年間も敵国同士だったわけですから、いざ嫁ぎ先の越後に向う時はさながら戦いに赴く時のような行列だったと、今回最後の天地人紀行のナレーターで触れていました。その時菊姫16歳。(それより以降につきましては、後はドラマで。)
  
 御館の乱で折角盛り上がて面白くなってきたぞと思ったのに。乱が収束して平時に戻った途端、またつまらなくなってしまいました。
 以前も触れたかもしれませんが、直江兼続(妻夫木聡)の生涯そのものが、特に前半生はあまりよく分かっていないようです。そういう人物を主人公にして、一年分の大河ドラマに仕立て上げようとするとどうしても無理があり、戦国物に名を借りた創作ドラマ(つまり作り話)になってしまうからなのでしょう。
 上杉藩に少しは縁のある私などは、それだったら直江兼続物は半年にして、後の半年で上杉鷹山公の生涯をドラマ化してよ、と言いたくなります。

 今回特に「くさいお芝居」と思ってしまったのが、次のシーンです。
 ―景勝と菊姫の仲を案じた兼続は、仙桃院(高島礼子)に菊姫に会ってほしいと願い出る。仙桃院と菊姫が話しているとき、兼続が現われ、菊姫に見せたいものがあると執拗に言う。それは越後に春の訪れを告げる雪割草であった。兼続はこの花のように心を開いてほしいと菊姫に懇願、菊姫も打ち解けるようになる。(NHK天地人ホームページ・あらすじより)
 この中のお屋敷の庭の雪の間から花を咲かせた雪割草を、仙桃院、菊姫、兼続などが見守り互いに心にある思いを語り合うシーンです。演出・脚本では、それが今回の見せ場の一つだったのでしょうが、いかにも絵空事のお芝居然としていて、率直に「おもしろくない」と思いました。

 ところで最近「ココログニュース」で、『天地人』が取り上げられていました。そのタイトルは、 ブロガー唖然!?『天地人』 というものです。その内容は、ざっと以下のとおりです。
 ―滑り出しは去年の『篤姫』に迫る勢いだった視聴率も徐々に低下(第13回以降20%以下)、ブロガーの間でも辻褄の合わない展開や,リアリティを欠いた映像に不満の声が起こり始めた。御館の乱は、当時多大な犠牲を払った激戦といわれるが、戦闘シーンがほとんどなく「戦っているのは兼続とその仲間たちだけだ」「なんだか話し合いで片付いた」「他に重鎮がいるのに、19歳の主人公の言うとおりに事が運ぶ」など唖然としたブロガーは多いようだ。本来登場すべき重要人物を割愛するなど、史実に反した描き方にも批判の声があがる。(以下省略)

 私はそれまでの『天地人』に比して、数回にわたった御館の乱はまあ面白かったと思いましたが、私などよりもっとシビアにチェックして観ていたブロガーも多かったということなのでしょう。確かに上記した「雪割草のシーン」などは、リアリティを欠くこと甚だしいと思います。また織田信長(吉川晃司)の傍らに、常に架空の女忍・初音(長澤まさみ)がいるのは、史実に反した描き方の極みというべきでしょう。
 問題はNHKの番組制作局のドラマ作りの姿勢にあるのか、監督にあるのか、脚本・演出にあるのか分かりませんが、今年の『天地人』は少々欠陥ドラマであるように思われてなりません。今後ともあまり過大な期待を寄せることなく、それでも少しでも「おもしろい」内容にと、一視聴者として願うばかりです。

 (大場光太郎・記)

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満60歳を迎えて

 私は本日4月19日をもって満60歳を迎えました。ということは、私は昭和24年(1949年)4月19日の生まれということです。昔ながらの我が国の呼称で言えば、還暦を迎えたということになります。
 外見はどのように変化しようとも、通常人様にさらしている我が容姿を自分では確かめようがないことをいいことに、私は30代はおろか40過ぎても50代になっても、そして今の今も『オレは若い!』という感覚が抜けないのです。還暦を迎えた人間が、青くさく大変お恥ずかしいながら…。

 と、一般的なお話はこれまでにさせていただいて。本日は私にとって、この世に生を享けて約21,915日(つまり年換算で満60年)が経過した特別の日です。こんな日には、私が肝心要と考えていることを述べさせていただきたいと存じます。これまでも折りにふれて述べさせていただいたことです。それによって皆様だいぶ免疫が出来たと推察致しますので、またまたご寛恕のほどよろしくお願い申し上げます。
                       *
 おそらく私だけが感じていることではないでしょう。来し方の60年を振り返ってみますと、私如き者は波乱万丈などというのはおこがましいとしても、確かに波乱百丈くらいの大波小波の人生だったかと思います。それはまるでこの人生だけで、数回もしくは十数回の人生をまとめていっぺんに生きてしまったな、という感慨を深くするのです。
 変化の加速度の著しい「今この時」は、まさにそうなのです。あたかもジェットコースターに乗っているような、上り下り、良い目悪い目、さまざまなことが日々瞬々押し寄せてくる強烈さです。(但し「カルマ-霊的借金」が少なくなればなるほど、ただただ「喜び」の状況だけが訪れてくるようです。)
 有史以来稀に見る激動のこの時代こそ、己が魂を鍛え飛躍的に進化向上させられるまたとない「チャンスの時」なのです。それゆえ、従前から地球世界に長く縁して来た魂は言うに及ばす、全宇宙から魂たちが自ら志願して「今この時の地球」に生まれんものと殺到してきているのです。

 確か前世紀初頭の世界人口は3億人ほど。それが今現在では65億人と幾何級数的な上昇率です。以上に述べたことが、この人口爆発の最大要因なのです。それでも生まれたくても生まれられない魂たちが、現人口の何十倍、何百倍もいると言われています。それを思えば仏教で説く「人身得がたし」は、今この時の真実の言葉です。
 私たちは難儀この上ない世界での日々の対応に手一杯で、表面意識ではすっかり忘れ中にはあらぬ方向に突っ走って行く人もいますが、「今この時」が地球史の中でどれほど重要な時か、心の内奥(ないおう)では一人の例外もなく知っているようです。
                       *
 ところで、西洋占星術で私の生年月日における宮(星座)は牡羊座です。牡羊座の特質などはさておくとして、もう少し詳しく私のホロスコープ(出生天宮図)を見てみますと、「牡羊座の29度」です。
 占星術に詳しい人ならご存知でしょうが、牡羊座30度すなわち牡牛座0度が、12宮における出発点となります。本来は「叡智の学問」である占星学では、そこを起点としてスタートした魂が生き変わり死に変わりして、12宮を順々に一巡する(つまり全12宮360度を巡る)ごとに、一つの大きなスパイラル(螺旋)的進化を遂げていくと解釈するのです。
 そうしますと、私の場合の「牡羊座29度」は、起点からスタートして359度目、今生は一大進化のサイクルの仕上に当たる人生と見ることが出来ます。(だからと言って、他の人より優れているということではありません。通常の人より1、2周遅れのサイクルのゴール目前ということもあり得るからです。)

 とにかく私の場合、今生が大きなサイクルの完成期であることは間違いないようです。私の60年の歳月を振り返ってみますと、確かに人様より苛酷な条件で生まれ育って生きて来たかな?と思われないでもありません。
 60年という膨大な時間経過の中で、この世の日常という絶好の「魂(たま)磨き」の場で、私という生命体がいかなるものであるかを鏡のように映し出してくれる、私を取り巻く時々の状況をどれだけ真摯に受け止めてこられたか。日々の課題をどれだけクリアーしてこられたのか。どれだけ感謝出来ていたか。
 未熟さゆえに、時々に出会った人や状況を恨んだり、憎んだりしたことの方が多かったのではないだろうか。またけっこう適当にサボタージュしてきたのではないだろうか。『ずいぶんとしくじってきたよな』というのが、偽らざる実感です。
                        
 人様のことはいざ知らず。私自身は今生が、この地球世界で超太古から重ねてきた「転生の最後の時」と心得ております。後数年以内に迫った「人類共通の大卒業試験」を無事クリアー出来れば、その後は「かなり長く」この肉体のまま真新しい地球世界にとどまれることでしょう。
 しかしもしクリアー出来なければ、従前の地球と同等もしくはそれ以下のどこか遠い星系の惑星でやり残したレッスンを継続することになるでしょう。しかしその場合でも、地球転生で培った経験は決して無駄にはならず、魂の財産としてそのまま引き継がれていくことでしょう。そしてそれは、かの星の住人たちの賞賛と羨望の的となるほどのものであることでしょう。
                        *
 話は変わりますが―。満60歳にして私は、今の今まで、本当に為すべきことは何一つ為してこなかったという感を深く致します。「無知な者」が為すことは、およそ的外れで道から逸れた、周囲との調和を乱す有害な行為が多いからです。
   「あなたの人生は今始まったばかりです。」(ある存在からのメッセージ)
 私にとっては今ここからが、新たなリスタートです。為すべきこと、いな為さねばならないことはたくさんあります。とても、老いやリタイアなど受け入れている場合ではありません。

 「今この時」はどう考えても、人類という種全体が進化のステージを何段階か上昇すべき時です。もしそうでなければ、人類の未来はないと思われるからです。
 「進化のステージアップ」のためには、有史以来数千年で築き上げてこの社会の隅々まで張り巡らされている「誤てる信念体系の打破」ということも含まれます。政治、経済、宗教、教育、文化、軍事、法律、医療…。実は各分野でそれはどっさりあります。
 
 その中で例えば「人間は加齢とともに年を取り、身心ともに衰え老化して死んでいく。これは各個人ではいかんともし難い必然的なプロセスなのだ」という、人類誰しもの強固な思い込みが挙げられます。「いや、断じてそんなことはない!」と、各自がもう主張してもいい時なのです。
 それは「アンチエージング」などという消極的なものではなく、本来神の子である人間は、自分の生きたいだけの年数を「自分で」自由に設定出来、何百年でも自分の意図によってこの地上でいつまでも若々しい姿で生きられるはずなのです。それを示すあるメッセージを以下にご紹介します。

 …いまや4次元(注 地球のエーテル界がそうなったということで、物質界が4次元になるのにはタイムラグがあります)にいるあなたがたは、そうなりたいと思う肉体年齢を意識的に選び、その年齢の健康や活力を味わうチャンスを手にしています。地球がさらに高い振動数に入ると、肉体をもったまま次の5次元に行くこともできます。
 肉体の不死性というこの概念を聞いて、あなたはこう言うかもしれません。
 「私のこの身体をずっと保てると言うのですか?」―そうです。
 「何てこった。だったらもっと身体を大事にしないと!」―そう、そのとおりです。
 「本当に?」―本当です。
                    (出典は伏せておきます)

 私にとって、60歳になったから「オジイチャン」「老人」などはとんでもありません。自分でそう思ったり話したり書いたりするのは、今後とも極力避けようと思っています。還暦祝いの「赤いちゃんちゃんこ」などもっての外です。何せ私のセルフイメージは、私が最も調子が良かった30代前半に設定しているつもりなのですから。

 地球世界はつくづく不思議に満ちています。これまでの濃密で粗雑な世界にあってさえ、ごく少数の人々はその濃密さ鈍重さから脱して、常人には信じられないほどの長寿を享受し得た人が実際に存在するのです。
 私自身実のところ「人間は老いて死すべき存在」という先祖代々のDNAレベルの遺伝情報から開放されたわけではありません。しかし私が真っ先に目標としたい人物とは、そのような方々です。今後とも、「若返り」は可能であると本気で信じていきたいと思います。またいつの日か、それらの方々をご紹介出来ればと思います。

 (大場光太郎・記) 
        

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『天地人』について(8)

 「御館の乱」の続き

 御館(おたて)を中心とする越後府中内を、焦土と化すような激しい戦闘を繰返してもまだ決着はつきません。そこで自軍の形勢を有利に運ぼうと、上杉景勝(北村一輝)上杉景虎(玉山鉄二)双方とも、周辺諸国との同盟工作を展開していくことになります。

 景虎は実家筋である小田原北条氏や甲斐の武田氏の他に、会津の蘆名盛氏にも助勢を要請、この時点では戦局は景虎方に有利に展開していました。
 三方から攻められて形勢不利になった景勝は、武田勝頼(市川笑也)に「武田が充分に潤うほどの金額の黄金」と、上田沼田の武田領有そして景勝・武田の同盟を提案して和議を申し入れました。長篠の戦(天正3年-1575年旧暦5月21日)で信長・家康連合軍に惨敗し、その後も出兵に次ぐ出兵で金欠に苦しんでいた勝頼には、莫大な収入はまたとない吉報でした。その上北条氏政の動きが遅いことや、徳川家康の圧迫が大きくなっていたこともあり、景勝方との同盟を受け入れました。(今回の乱には直接関係ないものの、結果的に勝頼のこの判断が、勝頼自身ひいては武田家の滅亡という運命を半ば決めてしまうことになりました。)

 甲斐の武田を金の力で封じ込めた景勝は、背後を気にする必要がなくなりました。こうして景勝方は勢いを取り戻し、中越地方の景虎方の諸城への圧迫を強めていくことになります。
 旧暦9月に入ると、景虎の実兄である北条氏政がようやく本腰となり、越後に向って進軍を開始。小田原北条勢は三国(みくに)峠を越えて、坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手します。しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢はわずかな軍を残して撤退していきました。
 旧10月に入ると景虎方では御館をはじめとして、兵糧の窮乏が相次ぐようになりました。

 外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の収束を決心。一方景虎方は、味方の相次ぐ離反や落城を止めることができず窮状に陥りました。
 旧2月1日、景勝は配下の諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じます。早くも北条景広を討ち取るなどして、方々に火を放ちました。
 小田原北条勢の橋頭堡(きょうとうほ)であった樺沢城も景勝方に奪回されました。雪に阻まれて北条からの救援も望めず、3月17日には(謙信の養父でもあった)上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害されてしまいました。
 御館は放火され落城し、景虎は御館を脱出して小田原北条氏を頼って逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主・堀江宗親に攻められ、旧3月27日に自害して果てました。
 
 かくて越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりました。しかし乱の余燼はくすぶり続け、なお抵抗を続ける豪族たちもおりそれらを攻めて最終的に乱が収束したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことでした。
 乱は景勝の勝利に帰しましたが、深刻な負の影響も残しました。まず、血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、織田信長(吉川晃司)などの周辺強豪勢力からの軍事的侵攻に苦慮することになりました。

 また乱は、恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらしました。
 恩賞は景勝の権力基盤である坂戸城を中心とした「上田衆」に多く与えられ、これに不満を持った新発田重家が蘆名盛氏や織田信長に通じて反乱を起こしました。これを鎮圧するのに6年もの歳月を要しました。また、恩賞を巡るトラブルで直江信綱や安田顕元らが非業の死を遂げました。
 なお直江信綱の死によって、樋口兼続(妻夫木聡)は景勝の命により跡継ぎのいなかった直江家を継ぎ、以来「直江兼続」を名乗ることになるのです。  ― 御館の乱・完 ―

 (大場光太郎・記)

 (追記) 本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「御館の乱」その他を参考にまとめました。  

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『天地人』について(7)

 『天地人』今回(第15回)の「御館落城」は、大変良かったと思います。第1回以来の大きな感銘を覚えました。ただ第1回の子役・加藤清史郎君といい今回といい、脇役の演技により盛り上がったのであり、肝心の主役直江兼続役の妻夫木聡の吸引力によるものでないことは、大変残念です。
 
 上杉景虎を演じた玉山鉄二は、景虎の死をもって『天地人』における今後の出番はないことになります。しかし印象的な、悲運の武将としての景虎役を好演、熱演したことにより、玉山鉄二は役者としての株を一気に上げたのではないでしょうか?既に自害した妻・華姫(相武紗季)の遺骸を抱いて、静かに死地に赴く場面など、近松門左衛門の人形浄瑠璃に見られる死出の旅を彷彿とさせる演出でした。一歩去り行くごとに、その身の丈はより大きくなっていく…。
                         
 今回は、上杉家最大の危機であった「御館の乱」をより理解するため、脚本、演出を交えたドラマではない、歴史的事実に沿った経過を以下に述べてみたいと思います。
                                        *
 御館の乱とは、天正6年(1578年)旧暦3月13日上杉謙信(演じたのは阿部寛)の急死後、その家督を巡る上杉景勝(北村一輝)と上杉景虎(玉山鉄二)との間で起こった内乱です。後継者争いは死の直後から小規模ながら勃発し、一級資料による正確な日付は不明であるものの、景勝は謙信死後素早く春日山城の本丸を押さえたものと推定されています。
 この先手必勝により金蔵、兵器庫を接収し、緒戦の勝敗は決しました。景勝方が手に入れた財産は金3万両、謙信が蓄えていた軍資金でした。
 次いで景勝は、3月24日付け書状において、国内外に向けて後継者となったことを宣言し、三の丸に立て籠もっていた景虎方への攻撃を開始しました。そのため景虎軍は春日山城を脱出し、前関東管領・上杉憲政が居住する「御館(おたて)」に立て籠もりました。

 こうしてどちらが越後国主にふさわしいかの、全面戦争は必至となりました。旧5月5日春日山城下の大場(現上越市)において景勝方と景虎方が激突しました。「御館の乱」の始まりです。領内の豪族は真っ二つに分かれました。中には様子見の豪族もいました。
 御館は上杉憲政の住居であるとともに、一時謙信が政庁として使用した所でもありました。御館を中心とした地域が、越後府中で、越後における政治、文化の中心地でした。

 とにかく負ければ景勝にしても景虎にしても、どちらかが命を絶つしかない凄まじい内乱です。そんな極限状態では「義だ愛だ」などというキレイ事を言っている場合ではありません。いかなる手段を使ってでも勝つしかありません。
 そのため5月16日には、景虎方が春日山城下の春日町に火をかけ3000軒を焼き払い、また6月11日には府内で戦闘が繰り広げられ、今度は景勝方が御館の南に広がる6000軒を焼き払いました。こうして府中は完全に焦土と化したのです。  (御館の乱―以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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ご報告致します(6)

 去る4月14日(火)で、開設以来の総訪問者数が10,000人に達しました。前回の8,000人時点で申し上げましたが、開設1年目に当たります4月29日直前までにと考えておりましたので、それより少し早く到達できたこと、率直に嬉しく思います。いつものとおり、その内容の概要を以下にご報告申し上げます。なお以下の訪問者数は、私自身を除外した純訪問者数となっております。
 
(1)開設(‘08年4月29日)~‘09年4月14日(延べ日数-351日)
    訪問者合計    10,039 人
    日 平 均       28.6 人  
(2)過去30日分(3月16日~4月14日)
    訪問者合計     1,530 人
    日 平 均       51.0 人
(3)訪問者2,000人当り対比
    前回  40日で到達  (1月25日~3月5日)
    今回  41日で到達  (3月5日~4月14日)
    今回/前回比     1.02 
(4)開設~3月5日現在アクセス数
               16,400 件
    アクセス数/訪問者数比 (16,400÷10,039)
                 1.63件/人 

 訪問者総数1万人到達は、昨年秋頃からの一つの漠然とした目標でした。その頃は、もし仮に開設日にあたる4月29日の1日前の28日までにクリアーするとすれば、確か1日平均50人以上と、当時としては大変苦しいノルマ的な数字でした。そのためそれ以降、比較的訪問者を呼びそうな映画・テレビの話題または時事問題などの内容のものも記事として取り上げることにしました。
 例えば『レッドクリフ&三国志』『小室哲哉逮捕に思うこと』『K-20怪人二十面相・伝』『天地人』『おくりびと』『小沢代表秘書逮捕問題』など。そのつど70~90人くらい、時には100人超のアクセスが得られ、少しずつクリアーすべき数字は、45人、40人、35人…と、ハードルが低くなっていきました。はっきりとは覚えていないものの、3月初旬頃には31~32人くらいとなり、何となく達成できそうだという見通しが立ってきました。

 中には開設後ほんの何ヶ月もおかずに、1万人などあっという間にクリアーしてしまうブログもあることでしょう。特に1日のうちでブログに集中できる時間がたっぷり持てる、いわゆる「現代版・高等遊民」のようなブロガーは、その可能性が高くなることと思います。ブログのみならず、物事の成果は、その事に投入した時間的な努力量にある程度比例すると思われるからです。
 しかし高等遊民ならぬ「低級かつ部分的遊民」である私には、1日1回の記事更新が精一杯、最近はそれすらも滞りがちです。頭の中では、ブログ発展のためのいくらかのアイディアはあっても、なかなか実現化の時間がとれないのが実情です。そんな中で1年弱で1万人の訪問総数。私としては『よくやった!』と率直に思います。

 数多(あまた)おられるブロガーの中には、訪問者数などさほど気にならないという方もおられることでしょう。これはプログに関して以前述べましたとおり、ブロガーとしての基本的マナーさえ弁えていれば、それ以上の「ブログはかくあるべし」というような定理はおよそ存在しないでしょうし、ブログそのものが各ブロガーの自由な(もっとぶっちゃけて言えば、勝手気ままな)表現媒体であるはずですから、その意味でも各人各様ということで良いのだと思います。
 ただ私の場合は当初から、「訪問者数」にはとにかくこだわり、気にもなりまた励みにもなってきした。折角ブログを開設した以上は、出来るだけ多くの方にご訪問いただき、当ブログ記事をお読みいただきたいと思う次第です。

 開設当初は、1日平均30人以上の人がコンスタントに訪問してくれるようになれば、当ブログも離陸のし始めかなと考えておりました。ここ2、3カ月の平均訪問者数から判断しますと、もうそのレベルには達したのかなと思わないでもありません。しかし人間とは欲の深いものでして、今現在では『ホントに離陸したといえるのかなあ。まだまだダメじゃないの』と思えてくるから奇妙なものです。「これで満足」ということがないようです。
 日々の記事内容によって訪問者数はいとも簡単に変動します。しかし最近の平均が50人強ということはそれくらいが、今現在の当ブログの偽らざる実力ということなのでしょう。
 これを今後は確実に70人、80人…、そしていつの日か100人/日にしていければと、希望的観測も交えて考えております。1日100人×365日=36,500人。1年間で36,500人?いやぁ、とんでもない大目標だ !
 
 今回は「訪問者数」にとことんこだわりました。とにかく、訪問者の得やすい記事であろうとなかろうと。「自分として今ここでどうしてもこれだけは述べておきたい」という基本姿勢を崩すことなく、今後ともしっかりした内容の記事作りを心がけてまいりたいと存じます。
 なお次回は、まただいぶ間延びするかもしれませが、15,000人到達時点でのご報告とさせていただきます。当ブログ、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

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さわらびの萌え出ずる春

                             志貴皇子

  石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 志貴皇子(しきのみこ) 天智天皇7年(668年)~霊亀2年(716年)。飛鳥(あすか)時代末期から奈良時代初期にかけての皇族。父は天智天皇、母は越道君伊羅都売(こしみちのきみのいらつめ)。壬申(じんしん)の乱―天武天皇元年(672年)に起こった日本古代最大の内乱―後、天武天皇皇統が皇位を継承することとなったため、天智天皇系皇族だった皇子は、皇位継承とはまったく無縁。政治よりも和歌等文化の道に生きた人生だった。薨去後の宝亀元年(770年)、春日宮御宇天皇の追尊を受け、その系統は現在までも続くこととなった。御陵所の奈良市田原「田原西陵」にちなんで田原天皇とも称される。清澄で自然観察に優れた歌人として、万葉集に六首の歌を残している。 (フリー百科事典『ウィキペディア』の「志貴皇子」の項より)

 まずオーソドックスな解釈として―。
 「石(いわ)走る」は「垂水(たるみ)」にかかる枕詞(まくらことば)であるようです。そして垂水とは、「摂津の国(現在の大阪市、神戸市などを含む地域)垂水」という具体的な地名とされています。うららかな春のある日、皇子はかの地に赴き、実際に目にした情景をそのまま詠まれたものと言われています。垂水とは一般的には滝のことで、その地に名滝があったためその名がつけられたとのこと。
 しかしそんな背景を知らない私は、それとは少し違った解釈をしてみたくなります。
 
 雪解(ゆきげ)の頃から、冬中山に降り積もった雪が徐々に溶け始めます。その多くは地表を流下していきますが、一部の雪解水は山肌に沁み込んで伏流水となり春の盛りの頃になっても、山裾の小岩の割れ目などから歓喜のように地表に踊り出してきます。だから、垂水はかの地の名滝でもなく、山は耳成山(みみなしやま)、畝傍山(うねびやま)、天香具山(あめのかぐやま)といった「大和三山」のような名だたる山にあるものでなくてもいい、ごく普通の小山の情景でいいのです。
 私たちもちょうど今頃の季節、そんな小山の山道を散策していると、道上の小岩による小さな窪みから清水が迸(ほとばし)っているのを目の当たりにすることがあります。振り仰ぐと岩の上に、初々しい早蕨(さわらび)がヒョロンと萌え出ている―私自身の郷里での思い出から、そんな情景が思い浮かんでくるのです。また大滝の上よりも、2、3m高いくらいの所に生えているわらびの方が、目視にはちょうどいいように思われます。

 この歌の背景がどこであろうとも。「石走る垂水の上のさわらびの」は、迸る春の清水のように、何のよどみもない滑らかなリズムです。そして「萌え出ずる春になりにけるかも」と、一気に詠み切ってしまいます。
 あたかもさわらびが天に向って一直線に伸びていくように、そこにはおよそ何の屈託も屈折も悲哀の影もありはしません。春を感じさせてくれる事物を目のあたりにした、ただただ単純素朴な感動、感嘆があるのみです。まさに、「春の賛歌」そのものとも言うべき名歌だと思います。
 
 この歌の勢いと漲る清純の気から、皇子の若い時の歌ではないかと推察されます。壬申の乱などという上古最大の騒乱が、人間界に起ころうと起こるまいと。自然の四季のサイクルはきちんきちんと巡り来て、容易なことでは人間たちに順を乱されたりは致しません。(もし大きく乱されているとするならば、よくよく深刻な異常事態だと私たちは気がつかなければなりません。)

 (大場光太郎・記)

 (追記) 今回から当ブログカテゴリーとして『和歌・短歌観賞』を新たに加えることに致しました。万葉集の秀歌から現代の俵万智の短歌あたりまで、例によって私の独断と偏見によります、ピックアップと解釈を試みていきたいと存じます。

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春だより(2)

    飛花落花ひとひらふたひらももち(百千)ひら   (拙句)

 今月に入って本当に春らしい暖かな日が続いています。そのため3月中はずいぶん足踏みしかけていた桜は一気に開花が進み、当厚木市では満開の桜の見頃は先週末。以後はピークを過ぎてにわかに散り急ぎ、日に日に地面に落花花びらの数が勝っていきました。落花とともに各枝には葉が芽生え初め、残る花と萌える葉とがせめぎ合う様相で、近目にも遠目にも『あヽずいぶん花の色が褪せてきたなあ』と感じられてきました。
 そしてきのうきょうあたりは、もう残花はほとんどなく、すっかり葉桜の様相です。そんな時、地面に吹きだまる薄紅色の落花を見ては哀れ、手に取ってははらはらと手からこぼれて風に流されていくさまを見るのはさらに哀れを感じます。

 桜の花の咲き具合を、ほかの春の万物はじっと息を凝らして見守っていたかのようです。というのも、その落花し始めたのを見計らったように、野山の木々の芽吹きがさらに加速していくからです。いえ、野山だけではありません。街の家並みの生垣や各地の公園の木々や本厚木駅周辺の大通りの街路樹なども同様、瑞々しい若葉を一斉に芽吹かせます。それはまるで、新たに生まれた喜びをいっぱいに表現しているような初々しさです。

 それなのに2日ほど前、平塚市と秦野市の境の高台に位置する東海大学湘南キャンパス付近を目指して、車を走らせていた時のこと。富士山が麓近くまで、その秀麗な全容が眺められる場所を通りました。何と富士山は頂上から麓の方まで、未だ全山真っ白い雪化粧なのです。
 純白の雪に覆われた富士山と、ずっと手前の若葉に覆われはじめた野山との、何ともいえないコントラスト。アンバランスながら、いわく言いがたい感動を覚えつつ車を走らせていました。

 その手前の小田原厚木道路沿いには、けっこう田園風景が広がっています。その中には、一面がレンゲの花で覆い尽くされた田んぼも幾つか見られます。
 また近郊を走ってみますと、(どの地域もそうでしょうが)小川や小河川が多いものです。その土手や河川敷には真新しい若草が見られるのは当然として、土手沿いにも川中の両岸にも川の中ほどの土の部分にも、菜の花がけっこう咲き乱れているのが、あちあちで見られます。
 菜の花の種が風で運ばれ、そこここに自生することになったものなのでしょう。小河川における菜の花のまぶしい黄色が占める割合が、年々増えつつあるようです。

 川といえば例の中津川です。冬の間は大堰が開けられて細い流れでしたが、今はまた堰は閉められ、満々とした豊かな春の川となっています。それとともに正直なもので、幾多の小鳥、水鳥たちも戻ってきて、チチチチッ、ピーィピーィとあちこちで春の囀りが聞かれました。
 其の他当地では、既に10日ほど前に、モンシロチョウやツバメの姿も見られました。若草、葉桜、若葉山、菜の花、レンゲ草、初蝶、初つばめ…。もう盛春の条件は皆ことごとく揃ったな、と感じられる今日この頃です。

 (大場光太郎・記) 

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桜の名句(4)

               高屋 窓秋

    ちるさくら海あをければ海にちる

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 高屋窓秋(たかや・そうしゅう) 明治43年,名古屋市生まれ。法政大学卒業。昭和初年頃より俳句を始め、水原秋桜子(しゅうおうし)に師事。昭和8年「馬酔木(あしび)」の第一期同人となる。同10年、一旦俳句から離れる。12年に再開、いわゆる新興俳句の道を歩む。戦時中は満州に在住、戦後内地に帰還後は、しばしば中断を繰り返しながらも作句に携わり、今日に至る。句集『白い夏野』『河』『石の門』その他。平成11年没。  (講談社学芸文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 今さら何の注釈も必要ないような、極めて絵画的な落花の叙景句です。この句で描かれているのは、海のすぐ側の桜が盛りを過ぎて、花びらが海の方へ海の方へと散っている、ただそれだけです。

 海は具体的にどんなようすなのか、そこから桜の木まではどのくらいの距離なのか、そもそも桜の木はどんな状況でどんな具合に立っているのか、などということはすべて省略されています。俳句という世界一短い短詩においては、もともとそのような細かいことは叙述できないのです。ですからそれらのことについてはすべて、読み手のイマジネーションに委ねられているわけです。

 私は初めてこの句を読んだ時、海に接して切り立った崖の上に立つ桜の木がイメージされました。崖上の桜から落花花びらが止めどもなく崖下の青い海にはらはら散っている…。
 
 この句にあっては、二句目、三句目の「海あをければ海にちる」という発見が何と言っても秀逸です。そのさまはまるで、ピンク色をした落花のひとひらひとひらが、海の青さを恋い慕って寄っていくようなのです。この叙情性こそが、この句の生命線であるように思います。

 しかしこれは物理的、現実的法則には全く反した表現です。実際には、桜の花びらが海の方向に向って散っているのは、たまたま海風が凪いでいて逆に海の方に向って吹く陸風によるものに過ぎないからです。
 にも関わらず「海あをければ海にちる」は、立派な「真実」なのです。一体何の真実なのでしょう?それは「詩的真実」と言うべきものです。対して、陸の方から海へ向う風のため桜花びらは海の方に流されていただけなのだ、というのは「物理的真実」です。

 これまでこの社会で圧倒的優位を占めていたのが、物理的真実の方でした。この世では、この物理的真実による物事の捉え方が各分野で要求されてきたのであり、一方の詩的真実の方はそのためともすれば軽んじられ、時に異端視され、侮蔑、嘲笑されてきました。詩人、音楽家、画家といった特殊な人々によってのみ、辛うじて命脈を保ってきたのです。

 考えてもみてください。通常の経済活動におけるビジネスの真っ最中に「海あをければ海にちる」式のことを口走ろうものならどうなるかを。いっぺんで商談はご破算、そして言った当人は以後変人、狂人扱いされ、たちまち経済活動からスポイルされてしまうことでしょう。

 しかし今、多くの人々にとって生きる上での至上命題だった経済活動が、この未曾有の金融危機の中で瀕死の状態です。これは一体何を意味するのでしょう?「物理的真実」のみを追い求めて突っ走ると、必ずのっぴきならない大きな壁、限界にぶち当たるということなのではないでしょうか?かといって「詩的真実」追及オンリーだけでも、どんどん現実から遊離した、根無し草のような耽美的傾向に向うであろうことは明らかです。

 私たちは今、「物理的真実」と「詩的真実」とを絶妙にバランスさせながら生きる方途を、求められているのではないでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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続・回想の昭和34年4月10日

 以下はご成婚にまつわる、私自身のささやかな思い出です。

 当時は、山形県宮内町立母子寮の東寮の4号室が、母と私と妹3人の我が家に与えられた部屋でした。(八畳一間に玄関と押入れ付き。炊事場やトイレは共同。当時は風呂無し)。お隣の5号室は、Iさんという母親と子供3人が住んでいる家でした。隣同士ですから、子供の私などは特に、何かというとそれぞれの家を行ったり来たりする仲でした。Iさんの子供とは、私より三つ年上の男の子―私は年上なのに「N君」とクンづけで呼んでいました―と、私より一つ下の男の子、そして私より一つ上の女の子の3人です。
 その中でも三つ先輩である「N君」は当時から、実の弟以上に「コタロ君、コタロ君」と私を大変可愛がってくれました。そのN君は既に中学1年になっていて、当時新聞配達のアルバイトをしていました。

 ご成婚が行われた翌日だったか、N君が私に、両殿下(当時)が金屏風を前にして古式ゆかしいご婚礼姿で映っている大きな記念写真(複写)をくれたのです。今思えばこれは、新聞購読家庭にはもれなく配られものと思われます。そして配達員にも何部か限定で、新聞取次店からもらったのだと思います。
 確か「ええが。これは貴重なものだがら、コタロ君大切に持ってで、誰にもやっちゃダメだぞ」と念を押されたかと思います。しかし私はそれに特別のありがた味も思い入れもなく、その美麗な記念写真の複写をぼんやりしながら、特に深い感謝もなしに受け取りました。

 すると間もなく、N君が念を押した意味を思い知らされる事態が起こりました。私がくだんの写真を入手したことが、全寮中に知れ渡ったようなのです。それは皆の垂涎の的だったらしく、その日の夕方頃、西寮のある家の私より2、3歳年上の女の子が(その母親に言い含められてか)私の家を訪ねてきました。
 「コタロ君、N君からご成婚の写真もらったなだって?ちよっと見しぇでみでけろ。…あらぁ、やっぱり良い写真だなぁ」。その女の子はしげしげと写真を見ていました。そして次に核心の話を持ち出したのです。
 「とごろでコタロ君、マンガ好きだったよな。ここさ何冊か持ってきたんだげど、どうだべ。この写真と取替えっこすねが?」。
 小学校4年生のいささか間抜けな私にとっては、両殿下のご成婚写真などより、マンガ本何冊かの方が、ずっと価値のあるものだったのでしょう。私は何のためらいもなく、この取替えっこに同意したのでした。取引成立し、その女の子はそそくさと、立ち去っていきました。

 私は交換で手にしたマンガを夢中になって読んだのはさておき。それは早速N君の知るところとなりました。さあ、N君の怒るまいことか。ふだんは温厚なやさしい兄のようなN君が本気で怒った時の怖さを、まざまざと思い知らされることになりました。
 N君にしてみれば、可愛い弟分の私のためにと特別に手に入れたものを、大切に保管するどころか早々に人に渡してしまうとは、人の気も知らないで、ということだったのでしょう。
 その後1月くらい、N君の機嫌は直りませんでした。
                       *
 そのN君(今ではNさんと呼ぶべきです)は、私が中学1年になろうとしていた昭和37年春3月に中学を卒業して、集団就職で上京していきました。Nさんは更に上の学校に進学する能力は十分あったと思います。しかし当時母子寮の子弟は、能力があろうとも中学を卒業すると同時に就職するのが、寮で長年お世話になった社会への恩返しだ、というような暗黙の了解があったように思います。

 今振り返ってみると、Nさんにとって私はホモ・セクシュアルな対象だったのかな?と思われないでもありません。Nさんは年1、2回の帰省の折りも、依然私をそれとなく気にかけているようでした。
 しかしそういう傾向性のない私の方は、「去る者日々に疎し」で、毎日顔を合わせていた当時のような親密さは薄れ、またNさんが急に「東京の人」になってしまったような気後れもあり、親しく話すこともなくなりました。そんな私の心持ちを察知したのか、Nさんは私が中学3年だった夏以降ばったり帰省して来なくなりました。

 私自身もまた高校卒業と同時に寮を出ましたし、寮そのものも昭和50年代半ば頃その社会的使命を終えて取り壊されました。その後私もまた高卒で首都圏の当地にやってきて、時に言うに言われぬ想いをしながら今日まで何とか生き延びてきました。中卒のNさんの場合は、私の苦労などとはおよそ比べ物にならなかったことでしょう。
 そのまま現在も東京あるいは近郊のどこかでお暮らしなのか、それとも中途で帰郷されたのか。風の便りにもまったく消息が聞かれないのが残念です。
 
 (後半は「ご成婚」とはまったく関係ない話になり、お詫び致します。)

 (大場光太郎・記)

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回想の昭和34年4月10日

 現平成天皇と美智子皇后がご成婚されて、本日4月10日でちょうど満50周年です。両陛下とも病を得ながらも、昨今は快癒されご健勝なごようす、現皇室をこよなく愛する国民の一人としてまことに喜ばしく存じます。
 また現皇太子ご夫妻と御子・愛子様、秋篠宮ご夫妻と悠仁親王はじめ御3人の御子様、その他すべての御皇族方の幾久しい御栄えを心よりお祈り申し上げます。

 さてご年配の方々なら、昭和34年4月10日のご成婚パレードのもようは大変懐かしくもあり、思い出深い記憶なのではないでしょうか?あの頃は昭和31年の経済白書で「もはや戦後は終わった」と明記され、景気も上げ潮。オールディズな昭和30年代前半のことながら、戦後を四季のサイクルに例えてみると、国民誰しもが将来に限りない夢と希望が持てた「戦後日本の春の季節」。その躍動感溢れる若々しい時代の「ミッチーブーム」の頂点ともいえるご成婚は、そのシンボリックな出来事といえました。
 あの世紀の御成婚から、早や半世紀が経過したとは。月日の経つのは早いもので、まさに「光陰矢のごとし」の感を深く致します。そしてあの頃が「春の季節」ならば、バブル崩壊以後の日本社会は「冬の季節」のただ中かとも。
 
 と何やらえらそうなことを申しましても、当時私は小学校4年生に進級したばっかりの頃のこと。しかも首都・東京を東北に何100kmも離れた、山形県内陸部の片田舎町の小学児童。そんな子供の分際とて、当時の大人たちのような皇室に対する特別の思い入れがあったわけでもありません。

 まだその時分白黒テレビさえ、おらが片田舎町の一般家庭には普及していませんでした。それでも前年の昭和33年11月27日の婚約公式発表以降巻き起こった大ミッチーブームの中、当時お世話になっていた町立母子寮のスピーカーから夕方頃流れてくるラジオのニュースで知ったのか、学校の先生から聞いたのか、あるいは大人たちの噂話で知ったものか。その日皇太子様(当時)と正田美智子さんが大々的な結婚式を挙げられるということは、前もって知っていました。

 そしてお二人のそもそものなれそめは、軽井沢におけるテニスが取り持つ縁だとか、美智子さんはいわゆる皇族出身ではない正田家という普通の家庭(とはいってもやっぱり大金持ちの家)のお嬢さんであること、どこぞの名門大学を優秀な成績で卒業された超美人の上に頭も良い人らしい…というような予備知識は、子供ながらに一応知っていたと思います。

 当時は空前のミッチーブームによって、皇室報道を伝えようと現在に至る多くの週刊誌がその頃あい次いで創刊されたり、また当日のご成婚パレードの実況生中継を見ようと、テレビの売り上げが急伸し、パレード一週間前のNHK受信契約数は200万台を突破したそうです。
 当日は、沿道に53万人もの人が参集したという世紀の大パレードでした。が、私は当日のことはあまりよく覚えていません。当日は平日だったようですから、まさかそのため学校が休みになったわけでもないでしょう。おそらく、パレードの実況中継は生では見ていなかったのだと思います。しかし今日でも、何やらノスタルジックな白黒映像でのオープンカーの美智子妃のなごやかな笑顔のお姿は、しっかり目に焼きついています。しかしそれは当日生中継で観たものではなく、その後繰り返し放映された同シーンによるものだったと思われます。

 いや、待てよ。やはり「世紀のご成婚」は、国民的記念日として全国的に学校を休校にしたのかもしれません。そうすると当日は、我が母子寮の近くで唯一テレビがあった「かわら屋」という屋号の金持ちの家に近所の人が押しかけ、縁側あたりでパレードのようすを見せてもらった。そこで生で直接実況中継を観た。その可能性も捨て切れません。しかし半世紀も経過した今となっては、確かめようもありません。

 (大場光太郎・記) 

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続・レッドクリフ PartⅡ

 ジョン・ウーは、『M:1-2』『フェイス/オフ』などでハリウッドを制した監督です。そのジョン・ウーが母国の大歴史物語である三国志の映画化のために、構想18年、総制作費100億円を注いで完成させたのが、『レッドクリフ』というビックプロジェクトです。
 またこの映画のためにエキストラとして動員された人民軍兵士1000人以上、騎馬隊のために用意された馬200頭など、あらゆる数字がこれまでのアジア映画の枠組みを越えたスケールだったようです。

 (私ごとながら)私が初めて三国志を読んだのは中学2年の梅雨の頃、吉川英治の『三国志』でした。第1巻の「桃園の巻」を読み始めて止まらなくなり、当時は六興出版社刊の全20余巻だったと思いますが、諸葛孔明の五丈原における死の最終巻まであっと言う間に読了してしまいました。
 その後高校時代は、西洋文学を中心に乱読の日々で別の感動もありました。しかし同じく中学2年の春休みに読んだ『水滸伝』(岩波少年文庫全3巻)とともに、あれほど血湧き肉躍らせながら読みふけったことは後にも先にもありません。
 その後高度経済成長発揚のためか、我が国で「三国志ブーム」が起こり、いろいろな作家がそれぞれの切り口で三国志を描いてきました。残念ながら私は、それらのほとんどを読んでいません。それだけ『吉川三国志』の影響が強かったということだろうと思われます。

 そのあとがきで吉川英治は、「三国志の主役は悠久の時間そのもの。そして具体的人物としては、曹操と諸葛孔明である」というようなことを述べていたかと思います。そのためこの二人は、特に精彩を帯びて描かれていたように記憶しています。
 その中で諸葛亮(孔明)は、27歳で劉備に三顧の礼で迎えられ、隆中の草蘆(そうろ)から出蘆(しゅつろ)する前後から、何やら神仙的で神秘的、超人的な人物として描かれ、それがまた私などにはたまらない魅力に思われました。
 それが今回の映画の金城武の諸葛孔明は、そのようなイメージとはだいぶ違って、現代的な解釈を加えたひょうひょうとした孔明像になっているようです。何年か前ビデオで観た中国電視台制作『三国志』では、唐国強という中国人俳優が演じた諸葛孔明は、どちらかというと吉川三国志のイメージに近く、私は大満足でした。それとのイメージの落差がどのくらいのものなのか、観てみたい気もします。

 吉川英治がもう一人の主役とみなしたのが曹操です。中国にも「判官びいき」があるのかどうか、覇王・曹操は明の時代に成立した『三国志演義』から一貫して悪役、敵役です。「乱世の奸雄」として、天下を手中に収めるためには、時として手段を選ばぬ非情さ冷酷さを見せたことは事実です。しかし反面その子曹植(二男)とともに、後漢末期、三国時代を代表する詩人でもありました。矛盾する極端とも思われる二面性こそが、曹操の魅力であるように思われます。曹操こそは「魅力的な悪役」というべきです。
 
 案の定『レッドクリフ』で曹操は、徹底した「悪」という立場から描かれているようです。そして弱小国呉の周諭と諸葛孔明が強い友情の絆で結ばれ、一致結束して曹操の魏軍という巨悪に立ち向かうという、『演義』以来なかったシチュエーションに変えてまで…。
 ここまでくれば、どうしてもハリウッド映画の典型的な一パターンです。歴史とは、戦争とは、一つの国、一つの陣営が善、片方は悪というような対立図式で断じ切れるような単純なものではないはずです。しかしエンターティメント的映画にあっては、よりドラマチックに展開させ盛り上げるためには、どうしてもそのような際立った図式が必要ということなのでしょうか?

 もう少し曹操を擁護するとすれば―。もし仮に後漢末期曹操という人物が出現しなければ、黄布(こうきん)の乱以降麻のごとくに乱れ、群雄が入り乱れた状況の収拾はかなり遅れ、ために民百姓の苦しみは更に悲惨なものになっていたと思われます。
 また曹操は、早くから帷幕のうちに武官、文官の優秀な人材をどんどん登用し、それら有能の士を存分に働かせて勢力を拡大し、天下の覇権を確実なものにしていきました。その意味で曹操は「将に将たるの器」というべき、大事業を完成させるにふさわしい大人物だったと言えると思います。

 『レッドクリフ』では魏vs蜀という基本的図式に加えて、三国志では傍流の「呉」にスポットライトが当てられています。その代表的人物が呉軍大都督・周諭(しゅうゆ)です。『レッドクリフ』は、周諭を主人公とした映画であるようです。これはなかなか面白い視点だと思います。
 以前にも触れましたが、周諭は美周郎とも称された美丈夫で、弾琴もよくする風流人の一面も持ち合わせていました。あたかも天は、「赤壁の戦い」のためだけに周諭をこの世に遣わしたかのように、赤壁直後の魏との江陵の戦いの際流れ矢を受けたのがもとで、36歳という若さで世を去りました。
 また『レッドクリフ』では、「喬家の二喬(にきょう)」の妹で絶世の美女との誉れ高い周諭の妻・小喬(しょうきょう)に、重要な役どころを与えているようです。『水滸伝』では藩金蓮と西門慶との情事など艶めいた話も出てきますが、『三国志演義』は終始男くさい物語です。そんな中で小喬役のリー・チーリンという美貌の女優がどんなエロスを醸し出しているのか、別の意味で興味深いところです。

 最後に。『レッドクリフ』の主要キャストはけっこう変更があったようです。2007年2月の段階でジョン・ウー監督が発表したキャストは、周諭はチョウ・ユンファ、諸葛孔明役がトニー・レオンだったそうです。直後まずトニー・レオンが体調不良を理由に降板し、代役として金城武の孔明役が決まりました。そうしたら今度は、周諭役のチョウ・ユンファがギャラなど契約面で折り合わず、代わってトニー・レオンが今度は周諭役で再び出演決定したといういきさつだったようです。
 その他当初は、曹操役で渡辺謙や役柄不明で小雪なども候補に挙がっていたとのこと。また中村獅童は当初、呉の実在の将軍・甘寧役だったものの、史実にない出番がふえたため、甘寧をモデルとした甘興という架空の役名に落ち着いたのだそうです。 ― 完 ―

 (大場光太郎・記)

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レッドクリフ PartⅡ

 当ブログ記事『レッドクリフ&三国志(1)~(7)』を綴ったのは、PartⅠが公開された11月1日に先立つ昨年10月のことでした。以来映画『レッドクリフ』の興業的大成功に伴い、同記事も大好評でした。開設以来早や400に迫りつつある総記事数の中でも、断トツの大ヒット記事となりました。同記事はより正確な記述を期するため、あちこちの資料をあたりながら一つ一つ苦労してまとめただけに、アクセスの多さは大いに励みになりました。(なお、日本国内における『レッドクリフ PartⅠ』の興業収益は55億円で、‘08年全映画中第4位。)
 
 また意外なことに、同シリーズへの検索アクセスの中で、「呂布(りょふ)」あるいは「貂蝉(ちょうせん)」という検索フレーズが時折りあり、そのリクエストに応えて昨年11月には『呂布と貂蝉(1)~(3)』を記事にし、こちらもおおむね好評で今でも時折りアクセスがあります。

 『レッドクリフ PartⅠ』の公開終了とともに、同記事へのアクセスも減少気味でしたが、ここにきてまた再び盛り返しつつあります。これは今月10日つまり今週金曜日と、『PartⅡ』の公開間近なためと思われます。
 私自身は何度か述べた理由により、『PartⅠ』はとうとう観ませんでした。そのため同映画の詳細は分かりません。しかし漏れ聞くところ、PartⅠでは南征を開始した魏の曹操軍によって敗走し夏口に逃げ込んだ劉備軍が、呉の孫権と同盟を結び共に魏軍に立ち向かうべく赤壁(レッドクリフ)でにらみ合う―というところで終わったようです。

 これから『PartⅡ』をご覧になる方々の多くは、おそらく「三国志ファン」が多いと思います。もう既に「赤壁の戦い」の帰趨がどうであったかは、先刻ご承知なのではないでしょうか。『レッドクリフ&三国志(7)-赤壁大戦』で既に述べましたとおり、「赤壁大戦」そのものは呉軍の火攻めにより、艦船2,000艘もの曹操の魏艦船はあっという間に大炎上。総勢80万と豪語していた魏の陣営はなすすべなく大崩壊。中国戦史に名高い「赤壁の戦い」は、たった一晩で魏軍の壊滅的な大敗走に終わったのです。
 『レッドクリフ PartⅡ』には、「未来への最終決戦」というサブタイトルがつけられています。私などは『何とキザでクサいタイトルか』と思ってしまいます。それはともかく、その大決戦のもようをハリウッドにおける「バイオレンスの詩人」であるジョン・ウー監督がどうリアルで迫力あるシーンにしているのか、また同決戦前後のことをどう描いているのか、大いに興味をそそられることではあります。

 『三国志』という、武人、文人それこそあまたの有能の士がキラ星のごとく登場する百年物語の中でも、私自身の最大のスターは何と言っても諸葛孔明です。ですから『レッドクリフ&三国志(1)』でも述べましたとおり、諸葛孔明役が誰なのかは大きな関心事でした。
 そして分かったのが、金城武(かねしろ・たけし)という日本の俳優らしい。それまで名前くらいしか知らなかった私は、『カネシロタケシの諸葛孔明でホントに大丈夫なの?』と疑問符をつけざるを得ませんでした。
 しかしその後金城武が主役を務めた『K-20怪人二十面相・伝』を観たことで、彼に対する評価が大きく変わりました。金城は日本人の父と台湾人の母との間に生まれただけあって、どこか日本人離れしたスケールの大きさが感じられます。『K-20』の演技からは、今後とも国際的なスターとして更に大活躍しそうだぞという予感がしました。  (以下次回につづく)

 (追記) 『レッドクリフ&三国志(1)~(7)』は昨年10月のアーカイブ記事に、『呂布と貂蝉(1)~(3)』は同じく昨年11月記事でお読みいただけます。
 (大場光太郎・記)

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えっ「飛翔体」って何だ?

 本日4月5日、北朝鮮は長距離弾道ミサイル「テポドン2号」を発射しました。そのため本日は、朝からテレビ各局ともこの問題にかかりっきり。ミサイルが発射された午前11時30分頃から、各局ともそのもようをニュース速報としていっせいに横並びで報道していました。
 その報道の中で気になったのは、テレビ各局とも統一して、北朝鮮が発射したミサイルを「飛翔体(ひしょうたい)」という普段聞きなれない用語で発表していたことです。テレビ各局のみならず各新聞、各地方自治体すべてがこの用語で統一されていたようです。各メディアが飛翔体という用語を一斉に用いるからには、最初にそう呼称した機関があったに違いありません。気になって調べてみました。

 政府は「午前11時30分頃北朝鮮から東の方向に飛翔体が一発発射されたもよう」「北朝鮮から発射された飛翔体は、11時37分頃に太平洋へ通過したもよう」だと発表。『やっぱりね』。最初の出どころは現政府で、それを受けて各メディア等が一斉に「飛翔体」と報道したようです。
 
 北朝鮮が「どうやらまたミサイルを発射しそうだぞ」という情報が流れてからの、現政権が国民に対して危機感を煽り立てる手法は、いささか尋常ではありませんでした。アメリカは「迎撃は考えていない」といい、また世界中のほとんどの国があまり注視していない中、「人の国の真上に向ってロケット実験しているのは北朝鮮だけ」「国民に危機が及ぶことは全力で阻止する」「国連決議に違反する」―我が国の麻生首相のみは、憂国の志士、救国の英雄のごとき勇ましい発言を繰返しました。
 また麻生首相は非公開が前提のミサイル破壊措置命令の発令も公開しました。秋田と岩手に実戦配備される地対空誘導弾パトリオット(PAC3)部隊の車両が高速道路を北上する姿まで報道陣にさらしています。これらは本来なら第何級かは知らないけれども、とにかく軍事機密のはずです。それを惜しげもなく公開した、常識外れとも思われる麻生首相の思惑は一体何だったのか?

 それは言わずと知れた、支持率低迷にあえぐ不人気政権浮揚のきっかけとしたかったからです。麻生太郎は小泉政権下の閣僚経験者として、小泉元首相の手法を学んでいます。とにかく最近の日本国民は、国の危機意識やナショナリズムをうまく刺激してやると過剰に反応して、時の政権にいとも簡単になびいてくれる…。
 案の定ミサイル発射後に行われたテレビ局の街頭インタビューでは、「怖いですねー」「北朝鮮は怖ろしい国ですねー」という声が大勢を占めました。(中には「冷静に成り行きを見守りたい」という声も一部ありましたが)。現政権の思惑どおり、かくて政治的意図をもった国民誘導にまたしてもまんまと引っかかった図式です。

 日本が本当に、実戦配備したPAC3で迎撃した場合はともかく。多分北朝鮮は、今回のミサイル発射にあたって、我が国を意識的に刺激してやろうなどという意図はなかったのではないかと思われます。北朝鮮が本当に交渉の相手にしたいのはアメリカだけ。経済制裁によって金を出さない日本などまともに相手にする国ではない、しかし将来的に金を出してくれるかもしれない国として極端に刺激はしない、そのためうんとその上空を飛び越すだけにしておこう…。
 それにしても懸念されるのは、今回の問題をきっかけに一部勢力から「北朝鮮脅威論」がまたぞろ高まり、「だから今以上の軍事力の強化、なかんずく核武装も必要なのだ」というような方向に進んでいってしまうことです。

 結果的に「泰山鳴動してねずみ一匹出てこなかった」から言うわけではありませんが。今回のミサイル問題は、とんだバカ騒ぎと言わざるを得ません。現政権の思惑を受けた各メディアの過熱報道等の結果、秋田県と岩手県を中心とした各地方自治体や県民はとんだ迷惑をこうむりました。全国の各地方自治体は、例の定額給付金でもすったもんだの真っ最中です。
 すべては麻生政権の延命のための政策です。小沢代表秘書逮捕直前の検察トップとの密談といい、今回のミサイル問題といい、宰相としては無能でありながら、麻生太郎という男はよくよく腹黒い男だなと思わざるを得ません。

 (大場光太郎・記)

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桜の名句(3)

                   野澤 節子

    さきみちてさくらあおざめゐたるかな

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 野澤節子。大正9年、横浜市生まれ。フェリス女学校在学中に脊椎カリエスを病み、療養生活に入る。昭和17年、臼田亜浪門に入り、21年、大野林火主宰「濱」の創刊に参加。46年「」を創刊、主宰。第一句集『』により第4回現代俳句協会賞、第4句集『鳳蝶』により第22回読売文学賞受賞。俳句協会名誉会員。ほかに句集『雪しろ』『花季』『飛泉』『存身』『八朶集』、随筆集『耐えひらく心』など。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 この句はすべて平仮名で表記されています。さながら平安貴族女性のたおやかな詩文のようです。作者・野澤節子の「さくら」のイメージとして、そのような王朝的みやびの世界から連綿として引き継がれてきた、美意識を構成する欠かせないものという観念があったのかもしれません。
 
 さて発句の「さきみちて(咲き満ちて)」ならば、多くの人が詠むかもしれません。しかし続けて「さくらあおざめゐたるかな」と詠める人は滅多にいないのではないでしようか。これをそう詠みきったところが、野澤節子という女流俳人の非凡なところだと思います。

 一般人にとって、桜の花は「白い」もしくは「ほの紅い白さ」としか見えないものです。無理もありません。肉の眼にはそのようにしか映らないのですから。だが実は、見えるものを見たまま文章に移し換えただけでは詩文にはなりません。俳句に限らず優れた詩として昇華させるためには、見えたそのままのものを何段階か飛躍、深化させなければならないのです。

 その精神的行程をあるいは、通常意識から変性意識への変換と言うことが出来るかもしれません。この場合通常意識は、肉体的な五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)としっかり結びついた意識状態、さらに言えば五感にがんじがらめに呪縛されているような状態です。このような低い意識レベルでは、名句、名詩などはおよそ生まれ得ないだろうことはご理解 いただけるものと思います。

 対してひとたび変性意識(普遍意識)に入れば、その時五感の呪縛から自由になります。すなわち心は小さな個我意識から解き放たれ、自由に羽ばたけるのです。また詩として詠むべき対象との分離、対立は消え去り、彼我の融合感が得られます。そういう時は、肉の眼ではなく「心の透徹した眼」でさくらならさくらを見つめている状態になるはずです。
 
 そうするとこの句のように、満開に咲いてしまって後はただ散るのを待つしかない、「あおざめゐたる」桜の心模様が詠めてくるわけです。
 
 (大場光太郎・記)

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春だより

    花満ちてしだれしあたりの神がかり   (拙句)

 月が替わって4月となり、日中はぽかぽか陽気が続いています。それと共に季節は一気に盛春に向いつつあるようです。この時を待っていたかのように、じれったいほど進み具合の遅かった桜の花も、きのうきょうであっという間に七、八分咲きくらいまで咲きそろいました。
 当厚木市は、飯山観音が桜の名所として有名です。この週末は東京辺りからも訪れる大勢の花見客で同観音はごった返すことでしょう。

 もっとも私は当地に住んでかれこれ41年ほど経ちますが、近くの名所というのは案外行かないもので、未だに桜の季節の飯山観音を訪れたことがありません。
 それに何もそんな賑々(にぎにぎ)しい所までいかなくても、居住地近くの例の中津川堤防道の一本裏の通りに、見事なほどの桜並木がありますから。花見にかこつけて飲んでどんちゃん騒ぎしたいのならいざ知らず、下戸で純粋に桜、夜桜を楽しみたい私などは、その道を通るか歩くかするだけで十分桜を堪能できます。

 この暖かい陽気に誘われて、桜のみならず自然万物も一斉に目覚めつつあるようです。近くの野山が萌黄色にボーっとうすけぶりして陽光に輝くさまを眺めては、『あヽ春なんだなあ』との想いを深くさせられます。
 本日そんな野山のようすを眺めたのは、昼過ぎのこと。厚木市の郊外ででした。そしてまた同所でうぐいすの声を聴きました。郊外ですからそこそこ樹木もあり、その右側の木陰のどこかから「ホーホケキョ」という第一声が聞こえてきたのです。私はその声を聴いて『空耳か?』と思いました。しかしやがてまた続けて鳴き音(なきね)を聴くに及んで、うぐいすだと確信しました。
 もっともうぐいすは、早春から鳴き始める鳥なのでしょう。私にとっては初音(はつね)であっても、その近辺でとうの昔から鳴いていたのかもしれません。

 あらためてその付近を見渡せば、木々の萌黄若葉ばかりではなく、小さな畑の端の菜の花の黄なる色が陽光にまぶしく照り映えています。また左手の畑を囲む背の低い木立の一角には、梅とも桜とも桃とも見分けがつかない木花が、紅と白で半分に分かれた花々をいっぱいに咲かせて、これもまぶしく輝いています。
 と、右手から二羽の小鳥が飛んできて、ツゥーッと畑の上を横切り花盛りのその木の一枝に止まりました。見るとどうやらつがいの鳥で、さっき鳴いていたうぐいすのようでした。

    りんごの花ほころび 川面に霞たち
    君なき里にも 春はしのびよりぬ
    君なき里にも 春はしのびよりぬ
         (ロシア民謡『カチューシャ』1番の歌詞)
 こうして桜や諸花(もろばな)が咲き野山が一気に芽吹くさまは、まさしく「春は忍び寄りぬ」そのものです。「ソウルメイト」「ツインソウル」「魂の半身」としての「君」に巡り合うことなく、早や60回目の春です。私にとって「君なき里」であるこの地上に、かくてまた春は忍び寄ってきました。

 (『カチューシャ』の歌詞と曲は、「二木紘三のうた物語」にあります。)
 
 (大場光太郎・記) 

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桜の名句(2)

             林芙美子

    花のいのちは短くて
    苦しきことのみ多かりき

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 林芙美子(はやし・ふみこ) 1903年(明治36年)から1951年(昭和26年)。昭和初期の流行作家。自らの貧困に苦しんだ生い立ち、放浪の経験などをもとにした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴。代表作『放浪記』『晩菊』(女流文学者賞受賞)『浮雲』など。

 今回の一文がはたして俳句というものに該当するのかどうか、大いに疑問です。第一俳句の決まりの一つである「5、7、5(17音)」の韻律から大きくはみ出した「7、5、8、5(25音)」という大破調句です。ただもう一つの決まりである「季語」は、「花(桜のこと)」があることによって一応句として成立しています。
 以上から、今回はとりあえずこの一文を俳句とみなして観賞してみることにしました。

 この句は一般には林芙美子の作として知られています。事実芙美子自身、かなり早い時期から色紙などにこれを書いていたようです。しかし一説では元々の出典は他にあり、芙美子自身が作ったものではないとも言われていますが詳細は不明です。
 しかし今日では、この句は芙美子作で通ってしまっています。芙美子の生い立ちなどと照らし合わせる時、確かにこのような心境になるのもむべなるかな、と思わせられるところもあります。よってここでは、この句は林芙美子自身の作品として捉えていきたいと思います。

  花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
 この場合の「花のいのち」は実際の桜などの開花時期の短さとともに、それにオーバーラップさせるように、はや過ぎてしまった、芙美子自身の花の盛りだった若い身空の短さ、そしてその時期のいわく言いがたい苦しさばかりが思い起こされてくる、ということだろうと思います。
 
 林芙美子は九州(現在の福岡県北九州市)で行商人の婚外子(非嫡出子)として生まれました。その後母・林キクが夫と離別、他の男と再婚すると家族3人で行商しながら、九州各地や四国地方を転々とする生活を送ります。最終的に当時活気のあった港町・広島県尾道市に落ちつくことになりました。
 その地で尋常小学校を卒業、恩師の勧めにより尾道高等女学校に進学、学資を得るため夜は帆布工場で働き、夏には神戸に出稼ぎと、文字通りの苦学生活でした。そして尾道高女時代から次第に文学の道を志すようになり、「秋沼陽子」の筆名で『山陽日日新聞』などに投稿を始めていきます。

 尾道高女卒業後芙美子は、『放浪記』のモデルとなる岡野軍一を頼って上京するもやがて破局。その後職を転々としながら、友人と共に詩誌『二人』を創刊。またこの時期俳優の田辺若男や詩人の野村吉哉と同棲。彼らとの別れの後、1926年(昭和元年)画家の手塚緑敏(てづか・りょくびん)と同棲を始めました。
 1928年(昭和3年)から長谷川時雨主宰の雑誌『女流芸術』に、芙美子の19歳から23歳頃までを綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年(昭和5年)に単行本として出版され当時のベストセラーとなりました。(その後『放浪記』は三部作として完結。)
 
 林芙美子は、この句をかなり早い時期から書き始めていたということですが、その時期はいつだったのかハッキリとはわかりません。ただ「苦しきことのみ多かりき」は多分その頃の事を言うのだろうなという推定のもとに、芙美子若き日の足跡をざっと見てきました。
 林芙美子が文壇デビューを果たすまでの昭和初期は、旧民法下での強固な家父長制におけるガチガチの男優位社会です。厳しい制約の中で、時に同棲などという掟破りを繰返しながら、女だてらに小説家を目指した芙美子にとって、「苦しきこと」は今の私たちの想像を絶するものがあったに違いありません。この句は、芙美子自身の「魂の叫び」「心の呻き」だったのかもしれません。

 ところでこの句には、ずっと後年そのパロディが作られました。

    花の命はけっこう長い。 (かがやく瞳は女のあかし 笑顔と智恵で乗り切るワ 花の命はけっこう長い…… ♪)
 
 ご記憶の方もおいででしょう。ハッキリ記憶しているわけではありませんが、バブル全盛期頃の某生命保険のCMソングだったと思います。
 戦後間もなく新日本国憲法ならびに新民法により、「男女同権」が謳われ出しました。以来そこから男も女も「ヨーイ、ドン ! 」でスタートしてみれば、並みの男どもより女の方がよっぽど強くて逞しいぞと、世の男どもはタジタジしながら目をみはり続けた歳月で。「花の命はけっこう長い」と自信漲る女性代表のように、当時大人気だったタカラジェンヌの大地真央が画面いっぱい歌い踊っていた姿が印象的でした。

 なお『放浪記』は、林芙美子の没後舞台化されました。(菊田一夫脚本、芸術座公演)。初演の1961年(昭和36年)以来、森光子が林芙美子役を熱演してきました。森の代表作として、現在まで1950回以上という最長不倒の公演回数を重ねていることはどなたもご存知のことと思います。

 (追記) 本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「林芙美子」の項などを参考にまとめました。
 (大場光太郎・記)

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三月尽(さんがつじん)

    不況風じわりじわじわ三月尽   (拙句)

 予報どおり、東京の桜がお彼岸の中日過ぎに開花しました。当地(厚木市)の桜もそれから少し遅れて開花したものの、その後ははだ寒い日々が続き、思ったほど開花は進んでいないようです。
 確か例年なら一旦開花すると、後はあっという間に5、6分咲き、気がついてみると大満開。そこまで一週間くらいしかかからなかったのではないかと思います。なのに今年は。
 桜の木個体や植えられている場所などから、同じ地域でありながら微妙に開花時期に影響するものなのか、中には見たところ5、6分咲きくらいと思しき桜もたまにはあります。しかし当市の平均的な桜あるいは桜並木の咲き具合は、まだ1、2分咲きくらいといったところです。

 しかしその分、今年は長く桜が楽しめるというものです。パッと咲いてパッと散華する。そこにこそ古来からの「もののあはれ」や「潔さ」という観念が生まれる素地があるとは言いつつも。何せ満開に近い頃からの桜の見頃は、1年365日のうちのたった数日くらいと、極めて短いのですから。
 出来れば一日も長く咲いていて欲しい、というのが人情と言うものです。

 桜など悠長に一々眺めてもいられないほど、今日本社会は大変な経済状況の真っ只中です。直前4半期GDPの先進国最悪の落ち込み。過去何十年ぶりという一部上場企業の倒産件数。完全失業率に見られる雇用情勢の更なる悪化。株価の低迷…。
 私のような弱小自営業者において、その深刻さは日々痛いほど実感させられます。時に、何やら世の中全体からじわじわと真綿で首を絞められていくような、得体の知れない不気味さを実感することがあります。『いや違う。そんなことは決して無い ! 』。打ち消し打ち消し日々を送っている今日この頃です。

 当ブログでこれまで何度も述べてきましたとおり、昭和初期の状況と酷似したこんな状況には、国のトップリーダー(つまり宰相たる内閣総理大臣)による明るく展望のきく国家ビジョン、発足間もないオバマ政権のような迅速かつ大胆な政策実行力などが不可欠のはずです。
 なのに麻生総理ときたら、「解散より景気対策」と体のいいことをおっしゃりながら、何ら有効な政策を実行するでなし。それでいて、敵である民主党・小沢代表が今世論の批判を全面に受けていることをいいことに、ここのところすっかり自信回復基調。国民にとっては、何ともありがた迷惑な話です。

 当ブログ、おかげ様で今月も順調に推移しました。『おくりびと』シリーズ今もって好評です。特にくまさん様の『おくりびと・感想』は、検索アクセスランキングの1位を占めることがけっこう多いようです。そもそも米アカデミー賞受賞前、何か感じるものがあって記事として取り上げたのに、私自身は諸事・雑事に追われ同映画まだ観ておりません。
 漏れ聞くところでは、何と気の早いことに『おくりびと』DVDが4月中旬にはもう発売されるとか。いやはや。いくら何でもそれまでには映画を観ておかないことには、かっこうがつきません。
 また『天地人』シリーズも毎回好評です。時に辛辣な批評も致しますが、その点では「天地人様々」といったところです。それから今月は、侍ジャパンのWBC連覇も、暗い世相を吹っ飛ばすような爽快な出来事でした。但し当ブログ検索の推移で見る限り、一過性のブームだったようですが。

 4月上旬つまり今週末には、海の向うではなく、日本でいよいよプロ野球が開幕します。年々下火になるプロ野球人気、WBC連覇を受けて今年はどうなのでしょう。
 それより何より、4月は私の誕生月でもあります。下旬に近い中旬のある日が来ると、私はいよいよ50代におさらばして、華の(?)「アラカン(アラウンド還暦)」。いえそんなシャレたことではなくズバリ60歳を迎えます。いざ実際迎えてみてどんな心持ちなのか、その率直な感想などまた記事にしていければと考えております。
 来月も当ブログ、どうぞよろしくお願い申し上げます。
 (大場光太郎・記)

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