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『天地人』について(8)

 「御館の乱」の続き

 御館(おたて)を中心とする越後府中内を、焦土と化すような激しい戦闘を繰返してもまだ決着はつきません。そこで自軍の形勢を有利に運ぼうと、上杉景勝(北村一輝)上杉景虎(玉山鉄二)双方とも、周辺諸国との同盟工作を展開していくことになります。

 景虎は実家筋である小田原北条氏や甲斐の武田氏の他に、会津の蘆名盛氏にも助勢を要請、この時点では戦局は景虎方に有利に展開していました。
 三方から攻められて形勢不利になった景勝は、武田勝頼(市川笑也)に「武田が充分に潤うほどの金額の黄金」と、上田沼田の武田領有そして景勝・武田の同盟を提案して和議を申し入れました。長篠の戦(天正3年-1575年旧暦5月21日)で信長・家康連合軍に惨敗し、その後も出兵に次ぐ出兵で金欠に苦しんでいた勝頼には、莫大な収入はまたとない吉報でした。その上北条氏政の動きが遅いことや、徳川家康の圧迫が大きくなっていたこともあり、景勝方との同盟を受け入れました。(今回の乱には直接関係ないものの、結果的に勝頼のこの判断が、勝頼自身ひいては武田家の滅亡という運命を半ば決めてしまうことになりました。)

 甲斐の武田を金の力で封じ込めた景勝は、背後を気にする必要がなくなりました。こうして景勝方は勢いを取り戻し、中越地方の景虎方の諸城への圧迫を強めていくことになります。
 旧暦9月に入ると、景虎の実兄である北条氏政がようやく本腰となり、越後に向って進軍を開始。小田原北条勢は三国(みくに)峠を越えて、坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手します。しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいてきたこともあって、北条勢はわずかな軍を残して撤退していきました。
 旧10月に入ると景虎方では御館をはじめとして、兵糧の窮乏が相次ぐようになりました。

 外部勢力の干渉を巧みに排除し、家中の支持を集めた景勝は、改めて雪解け前の乱の収束を決心。一方景虎方は、味方の相次ぐ離反や落城を止めることができず窮状に陥りました。
 旧2月1日、景勝は配下の諸将に御館の景虎に対する総攻撃を命じます。早くも北条景広を討ち取るなどして、方々に火を放ちました。
 小田原北条勢の橋頭堡(きょうとうほ)であった樺沢城も景勝方に奪回されました。雪に阻まれて北条からの救援も望めず、3月17日には(謙信の養父でもあった)上杉憲政が御館から脱出し、和議を求めて景虎の長子・道満丸を連れて景勝の陣に出頭する途中で景勝方に包囲され、道満丸もろとも殺害されてしまいました。
 御館は放火され落城し、景虎は御館を脱出して小田原北条氏を頼って逃亡中、鮫ヶ尾城に寄ったところを景勝方に寝返った城主・堀江宗親に攻められ、旧3月27日に自害して果てました。
 
 かくて越後を二分した内乱は景勝が勝利し、謙信の後継者として上杉家の当主となりました。しかし乱の余燼はくすぶり続け、なお抵抗を続ける豪族たちもおりそれらを攻めて最終的に乱が収束したのは、それから1年余り経った天正8年(1580年)のことでした。
 乱は景勝の勝利に帰しましたが、深刻な負の影響も残しました。まず、血で血を洗う内乱のため、上杉氏の軍事力の衰退は否定しようがなく、織田信長(吉川晃司)などの周辺強豪勢力からの軍事的侵攻に苦慮することになりました。

 また乱は、恩賞の配分を巡り、景勝方の武将間にも深刻な対立をもたらしました。
 恩賞は景勝の権力基盤である坂戸城を中心とした「上田衆」に多く与えられ、これに不満を持った新発田重家が蘆名盛氏や織田信長に通じて反乱を起こしました。これを鎮圧するのに6年もの歳月を要しました。また、恩賞を巡るトラブルで直江信綱や安田顕元らが非業の死を遂げました。
 なお直江信綱の死によって、樋口兼続(妻夫木聡)は景勝の命により跡継ぎのいなかった直江家を継ぎ、以来「直江兼続」を名乗ることになるのです。  ― 御館の乱・完 ―

 (大場光太郎・記)

 (追記) 本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「御館の乱」その他を参考にまとめました。  

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