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桜の名句(2)

             林芙美子

    花のいのちは短くて
    苦しきことのみ多かりき

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 林芙美子(はやし・ふみこ) 1903年(明治36年)から1951年(昭和26年)。昭和初期の流行作家。自らの貧困に苦しんだ生い立ち、放浪の経験などをもとにした、生々しい実感を伴う表現や人物描写が特徴。代表作『放浪記』『晩菊』(女流文学者賞受賞)『浮雲』など。

 今回の一文がはたして俳句というものに該当するのかどうか、大いに疑問です。第一俳句の決まりの一つである「5、7、5(17音)」の韻律から大きくはみ出した「7、5、8、5(25音)」という大破調句です。ただもう一つの決まりである「季語」は、「花(桜のこと)」があることによって一応句として成立しています。
 以上から、今回はとりあえずこの一文を俳句とみなして観賞してみることにしました。

 この句は一般には林芙美子の作として知られています。事実芙美子自身、かなり早い時期から色紙などにこれを書いていたようです。しかし一説では元々の出典は他にあり、芙美子自身が作ったものではないとも言われていますが詳細は不明です。
 しかし今日では、この句は芙美子作で通ってしまっています。芙美子の生い立ちなどと照らし合わせる時、確かにこのような心境になるのもむべなるかな、と思わせられるところもあります。よってここでは、この句は林芙美子自身の作品として捉えていきたいと思います。

  花のいのちはみじかくて 苦しきことのみ多かりき
 この場合の「花のいのち」は実際の桜などの開花時期の短さとともに、それにオーバーラップさせるように、はや過ぎてしまった、芙美子自身の花の盛りだった若い身空の短さ、そしてその時期のいわく言いがたい苦しさばかりが思い起こされてくる、ということだろうと思います。
 
 林芙美子は九州(現在の福岡県北九州市)で行商人の婚外子(非嫡出子)として生まれました。その後母・林キクが夫と離別、他の男と再婚すると家族3人で行商しながら、九州各地や四国地方を転々とする生活を送ります。最終的に当時活気のあった港町・広島県尾道市に落ちつくことになりました。
 その地で尋常小学校を卒業、恩師の勧めにより尾道高等女学校に進学、学資を得るため夜は帆布工場で働き、夏には神戸に出稼ぎと、文字通りの苦学生活でした。そして尾道高女時代から次第に文学の道を志すようになり、「秋沼陽子」の筆名で『山陽日日新聞』などに投稿を始めていきます。

 尾道高女卒業後芙美子は、『放浪記』のモデルとなる岡野軍一を頼って上京するもやがて破局。その後職を転々としながら、友人と共に詩誌『二人』を創刊。またこの時期俳優の田辺若男や詩人の野村吉哉と同棲。彼らとの別れの後、1926年(昭和元年)画家の手塚緑敏(てづか・りょくびん)と同棲を始めました。
 1928年(昭和3年)から長谷川時雨主宰の雑誌『女流芸術』に、芙美子の19歳から23歳頃までを綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年(昭和5年)に単行本として出版され当時のベストセラーとなりました。(その後『放浪記』は三部作として完結。)
 
 林芙美子は、この句をかなり早い時期から書き始めていたということですが、その時期はいつだったのかハッキリとはわかりません。ただ「苦しきことのみ多かりき」は多分その頃の事を言うのだろうなという推定のもとに、芙美子若き日の足跡をざっと見てきました。
 林芙美子が文壇デビューを果たすまでの昭和初期は、旧民法下での強固な家父長制におけるガチガチの男優位社会です。厳しい制約の中で、時に同棲などという掟破りを繰返しながら、女だてらに小説家を目指した芙美子にとって、「苦しきこと」は今の私たちの想像を絶するものがあったに違いありません。この句は、芙美子自身の「魂の叫び」「心の呻き」だったのかもしれません。

 ところでこの句には、ずっと後年そのパロディが作られました。

    花の命はけっこう長い。 (かがやく瞳は女のあかし 笑顔と智恵で乗り切るワ 花の命はけっこう長い…… ♪)
 
 ご記憶の方もおいででしょう。ハッキリ記憶しているわけではありませんが、バブル全盛期頃の某生命保険のCMソングだったと思います。
 戦後間もなく新日本国憲法ならびに新民法により、「男女同権」が謳われ出しました。以来そこから男も女も「ヨーイ、ドン ! 」でスタートしてみれば、並みの男どもより女の方がよっぽど強くて逞しいぞと、世の男どもはタジタジしながら目をみはり続けた歳月で。「花の命はけっこう長い」と自信漲る女性代表のように、当時大人気だったタカラジェンヌの大地真央が画面いっぱい歌い踊っていた姿が印象的でした。

 なお『放浪記』は、林芙美子の没後舞台化されました。(菊田一夫脚本、芸術座公演)。初演の1961年(昭和36年)以来、森光子が林芙美子役を熱演してきました。森の代表作として、現在まで1950回以上という最長不倒の公演回数を重ねていることはどなたもご存知のことと思います。

 (追記) 本記事は、フリー百科事典『ウィキペディア』の「林芙美子」の項などを参考にまとめました。
 (大場光太郎・記)

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