桜の名句(3)
野澤 節子
さきみちてさくらあおざめゐたるかな
…… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
野澤節子。大正9年、横浜市生まれ。フェリス女学校在学中に脊椎カリエスを病み、療養生活に入る。昭和17年、臼田亜浪門に入り、21年、大野林火主宰「濱」の創刊に参加。46年「」を創刊、主宰。第一句集『』により第4回現代俳句協会賞、第4句集『鳳蝶』により第22回読売文学賞受賞。俳句協会名誉会員。ほかに句集『雪しろ』『花季』『飛泉』『存身』『八朶集』、随筆集『耐えひらく心』など。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)
この句はすべて平仮名で表記されています。さながら平安貴族女性のたおやかな詩文のようです。作者・野澤節子の「さくら」のイメージとして、そのような王朝的みやびの世界から連綿として引き継がれてきた、美意識を構成する欠かせないものという観念があったのかもしれません。
さて発句の「さきみちて(咲き満ちて)」ならば、多くの人が詠むかもしれません。しかし続けて「さくらあおざめゐたるかな」と詠める人は滅多にいないのではないでしようか。これをそう詠みきったところが、野澤節子という女流俳人の非凡なところだと思います。
一般人にとって、桜の花は「白い」もしくは「ほの紅い白さ」としか見えないものです。無理もありません。肉の眼にはそのようにしか映らないのですから。だが実は、見えるものを見たまま文章に移し換えただけでは詩文にはなりません。俳句に限らず優れた詩として昇華させるためには、見えたそのままのものを何段階か飛躍、深化させなければならないのです。
その精神的行程をあるいは、通常意識から変性意識への変換と言うことが出来るかもしれません。この場合通常意識は、肉体的な五感(視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚)としっかり結びついた意識状態、さらに言えば五感にがんじがらめに呪縛されているような状態です。このような低い意識レベルでは、名句、名詩などはおよそ生まれ得ないだろうことはご理解 いただけるものと思います。
対してひとたび変性意識(普遍意識)に入れば、その時五感の呪縛から自由になります。すなわち心は小さな個我意識から解き放たれ、自由に羽ばたけるのです。また詩として詠むべき対象との分離、対立は消え去り、彼我の融合感が得られます。そういう時は、肉の眼ではなく「心の透徹した眼」でさくらならさくらを見つめている状態になるはずです。
そうするとこの句のように、満開に咲いてしまって後はただ散るのを待つしかない、「あおざめゐたる」桜の心模様が詠めてくるわけです。
(大場光太郎・記)
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