王者と賢者
アレキサンダー大王とディオゲネス
「ディオゲネスを訪れるアレキサンダー大王」 ニコラ=アンドレ・モンシオ フランス ルーアン美術館
アレキサンダー(ギリシャ読みではアレクサンドロス)大王は、漢の武帝、ジュリアス・シーザー、チンギス・カーン、ナポレオンなどと並んで、在世中にその領土を世界的版図にまで拡大した古代マケドニアの英雄です。
しかし今回焦点を当てたいのはアレキサンダーの方ではなく、同時代の哲学者・ディオゲネスの方なのです。もちろんアレキサンダーほどには名前を知られていませんが…。
ディオゲネス。紀元前412年?~紀元前323年。古代ギリシャの哲学者。両替商の子としてシノペに生まれたが、彼の父もしくは彼自身が通貨改鋳の罰を犯したため、国外追放となりました。
ディオゲネスは、古代ギリシャの中心都市・アテネにやってくると、ソクラテスの弟子であったアンティステネスに弟子入りを志願しました。しかしアンティステネスは弟子を取る考えはなく再三入門を断られます。だが哲学を志すディオゲネスの意志は固く、我が国の高名な禅僧に修行者が入門したのと同じような粘りで、遂に師から弟子入りを認められます。
彼は師の「徳」に対する思想を受け継ぎ、物質的快楽を全く求めず、粗末な上着のみを着て頭陀袋(ずだぶくろ)一つだけを持って、町外れの大きな樽(たる)の中で生活するという、ずっと後世のキリスト教の聖人・聖フランチェスコを彷彿(ほうふつ)とさせるような生き方に徹した人でした。(そのため彼は「樽の中の賢者」とも呼ばれました。)
このディオゲネスは、かのアレキサンダー大王とただ一回だけ、接点をもったことがあります。古代ローマ時代に著された『プルターク英雄伝』にも出てくる、有名な故事です。
―アレキサンダーがオリエント(インド西部に及ぶ東方世界)征服の途中、アテネに立ち寄りました。アテネ中の名だたる人たちはこぞって、大王を表敬訪問しました。しかしただ一人ディオゲネスだけは挨拶に行きませんでした。「アテネに行ったらディオゲネスに会いたい」と日頃考えていたアレキサンダーは、わずかばかりの供の者を従えて自ら高名な哲学者に会いに行きました。
その時大王と賢者(ディオゲネス)との間でどんな会話が交わされたのか、幾つかのバージョンがあってハッキリとは分かりません。そのうちの一つは、以下のようなものです。
ディオゲネス 「あなたはどこへ行こうとしているのか?」
アレキサンダー 「私は全世界を征服するためにインドに行くところだ」
ディオゲネス 「その後で、あなたはどうするつもりなのか?」
アレキサンダー 「それから私は休む」
ディオゲネス 「あなたは狂っている。私は今休んでいる。しかし私は世界を征服しなかった。その必要があるとは思わないからだ。最後に休んでくつろぎたいのなら、なぜ今そうしないんだね?」
アレキサンダーは元々、賢者の言に耳傾ける度量と素質を持っていました。ディオゲネスがその時どんなことを話したにせよ、とにかく大王は深い感銘を覚えました。そこで大王は賢者へのお礼として、「お望みのものは何なりと与えよう」と言いました。するとディオゲネスは意外なことを所望したのです。
「大王よ。私はついさっきまで日光浴を楽しんでいたところだ。どうかそこをどいてくださらんか」
ちょうどアレキサンダーは、樽の中で寝そべってるディオゲネスの正面に立っていたため、太陽を遮(さえぎ)るかたちになっていたのです。そこで大王は深々と一礼して、去って行ったそうです。そして帰路供の者に話したことには、「私がアレキサンダーでなければ、ディオゲネスになりたかった」。
*
この故事は、多くの教訓を含んでいると思います。それはこれをお読みのお一人お一人にお考えいただくとして。以下で私の拙い考えを少し述べさせていただきます。
当時の世界観でいけば、ほぼその全土を征服したアレキサンダー大王。その大王が、アテネの町外れの樽の中に居住する一人の哲学者を訪ねて行った。全世界を征服してもなお満たされない、我が心の内の飢えや虚しさや欠落を埋めたくて。
そして、教えを傾聴したアレキサンダーは、ディオゲネスに深々と頭を下げた。これは「外的世界の征服者」である王者・アレキサンダーも、「心内の征服者」である賢者・ディオゲネスには敵(かな)わなかったということを指し示しているのではないでしようか?
山中の賊を破るは易(やす)し。心中の賊を破るは難(かた)し。
明代の陽明(ようめい)学の創始者・王陽明の有名な言葉です。ここで言う、最難関である心中の賊を破った者こそ、ディオゲネスだったと言えると思います。(この名言について、また「心中の賊」とは何を指すのかといったことについては、また別の機会に述べてみたいと思います。)
片や全世界の所有欲に駆られ、賢者から「あなたは狂っている」と指摘されたアレキサンダー。片や必要最低限のものしか所有していないディオゲネス。我が国の今日的状況に引きつけてみれば、時の内閣総理大臣がさるホームレス男性に頭を垂れたような格好です。
何という価値の転倒なのでしょう。現代人にはこれは単なるお話で、まともに受け止める人はほとんどいないことでしょう。しかし価値観が転倒しているのは、実は私たちの方であるのかもしれないのです。今を生きる私たちは、その多くが昔の王侯貴族のような生活レベルにあります。されど、「さてそれでは心の内は?」と深くのぞいてみると…。
ディオゲネスは、地位、名誉、金銭、物質など、通常人にとって必要不可欠なものを何一つ所有していなくても、全く何の不自由も感じませんでした。不自由を感じないどころか、やせ我慢ではなく、心は常に至福で満たされていたと思われます。
ディオゲネスは、仏教で説く「無一物中無尽蔵」の三昧(サマーディー)の境地に、真に到っていたのかもしれません。
(大場光太郎・記)
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コメント
09年4月25日公開の本記事を今回トップ面に再掲載するにあたり、本エピソード場面を描いた絵画を新たに加えました。
投稿: 時遊人 | 2016年9月24日 (土) 02時57分