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2009年5月

イエスとマグダラのマリア(3)

 「イエスキリストが妻帯していたか否か」。これを巡る論争は、伝統化している教義上「イエス妻帯説」の方が不利と言うべきで、誰もが納得せざるを得ない決定的な証拠、例えばイエスの子孫を見つけ出しDNA鑑定の結果間違いなくイエスキリスト(とマグダラのマリア)の子孫であるということが証明されない限り、「イエス独身説」を打ち破ることは不可能です。(その場合は、聖遺物からイエス自身のDNAが採取されなければならないという二重の困難を伴います。)にもかかわらず、今日「イエス妻帯説」は『フィリポの福音書』などを根拠に、「イエス独身説」への斬りこみをかけています。
 この論争は、キリスト教会の姿勢如何では、永遠の堂々巡りになる可能性があります。

 以下ではその論争から離れて、最近の「特殊情報」でこの問題がどのように述べられているかのかをベースに、私自身の考えも織り込んで述べていきたいと思います。特殊情報(米国発)とは、「ある存在」からの「チャネリング情報」です。(出典等は伏せておきますが)どうやらこの存在は人類を「何万年も」見続けてきた存在のようです。そして実はこの存在のみならず、いくつもの違う存在による情報がこの問題について触れているのです。(裏を返せば、これは人類にとってそれだけ重要な問題であるということです。)そしてその何れもが、「イエスは妻帯していた」ことを示唆しているのです。
 私が以下のことを述べるのは、私自身が『どうやらこれが真実なのではあるまいか?』と考えるからです。しかし皆様にそれを信じるよう強要するつもりはありません。「チャネリング情報」の真偽も含めて、何事によらず一つ一つを自分で吟味、判断、識別して「真実」を見つけ出すこと。この姿勢が、今そしてこれからの私たちに強く求められていることなのです。
                         *
 「イエスが妻帯していたか否か」を問題にする場合、先ず見ておかなければならないのは、2000年近くもの長い間人類社会に絶大な影響力を及ぼしてきたローマカトリック教会(ヴァチカン)の存在です。
 なぜならイエスキリストの独身性は、(キリスト教をその支配下に置こうとするローマ皇帝・コンスタンティヌス一世の招集による)西暦325年の第一回ニカイア公会議以降の何度かの宗教会議で徐々に教義化されていったものだからです。それまではイエスが独身だったということを示す文献などは存在しなかったのです。(その辺の経緯については、映画『ダ・ヴィンチ・コード』の中でも描かれています。)
 
 時のキリスト教父たち(当時の宗教的権威たち)の、長きにわたる幾度かの宗教会議での激しい論争の結果、あるものは採用されまたあるものは捨てられまたあるものは捏造(ねつぞう)されて、新約聖書などという形で徐々に今日に到るキリスト教の根本教義が形成されていったのです。
 その過程は、2000年前パレスチナの地に「生身の人間」として生きていたイエスが、「神の独り子・キリスト」として絶対的に神格化されていくプロセスでもありました。キリスト教義の中でも、父と子と聖霊の「三位一体の神概念」と「キリストの独身性」はその根幹をなすものです。

 本考と直接関係はありませんが―。それらの宗教会議の過程で抹殺されたものに、「転生(てんしょう)の知識」があります。この真実を隠すことによって、「人間は一回限りの人生で死んで消滅する儚い存在」と信じ込ませ、「死の恐怖」を植えつけたのです。そしてひたすら従順な子羊のように、キリスト教会による救済を待ち望むように民衆を誘導してきたのです。(イエス自身は、弟子たちに転生に関することを説いていた可能性があります。)
 また悪魔=ルシファー説も、キリスト教会の奥から本当にコントロールしている存在を隠すための陽動作戦であったようです。ルシファー(元々の意味は「光輝くもの」)は確かに堕天使に違いないとしても、少なくとも悪魔ではなさそうです。
 それにまた、聖母マリアによるイエスキリストの「処女懐胎」にも大きな疑問符がつきます。これはキリスト物語でも最も美しい奇跡物語です。しかしイエスがあくまで三次元のこの世に生身の肉体として生まれてきた男子である以上、通常の性行為を経ずして遺伝学上の基本であるY染色体をどうやって入手出来たのか?が大問題になるのです。

 少しお考えいただければお分かりかと思いますが、人間を操作(コントロール)するには、「宗教」を用いるのが一番簡単です。
 以上のようなことから、ローマカトリック教会は「何ものか」によって人類社会をコントロールするために被せられた「巨大な網(ネット)」だったと言えるのです。そのコントロールの大きな手段としての「キリストの独身性」(上記情報によれば「キリストの去勢」)は、「人類史上最大の嘘」と言えるものなのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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日々雑感(2)

 全国の広い地域でそうなのかもしれませんが、当地では28日のきのう、そして29日のきょうと2日続けての雨となりました。まるで梅雨の走りのような具合です。
 でもここ最近は晴天続きだっただけに、農作物や木々や草花にとっては恵みの雨なのでしょう。連日の雨ではうっとうしい気分になるというけれど。今は緑の豊かな季節、雨によりいっそう緑が引き立って感じられ、何か清涼感すら感じます。
 街並みもまるで雨に洗われて甦ったよう。遠くの大山や丹沢の峯々も煙って、さながら墨絵ぼかしの水墨画の遠景の風情です。

 ところで、現在当ブログも「アクセス解析障害発生中」です。

 最初に気がついたのは、同記事を一通り完成させいつものとおり『さあ、やっと終わったぞ。公開させるか』と、記事作成画面を「今すぐ公開」にして「保存」クリック、何十秒か待ってココログ、グーグル、ヤフーなどへのデータ送信(ping通知など)。それも無事完了したようなので、記事作成画面から離れようとした時でした。(29日午前1時半すぎ。)
 次の画面で、「問題が発生しました。管理画面トップに戻ってください」という表示が出たのです。以前何度かこの表示が出たことがあります。いずれもやや深刻な問題が生じた時でした。ですから今回も、何となくイヤな予感がしました。

 指示どおり管理画面トップに戻ました。その時点では、特別異常は感じられませんでした。それで2、3度クリックして、通常皆様がご覧になっている当ブログのトップ面まで戻りました。いつものとおり新記事である『イエスとマグダラのマリア(2)』がきちんと公開されているかを確かめ、次に同記事を何度か読み直して、誤字、脱字また修正すべき個所がないかなどをチェックするためです。
 一回で完璧にオーケーということは先ずありません。何かしらの誤りや、修正したい文章などが必ず出てきます。その個所を頭に入れながら、もう一度ログインから記事作成画面に到り、必要個所を直します。それを何度か繰り返し、ようやく皆様に何とかお読みいただけるような体裁の記事となるわけです。(それでもなお誤字などに気づけず、ずっと後になって読み返してそれを発見することもあります。)

 何とか最終チェックが終わったのが、午前2時前後。管理画面の「アクセス解析」をクリックして、『きょうのアクセスの出足はどうかな?』と確かめようとしました。通常は午前零時からのその日のトータルの訪問者数や同アクセス数が表示されます。さらに調べようとすれば、いつの時点でどんなIDの人が、どの記事にアクセスしてこられたのか、また時間ごとの訪問者数、アクセス数などが分かります。
 このアクセス解析をじっくり検討、分析することは、ブロガーとしていろいろな意味で重要なのです。

 ところがこの日に限って、アクセス解析画面が真っ白なのです。『何じゃ、こりゃ?』と一瞬頭が真っ白になったのは、私の方です。こんなことは、ブログ開設以来初めてのことですから。
 最上部に「障害発生」を知らせる一行のコメントがありました。『まさかこうなったのは、ウチのせいじゃないだろうな?』とヒヤッとしました。しかしその後冷静になって調べますと、「ココログフリーの一部に」アクセス障害が発生したのは、午前0:30頃のようです。私が新記事を公開しようとしたのは午前1:30過ぎでしたから、その時は既に障害が発生していたわけだ。と妙に納得、一安堵しました。
 しかしその後じっくり調べてみますと、アクセス解析の非表示はおろか、トップ面の「検索フレーズランキング」や「アクセスカウンター」も消えているし…。まったく困った事態です。

 まる1日経過した30日未明(午前1時前)の段階でも、まだ復旧されていません。ですから、29日午前零時から今現在まで、どれだけの人が訪問され、どんな記事にアクセスされたのかなどまったく把握出来ておりません。それのみか、本来は開設以来の1日当たり、月当たりなどの過去の数字を遡って調べることも出来ますが、それも全部消されている状況です。
 本当に困った事態です ! 大弱りです ! まさか過去のアクセスデータは全部消去されて、復旧されてもその時点からまったく新たにやり直し、などということはないんでしょうね !?それよりも何よりも、その日の訪問者数、アクセス数がまったく分からないというのは、ブロガーとして張り合いないことこの上ありません。

 @nifty ココログ様。少しでも早い復旧、そして過去のデータが復元されていますよう、切にお願い申し上げます。

 (注記) なお今後書く記事につまった時のために、『日々雑感』をシリーズ化することにしました。とりとめもない雑文になろうかと存じますが、なにとぞご了承ください。

 (追記) おかげ様で、上記アクセス解析障害は、5月末日完全に修復致しました。

 (大場光太郎・記)

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イエスとマグダラのマリア(2)

 それにしても、映画『ダ・ヴィンチ・コード』をはじめとして、近年「イエスは妻帯していたのではないか?」とする問題提起や論争が巻き起こっているのはどうしてなのでしょう?

 これは20世紀半ば頃、これまで正典(カノン)とされてきた新約聖書の4福音書以外に、『(マグダラの)マリアの福音書』(断片のみ)『トマスの福音書』『フィリポによる福音書』などが発見されたことによるものです。
 (後にご紹介しますが)これら外典(げてん)の中でマグダラのマリアは、イエスとの親密なようす、男性たちと並ぶイエスの弟子として記述されているのです。
 これらに基づき一部聖書研究家たちによって、イエス宣教の旅での女性たちの役割りや、マグダラのマリアの地位を見直させることになったのです。

 ここで従前の「マグダラのマリア像」について、以下に簡単に述べてみます。
 4福音書において、マグダラのマリアは出身地や行跡などは詳しく触れられていません。ただカトリック教会では早くから『ルカによる福音書』に登場する、「娼婦」を意味する「罪の女」と同一人物視してきました。そのためいつしか、金持ちの出自でありその美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悪霊に取り憑かれた病を癒され、以後改悛したというイメージが定着していくことになります。
 それでもよほど悔い改めがずば抜けていたのか、マグダラのマリアはカトリック教会、正教会、聖公会いずれにおいても、列聖されたレッキとした「聖人」なのです。そしてなぜか、民衆の間では人気の高い聖人の一人でもあります。

 またマグダラのマリアが新約聖書においてひと際重要なのは、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で磔にされたイエスを遠くから見守り、イエスが捕えられるとともにチリヂリに去っていった弟子たちの中にあって、その埋葬までを見届けたこと。さらには、『マタイによる福音書』などによると、「復活したイエス」に最初に立ち会った一人とされることです。
 そして彼女は復活したイエスからじかに、復活の事実を弟子たちに伝えるように言われたとされることです。このため(娼婦に貶められる以前の)初期キリスト教父たちから「使徒たちの(中の)使徒」と称えられたということです。

 これはあくまでも私見かつ余談ながら―。
 十字架刑から3日目で、イエスキリストは死者の中から復活した。これはキリスト教徒以外はとても信じられることではないでありましょう。しかし私は、十分にあり得ることだと考えます。
 イエスのみならず。「ヨガの奥義」を極め肉体を含めた諸体を精妙化させることによって、例えば自分の体をそこに残しながら同時に何百キロも離れた弟子の前に姿を現したり、1800年間もこちらの世界とあちらの世界を自在に行き来できたり、300年以上40歳くらいの姿で生き続け近代西洋史の重要な場面を陰で支えたり…という超人たちが実在したのです。
 彼ら大師級の存在は、私たち凡人の生死の尺度など遙かに超越しているのです。なおイエスは、福音書ではまったく触れられていない、ヨルダン川での洗礼以前の空白の18年間、インドやエジプトで高度のイニシエーションを受けていた可能性があります。

 さて今度は「外典」において、マグダラのマリアはどのように記述されているのかを見てみましょう。『ダ・ヴィンチ・コード』でも引き合いに出されていた『フィリポによる福音書』の2ヶ所で、彼女について言及されています。

 「三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリアと彼女の姉妹と彼の伴  侶と呼ばれていたマグダレーネーであった。」

 ここではマグダレーネー(マグダラのマリア)は、ズバリ「主(イエス)の伴侶」と記述されています。もう1ヶ所は、弟子たちすべてよりイエスが彼女を愛しているのを見て、弟子たちがイエスに尋ねる以下の場面です。

 「主は、マグダラのマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして、主は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子達は、主がマリアを愛しているのを見た。彼らは主に言った。「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか?」救い主は答えた。「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのだろうか」。」  (以上岩波書店版・荒井献訳より) 

 4福音書の記述とはまったく異なるマグダラのマリア像であり、イエスキリスト像です。
 もしこれらの記述が本当なら、2,000年近く不動の教義であり続けた「キリストの独身性」や「キリスト像」あるいは「男性のみの12使徒像」は根底から揺らぐことになります。(ついでに、聖母マリアに姉妹がいたとする記述も新事実です。)
 真実は一つのはずです。さて真実はローマカトリック教会の方なのでしょうか?それとも外典としてこれまで除外されていた『フィリポ福音書』などの方なのでしょうか?  (以下次回につづく)

 (注記) 本シリーズ(1)では、聖書として採用された以外の古文献は、抹殺もしくはヴァチカンの奥深く秘匿されているという趣旨のことを述べました。しかし今回ご紹介しましたように、今日既に一部表に出されている文書もあったわけです。以前述べましたとおり、今が「黙示録の時代」だとしますと、そのギリシャ語は「アポカリプス」、つまり覆い隠されていた真実が明らかになるという意味だそうです。
 皆様思い返されればご納得のとおり、そういう現象は今日社会の各分野で多く見られるようです。上記古文献も、あるいはその一例なのでしょうか?
 ともかくも、上の件は私の浅学によるミスであり、謹んでお詫びしつつ訂正致します。

 (大場光太郎・記)

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絶句

      杜甫

  江碧鳥逾白   江(こう)碧(みどり)にして 鳥逾(いよいよ)白く
  山靑花欲然   山靑くして 花然(も)えんと欲す
  今春看又過   今春看(みすみす)又た過ぐ
  何日是歸年   何(いずれ)の日か 是れ 歸年ならん

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 杜甫(とほ) 712年(先天元年)~770年(大暦5年)。現在の湖南省生まれ。中国盛唐の代表的詩人。字(あざな)は子美。杜少陵、杜工部とも呼ばれる。律詩の表現を大成させた。詩人としての最高位の呼称である「詩聖」と後世の人から讃えられ、同時代の李白と並び称される。
 杜甫の詩の特徴は、社会の現状を直視したリアリズム的な詩が多く、一時交流のあった李白の幻想的で自由闊達な詩風とは反対の詩風をもっていた。特に756年の「安禄山(あんろくざん)の乱」では、杜甫自身壊滅した首都・長安から脱出し一時賊に捕まり幽閉された。それらの体験に基づいた、代表的な詩『春望』などの悲しみに満ちた詩を作っている。
 杜甫は「漂泊の詩人」として、古来我が国の文学作品にも多大な影響を及ぼした。特に松尾芭蕉は、杜甫に深く傾倒していた。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「杜甫」の項より)

 この詩を最初に学んだのは、高校2年頃の漢文の授業だったと思います。私の漢詩の知識はそもそも高校漢文が土台になっています。その後20代後半の頃、岩波文庫版『唐詩選』や岩波新書の吉川幸次郎の『新唐詩選』を、少し読んでみたくらいなものです。ですから決して偉そうなことは言えませんが、私の乏しい漢詩知識の中で杜甫は最も好きな盛唐詩人です。そしてその杜甫詩の中でも、この『絶句』が一番のお気に入りです。

  江碧にして 鳥逾白く
  山靑くして 花然えんと欲す
 最初のこの二句のたった十文字だけで、杜甫が目の当たりにしている春景が完璧に表現されていると思います。極めて視覚に訴えてくる詩です。杜甫とともに、ビジュアルにこの詩の景色がたどれそうです。
 この詩は、安禄山の乱を逃れて、古えの蜀の都・成都に避難していた頃の作といわれています。ですから「江」は一般的に大きな川という意味ですが、この詩では成都を貫流して長江へ注ぎ込む一支流となります。
 第一句の「江碧鳥逾白」と第二句の「山靑花欲然」は、「江の景」と視線を転じた「山の景」の対(つい)になっています。それとともに、第一句はさらに「江碧」と「鳥(逾)白」と句中の対、また第二句の「山靑」と「花然」も句中の対になっており、このような対比の妙により精緻を極めた詩との感を深く致します。

 「碧(みどり)」はあおみどり色、今風な表現ではエメラルドグリーンです。川の水がエメラルドグリーンであることによって、その上を飛び交っている水鳥の白がいっそう引き立っているように思われます。
 「山靑」は、青葉の深緑に覆われた山のさまをイメージすればよいと思います。「花然」は「花燃えん」ですから、花の色はさながら今しも炎をあげて燃えるばかりの赤い色なわけです。ここでも、「青」と「赤」の際立った色彩的コントラストの妙がみてとれます。

 と晩春の大景を余すところなく叙景して。転句である第三句において、一転杜甫自身の内心の吐露となります。
  今春看又た過ぐ
 今年の春もこうしてみすみすやり過ごしてしまったか ! という詠嘆です。歴史的な大詩人の詠嘆とはおよそ比較にならないものの、私もまたこのような嘆きをいっぱい持っている一人です。特に20代の頃は、過ぎて去っていく日々というものに今よりずっと鋭敏だったようです。それが証拠に、毎年惜春の候になると決まってこの詩が思い出され、独り『あぁあ。今春みすみすまた過ぐ…か』などと思っていました。そうして何かしら満たされない想いの残る、青春の一春一春を見送ってきたような気がするのです。

  何の日か 是れ 歸年ならん
 そして結句の言葉です。この感懐は、同じ杜甫の詩の『春望』とどこか共通しているように思われます。安禄山の乱よ早く収まってくれ、私は郷里に戻りたいのだ、という祈りのような心情だったのでしょうか。
 この感懐によって、杜甫は目の当たりにしている美しい江山の景色を、ただ単純に賛美しているのではないことが分かります。美しい詩の言葉の言外に潜ませている哀しみ。これこそが杜甫詩の魅力です。

 (大場光太郎・記)

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ある夜の呼び声(3)

 ところで私はただひたすら、キリスト教のみに没頭していたわけではありません。子供の時から関心があっちこっちに飛びやすく、予めカリキュラム化された学校の勉強が大嫌いだった私のクセがここでも出ました。
 宗教書コーナーのすぐ近くには、当時ブームになっていた「精神世界コーナー」がありました。(今でいうスピリチュアルブームの先駆的現象といったところだったでしょうか。)私は自然とそちらにも惹きつけられていったのです。
 
 そのコーナーには、ポルトガルのファティマをはじめ世界各地に出現しているという聖母マリアのメッセージ、ノストラダムスの予言、心霊現象、超常現象、UFO現象、日本霊学、超古代文明関連、世界的秘密結社情報など、多くの批評家から「トンデモ本の類い」と一笑されかねない本が、玉石混交所狭しと並べられていました。
 「神」という無限の存在に少しでも近づき、私自身の「使命」の何たるかを知るには、それらにも目を通さなければと思ったものなのか。それとも、昨年の『私の不思議体験(1)』で述べましたとおり、幼少から不思議なことや神秘的な現象に共鳴しやすい体質だったからなのか。私はそれらにあまり抵抗なく(でもさすがに、最初の2、3冊を買う時はドキドキしました)、未知の神秘ゾーンに踏み込むようなワクワク感さえありました。

 しかし今思うに、最初にキリスト教を研究したのは正解でした。現世界システムの根底にあるのは、仏教でもイスラム教でも他の何教でもなく、キリスト教だからです。近現代世界の強力な推進力であった「西洋近代原理」にすら、キリスト教は色濃く影響を止めています。
 より深い世界理解のために、キリスト教の最低限の知識は欠かすことが出来ないのです。

 当初から何となく漠然とながら、この世界あるいは見えざる世界に共通して貫く「途方もなく大きな構図」のようなものがあるはずだという予感がありました。
 それがどれだけ把握出来るかは実は、私自身の「神との距離感」にありました。最初の頃、私にとって「神」はおよそ掴み所のない途方もなく遠い存在でした。(お断りしておきますが、今日の私にとっての「神」とはキリスト教的な「一神教の神」のことではありません。)
 しかし玉石混交数多ある類書を片っ端から読み込んでいくことにより、次第に玉と石ころの区別がつき始め、「神」は微笑みながら一歩ずつこの私に近づいてくれるようでした。それとともに、それまで分からなかった超巨大な構図が、まるでジグソーパズルをはめ込むように徐々に鮮明になってきたのです。
 そのためには、紀伊国屋書店や神田の三省堂書店に足しげく通って優れた霊的書物を探したり、TM超越瞑想、ヨガ教室、大本教系の勉強会など、各種セミナーに機会があれば参加したりしました。

 当時の精神世界ブームそして今日のスピリチュアルブームには、共通して大きなテーマがあるように思います。それはどうやら、大方の人が未だに信じ込んだいるように、現歴史は孫末代までこのまま続くようなものではないということです。(今では具体的な日にちまで分かっているつもりですが)近未来に何か途方もない超変化がこの世界に訪れ、この世界と人類全体が飛躍的に進化させられるのではないだろうか?という可能性です。
 世間一般はあまり関心を示しませんが、今日まで刊行されてきた夥しいスピリチュアルな書籍も、各種セミナーも、「前もってその時に備えよ」という、高次元世界からのプログラムの一環であるように思われるのです。
 だから「私の使命」とは、何かしらそれに関わることなのではないだろうか?とごく初めの段階でおぼろげながら感じておりました。

 話は変わって―。「お前のこの世での使命は何だ ! 」という全く同じ呼び声を聞いた人物が、私以外にあと一人いたのです。誰だと思います?意外な有名人です。「1・2・3ダァーッ」や「闘魂ビンタ」でおなじみのアントニオ猪木です。
 アントニオ猪木はご存知のとおり、1989年の参議院選挙で「スポーツ平和党」を結党し、自ら立候補しました。たまたま聞いた彼の政見放送で分かったのです。同放送の終わりの方で、何と驚いたことに猪木は、私とほぼ同じような状況で背後からの声を聞いたことを身振り手振りで示したのです。「その出来事によって、今回の参院選に立候補したのです」というようなことも話していました。確実ではないものの、聞いた時期も私と同時期くらいのようでした。

 アントニオ猪木は同選挙で100万票弱くらいの得票数で当選し、1期6年間参議院議員を務めました。またその後の活躍は広く世間に知られるところです。「同じ声を聞きながら何たる彼我の差よ」といったところですが、これは個人的力量のしからしむところであり、いかんともしがたいものがあります。
 しかし2人がその声を聞いたということは、あの時もっと多くの人が聞いた可能性があります。ただそのような体験は、私自身今回初めて公開するように、通常の話題にはなりにくいものがあり表に出なかっただけなのかもしれません。
 それとも、私とアントニオ猪木とでは個性も生き方も人間的力量もまるで違うものの、同じ「魂やモナド」に属しているのでしょうか?あの呼び声は、私たちを統括する「オーバーソウル」からの何十人,何百人かのソウルメイト、モナドメイトへの「緊急招命(コーリング)」のようなものだったということでしょうか?

 あの夜の呼び声から、早や27年の歳月が経過しました。時折りその声が思い出されては、その時点での自分の立ち位置が今どの辺なのかを確認してきました。そしてそれだけの長い歳月、ただの一日も欠かすことなく「真理探究」をし続けてきたつもりです。
 とっくに「神我一体の境地」に達して、世間的に誰の目にも明らかなほどの輝かしい使命を果たしてしかるべきはずです。
 しかし「日暮れて道なお遠し」が、偽らざる実感です。この数千年間に埋め込まれた、人間個々の「制限と限界の意識」がいかに強固なものであるかを思い知らされます。

 それはそれとして。今の私は、使命とは何も大げさなものでなくてもいいと思っています。その時点で出来ることを、一歩一歩着実に。例えば、ささやかながら当ブログを運営していることも、そしてこのような情報を発信していることも「使命の一つなのかな?」と思う、きょうこの頃です。   ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

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ある夜の呼び声(2)

 その声は背後から、聞き逃すことが出来ないほどはっきりと響き渡りました。
 ただ一言。「お前のこの世での使命は何だ ! 」。
 しかし真夜中の道、もちろん私以外に歩いている者は誰もいるはずがありません。つまりその声は、背後から聞こえてきたものの、私の「内なる声」だったわけです。

 今となってはその声を聞いて、その時どんな反応をしたのか、まるで覚えていません。あまりの事態にただ茫然自失だったのかもしれません。
 しかしそれは、私に徐々に深いところから影響を及ぼしていったもののようです。声の出処など分からないとしても、わざわざ「この世での使命は何だ ! 」という呼び声があったということは、今まで使命に則った生き方をしてこなかった、あるいはそういう生き方とはほど遠かったということに他ならないわけですから。
 それとともにその声は、首都圏に生きる無数の人たちの中の一平凡人にすぎないこの私にも、『そうか。何らかの使命があるのか ! 』という勇気も与えてくれました。

 この出来事をきっかけに、生まれて初めて「神」とまともに向き合ってみようという意識が芽生えました。翌週日曜日は仕事も休みだったので、本厚木駅前の有隣堂書店に行きました。そして、各種専門書が置いてある地下売り場に降りて行ったのです。目指すは滅多に足を向けたことのない宗教コーナー、それもキリスト教関係の本が並んでいる書棚です。
 聖書をじっくり選んでいました。その結果旧約、新約合冊本は分厚いから止めにして、巻末に(旧約の)詩篇つきの口語訳新約聖書を買い求めました。
 こうして33歳にして、生まれて初めて聖書を読み始めました。『マタイによる福音書』中の「山上の垂訓」では、本を読んであんなに涙がとめどなく流れたことがないほどだったことは、昨年の『空の鳥、野の花(1)』で述べたとおりです。

 最初に選んだのが、なぜキリスト教の聖書だったのか?これには伏線がありました。
 本記事(1)で少しふれた「少女」の影響があったからと思われるのです。彼女は当時17歳になったばかり。前年の秋口頃、私が所属していた会社の同じ課にアルバイトとしてやってきました。その後某官庁発注の、土木構造物における「地盤改良」「耐震構造」の過去の主要文献調査の仕事で同じチームになりました。
 7階にある同社の資料室で二人っきりで調べものをしたり、1キロほど先の早稲田大学理工学部の図書館に一緒に行ったり…。お姉さんと共に長崎から上京してきて、間もないようでした。変に都会ズレしていない純真な彼女にいつしか惹かれていき、次第に『キュートな娘(こ)だ』と思うようになっていきました。

 長崎は原爆投下の爆心地付近に、有名な浦上天主堂があったことから分かるとおり、昔からキリスト教(カトリック)が盛んな土地柄です。後に雑談から分かったことは、彼女の家庭もキリスト教だったらしく、たまに私の方からキリスト教関連の質問をしたりしました。こうしてキリスト教への関心が徐々に芽生え、その上別れによる喪失感も重なって…。
 本記事とは関係ありませんので、彼女との詳しいいきさつはこれ以上述べません。出会いから別れまで、たった5カ月という短い期間でした。しかし私の半生の中で「忘れ得ぬ人々」の一人であったことは間違いありません。なお「二木紘三のうた物語」の『なごり雪』の短文コメントは、彼女について述べたものです。

 ―その呼び声は、ただ「お前のこの世での使命は何だ ! 」という問いかけだけなのです。具体的に「お前の使命は、かくかくしかじかだから、こういう道に進みなさい」と具体的に教えられれば、ずっとたやすかったはずです。しかし何か方向性が示されるかな?といくら待ってみても、後はうんともすんともありませんでした。
 今考えると、人間何でも一々見えざるガイド(守護霊、守護神)やハイアーセルフ(高次の自己)の指示にばかり頼っていると、いつまでも真の自立が出来ない。それゆえ「使命とは何か」は自分で探求して自分で答えを見つけよ。ずいぶん遠回りのようでいて実はそれが一番確かな道なのだ、ということだったのかもしれません。

 ともかく私は、その深夜の呼び声から1、2ヶ月後都内の同社を辞し、以後地元を中心に職を転々とし、苦しい職業生活、日常生活を送りながら、密かに求道者の道を生きることになったのでした。   (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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ある夜の呼び声(1)

 今から四半世紀以上前の、昭和57年の春のある深夜の出来事です。
 
 私は当時(以前何度かふれたことがありますが)、東京都内は明治通りに面したビルの4階にある会社で業務を行っていました。その会社というのは、新日本○○開発(株)という土木コンサルタント会社でした。日本工営や(最近東南アジアでの土木建設に関して贈賄で問題になった)パシフィックコンサルタンツの次の次の次くらいの規模のコンサル会社でした。
 その会社に勤務して2年余ほど。といっても正社員ではなく、当初は日本工営を退職した社長が海老名市で経営する土木設計会社から、その会社に派遣される形でした。今でいう派遣社員の走りといったところでしょうか。

 後に派遣元社長の失踪事件があり、同社と私個人との直接の雇用契約となりました。一時は担当部長から「社員でどうだ」という話があり、同社の役員会に諮ったものの、30過ぎという年齢がネックとなり没になったもようです。
 直接契約ですから、当時としては十分な報酬でした。しかし仕事はかなり苛酷でした。出社は午前10時、従って居住地の厚木市の自宅を8時過ぎに出れば十分間に合います。
 しかし一旦仕事が始まると、そこからが大変なのです。確か月曜から土曜までびっしり毎晩9時過ぎ、10時過ぎ。日曜出勤はざら、月に何度かは会社にそのまま泊まりこみという状態でした。。

 相手は建設省(当時呼称。現国土交通省)や日本道路公団(当時呼称。現在は分割民営化)などです。私の所属部署は道路課でしたから、もっぱら上記役所発注の例えば常磐自動車道路などの道路設計に当たるわけです。
 官庁の仕事は、とにかく納期が厳格です。一つの道路設計は、基本設計、概略設計、詳細設計という具合に3段階くらいに分かれ、それぞれに納期を切られその日までに何が何でも当該官庁が要求するレベルの設計書ならびに設計図面をどっさり揃えて、担当者たちが役所に持っていかなければならないのです。
 当時はバブル期に向う上昇経済だったのか、全国的に高速道路建設ラッシュの活況を呈していたようです。ですから、同社もとにかく日々戦争のような忙しさだったわけです。

 早春のある夕方、私はたまたま新宿の紀伊国屋書店の一階前にいました。社用でその付近に来たついでに寄ったのか別の理由があったのか、記憶は定かではありません。同書店店頭に備えられたスピーカーから、ある少女の歌声がしきりに流れていました。少し甲高いそして幾分金属的な歌声です。

   都会は秒刻みの あわただしさ
   恋もコンクリートの 篭の中
   君がめぐり逢う 愛に疲れたら
   きっともどっておいで  
   愛した男たちを思い出に変えて
   いつの日にか 僕のことを
   思い出すがいい
   ただ心の片隅にでも小さくメモして

 薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』でした。私はその歌になぜか惹きつけられて、そこから離れられずしばらくじっと聴き入りました。直前の、薬師丸と同じ年頃の少女との出会いと別れが切実に胸迫ってきて、喪失感に襲われて動けなかったというのが正直なところです。(但し、淫行に当たるようなことは何もしていません。)
 やっと我にかえってから、その頃の時代の空気をうまく伝えている歌だなあと率直に思いました。昭和53年に(霞ヶ関は共同通信社ビル内の)新東京国際空港公団の仕事に従事してから、東京での仕事も早や4年。『東京はもういいなあ』とも。

 それから少し経ったある日、ほぼ終電くらいの小田急電車で本厚木駅に着きました。駅から深夜バスに乗り込み、当時住んでいた住居近くのバス停で降りました。そこから砂利道を7、800m歩いて母の待つ我が家です。
 確かクレマチス(当時はそんなシャレた名前ではなく「鉄線」)が、通り沿いのとある家の庭先にいっぱい咲いているような季節でした。だから仔細に覚えていないものの、春たけなわの4月中旬頃のことだったでしょうか。

 既に深夜12時も回った頃合。表通りではありませんから、街灯はあまりなく薄暗い夜道です。そんな通りをいつもながらに、疲れた体を引きずるようにして何も考えずただボーっと歩いていました。
 我が家までちょうど半分くらいの所でのことでした。突然不意打ちのような、背後からの声が聞こえてきたのです。
 「お前のこの世での使命は何だ ! 」   (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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イエスとマグダラのマリア(1)

 『天使と悪魔(2)』で既報のとおり、先週のフジテレビ「土曜プレミアム」で『ダ・ヴィンチ・コード』を初めて観てみました。感想も既に述べましたが、最初から最後まで息もつかせぬ謎解きとサスペンスの連続で、本当に見応えのあるものでした。マインドとハートが大いに刺激されました。
 多分これをお読みの方の中には、同映画をまだ観ておらず「今後DVDで観てみるか」という人もおられるかと思います。よって詳細な感想などは述べない方がよいと思います。
 ここでは、同映画のメーンテーマに絞って、タイトルも『イエスとマグダラのマリア』ということで以下に述べてみたいと思います。
                          *
 『ダ・ヴィンチ・コード』のメーンテーマは、イエスキリストは本当に妻帯していたのかどうか?という一点に尽きると思います。同映画では、「(マグダラのマリアと)妻帯していた」という前提でストーリーが展開されていくわけです。
 しかし上記問題は、今なお世界全体を根底から揺るがしかねない大問題です。特に何億、何十億人ものキリスト教徒にとっては、聞き捨てならない邪説、妄説の類いということになるでありましょう。

 ここで参考まで、私自身のことを述べさせていただきます。
 私はひょんなことから、昭和57年の春頃、生まれて初めてキリスト聖書を読むことになりました。福音書の解説書やキリスト教の教理本なども読みふけりました。その結果実は私は、厚木カトリック教会のイタリア人神父さんを通して、洗礼を受ける一歩手前までいったのです。
 しかしそれを思いとどまらせる、強い力が働きました。意外だとお思いでしょうが、昭和天皇の崩御でした。特に大喪の礼を観ていて、私の内で眠っていた「日本民族の血」が呼びさまされた格好です。「神父様。申しわけありません。私はどうしても、洗礼を受けることが出来ません」。神父さんは私の堅信の無さを見ておられたのか、無理に引き止めようとはしませんでした。

 実はその頃から、「イエスとマグダラのマリアは結婚していた」という異説があることを知っていました。また当時も、それをテーマにした映画が、ヨーロッパを中心に公開される、されないで大センセーショナルが巻き起こっていたようでした。詳細は知りませんが、結局当時はまだ強大だったヴァチカンの圧力によって、映画そのものが上映取り止めになったのかもしれません。
 そのくらいでしたから、私はキリスト教会の無謬性を信じ込むあまりそんな異説を知っても、内なる「キリストの独身性」を打破するには大変な年月を要しました。打破出来たのは、アメリカのスピリチュアルな著作物が多く翻訳され国内で出版され出した、ここ何年かのことです。

 イエスの独身性は、純粋に宗教教義上の問題です。よってこれを、「確かにイエスは生涯不犯の独身だった」と学術的に証明するには甚だなじみません。この場合はむしろ逆に、「イエスは妻帯していた」という確かな根拠なり、2千年前の何がしかの動かぬ古文献の存在が求められることになります。しかしそれとてもローマカトリック教会によって、「異端文書」は悉く抹殺もしくは奥深く秘匿されて来たはずで、極めて可能性の低いことです。
 ことほどさように、キリスト教会という人類史上最も強固な信仰体系に対抗するには、途方もないエネルギーが必要とされてきたのです。

 しかし今日ヴァチカン(ローマカトリック教会)の力ようやく衰え、『ダ・ヴィンチ・コード』のようにヴァチカンの根本教義にまともに抵触する大問題映画も、全世界で公開が可能になりました。
 これはヴァチカンを陰でコントロールしてきた「彼ら(暗黒勢力)」のパワーの低下を示すものであり、大変歓迎すべき事態だと思われます。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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日々雑感

 ゴールデンウィークは慌しく過ぎ去り、気がついてみると5月も早や下旬です。今週はまずまずの晴天続きで、先日『初夏だより』でお伝えしましたように我が街はすっかり初夏の装いです。
 そうしましたら、夜半からつい今しがたまで雨が降りました。土砂降りではなく、連日の暑さを少しばかり冷ましてくれそうな、五月の静かな夜雨です。

 話は変わって―。きのう21日から、いよいよ「裁判員制度」がスタートしました。同日朝の某ワイドショー番組で同制度に触れ、その中で毎度おなじみのO弁護士が、「昔々は人を裁けるのは、王様しかいなかった。それがこの制度によって、一般国民が人を裁けることになったのだ。主権在民ならではの画期的な制度だ」と、同制度のアピールにこれ務めていました。法務省直轄組織・日弁連を代表した見解なのでしょう。
 しかしフジテレビが緊急に実施した世論調査では、「あなたは裁判員として参加したいですか?」という質問に対して、「したい 16.2%」「したくない 45.8%」「あまり気が進まないが義務なので仕方がない 37.2%」。消極的理由も含めた否定的な意見が「83%」にも上りました。法務省としては、「国民へのPRがまだまだ足りなかったか」というような数字です。

 私も行政書士という「法律家のはしくれ」として、出来れば当日までに裁判員制度についての拙い所見など、と考えておりました。しかしなまじ法律をかじっているだけに、述べづらいこともあるものです。
 いえこれまで何度か述べてきましたように、私は実は「隠れ法律嫌い」でもあるのです。それでも業務上のメシの種である「民法」なら、これまで第1条から第1044条までつまり終いまで3、4回ほど読み返してきました。しかし「民事訴訟法」や「刑法」となるとまるでお手上げです。ズブの素人と何ら変わりありません。私は東北の農耕民の血筋のゆえなのか、そもそも争いごとが苦手、喧嘩ベタな人間です。それが、刑法学習から遠ざけている大きな要因かもしれません。
 ただ同制度は見直すべき点が多々あるとしても、ともかく制度としてスタートしました。国民すべてが、裁判員となって「死刑か否か」を裁かなければならなくなる可能性があります。いずれ私自身しっかり勉強して、皆様の同制度理解の一助となりますかどうか、ささやかな情報を提供出来ればと思います。

 直前記事『草なぎ剛 手紙』、おかげ様で大好評でした。当日21日、当ブログ史上(笑)どれだけ凄い数字が出たかは、同記事コメントにて触れておきました。そうしましたら、翌22日はもっと凄いことになりました。
 日をまたいでも、同記事へのアクセスは引きも切らず。結果、前日の1日訪問者数131人をこれまたあっさり更新し、「156人」という驚異的な数字をはじき出しました。まあ、今後どんな旬な記事を出そうとも、当分突破出来そうにない数字です。(アクセス数も、きのうの245にわずか及ばない「243」でした。それでもさすがに夕方以降は下火傾向です。)

 ところで『天地人』シリーズも人気記事の一つです。ここのところ、「天地人 おもしろくない」検索でのアクセスが続いています。私もドラマは毎回観ていますが、まあ何とコメントしていいのやら、批評・批判してよいのやら。シリーズも(10)で止まったままです。
 一言だけ申せば―。前々回の「本能寺の変」。ご存知織田信長の死を扱ったものでした。今まで大河ドラマでも、他の民放各局の歴史ドラマでもばしば取り上げられた題材だと思います。推察するに、熱演した信長役の吉川晃司には悪いけれど、これまで一番つまらない本能寺だったのではないだろうか?と思われるのです。あまりに演出が度を越しすぎて、リアリティと迫力を欠いたシーンになってしまったのではないでしょうか?

 本夕所用で、平塚市に向いました。同市内の平塚市役所に向う、片側に工場などが建ち並ぶ通り沿い。途中工場群と反対側に、鬱蒼たる高い木立に囲まれた平塚球場もあります。その通りの、パイロット平塚工場の道路境のフェンス越しに、200~300mバラがズラッと連なっています。ちょうど今を盛りに、色とりどりの見事な大輪が咲き誇っているのです。
 同市では有名なのかどうかは知りませんが、この時期恒例の華麗なバラの花の眺めです。

   くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 それを見やりながら、正岡子規のこの短歌がふと思い出されました。詠まれているのは、「薔薇の芽」「春雨」と、大輪のバラの花咲く今の季節ではなく、もっと前の若い季節です。
それなのに、なぜこの歌がひょいとよみがえってきたのだろうか?無意識とは奇妙奇天烈ですから分かりません。但し私自身、バラの詩、短歌、俳句などをあまり知らないことも事実です。
 この短歌を知ったのは、中学2年の頃。近代短歌というものに接したそもそもの頃のことでした。『短歌とはこんなに素晴らしいものなのか ! 』。まるでこの短歌の活字が、本から躍り出てくるような感覚に捉えられたことを覚えています。

 (大場光太郎・記)

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草なぎ剛 手紙

 SMAPメンバーの一人である草なぎ剛が、泥酔して深夜裸になり、公然わいせつ罪で逮捕されほどなく釈放されてから、約1ヶ月ほどが経ちます。

 彼の逮捕のニュースに、彼のファンはもとより国民の多くから、「たかが深夜酔っ払って裸になったくらいで、何で逮捕されるわけ?そんなことしょっちゅうあるじゃん」というような疑問の声が多かったようです。確かに冷静に考えてみれば、ハメを外した酔っぱらいに対しては通常取り押さえて補導。一晩留置所に入れておき、翌朝素面(しらふ)に戻ってからきついお咎め、「以後このような不始末は二度と致しません。云々」の念書を取って釈放、そんな次第で済む話なのではないでしょうか?
 やはり警視庁赤坂警察署は、全裸になり大声で喚き散らしている彼の言動から、(当ブログで何ヶ月か前取り上げたように)芸能人にありがちな薬物使用を先ず疑い、取り合えず緊急に「身柄の確保を」となったようです。
 
 逮捕から間を置かずに、都内の草なぎ剛の自宅を家宅捜索したことで、その意図は明瞭でした。しかし捜索の結果は、薬物使用を示す物的証拠は何も出てきませんでした。(唯一の成果?は、彼の住居所在地が公けに明らかになったこと。それまで彼は、SMAPのメンバー特に親友の香取慎吾にさえ住居は秘密にしていたそうです。)
 その時点で、警視庁関係者は、さぞ焦ったことでしょうね。何せ草なぎは、知らない人がいないくらいの超有名人です。そして巷からは、上記のような疑問の声がどっとばかりに押し寄せてくるし。それで逆に人々が「えっ。こんなに早く?」と思うような、「処分保留のまま釈放」という早期決着にせざるを得なかったのでしょう。

 今回の草なぎ逮捕といい、(所轄こそ違え)民主党小沢前代表秘書逮捕といい、行き過ぎた警察権力、検察権力の行使が目立つ昨今です。「素っ裸になって大騒ぎした方が悪いんだ」ということはあるにせよ。それによって草薙自身と、ジャニーズ事務所は測り知れないダメージをこうむり、また小沢問題では民主党にとって大きなイメージダウンになりました。
 戦時中の「特高(とっこう)警察」のように、戦争遂行に都合の悪い人間は片っ端からしょっ引かれた暗くて忌まわしい例もあります。強大な警察国家化はロクなことにはなりません。行過ぎた警察、検察権力の行使に対して、私たち国民はもっと厳しいチェックの目を向けていくべきだと思います。

 ところで当ブログでは、草なぎ逮捕直後『草なぎ剛への(架空の)手紙』を公開しました。おかげ様で大好評でした。事件が一件落着した今でも、毎日のように何人かの方からのアクセスがあります。
 そしてそのアクセスの検索フレーズの多くは、「草なぎ剛 手紙」というものです。当初私は別に気にも止めていませんでした。しかしここ何日か『?』と思うようになったのです。私如き者がたまたま書いた一文だけを目当てに、わざわざ訪ねてくるものなのだろうか?
 そこで今回遅ればせながら、私自身グーグルで「草なぎ剛 手紙」を検索してみました。(同検索での総数162,000項目。そのトップ面の6番目に『今この時&あの日あの時 草なぎ剛への(架空の)手紙』がありました。同検索をした人は、これを見て当ブログの同記事にアクセスしてこられたわけです。)

 同検索から分かったことは―。今月19日発売の『女性自身』によると、草なぎが所属する事務所には、激励の手紙や刑事処分回避のための嘆願書などが事件後大量に届き、その数は3万通にも上るそうです。海外からもメッセージが届いており、韓国からは署名活動の署名簿も届いているそうです。
 手紙は事務所スタッフを通じて謹慎中の草なぎ剛に届けられているようで、律儀にも草なぎ本人が一通一通すべてに目を通しているとのこと。(ということは、私も先の文を出していれば、本人が読んでくれた可能性があったわけか !?)
 当初草なぎ剛は、「一人一人全員に返事を書きたい」と申し出ていたものの、全員にはとても返事が書けなかったため、草なぎが書いた手紙をファンクラブで印刷して返送することになったもようです。

 同誌によるとその内容は、「ファンの皆様。励ましの手紙沢山ありがとう。そして今も尚、僕を心配してくれているファンの皆さんありがとう。僕は大丈夫だよ。皆さんの温かい応援で元気が出て来ます。」とファンにお礼を述べ、続いて「みんなと約束します。弱い自分を克服するのは簡単じゃないけれど、沢山のファンの皆さんが応援してくれているし、SMAPのメンバーも支えてくれているので、必ず乗り越えてみせます」と強い決意のコメントをしているとのこと。(この情報は、『芸能7days』というブログを参考にまとめました。感謝申し上げます。)
 3万通もの激励の手紙といい、その一つ一つに目を通していることといい、草なぎ剛の人柄が伝わってくるようです。

 ところで草なぎ剛は、今月28日の芸能界復帰が決まっているもようです。またトヨタをはじめとする各社の「CM解禁」も間近のようです。(但し、ブチ切れ鳩山大臣の総務省・地デジCMだけは取り止め)。スポンサーサイドとしても、この不況下CMの撮り直しに余分なカネがかかり、草なぎのCMで定着した商品のイメージもあるので、出来るだけ差し替えは避けたい、との思惑があるようです。
 では今後の活動は順調か?というと。あるテレビ局関係者によると、「視聴者としては、テレビで草なぎを見るたび事件を思い出しかねません。この先「全裸」「泥酔」を連想させる演技やセリフは避けなければならず、共演者も選ぶ必要があります。お酒のCMもアウト。使いにくいタレントになったことは間違いありません」。
 
 草なぎ剛君。でもそれくらいは「身から出た錆」で仕方ないよね。とにかく復帰のめどが立ち、おめでとう ! この一件をバネに、君の更なる人間的飛躍に期待しているからね。

 (大場光太郎・記)

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春の岬

            三好達治

  春の岬旅のをはりの鴎どり
  浮きつつ遠くなりにけるかも

 …… * …… * …… * …… * ……
 三好達治(みよしたつじ) 1900年8月23日~1964年4月5日。大阪府大阪市出身。詩人。
 初め職業軍人を目指し陸軍士官学校に進むが、脱走事件を起こし退学処分となる。京都三高文科に入学。詩人丸山薫の影響で詩作を始める。やがて東京帝国大学文学部仏文科に進む。大学在学中に梶井基次郎らと共に同人誌『青空』に参加。その後萩原朔太郎と知り合い、詩誌『詩と評論』創刊に携わる。シャルル・ボードレールの散文詩集『巴里と憂鬱』の全訳を手がけた後、処女詩集『測量船』を刊行した。叙情的な作風で人気を博した。
 『艸(くさ)千里』『駱駝の瘤にまたがって』など十数冊の詩集のほか、詩の手引書『詩を読む人のために』や随筆集『路傍の花』などがある。1953年芸術院賞、1963年読売文学賞を受賞。 (フリー百科事典『ウィキペディア』・「三好達治」の項より)

《私の観賞ノート》
 形式は短歌ですが、詩アンソロジーには「詩」として収録されています。そこで当ブログでも『名詩・名訳詩』カテゴリーでご紹介することに致しました。

 この詩ではまず冒頭に「春の岬」と叙景の言葉を持ってきます。このことにより、読む者に季節は春であること、そして詠まれている場所は「岬」であることを強く刻印させる効果をもたらしているように思われます。

 詩人は旅そのものを克明に叙述することはしません。その代わりにこのような一編の短詩によって、己の心の奥深くに刻み込むのです。

 この詩の舞台である「春の岬」が、具体的にどこなのかは分かりません。「海に突き出た陸地の先端」を岬というのであれば、犬吠岬、三浦岬、足摺岬…海洋国日本の海沿いに数限りなくあります。しかしなぜか私は、この詩を最初に読んだ時から、そのような内陸の岬ではなく、例えば伊豆大島のような孤島の突端としての岬がイメージされてくるのです。

 それはさておき。三好達治は日本のどこかの岬に接した地を旅して、春たけなわのその地を堪能し、かつ深い印象を刻んだのでしょう。そうでなければ、このような優れた抒情詩が生み出されることはなかったでしょうから。

 詩人のデリケートな心情からすれば、旅は自宅に帰りついた時に終わるのではなく、岬から船に乗り込んだことをもって「旅のをはり」と感受されたわけです。そして旅の終わりを感受させた、いわば旅全体を締めくくるような存在が「鴎どり」。

 鴎は、岬にほど近き海の上をただ飛び回っているだけ。詩人を慕って追いかけてくるようなことは、決してありません。早や帰船の人となって、船からその飛翔のさまを眺めている詩人と鴎の距離、つまりその先の岬とさらにその奥の旅してきた土地との距離はどんどん離れ遠くなっていくばかり。

 だからこそ、鴎は旅全体の象徴的意味合いを帯びて、詩人の心に感じられてきたわけです。

 「浮きつつ遠くなりにけるかも」
 詩人は、遠ざかりゆく鴎の姿を「飛びつつ」というしっかりした運動とは捉えていないのです。何か現実感覚が抜け落ちたように、ふわりふわりと浮いているかのような鴎たちの姿。
 その先の海辺のまたその奥の旅で出会った様々な事どもや人々は、一体何であったのか?つかの間の夢幻(ゆめまぼろし)ででもあったのだろうか?
 詩人は船上で、しばしそんな奇異な感にうたれていたのかもしれません。

 (大場光太郎・記)  

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初夏だより

  はつなつの街白々(しらじら)と輝きて   (拙句)

 風雨ともに激しかったきのうとはうって変わって。きょう17日は、朝からすっきりした晴天に恵まれました。気温もぐんぐん上昇し、家の中にいても外に出てもとにかくすぐに汗ばむほど。体感では「夏日」の目安である25℃などとうに通り越して、「真夏日」である30℃に限りなく迫っていそうな勢い。
 そうすると、きのう雨と激しい突風が吹き荒れたのは、季節の変わり目を示すものだったのでしょうか。惜春の想いを大いに残しながらも、『あヽもう夏だなあ』と実感させられた一日でした。

 当市の郊外にある現居住地の家々などの緑はそこそこ豊かです。
 私の持論では「都市の中に点々と緑がある」のではなく、「溢れかえる緑の中に都市がある」のを理想的都市像とします。それからすればまだまだです。が、ニューヨークはマンハッタンの通りのように林立しているのは高い硬質なビル群のみ、木は一本もなし、という状況でない分だけはるかに救われる気分です。

 街並みの木々の緑葉は、いつしか若葉から青葉へと緑の深さを増していきつつあるようです。その分先月は溢れかえるようだった花々の姿はあまり見かけられません。菜の花や連翹(れんぎょう)などのまぶしいくらいの黄色も、道の辺のタンポポも、藤の花もクレマチスも。厚木市の市の花・さつきも今ではすっかりくたれ気味。いつしか、皆ことごとく影をひそめてしまいました。
 そんな中たまにとある家の垣に、バラが今を盛りと咲き誇っているのを目にします。その真紅の鮮やかな色にはハッとさせられます。バラは夏の季語ですから、そんなところにも「今はもう初夏」という徴(しる)しが読み取れそうです。

 午後3時頃お隣の伊勢原市に行きました。例の市内に向う手前の両側田園の道で、正面に眺められる大山と丹沢連峰は、うすく煙ったように霞んでおりました。そのさまは、さながらうららかな春の午後といった感じをとどめていました。

 ある程度予想されたように、新型インフルエンザの国内侵入を水際でくい止めることは出来ず、ついに国内での感染が拡大しているようです。
 『それで街の人のようすは?』と気になってそれとなく、バスの中や通りを行く人々を見てしまいます。外でもない、どれほどの人がマスクをしているかと。しかしこれが意外と少ないのです。そして『あヽ今はまだそれほどマスコミ報道に影響されていないな』と思って安心するのです。
 通り中を、人という人が今流行(はや)りの尖がって白い鴉(からす)のようなマスク姿で、ぞろぞろぞろぞろと…。そんな光景は想像するだに不気味ではないでしょうか?ネガティヴな黙示録的光景のようで、ぞっとします。(なお『黙示録の真義』とは、極めてポジティヴなものです。)

 そのようなマスク姿というものは、「私は花粉症や新型ウィルスというものに、無抵抗な弱い人間なんです」という表明のようです。またそれは同時に、通りを行き交う「他人は皆病原菌の持ち主かもしれない」という疑念それゆえの防御の姿勢でもあり、他人への拒絶姿勢でもあるように思われます。
 いざとなったらせざるを得ないとしても、いざとならないことを祈りつつ、私自身はなるべくぎりぎりまでマスクはしない方針です。「本当の私」はそんな弱い人間ではないはずですし、他人を拒絶も防御もなるべくしたくありませんから。

   みどりのそよ風 いい日だね
   ちょうちょもひらひら 豆の花
   なないろ畑に いもうとの
   つまみ菜つむ手が かわいいな

     (童謡『みどりのそよ風』1番)

 きのうの夕方のもの皆を揺り動かすかのような、凄まじい突風から一転して。きょうのそよ風の何と心地よいこと ! 去年も同じ頃『みどりのそよ風』を記事にしましたが、今のこの季節は本当に「みどりのそよ風」そのままの爽やかな季節です。
 夜は夜で、やはり去年記事の『水田そして田植え』の同じ田んぼに早や満々と水が張られ、ゲロゲロゲロゲロと夜蛙が鳴いていました。

 (童謡『みどりのそよ風』の詞と曲は、「二木紘三のうた物語」にあります。)

 (大場光太郎・記)

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鳩山新代表選出に思うこと

 16日(土)午後に開かれた民主党大会において、小沢一郎前代表に代わって鳩山由紀夫(62)が新しい代表に選出されました。
 小沢前代表が辞任表明したのが11日(月)、そして同じ週の土曜日には新代表が決まってしまうという慌しいスケジュールでした。

 これに対して各マスコミからは、「自民党のようにたっぷりと時間をかけて代表選挙を行えば、絶好の民主党アピールになったはずなのに。自分たちが有利なようにとにかく早く事を決したい勢力の力が働いた結果だ。特に鳩山が代表になれば、小沢院政はより強まることだろう」という論評がさかんに出されました。
 やはり、代表を辞めても党内に隠然たる影響力を行使したい小沢氏とその支持グループ、新代表に一番近そうな鳩山由紀夫などによるタイムスケジュールであったことは否定出来ないと思います。

 小選挙区制下の二大政党時代であるこの時代。「国民に開かれた政党」として、いくら自民党とは違う対立軸を持つ民主党とて、しょせん政治は「パワーゲーム」です。
 まして今回の代表選は、場合によっては民主党初の総理大臣になるかもしれない人物を選ぶ、以前にもまして比重の重い代表選です。対立候補より一歩先んじて優位に立ちたい、と思うのが人間心理の常というものです。
 これまでの政治理念としてはかつて耳にしたことがない「愛」を語り、「友愛の政治」を標榜する鳩山氏とて、そんな代表選はしかるべき権力闘争の場との思いはあったはずです。(実は鳩山氏は10年以上前にも「愛ある政治」について語り、一部評論家からは「だからお坊ちゃん政治家はダメなんだ」と失笑を買ったことがあります。でも60過ぎの政治家が臆することなく「愛」を語れるとは、ある意味大したものです。)

 国民の支持は、対立候補の岡田克也(55)の方が上回っていました。代表選前の世論調査やテレビの街頭インタビューでも、岡田支持が鳩山支持を大きく上回っていましたし。
 しかし考えてみますと、今の国民世論を方向付けしているのは、新聞特にテレビの影響によるところがかなり大きいことも否定できません。超ヒートアップしたあの郵政選挙の報道がいい例です。
 西松事件での小沢秘書逮捕以来、東京地検や麻生政権の思惑などそっちのけ。これでもかと小沢前代表を連日バッシングし続けたのが、各マスコミです。当ブログで再三取り上げましたとおり、自民党の森元総理や尾身元財務大臣などは同罪です。二階経産大臣に到ってはさらに悪質です。なのに、小沢代表辞任に向けた世論形成に大いに預ったのも各マスコミでした。
 そして今回の代表選では、どちらかというと岡田氏には好意的、鳩山氏に対しては辛口な論評が目立ちました。

 なぜなのでしょう?ズバリ言えば、大マスコミによる「政権交代潰し」としか考えられないのです。
 今日数多(あまた)ある国内問題の中でも、「政官財癒着構造」はその中でも特に大きな問題です。この問題を根底から変えない限り、財政再建を含めた我が国の本当の再建はあり得ない、と思われるほどのものです。
 そして大マスコミも実は、「政官財」の内の「財の一員」でもあるわけです。現に大新聞の経営陣が、小泉政権時代の訳の分からない何とか委員会のメンバーとして次々に取り込まれてもいました。(かんぽの宿問題の「政商」オリックスの宮内会長は、小泉委員会でとんでもないパワーを得ていきました。)またテレビ各局は、NHKは政権与党に予算編成権を握られ、民放各局は放送権の許認可や新社屋移転に関わる許可などで、自民党様にはすっかりお世話になっています。
 つまり権力をチェックすべき立場の大マスコミも、結局は「政官財癒着構造」にどっぷりはまってしまっているのです。これでは肝心な時に、「大政翼賛的報道」しか出来ないのは当然のことです。

 小沢前代表は以前から、「政官財癒着構造こそが最大の問題点である。民主党が政権を取ったら、真っ先にこの問題に切り込む」と明言してきました。さああわ食ったのは「官の利権」の番人・東京地検だけではありません。各マスコミもまったく同じで、小沢民主党政権誕生を内心恐れていたはずです。
 鳩山新代表も、ここ何年か小沢代表と行動を共にしてきて、上記問題は自分としても最重要課題と位置づけているはずです。
 そこで鳩山と岡田と天秤にかけた場合、自分たちの「利権の保護」のためにどちらが都合がいいか―岡田の方がくみしやすい相手だ、そんな思惑が働いていたのではないだろうか?
 これは多分に私の独断的解釈ながら、そう思われるのです。

 新代表が決定した後、政治評論家は「鳩山では追い風ではなく、せいぜい横風くらいなものだ。来るべき総選挙では、勝つとしても(自民党とは)僅差でしかないだろう」と言っています。とにかくマスコミとその関係者は、国民以上に小沢一郎を徹底排除したがっているようなのです。
 しかしどんな選挙でも、フタを開けてみなければ分かりません。そして選挙こそは最大のパワーゲームです。とにかく勝たなければ話になりません。「私は、小沢さんの傀儡(かいらい)ではありません」。表向きはそう言わざるを得ないでしょう。でも結局は選挙に勝てる顔として党員から選ばれたのです。いいじゃないですか。「選挙上手」な小沢一郎の力を陰に陽に活用しても。

 鳩山由紀夫よ。普段は「愛」だ「友愛」だでもいいけれど、選挙では闘う男の顔を見せてくれ ! そして日本も遂に政権交代が可能な国になったんだと、全世界に結果で示していただきたい。

 (大場光太郎・記)

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映画『天使と悪魔』(2)

 映画『天使と悪魔』の中で、「イルミナティ」という秘密結社が、重要な意味を持っているようです。映画ではイルミナティは、中世イタリアの科学者ガリレオ・ガリレイが創始したという設定になっています。
 しかし一般的には、1776年バイエルン王国の大学教授アダム・ヴァイスハウプトが創始したということになっていて、史実とだいぶ違うのではないだろうか?それとも原作者のダン・ブラウンは何か別のしっかりした根拠を持ってそうしたのだろうか?から始まって、映画を離れて有名な秘密結社フリーメーソンとの関わり、イルミナティが現代世界に及ぼしている深刻な影響等々を少し詳しく述べるつもりでした。

 また、映画のタイトルである「天使と悪魔」というネーミングが意味するものとは?そして最後に前作のテーマである「イエスキリストとマグダラのマリアとのただならぬ関係」についての考察なども。

 しかし16日(土)フジテレビ夜9時からの「土曜プレミアム」で、タイミングよく何と前作の『ダ・ヴィンチ・コード』が地上波初というテレビ放映されたではありませんか !
 このようなオカルテックミステリーこそが、私が一番観たい映画なのです。しかし実は私はこれまで前作を観ていませんでした。原作も読んでいません。もちろん大評判になっていたのは知っていましたけれども。
 私としては『イエスとマグダラのマリアのことなんか、とうの昔から知ってるわい』というような、変な自負心が邪魔したのかもしれません。

 今回はテレビででしたが観てみました。結果は評判どおり、「見ごたえあり ! 」の一言です。当然私などが知らない新事実もけっこう明かされており、『天使と悪魔』の誰かの感想ではありませんが、マインドとハートを大いに刺激されました。
 と同時に、本来映画について語るのならば、まずその映画をしっかり観てからにすべきだな、と反省もさせられました。

 ですから『天使と悪魔』も、とにかくじっくり観てから記事にしたいと思います。ただ昨晩『ダ・ヴィンチ・コード』の方はともかくも観たわけです。公開後3年と大変遅ればせながら、そちらの方を先にまとめて近々記事にしていければと思います。

 (大場光太郎・記)

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映画『天使と悪魔』(1)

 きょう5月15日(金)今年最大の注目作との呼び声高い、映画『天使と悪魔』(原題『Angels&Demons』)がアメリカ公開と共に全世界同時公開されました。ご存知の方も多いかと思いますが、ダ・ヴィンチの名画に隠された謎解きで世界的ブームを巻き起こした映画『ダ・ヴィンチ・コード』の続編です。
 前作同様、今回も原作者ダン・ブラウンの大ベストセラー同名小説の映画化で、監督も前作と同じロン・ハワード、その他の主なスタッフも続投。主人公のラングドン教授役も前作と同じトム・ハンクスが演じています。ただヒロインのビクトリア・ベトラ役は、イスラエル人女優のアイェレット・ゾラーが新たに抜擢される形となりました。

 前作『ダ・ヴィンチ・コード』(原題『The Da Vinci Code』)は、ルーヴル美術館の館長が残したメッセージを解読し、事件の鍵となる聖杯と共にキリストの秘密を暴いたハーヴァード大学の宗教象徴学教授ロバート・ラングドンの活躍を描いたものでした。
 ダ・ヴィンチが描いた『最後の晩餐』には、イエス・キリストはマグダラのマリアと結婚しており、磔(はりつけ-十字架刑)にされた時、マグダラのマリアはキリストの子を身ごもっていたという暗号(コード)が含まれていることが明かされるというストーリーでした。
 同映画は、‘06年5月20日全世界同時公開。全世界の興業収益7億5,000万ドル(約700億円)のメガヒットとなりました。
 
 原作者のダン・ブラウンは「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と述べていますが、特に問題となるキリストの婚姻関係及び子供を残したということについての確証はなく、現在も研究が続いている状態です。これに関してローマ・ヴァチカン教会はキリストを冒涜したものとして、ボイコットを呼びかけていました。(これにつきましては、結論部で私見を述べるつもりです。)

 今回の『天使と悪魔』は、前作よりも時系列的には前の出来事という設定であるようです。主人公のラングドン教授(トム・ハンクス)は、ローマ教皇亡き後に行われるコンクラーベ(新教皇の選挙)の最中に起きた事件解明に奔走します。何者かによって新教皇の候補者(プレフェリーティ)が誘拐、殺害され、ヴァチカンに爆弾が仕掛けられます。ラングドンはさまざまな難題に立ち向かいながら、誘拐犯と仕掛けられた爆弾を追う、というようなストーリーのようです。

 以下は、既に試写を終えた有名人たちの感想です。

 『ダ・ヴィンチ・コード』を越える作品 !  (壇れい 女優)

 こんどの映画はすごい ! ローマが究極の暗号都市だったなんて ! (荒俣宏 作家)

 すごい迫力、休むひまがない ! 悔しいくらいスッキリしました。 (里田まい タレント)

 久しぶりにすごい映画を見た。ヴァチカンを破壊するほどの迫力、どんでん返しの連続。 間違いなく本年最高の面白さだ。 (内田康夫 作家)

 頭脳(マインド)と心臓(ハート)、両方への不敵な刺激 ! ダ・ヴィンチの謎が解けたからと言って あなたは喜んでいられない。 (鏡リュウジ 占星術研究家)

 順不同で紹介しましたが、とにかくいろんな意味で「面白い映画」であることは間違いないようです。それに前作は、理屈的な「謎解き」のシーンが多く退屈だった、という観終った後のコメントも多かったようです。しかし今回の『天使と悪魔』では、エンターティンメント性をいかんなく発揮し、前作を遙かに越えるスケールの作品に仕上がっているようです。
 なお最新情報では、日本におけるTOHOシネマズ日劇の金曜初日の初回(10:00~)の観客動員数で、同じ4月10日(金)の初日に好成績を収めている『レッドクリフpratⅡ』の145%の観客動員数を記録し、大ヒットスタートを切ったそうです。現時点で09年公開作品NO1はほぼ確実で、あとは前作の(国内興業収益)91億円を超えられるかに関心が集まっているようです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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鷹桜同窓会報(2)

 直江杉のこと

 私の母校のある山形県長井市の北端の、あやめ公園に隣接する鎮守の森として長井一の宮、總宮(そうみや)神社というのがあるそうです。私は初めて聞く神社です。
 但し「あやめ公園」は、3,3haの公園内に500種100万本ものあやめが咲き誇る日本有数のあやめ公園で、私が子供の頃から近郷では有名でした。今は地方の時代なのか、たまにNHKテレビなどで長井市挙げてのエコロジーの取組みなどが紹介されることがあります。そんな時決まって同公園の映像も流されます。
 
 まったくの余談ですが。高校1年時所属していた体操部(ものにならず1年の秋に退部)で親友になったS君と、ちょうど「あやめ祭り」の日曜の同公園を見て回ったことがあります。屋台も多く立ち人でごったがえしていたあやめ祭りもさることながら、前夜長井市近郊の彼の家に一泊したことの方が、より印象深く覚えています。
 S君の家は田んぼの真ん中の一軒家の農家でした。しんしんと夜が更けていく中で、周り中からうるさいほどの蛙の鳴声が聞こえていました。また夕方着いてすぐくらいに、彼の妹を紹介されました。2歳年下というその妹さんは、ほの暗い隣の部屋からそっと現われました。S君とは似ても似つかない色白の美形なのにギクッとし、寝てからも彼女の面影をたどったりしていました。

 さて今回の同窓会報記事は、總宮神社総代会長・安部新一氏(昭和29年卒)の「直江杉のこと」という寄稿文からです。
                          *
 總宮神社の歴史は古く年号は定かではないものの、大和か飛鳥時代に遡るそうです。「日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)」が、父景行天皇の命による東夷征伐の際に、吾妻(あづま)の麓最上川上流の暴れ川・松川の水源となる「赤崩山(あかくずれやま)」の山腹に御剣を立て、度々起こる洪水を鎮定したという伝説があるようです。
 平安時代の延暦20年(801年)征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、この神徳を追尊して「白鳥の社(しらとりのやしろ)」を創建しました。さらに永承6年(1051年)「前九年の役」が起こり、鎮守府将軍源頼義(みなもとのよりよし)が尊の神徳を敬仰して社殿を再造し、「赤崩山白鳥大明神」として崇められてきました。
 文禄2年(1593年)米沢城主となった蒲生氏郷(がもう・うじさと)は、長井郷(ながいごう)の44ヶ村の神社を廃し、これらの神号をすべて合祀(ごうし)し長井郷総鎮守として社号を「總宮」に改め、神領二百石を与え長井郷の氏神としました。

 さてこの總宮神社の「参の鳥居」の両袖に、目通り幹回り4m20と3m30の2本のほかに7樹、何れも幹回り3m以上、幹高20~30mの杉の古木が社を守る形で植えられているそうです。これが、慶長3年(1598年)米沢藩初代藩主・上杉景勝の重臣・直江山城守兼続が、戦勝を祈願して刀剣を献上し手植えをしたと伝えられている「直江杉」なのだそうです。最上川舟運盛んなりし頃、船頭たちはこれを「宮の一文字杉」と呼んで、これを眺めながら長井の里に入ったことを実感したものだそうです。
 参の鳥居付近の写真も添えられています。なるほどその手前両脇に、亭々として鬱蒼と葉を繁らせた立派な大杉が認められます。

 安部氏の文は続いて、直江兼続の人となりに言及していますので、それも以下にご紹介してみます。
 名将言行録(幕末期の館林藩士・岡谷繁実の武将列伝)で、「長高く姿容美しく言語晴朗なり」と兼続を評しています。武道、学問にも優れた文武両道の名将で、漢詩にも造詣が深い一流の文化人でした。特に、都を去る時の心情を詠んだ漢詩
  春雁吾に似て吾雁に似たり
  洛陽城裏花に背いて帰る
は、名詩として知られています。

 慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後、徳川家康の増長に異を唱える主君・上杉景勝の心情を汲んで、兼続が家康に送った『直江状』が家康の逆鱗に触れ、関ヶ原合戦勃発の発端となったとされています。
 景勝と兼続主従の上杉軍は、盟友・石田三成に同調してその戦いに敗れ存亡の危機に立たされたが、兼続の機知と才覚により、会津120万石から米沢30万石に減封されるに留まりました。その窮地の中にあって直江兼続は、家臣に情厚く倹約を重んじ米沢藩繁栄の礎を築きました。
 
 今に残る築堤「直江石堤」や銅町の「直江釜」、農業指南書の「四季農戒書」などはその遺産であり、「直江杉」もまたその大きな遺産である。
―と、安部氏の文は結んでおります。私としては上記に何も加えることはありません。ただ願わくば、現在進行中の大河ドラマ『天地人』において、このような重厚な直江兼続像を是非見せてもらいたいものです。

 (大場光太郎・記)

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鷹桜同窓会報(1)

 私の母校・山形県立長井高等学校から、年1、2回くらいで『鷹桜(ようおう)同窓会報』というのが送付されてきます。(それに年会費納入用の、母校宛の郵便払込用紙がさりげなく同封されているのです。)

 この会報名称の「桜」は言うまでもないとして。「鷹」はお分かりにくいのではないでしょうか。NHKの今年の大河ドラマの『天地人』の上杉藩は、関ヶ原の戦いで豊臣方に味方したため、戦後徳川家康によって会津から大きく減封されて米沢に移ってきました。(お家断絶とならなかったところに、直江兼続の並々ならぬ手腕があったわけです)。以来江戸末期まで、母校のある長井市もわが町・宮内町も広く置賜(おいたま)地方、上杉領内でした。そして「鷹」とは、上杉家中興の祖と讃えられ名君の誉れ高い、上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)公(1751年~1822年)からとったものと思われます。
 上杉鷹山は、かのケネディ大統領が理想的な政治家として激賞しました。ことほどさように大偉人は、後世に直接的、間接的に影響を及ぼすものなのでしょう。
 
 会報は広げるとA3版の大きさ、半分にたたむとA4版でその大きさでファイル保存できるよう、予め2つ穴が開けられています。
 つい最近の会報は、全16ページ。第一面は型どおり会報の大きな見出し。中間に生徒による模擬授業風景、地区総体での柔道の試合や野外授業など4枚の写真。最下段は、同窓会事務局某氏(平成6年卒)の「巻頭言」が述べられています。タイトルは『成功哲学』。「もし、あなたが破れると考えるなら あなたは破れる」で始まる、ナポレオン・ヒルの有名な詩を引用しながら、後段で自説を短く述べています。

 次の見開きページは、同窓会長と現校長の挨拶文。2名の恩師の回想。それぞれ顔写真入りの記事となっています。後は同窓会会計決算の報告、各学年同窓会の報告、昭和20年代卒業の人の特別寄稿、それ以降の卒業生による寄稿文、各支部短信などなど。
 その中で今回は、会報の後の方に出てくる2つの記事について、その概要を2回にわたってご紹介してみたいと思います。
                         *
 今回は「2008年入試結果をふり返って」という記事についてです。
 平成20年のセンター試験志願者は、全国で54,3万人と昨年から1万人ほど減少したとのこと。母校からはこの“全国大会”に184名中182名が挑んだそうです。全国的には文系型で580,4点(昨年比+14,3点)、理系型で607,2点(同+21,3点)と平均点が上昇したものの、母校生徒は理数系科目を中心に伸びず苦戦したもよう。しかし最後まであきらめることなく粘り、個別(2次)試験に挑み、右表のような合格実績を上げることができた、と表を掲げて説明しています。 (表は省略)

 (同記事をもう少し続けます)。現役生では、5年ぶりに東京大へ合格(この年置賜で唯一)したのをはじめ、東北大8名、北海道大2名、名古屋大、東京外語大、筑波大等(各1名)の難関国立大や、慶應義塾大2名、早稲田大3名、明治大5名、同志社大1名、立命館大3名等の首都圏、関西圏難関私大にも多くの合格者を輩出しました。短大や専門学校への進学、公務員・民間への就職を含め、それぞれが目標とする進路希望の実現を果たしました。
 既卒生の活躍も特筆すべきものがあります。超難関とされる東北大、山形大などの医学部医学科へ4名、また東北大・法や金沢大・人間社会など幾多の苦難を乗り越えて掴み取った栄光を喜びとともに母校に届けてくれました。 (以下省略)

 数年ぶりで1名の東大合格者というあたりに、東北の一進学校の事情が覗われます。母校で何といっても多いのは、地元の山形大への進学です。この年は28人だったようです。また北海道大進学の先鞭をつけたのは、私と同学年だったF君でした。それまで北大希望者はいませんでした。それが2年生時の北海道への修学旅行でF君、すっかり大感激。その上北大構内の「少年よ大志を抱け」のクラーク像にも本式にまいってしまって、一途に北大目指してストレート合格。以来後輩が続き出したようです。
 昭和40年前半当時の私らの頃は、名門国立、私立はともにちょぼちょぼ。今のように多くはありませんでした。これはその後の母校の自助努力と、何よりも後輩たちの精進努力の賜物と、出来の悪かった先輩(この私です)としては少し誇らしい気分です。

 (大場光太郎・記)

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2つのビックな会見(2)

 小沢代表辞任会見

 私は5月11日夕方本厚木駅近辺にいました。所用を済ませて帰ろうとしていた6時前後、本厚木駅北口広場の一角で、道行く人に号外を配っている男性がいました。その手にある号外の見出しをチラッと一瞥するに、「…代表辞任」というような大きな文字が躍っていました。
 もうそれだけでピンときました。『ははあ。いよいよ小沢代表辞めるんだな』。私はいずれそうならざるを得ないだろう、後はタイミングの問題だけだろう、と思っていました。だからそれを見ても、特に驚くこともありませんでした。
 とは言っても、やはり気にはなります。私も一部もらい、バスを待つ間目を通して見ました。

 号外は朝日新聞のものでした。先ほどチラッと見た最上部特大の横長の見出しは、やはり「小沢代表辞任」。縦の見出しは「党内批判収まらず」。これが代表辞任の、最大の理由なのでしょうか?それに続いて「民主党の小沢代表は11日、代表職を辞任する意向を固め、複数の党幹部らに伝えた。」云々の記事が、通常の新聞よりもだいぶ大きな活字で、紙面一面を埋めています。(ということは、この号外が出た時点では会見はまだしていないようです。)
 西松事件での公設秘書起訴以降も続投を表明していたものの、党内で辞任を求める声が収まらず、次期総選挙で政権交代を目指すには、辞任する必要アリと判断したこと。党執行部は小沢氏の判断を尊重し、後継代表選出に向けた協議に入ること。新代表には、代表経験者の岡田克也副代表、菅直人代表代行、鳩山由紀夫幹事長の再登板を求める声がある。云々。(号外裏面は、表面同内容の英文紙面。)

 ここまで読んで、私は前回の参院選挙の応援だったかで、この本厚木北口広場に、小沢代表以下今名前の挙がった面々が勢ぞろいした時のことを思い出しました。野党だというのに北口広場は、聴衆でいっぱいになり、小沢代表以下が次々に熱弁をふるっていました。その参院選では、小沢代表の手腕によるところ大きく自民党に大勝し、3月頃までは総選挙も圧倒的勝利で念願の政権交代と、民主党にとってはばら色の未来といったところでした。
 しかし同月の、西松建設違法献金事件に関わる「小沢代表大久保秘書逮捕」以後、事態は暗転します。それまでの上げ潮ムードは一変し、念願の政権交代はどんどん遠のくばかりでした。
 私は当ブログで、東京地検の捜査方法への疑問など、一連の小沢秘書、西松問題については何回か記事にしてきました。

 帰宅して夕方5時以降行われた辞任会見など、テレビ報道に一通り目を通しました。有権者の中には、「なぜもっと早く辞めなかったの?」という声が多いようです。確かに。しかし今回に限らず、政治家の出所進退は一般国民には理解しがたいことがままあります。捜査の進展状況、自民党とのパワーバランス、総選挙のスケジュール等々を秤にかけて、今この時が小沢代表にとってのベストのタイミングだったのでしょう。
 いずれにせよ、代表辞任→新代表選出という民主党新路線により、政界オセロゲームは、またまた大きく変わることになるかもしれません。「悪の小沢」は辞めて、誰がなるにせよ民主党はとにかく新しい顔で出直します。さあ今度は、薄汚く解散総選挙を先延ばししてきた、麻生政権、政府自民党が厳しい目で見られることになります。「二階は結局、何のおとがめもなしかよ?」ともなります。

 通常、ブロガーは政治的旗幟は鮮明にさせないものなのでしょうか?分かりませんが、私はこの際はっきり申し上げておきます。私は「政権交代」絶対支持派です。(皆様そんなこと、とうにご承知かもしれませんが。)戦後60余年経過して、自民党も官僚機構も耐用年数がとっくに切れています。政官財の癒着構造ばかりが肥大化し、このままではどんどん亡国政治に傾斜していくのみ、国民にとってはただただ不幸なだけです。余りにも族議員化し癒着ぐちゃぐちや。それに、2世、3世議員が大勢を占める政党に、変革のエネルギーを要求するのは土台無理というものです。
 通常の先進国並みに、政権交代などとっくの昔に起きてしかるべきだったのです。それを阻んでいた最大要因は、「主権在民」―国民自体の民度の低さだと思います。

 と申しましても、当ブログを政治的討論、争論の場にはしたくありません。上記はあくまで私個人の考えであり、お読みいただいた方々に一切強要するものではありません。「半永久的に、自民党政権でいいじゃないか」という方々のお立場も、大いに認めます。

 (大場光太郎・記)

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2つのビックな会見(1)

 小室哲哉の会見

 5月11日(月)は、午前と午後にそれぞれビックな会見が行われました。一つは、著作権譲渡をめぐり5億円の詐欺罪に問われた音楽プロデューサー・小室哲哉被告(50)の会見でした。夕方もう一つの会見(民主党小沢代表辞任会見)がなければ、同日の新聞、テレビのトップニュースは間違いなく、この小室会見だったと思います。

 同判決公判が同11日、大阪地裁(杉田宗久裁判長)で開かれ、「懲役3年、執行猶予5年」の有罪判決が言い渡されたことを受けての、小室被告の会見です。実刑を免れた小室被告は、被害者(兵庫県芦屋市会社社長-48)に謝罪、支援者らへの感謝を表すと共に、「一から出直したい」と、今後の活動への意欲を示しました。その姿からは、一世を風靡したかつての栄光の面影はなく、面やつれし憔悴した感じが見てとられました。

 当ブログは昨年11月4日の逮捕時、直後に『小室哲哉逮捕に思うこと』という記事を公開しました。一代の寵児だった小室の逮捕劇とあって、やはり関心が高く、結果当時としては当ブログ過去最高である当日訪問者数120人を記録しました。
 余談ながら。同記事に、その関連でたまたま名前を出した堀江貴文・元ライブドア社長での検索が、小室本人を上回っていたのにはびっくりしました。
 
 以来半年余。判決は、量刑を後回しにし、理由が朗読される異例のものだったようです。その中で杉田裁判長は、小室の放漫な生活を指摘し、「ずる賢く,経緯や動機に酌むべき事情はない」と断罪しました。小室被告は、厳しい言葉に「間違いなく実刑だろうと思った」が、執行猶予が与えられた瞬間思わず涙が流れたそうです。
 実際被害が1億円を超える詐欺事件で、執行猶予が付くのは稀であるようです。検察側の求刑は5年。今回の判決では、エイベックス・グループ・ホールディングスの松浦勝人社長(44)が肩代わりし、利息を含む6億4,800万円を被害者に弁済したことがやはり評価されたようです。
 しかし「懲役3年、執行猶予5年」は、詐欺罪での執行猶予付きの懲役期間としては最長のものであり、裁判所としても同被告の犯罪性をいかに重く見ていたかが伺われる判決となりました。(それ以上の懲役期間となると、もう執行猶予は付けられないということ。)

 ともかくも、執行猶予を勝ち取った現在の小室哲哉は、妻のKEIKO(36)と共に、エイベックスの千葉龍平副社長(45)の自宅に“居候”しているとのこと。小室被告は、松浦氏や千葉氏に深く感謝し、音楽での「恩返し」を誓っていました。
 心底前非を悔い、地に足着いた地道な音楽活動に、今後徹し切れるのか―。会見ではさらに多額の借金があることも認め、「一生懸命誠心誠意返していきたい」と語ったようですが、まだまだ厳しい前途が予想されそうです。

 (大場光太郎・記)

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新型インフルエンザ・考(2)

 思いあたることが一つだけあります。当ブログでこれまで何回かふれてきましたとおり、今地球全体が、何段階かグレードアップした惑星に進化しようとしているとみられるのです。そこで最終的なゴール目指して、自然万物が波動を上昇させ続けている…。

 この地上世界は従前のような、純然たる「3次元物質世界」ではなくなっているようです。今の段階は仮に形容すれば、「3、5次元物質世界」とでも言うべき段階なのです。私たちはこんな重大な変化になぜ気がつけないのでしょう?
 ある特定のものだけが急激に変化し続けているのであれば、誰でもその変化に気がつけます。しかし地上のありとあらゆるものが、同時に上昇しているため気がつけないのです。さらには、私たちが頼り切っている新聞、テレビなどのメディアが、このような情報を一切流さないことも大きな要因です。

 自然界の動植物は、地球全体の次元上昇(アセンション)に何の抵抗もなく、素直に従って波動を上げ続けています。地球の決して後戻りすることのないこのプロセスに、無知、無関心であったり抵抗したりしているのは、残念ながら「人間という種」だけなのです。
 そのことをとうに気がついて、いざという時のための備えをしている人も全世界に何百万人規模で存在します。が、65億人の世界人口からすれば0、1%くらいなものです。
 いずれにしても、今深いレベルで進行中の「アセンション」について、無知、無関心、抵抗している分だけ、全体の進化の方向からズレてしまい、各人の波動レベルは低いまま全体的進化からどんどん取り残されるということになります。

 おそらく、上昇し続ける地球全体と通常人の波動レベルのギャップこそが、今回の問題の大きな要因の一つではないだろうか?と考えられるのです。そのギャップが時に、一部動植物が毒性を帯びて迫ってきたり、新手の強力なウイルスに変異して襲いかかってきたりしているのだと思われます。
 中には稀に、新地球の最終到達地点とみられる「5次元高波動物質世界」のレベルにまで、自己の意識レベル、肉体レベルが達している人も既にいるようです。そのような人にとっては、どんな強力なウイルスも、がん細胞も何の害も与えることは出来ないものと思われます。

 なおついでに申せば―。人類を有史以来(実はそれ以前から)陰でコントロールしてきた、「世界統制チーム(暗黒勢力)」の、支配のための最大の手段は「恐怖を与えること」です。考えても見てください。私たち人間が、いかに恐怖に弱く、心の中にいかにどっさり恐怖心を持っているかを。
 土壇場に到ってもなお、地球における支配権を手放したくない「暗黒勢力(4次元存在)」は、ですから今日でも(本質的に「彼ら」のコントロール下にある)世界中の主要メディアを使って、せっと恐怖を撒き散らしています。翻って「アセンション」という希望のニュース、あるいは肝心要の情報が、世界中の主要マスコミから流されることは今後ともまずないと思われます。

 各メディアは、「フェーズ5」だ「フェーズ6」だ「パンデミック」だ何だかんだと、今後とも人類の希望を打ち砕き、人間はいかに無力かと思い込ませるものを大量に流し続けることでしょう。
 しかし負けてはいけません。今後の新型インフルエンザの動向には十分注意し、予防は予防としてしっかりしてください。しかしそれ以上、彼らの「恐怖の刷り込み」を受けてはいけません。それらの情報を真に受けて、不安や恐怖心に駆られることは致命的です。
 第2次世界大戦時の米国大統領(で、「彼ら」の地上におけるエージェントの一人だった)F・ルーズベルトは、皮肉にも言っています。「人類にとって最後に克服すべきものは“恐怖”である」。アセンションとは、一面では「恐怖からの訣別」でもあるのです。  ― 完 ―

 (大場光太郎・記)

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「母の日」に思うこと

    遠き日のバラ一輪を亡き母に   (拙句)

 きょう5月10日は「母の日」です。今さら申すまでもなく、自分という存在をこの世に産み出してくれた第一の恩人が「母」です。母なくして自分は今こうしてこの世に存在することはあり得なかった―そう思い至る時、母への感謝は何も特定の日に限ったものではなく、常日頃忘れることなく持ち続けるべきものなのだと思います。

 しかし私たちは、ともすれば太陽や空気や水など人間が生きていくのに欠かすことの出来ないものを「あって当然」と思うあまり、それらのありがたさをついつい忘れてしまいがちです。その意味で「母」もまたいてくれて当然の存在とばかりに、日頃は感謝するどころか、ともすればグチをこぼしてみたり不満をぶつけたり八つ当たりしてしまいがちです。
 それゆえ母のありがたさ、偉大さを改めてよく考え感謝する日として、「母の日」を特に設けてあることはその意味でもよいことなのかもしれません。

 かく言う私は、既に度々述べさせていただきましたとおり、平成16年春に母を亡くしました。「母の思い出」につきましては、「二木紘三のうた物語」の『母さんの歌』コメントで少し詳しく述べさせていただきました。その中から抜粋して以下に、ご紹介させていただきます。
                         *
 貧農出身の母は、もって生まれた貧乏性に加えて、出来の悪い息子を持ったがために、70過ぎまで掃除の仕事などを続けました。「もう、やめなよ」と言っても、聞きませんでした。
 長い間の心労がたたったのでしょう。平成9年6月、脳梗塞で倒れました。私が今の業務を開業して、間もなくの頃でした。当時75歳でしたが、本当にしわくちゃの小柄な婆さんになっていました。しかし病気によって心労から解き放たれたのか、入院後の方がしわが取れて、若返ったようでした。
 ある日病院を訪ねると、私を認めるなり、まるで童女のようなあどけない笑顔で、にっこり笑うのです。長い間母と共に暮らしてきましたが、そんな無邪気な笑顔は初めてでした。いかに母の心労が大きかったか。胸が締めつけられる思いでした。
 (その後脳梗塞が再発し、半ば植物人間化してしまいました。)

 母入院後半年余り経った、翌平成10年2月。諸般の都合で、自宅介護をすることにしました。当時はまだ「介護保険法」が施行されておらず、世間一般はまだ自宅介護という通念があまりない頃でした。しかし私は、昔太郎村の家で、母が父を介護していたのを見ていましたから、別に大層なことだとは思いませんでした。
 以来、6年余り続けました。「要介護度5」でしたから、逆にそんなに手のかからない病人でした。母は私が息子であることも分からなくなっていましたから、張り合いはありませんでしたが…。私としては、これ以上ない親不孝のせめてもの償いのつもりでしたが、そんなことぐらいで償いきれるものでも、大恩に報いられるものでもありません。
 ともあれ「悲哀の中に聖地あり(オスカー・ワイルド)」。救いようのない愚か者の私も、この経験から「大切な何か」を少しは学ぶことができました。
 (なお母の介護に当たって、主治医の先生、看護師さん、市役所の方々、ケアマネージャーさん、ヘルパーさん、入浴サービスのスタッフの方々…。実に数十人以上の方々に、その都度我が家に来てサポートしていただきました。これらの方々のお力がなければ、とても私一人では介護を続けることは出来ませんでした。)

 生前も死後も全く世間様に知られることのない、無学な母でした。ですから皆様。申し訳ございませんが、母の名前をここに記させてください。母は「大場ノヱ」と申します。大正の生まれですから、当時の慣習でカタカナですが、漢字では「野枝」でしょう。みちのくの野にひっそりと生えた木か草花かの、一枝。いかにも母にふさわしい名前でした。出来れば、郷里にそのまま住み続けさせてやるべきでした。
 平成16年4月2日。母ノヱ逝去。享年82歳。ごく内輪で葬儀をすませました。4月5日午前。母を荼毘に付すべく向かった、当日は朝から大快晴でした。その年は丁度その頃が桜の満開でした。途中相模川のほとりの道を通りました。数百メートルほど桜並木が続き、特に二百メートルほどは道の両側から全体を覆い、さながら満開の桜のトンネルの趣きです。対岸の海老名市の桜並木も見事でした。
 余りにも報われなかった母には、およそ似つかわしくないほどの「最後の花道」になりました。
 (なお、同年5月下旬帰省し、親族立会いのもと、父が眠る太郎村の当家の墓所に納骨致しました。)
                                                *
 以上のように、私が亡母を語るということは、私の親不孝ぶりとダメ人間さ加減を共に語ることになります。現在お母さんがご存命の皆様は、悔恨を残されぬよう私を悪しき例として、どうぞお母さんを大切にしていただきたいと存じます。

 上記引用の『うた物語』の二木先生が、最近印象的なことを述べておられます。ご紹介しますと―
 「ことしもまた母の日がきます。私は亡き母に、心の中で一輪の草の花を捧げます。ごく幼かったころに、そんな場面があったような気がして。」(『わが母の教えたまいし歌』の“蛇足”より)
 二木先生にならって私も、そうさせていただきます。昨年6月記事の『バラの思い出(2)』の、あのバラを亡き母に。一輪の真紅のバラは、私の心の中で今なおしおれることなく生き生きと咲き続けていますから。

 (大場光太郎・記)                    

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新型インフルエンザ・考(1)

 既にご存知のとおり、ついに日本で初めての新型インフルエンザ感染者が出てしまいました。これで世界29ヵ国にまで感染が広がり、世界中の感染者数は約3,450人。死者数はメキシコで45人、アメリカで2人、そしてつい最近カナダでも30代女性の死亡が確認され合計48人。

 つい何週間前にメキシコで豚インフルエンザ感染者の存在が報道されてから、豚から人への感染段階を軽く越えて、人から人への感染段階に移ると共に名称も新型インフルエンザと変更されました。そして短時日のうちにこれほどの規模にまで拡大してしまったわけです。
 4月28日のWHO(世界保健機構)の発表により、現在の段階は「ヒト-ヒト感染が効率的に起こるようになった状態」の「フェーズ4」。同日のWHOの同日の見解では、フェーズ4はパンデミックの可能性が高まったことを示唆するが、パンデミック(フェーズ6)が回避不可能なものであると示すものではないとしています。(この項「厚生労働省HP」より)

 昨年初頭NHKが、「パンデミック(世界的大流行)」の極限に到った場合の怖ろしい国内状況を、フィクション(ドラマ)を交えて2夜にわたって特集していました。その時想定されていたのは、鳥インフルエンザのケースでしたが、今回は果してどこまで広がり続けるものなのでしょう。
 何やら、中世のヨーロッパを恐怖のどん底に陥れた「ペスト(黒死病)の大流行」のような、得体の知れない不気味さを感じないでもありません。

 いずれにしても今回の新型インフルエンザウイルスがどのようなメカニズムで発生し、ブタ-ヒト、ヒト-ヒトへとかくも急速に広がるものなのか、私にはよく分かりません。そこで以下からは、私の独断と偏見に基づいた考えを述べてみたいと思います。
                        *
 1990年代のイギリスで発症した狂牛病から始まって、鯉ヘルペス、鳥インフルエンザ、そして今回の新型(豚)インフルエンザ…。一体今自然界で何が起きているのでしょう?
 そう考えて私は、数年前ちょっとしたニュースになったある出来事を思い出しました。ご記憶の方もおありかもしれませんが、新潟、山形などで「スギヒラタケ」というキノコを食べた何人かの人が死亡したという出来事です。
 先刻ご承知のとおり、私も山形県の出身です。スギヒラタケならよく知っています。それどころか、私自身子供の頃、秋も深まると学校が終わって家に帰ってから、近くの山に分け入ってよくキノコ採りをしていました。
 
 私の地方では、スギヒラタケは「スギワカエ」と呼ばれていました。スギワカエももちろんたくさん採っていました。名前のとおり、杉の根元や幹の部分に生えている白いキノコです。おみおつけに具として入れて食べるとなかなか美味なのです。当時は当家のみならず、私の地方ではどの家でも採ったり食べたりしていたと思いますが、昭和30年代当時(から報道されるまで)あのような優良なキノコを食べて死ぬなど、誰一人想像すらしていていなかったと思います。
 しかし、それを食べて死亡した事例が現実に起きたわけです。今本当に動植物界で何が起きているのでしょう? (以下次回につづく)

 
 (大場光太郎・記) 

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映画『GOEMON』のこと

 5月1日公開の映画『GOEMON』が、スタートから絶好調のようです。5月5日時点で早くも約50万人の観客動員を記録したそうです。
 そのため同日、「大ヒット御礼舞台あいさつ」が全国5都市で開かれ、主役の石川五右衛門を演ずる江口洋介は、共演の広末涼子と名古屋と大阪を、ガレッジセールのゴリは紀里谷和明監督と札幌と福岡をそれぞれ巡り、夜には東京に集結しました。
 同映画はまた、フランス、イギリスなど世界8ヵ国での公開も決定しており、5月末から始まるカンヌ映画祭でのマーケットでも上映予定で、共同配信のワーナーは「公開国はさらに伸びるはず」と自信を深めているもようです。日本の歴史的大盗賊・石川五右衛門が、時空を超えて世界に殴りこみをかけるといったところでしょうか?

 紀里谷和明監督といえば、歌手の宇多田ヒカルと昨年3月に離婚したことで話題となりました。『GOEMON』は離婚後初めての監督作品で、構想4年。プロデューサー、脚本、原案、撮影監督、編集を担当し、さらに明智光秀役で自らが出演するほどの力の入れようです。「ヒカルよ、見てくれ ! 」といったところでしょうか(笑)。
 またキャストも、主演の江口洋介をはじめ、大沢たかお、広末涼子、中村橋之助、伊武雅刀など豪華キャスト陣です。

 今回の主役・石川五右衛門は、安土桃山時代に徒党を組んで盗賊を働き、京の三条河原で釜ゆで(別の説では、釜あぶりまたは油で煮られた)により処刑されたという事実は間違いないようです。何点かの史料に残された彼の記録は、いずれも文禄3年8月24日(1594年10月8日)の処刑に関するもので、生年や具体的にどのような悪行を働いていたのかなど、詳しいことはあまりよく分かっていません。
 そのためかえって、後代の創作者たちの想像力と創作意欲をかき立てたことは間違いなく、石川五右衛門に関しては古今数多くのフィクションが描き出されてきました。今回の『GOEMON』も、その一ヴァージョンと捉えることも可能です。

 伝説の大泥棒として五右衛門が庶民に広く認知されたのは、ご存知のとおり江戸時代のことでした。盗賊である五右衛門が人気を博した理由は、浄瑠璃や歌舞伎の演題で次第に義賊として扱われるようになったこと、また権力者・豊臣秀吉の命を狙うという筋書きが庶民の心をとらえたことによるものです。
 歌舞伎『金山五山桐(楼門五山桐)』の「山門」の場で、「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小せえ、ちいせえ」と、煙管(きせる)片手に見得を切る場面、釜ゆでにされながら詠む「石川や浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ(辞世の歌とされている)」が特に有名です。
 山門の場面で五右衛門は、髪が伸びすぎた状態を表す「百日鬘(ひゃくにちかつら)」に大どてらという格好をしており、これが今日に到る一般的な五右衛門像として定着しています。
 なお石川五右衛門の戒名は、一体どこの誰が追贈したものなのか、「融仙院寿岳禅定門」です。これは処刑された盗賊としては、極めて異例で破格な戒名といえます。

 映画『GOEMON』は、石川五右衛門が、盗んだ箱の中から見つかったある秘密によって、さまざまな陰謀に巻き込まれていくというストーリーです。しかしその世界観は従来描かれてきたイメージとはかなり異質で、今まで誰も見たことのない五右衛門像が描き出されているようです。
 例えば五右衛門は、戦国武将に仕える忍びだったという設定で、髪形はチョンマゲや百日鬘などではなく現代風。衣装も日本古来の着物と西洋の甲冑を合わせたような独特な姿で、足元には何とロングブーツ。劇中では、西洋風の城や建物など、五右衛門が生きた安土桃山時代とはまるで異なる背景が建ち並ぶ…。
 このような斬新なアイデアは、すべて最初から世界公開を視野に入れていたためといわれています。

 それにしても。ついこの前の『K-20怪人二十面相・伝』といい、今回の『GOEMON』といい、盗賊という悪のヒーローがなぜ今受けるのでしょう?
 思うに(『K-20』で述べたことと重複しますが)、今の時代は、さまざまな要因によって閉塞感の極みのような社会状況です。息苦しさ(生き苦しさ)を誰もが感じています。しかし現システムは、個人がいくらあがいてみたところでいかんともしがたいほど強固なものです。そこで昔のヒーロー、怪人二十面相や石川五右衛門を、「K-20」「GOEMON」として今日的にリニューアルして甦らせ、新たに超人的パワーを賦与し、体制の中枢にまで挑ませるという、大衆の『とにかくこの現状を変えたい、打破したい』という、潜在的なニーズや願望に応えた試みなのではないでしょうか?

 結果観客は、彼らの胸のすくような痛快な冒険活劇につかの間の開放感、カタルシスを味わうという仕掛けであるようです。しかしそれとてもしばらくすれば冷めてしまい、元のグレーな現実感覚に戻ってしまいがちです。
 「自分が変われば世界が変わる」。そこでそこから先は、自分自身でいかにモチベーションを維持し、高め続けられるか。K-20でもGOEMONでも他の誰でもない、自分自身の「内なる力」の出番となるわけです。

 (大場光太郎・記)

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ふるさとまとめて花いちもんめ

                             寺山修司

  村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 寺山修司(てらやま・しゅうじ) 昭和10年青森県三沢市生まれ。29年早稲田大学に入学。同年、第2回短歌研究新人賞受賞。以後、前衛短歌運動の一翼を担う。やがて映画、演劇に進み、次第に短歌から遠ざかるが、その青春性や土俗性に根ざした作品は今も多くのファンを持つ。歌集『空には本』『血と麦』『田園に死す』『テーブルの上の荒野』。昭和58年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 この短歌のメンタリティ。ある年代以上の方なら、十分ご理解いただけるものと思います。しかしそれ以降の、「日本列島総都市化」状況で生まれ育った若い世代には、理解しがたいかもしれません。
 上記略歴中の「その青春性や土俗性に根ざした作品」は、さすがに寺山修司の一連の短歌について、大変的確な指摘だと思います。「青春性」と「土俗性」。このアンヴィバレントな二つの要素のせめぎあいにこそ、今なお多くのファンを持つ寺山短歌の魅力が潜んでいるのかもしれません。

 人が生まれ育った風土、環境は、終生影響を及ぼします。(以下私ごとで恐縮ながら)私が山形県内陸部の郷里で過ごしたのは、私の60年の半生において十代までの18年間余。そして首都圏ぎりぎりに位置する当地での生活は、41年間余。当地での生活の方が圧倒的に長いのです。
 昭和50年代半ば頃の数年間、東京都内で仕事をしたこともあります。逆にズーズー弁が使えなくなるほど、東京弁ないしは標準語に慣れきってもしまいました。そのため、たまに人から「大場さんは地元の人?」などと聞かれることがあります。「いえ、東北、山形です」と答えますと、「えっ、ご出身は山形なんですか !?」と驚いた顔をされる方もおられました。

 しかし根っからの都会人やシティボーイになりきれるものでないことは、この私自身が一番よく知っています。たとえ生まれ育ったのがわずか18年であっても、私の体内には、何百年いな何千年にも及ぶ東北人の血が脈々と流れているのですから。これは否定しようがなく、また否定すべきものではないと思っています。

 草深くかつ雪深い東北で育った田舎者が、東京という大都会に出てきて、生き馬の目を抜く激しい競争社会の渦中に飛び込むこと。それは私の体験から申せば、首都圏生活が既に十分長くても、未だ気の休まることがない、内的、外的な緊張と葛藤の連続です。

 何千万人かの首都圏人の中の、名も無い私ごとき者ですらそうなのですから。早稲田入学と共に上京し彗星のごとく短歌界にデビューした寺山修司の場合は、想像を絶する苛烈さだったことでしょう。それはおそらく、青森県出身の先輩作家・太宰治などもそうだったと思いますが、共に背伸びに背伸びをしっぱなしの苦しい日々の連続だったのではないでしょうか。(そのためかどうか、太宰も寺山も短命に終わっています。)

 この短歌がいつどのような状況下で作られたものなのか、私は寡聞にして知りません。しかし思うに、首都での文壇的、歌壇的修羅のただ中に身を置きながら、内心では苦しみ悶えていた時、なぜか「春の村境」そこの「捨て車輪」の思い出がふと甦(よみがえ)ってきた。華やいだ祭りの思い出などではなく。同時に寺山の心の深い基層(東北的土俗性)から、直感的に短歌となって奔り(ほとばしり)出てきたのではないでしょうか。そうでなければ、「ふるさとまとめて花いちもんめ」という表現はとても得られるものではないと思います。

 捨て車輪=二束三文の鉄くず=ふるさと。
 今大都会のただ中に身を置く都市生活者として、『ふるさとなんて、そこでの生活で身につけたものなんて、しょせん秤(はかり)にかければいちもんめの値打ちしかないんだよ』と捨て鉢な表現はしてみても。人一倍望郷の想い強かった、寺山の本心は決してそうではなかったはずです。ふるさとは、いわく言いがたし。

 私はこの短歌に初めて接した時、涙がどっと溢れてきたことを思い出します。

 (大場光太郎・記)

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迷惑メールについて

 本日早朝6時台に『君なら蝶に』へある人のコメントがありました。名前は「啓次」とあるだけです。私が本日自分のブログを開いたのは、午前10時過ぎのこと。トップページをざっと眺め回して、その人からのコメントがあることに気がつきました。
 『君なら蝶に』は、野口芳信様より私の根本的誤謬についてのご指摘をいただき、《私の観賞ノート》をかなり加筆訂正した経緯があります。『あれっ。まだ何か間違った解釈があって、そのご指摘かな?』。そこで気になって、真っ先にそのコメントを読んでみることにしました。

 そこには『君なら蝶に』とは何の関係もない意味不明なことが3行ほど述べられてあり、その第1行目に先方のHRL(ホームページアドレス)がつけられています。ともかく本記事への批判ではないようなので、ひとまず安堵しました。
 私はそういう場合(それは決まって何らかの営業目的ですが)、一応コメントしてくれたお礼として指定のアドレスを訪問することにしています。ですから今回もそうしました。ところがびっくりです。いきなり、とんでもないアダルト画像が目に飛び込んできたのです。どうやらこの人は、自分が運営するアダルトサイトをPRするために、不特定多数のブログに迷惑なスパムメールを送りつけるのが目的だったようです。
 私は慌ててそのページを閉じ、急ぎ当ブログに戻りました。そして管理ページのコメント編集欄で、そのコメントを直ちに削除しました。

 実は開設当初の頃に1、2度、これに類したメールが送りつけられてきたことがありました。その頃は開設したてで、それについての予備知識がまるでなく無防備な状態でした。それは今回のものよりもっと悪質なものでした。そのコメントをクリックすると、アダルト画像がモロに飛び込んでくる仕掛けだったのです。(このようなスパムメールは、本来民事・刑事上の法的違法性のあるものです。しかし取り締まりが困難なのが現状のようです。)
 その時は画像を直ちに削除すると共に、少し調べてそのような画像が当ブログに入り込めないような処置をある程度行いました。更なる処置としてずっと後になって、スパムメール対策として、コメント送信に当たっては何桁かのランダムな英数字(小角)を入力していただく方式も採用しました。

 またアダルト画像とは関係ありませんが、野口様のような建設的なご意見なら大歓迎ですが、昨年明らかに非難中傷と思しきコメントが寄せられたことがありました。それ以降コメントに際しては、お名前(ハンドルネーム可)とEメールアドレスの両方を必須とする方式に変更して今日に至っております。

 そのような幾重もの処置により、さすがにアダルト画像そのもののコメントメールは影をひそめ、また中傷コメントもなくなっておりました。しかし今回のように、間接的にアダルトサイトに誘導するコメントもまだ可能なわけです。(チェックしたところ、ちゃんとEメールアドレスとしかもごていねいにHRLまで記載されていました。)
 送り手はおそらくパソコン操作に習熟しているのでしょう。このように次々に新手の手法を繰り出されれば、ブログやパソコン操作に関して初心者に近い私などはお手上げです。とにかく発見し次第即削除。これくらいしか有効な手段を持ち合わせておりません。
 私はブログ専従者ではありませんので、時には半日以上経過してそのような迷惑メールに気づくこともあり得ます。もしその間、不愉快なコメントメールに触れられた方は、お気を悪くなさらずに、直ちにそのコメントから離れていただきますようよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記) 

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こどもの日に思うこと

  春の夕もういいかあいまあだだよ   (拙句)

 きょう5月5日こどもの日はあいにくの雨となりました。朝から全天を覆ううす曇り。ご存知のとおり、11月3日の文化の日は「晴れの特異日」として知られています。私の中では、『確かこどもの日も晴れが多かったよなあ』という記憶なのです。
 実際どうだったのかは知りません。これは『こどもの日はすっきり晴れてもらいたい』という、私だけの願望なのかも知れません。(なおこどもの日のきょうはまた、去年に引き続き「立夏-暦の上の夏の始まり」でもあります。)

 朝のうす曇りは、晴れに向うのかそれとももっとぐずついて雨になるのか、どちらとも判断しかねる微妙な空模様でした。結果として、午前8時過ぎパラパラと小雨が落ちてきました。もうその時点で、『あヽダメだ』と分かりました。
 小雨は一旦上がったものの、午前10時過ぎ頃から今度は本式の雨が降り出し、そのまま終日止むことのない本降りとなりました。

 先月の記事『送元二使安西(王維)』の詩の中の
    渭城の朝雨軽塵をうるおす
    客舎青青柳色新たなり
が思い出されるような、久しぶりの雨となりました。我が居住地近辺にたまに見られる柳若葉はもとより、街中に溢れる諸木(もろき)の若葉若葉も雨に洗われて、にわかにみずみずしい緑で迫ってきます。普段見慣れた街並みが叙情性を帯びて感じられます。
                         *
 でもやっぱりこどもの日は、鯉のぼりが翩翻(へんぽん)と泳ぐすっきりした五月晴れであってほしいものです。というのも雨の日とあって、街の通りにこの日の主役である子供たちの姿があまり見かけられないからなのです。
 しかし考えてみますと、普段のよく晴れた日でも、外で子供が遊んでいる姿を見かけることが少なくなりました。大勢の子供を見かけるとしたらせいぜい、朝と夕方の登下校時だけです。登下校児童を狙った凶悪事件の多発によって、学校が定めた通学ルートを集団で固まって一直線に―といった感じです。そして通学ルートの要所要所には、年配のボランティアの誘導員や母親たちが立って見送ったり、帰りを待っていたりします。のっぴきならない当世事情とはいえ、『子供のうちから型にはめられて、可哀そうに』

 「昭和30年代前半の子供」だった私などは、『何という世の中なんだ ! 』と思ってしまいます。登校時はさておき、下校時には各自テンデンバラバラ、互いに何人かの気の合った友だちとペチャクチャおしゃべりしたり、帰路とはまったく別の道に逸れて道草したり、途中友だちの家に上がり込んだり…。とっぷりと日が暮れてから我が家に帰っても、親も誰も何とも言わなかったし、第一それで全校生徒が何かの事件に巻き込まれることなどただの一度もありませんでした。
 そしてそうした寄り道、回り道、道草の積み重ねが、学校の授業では教われない、世の中をのぞき知る格好の課外授業のようなものだったのではないだろうか―と、山形の片田舎町のあの夕焼け空を思い出しながら、つくづくそう思うのです。

 しかし我が郷里の町も、当時とはまるで様変わりしています。何年か前、亡母の年忌の折り帰省し、法要を終えてから懐かしの我が宮内町をレンタカーでグルッと一巡してみたことがあります。結果驚きました。街の中に、人影がほとんど見かけられないのです。
 もちろん道を歩いていたり、通りで遊びまわっている子供など皆無です。『これじゃあまるでゴーストタウンじゃないか』。子供の頃の思い出を呼び覚まそうという試みはもろくも崩れ、郷里の町の今の姿に愕然とさせられたのでした。
                          *
 冒頭の句は、今から10年ほど前のとある春の夕暮れ時、たまたま現住居の中にいて、外から「もういいかーい ! 」「まあだだよー ! 」という元気な男の子、女の子の声が聞こえてきました。昔ながらのかくれんぼに夢中なようです。その間10分ほど。
 『あヽ子供たちは元気でいいなあ。何の思い煩いもなく、ああやって遊べるとは羨ましい』。そんなことを思いながら、私の中の「インナーチャイルド」が、外の子供たちの声と響き合って生まれた句です。

 (大場光太郎・記) 

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やはらかに柳あをめる

         石川啄木

  やはらかに柳あをめる
  北上の岸辺目に見ゆ
  泣けとごとくに

 …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 石川啄木(いしかわ・たくぼく) 1886年~1912年、本名一(はじめ)。岩手県南岩手在の寺の長男として生まれ盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)を中退、明治35年文学を志し上京したが、再び帰郷。「新詩社」の同人となり、詩集『あこがれ』(明治38年)を刊行し、「明星」派の詩人として登場した。その後生活上の行きづまりから北海道に渡り漂泊生活を送ったが、再び上京して東京朝日新聞に校正係として就職し、43年同紙朝日歌壇の選者となり、処女歌集『一握の砂』を出して歌壇にしかるべき地位を確立した。
 この年幸徳秋水(こうとく・しゅうすい)らの大逆事件に衝撃を受け、社会主義思想に傾き土岐哀果(とき・あいか)らと生活派の短歌を主張して、明治45年『悲しき玩具』を出した。同年肺結核の果て26歳の生涯を終えた。死後大正2年詩集『呼子と口笛』が出版された。 (河出書房版・日本文学全集29『現代詩歌集』解説より)

 この歌が収録されている『一握の砂』は、26歳で世を去った石川啄木が、生前唯一出版した歌集です。同歌集には551首が収められていますが、当初は伝統的形式の一行書きだったものを、出版の過程で三行書きに改め、またタイトルも『仕事の後』から『一握の砂』に変更しました。
 『一握の砂』は、啄木の現実の日常と回想や心象風景を交錯させた、啄木の青春的自画像ともいえる歌集です。それまでの短歌には見られなかった平明で真率な表現さらには「三行分かち書き」という革新的表記法とあいまって、集中の歌を一つも知らないという人がいないほど、近代短歌中最高の読者を得ています。盛岡中学の後輩である宮沢賢治は、同歌集を読んで刺激を受け作歌を始めたといわれています。

 今回の短歌は、『一握の砂』中、「我を愛する歌」の次の「煙(けむり)」というサブタイトルの「二」に収めらています。今さら解釈の必要もないほど、啄木短歌の中でも最もよく知られた作品の一つです。
 遠く岩手山を望む北上河畔には、啄木没後10年を記念して大正11年にこの短歌を刻んだ歌碑が建てられました。その後川の氾濫により、元の位置から50mほど引いた現在地に移されたとのことですが、建立当時は巨大な花崗岩(かこうがん)を、雪の中村中総出で3日がかりで山から運んだのだそうです。碑の裏面には、「無名青年の徒之を建つ」と刻まれているそうです。

 このエピソードに見られるように、没後はその名声全国に知られ、郷里でも敬愛されることとなった啄木でした。しかし生前の啄木にとって、岩手は複雑な心情にならざるを得ない故郷だったようです。
 この歌のすぐ前の歌は―
  石をもて追わるるごとく
  ふるさとを出でしかなしみ
  消ゆる時なし
とあるように、故郷に対する想いは、単なる望郷の念などでは片づけられない、大変複雑なものがあったようです。

 「石をもて追わるるごとく」ふるさとを出ることになった一つの原因は、盛岡中学時代のテストのカンニング発覚、欠席の多さ、成績不振による退学勧告による上京であるようです。あるいはまた父が宗費滞納のため、渋民村宝徳寺を一家で退去せざるを得なかった事態、さらには盛岡中学時代から付き合っていた、堀合節子との結婚にあたっての先方の親戚との軋轢(あつれき)などが重なってのことなのかもしれません。

 啄木の短歌すべてに言えることですが、(どういういきさつでそうしたのか仔細には分かりませんが)「三行分かち書き」にしたことで、短歌というよりはむしろ「三行詩」と形容したくなります。この歌は特にみずみずしい叙情詩といった趣きで、北上川の鮮明な視覚的イメージが喚起されます。
 
 「やはらかに柳あをめる」ですから、東北の遅い春の訪れである、4月下旬から5月上旬頃の北上の情景でしょうか。「北上の岸辺目に見ゆ」から、啄木は直接北上河畔に立ったのではなく、岸辺全体が視野に入るかなり離れた位置にいるようです。例えば仕事を求めて北海道に赴く途中の、汽車の車窓から遠く北上の岸辺を眺めた、というようなシチュエーションが考えられます。
 自身は直接かの岸辺に立つことは出来ない。そしてその景色というのは、遠ざかる列車の中からしばし眺めやっただけ。その一過性と、距離の隔たり。それゆえにこそ、望郷の想いはより切実に啄木の胸に迫ってきます。
 その想いの極みが、「泣けとごとくに」という印象深い劇的な結びの言葉となって迸り(ほとばしり)ました。

 (大場光太郎・記)

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憲法記念日に思うこと

 戦争か平和か

 きょう5月3日は「憲法記念日」です。これは、終戦翌年の昭和21年(1946年)11月3日新しい日本国憲法が発布され、翌昭和22年(1947年)5月3日施行されたことを記念して制定された、国民の祝日です。
 以来今年で62年になります。戦後日本にとってのこの長い歳月の中で、既にご存知のとおりその時々で激しい憲法論議が交わされてきました。そして近年改憲論議が特に盛んに問題になっています。

 それは例えば、8年前の9・11に端を発した、当時の米国ブッシュ政権「対テロ戦争」などから、世界に冠たる大国になった我が国の国際社会への真の貢献のあり方というような観点から論じられてきました。1990年代前半の湾岸戦争の時我が国は莫大な戦費を拠出した。けれども、国際的にはあまり評価されなかった。だから9・11以後のアフガン戦争、イラク戦争では、米国政府の「Show the flag」「Show the boots」の要求どおり、遙かインド洋や中東の地まで自衛隊を派遣させることになったわけです。
 
 しかし小泉政権下でそれを決定した際、与野党間で侃々諤々の憲法論議となりました。最終的には、苦しまぎれに国連決議の際どい条項を持ち出して、詭弁のような形で自衛隊派遣が決定、実行されました。
 その苦い教訓から、特に自民党の国会議員が中心になって考えたことには、結局は現憲法第9条がいつも引っかかる、ならばいっそのことこの際第9条も含めて、現憲法自体を根本から見直そうではないか、必要ならば改憲しようではないか、という流れになって今日に至っているようです。

日本国憲法 第2章 戦争の放棄
第9条〔戦争の放棄、戦力、交戦権の否認〕
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 この改憲論議には、最初に発議した自民党や一部の民主党議員ら国会議員のみならず、憲法学者やジャーナリスト、大新聞の論説委員、テレビのニュースキャスターの中にも、「改憲やむなし」とする意見を持つ者が少なからずいるようです。
 各界のリーダー的人々の上記の見解、そして特にどちらかというとマスコミの「改憲ありき報道」により、今や国民の世論調査でも半数前後が「改憲すべし」という考えに傾いているようです。

 しかしここで、改憲を強力に推進している各界リーダーたちの顔ぶれを見てみましょう。例えば政界では、安倍元首相や中川(ヘベレケ)元財務相のように、ほとんどが先の戦争を体験していない、戦後生まれのリーダーたちです。(もっとも今日では、直接戦争を体験した方々は、70代後半より上とかなり高齢化されています。)
 この人たちが(私はそうは思いませんが)いかに優秀だとしても、彼らは「戦争がいかに悲惨であるか」体験として分かっていません。「体験こそ最高の教師なり」という名言がありますが、彼らの主張はしょせん実際体験を欠いた観念論にしか過ぎないのです。
 かかる改憲論者たちがその理由として決まって、「現憲法はアメリカから押しつけられたものだ。だから今こそ真の独立国として、自前の憲法を制定すべきなのだ」と言います。最もな理屈のように思われます。
 
 だがしかし、これは事実に反しています。今から3、4年ほど前の憲法記念日に、故・筑紫哲也のTBS報道番組「ニュース23」で、決してそうではなかったことを総力取材的に特集していました。
 同特集によりますと、GHQ(米国占領軍)の新憲法制定指令に基づき、最初に新憲法草案に着手したのは、憲法学者ら我が国のメンバーでした。そして彼らが一通りまとめてGHQに提出した憲法草案の中に、後に第9条として結実することになる「戦争の放棄」の条文が盛り込まれていたというのです。改憲論者たちの「押し付け憲法論」は間違いなのです。
 
 思うに当時憲法草案に携わった人たちは、戦争というものがいかに悲惨さしかもたらされないか、骨身に沁みて分かったに違いありません。国土の多くは焦土と化すは、戦闘員・非戦闘員含めて国民3千万人以上は亡くなるは、挙句の果ては広島・長崎に原爆投下されて地獄的状況が現出するは…。いえ何も、憲法草案のメンバーばかりではありません。当時の国民全部が、「もう二度とあんな悲惨な戦争はごめんだ」と心底思ったことでしょう。
 だから草案における「戦争の放棄」は、国民全部の民意の反映だったに違いないのです。

 しかし今日、世界に誇れる「平和憲法」がなし崩し的に変えられようとしています。「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」はずなのが、我が国国軍(という名称になるのでしょう)はそれこそ地球の裏側にまで行って、武力の行使が可能な「普通の国」になりかねない瀬戸際です。
 なにせインド洋、アラビア湾、イラク国内そしてソマリア沖…。既成事実の積み上げによって、第9条の外堀は着実に埋められつつあるのですから。

 次に改憲論者たちが持ち出すのは、先に触れたように「国際貢献上軍隊の派遣が必要だから」という主張です。しかしこれだって、屁理屈です。
 前ブッシュ政権の「対テロ戦争」の呼びかけは、9・11直後なら説得力をもって各国が支持しました。しかし今では大義など全くなかったと分かったイラク戦争以降、急速に各国の支持を失っています。アメリカ自体が、イラクからの撤兵を検討せざるを得ない状況です。
 ことほどさように、国際情勢は刻々変化していくものです。以前は戦争が声高に叫ばれても、状況の変化によって世界の趨勢は「平和指向」に180度変わり得るのです。憲法という国の根本法を、時々の国際情勢の変化に引っ張られてくるくる変えてはなりません。

 それに実は、「戦争指向」は20世紀的遺物なのです。今や未来へと続く世界潮流の底流は、(表面的地事象ではそうは見えなくても)「平和指向」なのです。
 「9・11のドエライ真実」を隠し続けた前ブッシュ政権にみられるような、有史以来人類を不幸に陥れてきた「世界統制チーム(人類史の奥の院)」は後数年以内には、間違いなく地球から去っていきます。我が国の改憲論者たちよ。なのにあなた方は、そんなものに未だに付き従うおつもりか ! このような未熟なリーダーたちに道を誤らせないためにも、今こそ私たち国民がしっかり真実に目覚めなければなりません。

 (追記) 今回は現憲法のうち、特に問題となる「第9条」に絞って拙論を述べてみました。そもそも憲法論議は、こんな小論ではとても述べきれるものではありません。
 最近は改憲論議に煽られて、現憲法がすっかりなおざりにされている感を深く致します。皆様どうか国民の責務として、憲法記念日くらいは現憲法に関心を持たれ、出来ればその条文全文を通読していただきたいと存じます。そしてテレビに出ていた誰かの受け売りではない、各自しっかりした「改憲是か非か論」を持っていただきたいものです。
 (なお私は、現憲法が時代にそぐわないと言うのであれば、「環境権」「プライバシー保護権」条文の追加などの最小限の改正に止めるべきと考えます。)

 (大場光太郎・記)

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『天地人』について(10)

 『天地人』第17回は、「直江兼続誕生」でした。
 直江信綱の急死によるものです。ドラマでは直江信綱(山下真司)の死は、兼続等それまでの家柄によらない若手が家老に抜擢されたことへの、旧家臣たちのやっかみによるトラブルとして描かれています。しかし史実では、御館の乱を巡る恩賞などのもめごとに信綱が巻き込まれた、というのが真相のようです。

 いずれにせよ、跡継ぎがいなかった代々筆頭家老の名家・直江家を、小禄の樋口与六兼続が継ぐことになったことで、以後兼続は直江兼続(妻夫木聡)を名乗ることとなり、同時に上杉家における地位をゆるぎないものにしていくことになりました。
 ドラマにあったように、それは上杉景勝(北村一輝)からの主命によるものでした。御館の乱後、弱冠21歳の若さで家老に登用されたことといい、今回の直江家相続の主命といい、その若さで兼続の力量が衆に抜きん出たものであり、主君・景勝からいかに信任されていたかの証明だと思われます。

 直江家の息女でこのたび改めて兼続の妻となったお船の方(常盤貴子)を、これまでも度々主要な場面に登場させ、ことあるごとに兼続と絡ませていました。お船の方は史実としても、再婚した兼続をよく内助した賢夫人だったようです。今後さらに登場の場面はふえていくことでしょう。
 お船の方を演じている常盤貴子は、2003年秋のテレビ朝日(開局45周年記念)ドラマ『流転の王妃・最後の皇帝』で主演の愛新覚羅浩を演じたり、2004年にはなかにし礼原作(降旗康男監督)『赤い月』のヒロインを熱演するなど、それらの作品の中国ロケによって女優開眼し、更に演技に磨きがかかったようです。今回の『天地人』でもこれまで、好演技が見られました。今後の活躍が楽しみな女優だと思います。

 天正10年(1582年)。御館の乱がようやく終息し、兼続個人も直江家の後を継ぐなど、多事が続く上杉家にとって更なる難題が迫っていました。織田信長(吉川晃司)による、上杉氏の内乱による弱体化を読みきった上での越後への侵攻です。
 信長はその手始めとして、甲斐の武田を攻略します。武田の家臣は悉く信長になびき、武田勝頼(市川笑也)を裏切ります。信長は武田の菩提寺・恵林寺を自ら攻め、僧侶150人を焼き殺すなど、その苛烈さは鬼人のごとくでした。結局武田の軍勢はわずかに100人足らずとなり、勝頼は自刃して果て、名門武田家は400年の歴史を閉じたのです。

 そして次なる信長のターゲットは、いよいよ越後上杉領です。その侵攻を食止めるための最前線基地は越中の魚津城でしたが、重臣の吉江宗信(山本圭)と阿部政吉(葛山信吾)が自ら願い出て、魚津城の守りに赴きます。
 ところで魚津城に赴く前に、阿部政吉と直江兼続が話し合う場面がありました。安部を演じた葛山信吾(かつらやま・しんご)、私は初めて目にする役者ですが、なかなかいい味を出していました。横に妻夫木聡がおりながら、一瞬『この役者が主役の直江兼続だったらよかったのに』と思ってしまいました。

 軍略の天才・上杉謙信(阿部寛)は、信長による越後侵攻を見越して、晩年北陸に手を延ばし越中、能登に進撃しその領土としていました。もしここがなければ、一気に越後に攻め込まれていたところでした。
 越中に攻め込んだ信長の先鋒は、加賀の柴田勝家、越中の佐々成政、信濃の森長可らでした。上杉勢はたちまち苦戦に陥りますが、その辺のもようは次回のドラマで描かれていくことでしょう。

 今回のドラマの中で、信長が秀吉(笹野高史)の家臣・石田三成に対面し、信長の直接の臣下にならないか、と持ちかける場面がありました。三成は言葉巧みにその誘いを断わる場面です。吉川信長より年下であった笹野秀吉が、ずいぶん年寄りなのはご愛嬌として。『小栗旬の石田三成?さまになってねぇー ! 』という感じなのです。(小栗旬ファンには申し訳ありませんが)今に到るもピンとこない、妻夫木兼続以上の違和感です。NHKさん。重厚な役柄が要求される時代劇に、イケメン俳優を安直に使うのは本当にやめてください。

 ところで、初回、2回の幼少・樋口与六役で、お茶の間の人気をさらった子役の加藤清史郎君(7歳)を、この『天地人』でまた出演させる予定があるそうです。時期は来月6月頃とのこと。さて今度はどんな役なのでしょう。ひょっとして、兼続とお船の子としてなのかなあ?こちらは楽しみな話題です。

 (大場光太郎・記)

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毎朝世界は新しく創られる

                  作詩者不詳

  毎日が新しきはじまりである。
  毎朝、毎朝世界は新しく創られる。
  悲しみと罪の重荷に打ちひしがれしあなたよ、
  此処(ここ)にあなたにとっての美しい希望がある。

  過去にありし全ての事物は過去であり、
  すでに終わったのである。
  仕事は終わったし、涙はすでに流されたのである。
  昨日(きのう)の過ちは、昨日にて終わらしめよ。
  血を流して、うずいた昨日の傷は、
  夜のうちに注がれた神の癒しの力で癒されたのだ。

  毎日毎日が新たなるはじまりである。
  聴け、我が魂よ、歓びの今日(きょう)の讃歌を。
  古き悲しみと過去の罪のけがれと、
  及び未来に予想される苦しみを払いのけ、
   今日を勇気をもって起き上がり、再びはじめようではないか。

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 作詩者不詳です。おそらく、19世紀後半から20世紀前半頃の米国の誰かの詩と思われます。また訳詩者も不明です。よって著作権は発生していませんので、今回ご紹介することにしました。

 この詩を知ったのは、20数年前のことです。当時30代前半だった私は、一時期ナポレオン・ヒルの『成功哲学』やジョセフ・マーフィーの『眠りながら成功する』のような分野の本を集中的に読んでみたことがあります。(私の心の奥底には、「成功」の足を引っ張るネガティヴなものがけっこう潜んでいたようで、思うような実際的成果は得られませんでした。しかしさすがに、心を鼓舞され大いに刺激を受けたことは間違いありません。)
 
 当時我が国でも、謝世輝という台湾出身の東海大学教授が、米国式成功哲学を土台に独自の理論も盛り込んだ本を次々に出版し、ちょっとしたブームになっていました。今となっては忘れましたが、謝世輝の何れかの本の中でこの詩が紹介されていたのです。
                       *
 今の季節は春たけなわ、ゴールデンウィークの真っ只中です。一見すると、去年と同じ春を今年もまた繰返しているかのようです。しかし実は、去年の春と今年の春は違うのです。なぜなのでしょう?地球は、去年の今頃と同じ時空にはいないからです。
 
 どなたもご存知のとおり、地球は太陽の周りを1年365日かけて公転しています。しかし実は太陽系全体も、「ある星(中心恒星)」を約26,000年かけて大公転しているのです。そしてその中心星も太陽系も共に約2億2,500万年かけて、銀河系の中心太陽(セントラルサン)を超大公転しています。それだけではありません。私たちが属する銀河系自体がさらに他の無数の銀河と共に、「この宇宙」の大中心太陽(グレートセントラルサン)を、数十億年かけて超々大公転しているのです。
 
 「上のごとく下もかく有り」とは、神秘学探求者にとっては古来から知られた有名な定理です。このように、宇宙全体のありとあらゆるものが、時空間を絶えず旋回しながら、よりよい変化のための螺旋(らせん)上昇運動をたゆむことなく続けているのです。 

 地球が巨大な「ガイア意識」であるのと同じ原理で、宇宙全体が超巨大な「生命体」です。私たちが属しているのは、「死せる宇宙」ではなく、瞬々に脈動し呼吸し生成発展している「生ける宇宙」なのです。

 ここまで想いを致せば、なぜ「毎日世界は新しく創られる」のか、より深い理解が得られるのではないでしょうか?毎日毎瞬、世界はまさに新たに生まれ変わり更新し続けているのです。それゆえどの一日もどの瞬間も、いい加減に手抜きして惰性で過ごしてよい時間というものはないと思われます。
 
 まさに、「過去の後悔に生きず。未来の不安に生きず」。人生の真の達人がそうであるように、私たちもまた「永遠の中今(なかいま)」である「今この時」にピタッと照準を合わせて、真に実りある日々刻々を生きるべく心がけてゆきたいものです。

 (大場光太郎・記) 

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