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イエスとマグダラのマリア(1)

 『天使と悪魔(2)』で既報のとおり、先週のフジテレビ「土曜プレミアム」で『ダ・ヴィンチ・コード』を初めて観てみました。感想も既に述べましたが、最初から最後まで息もつかせぬ謎解きとサスペンスの連続で、本当に見応えのあるものでした。マインドとハートが大いに刺激されました。
 多分これをお読みの方の中には、同映画をまだ観ておらず「今後DVDで観てみるか」という人もおられるかと思います。よって詳細な感想などは述べない方がよいと思います。
 ここでは、同映画のメーンテーマに絞って、タイトルも『イエスとマグダラのマリア』ということで以下に述べてみたいと思います。
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 『ダ・ヴィンチ・コード』のメーンテーマは、イエスキリストは本当に妻帯していたのかどうか?という一点に尽きると思います。同映画では、「(マグダラのマリアと)妻帯していた」という前提でストーリーが展開されていくわけです。
 しかし上記問題は、今なお世界全体を根底から揺るがしかねない大問題です。特に何億、何十億人ものキリスト教徒にとっては、聞き捨てならない邪説、妄説の類いということになるでありましょう。

 ここで参考まで、私自身のことを述べさせていただきます。
 私はひょんなことから、昭和57年の春頃、生まれて初めてキリスト聖書を読むことになりました。福音書の解説書やキリスト教の教理本なども読みふけりました。その結果実は私は、厚木カトリック教会のイタリア人神父さんを通して、洗礼を受ける一歩手前までいったのです。
 しかしそれを思いとどまらせる、強い力が働きました。意外だとお思いでしょうが、昭和天皇の崩御でした。特に大喪の礼を観ていて、私の内で眠っていた「日本民族の血」が呼びさまされた格好です。「神父様。申しわけありません。私はどうしても、洗礼を受けることが出来ません」。神父さんは私の堅信の無さを見ておられたのか、無理に引き止めようとはしませんでした。

 実はその頃から、「イエスとマグダラのマリアは結婚していた」という異説があることを知っていました。また当時も、それをテーマにした映画が、ヨーロッパを中心に公開される、されないで大センセーショナルが巻き起こっていたようでした。詳細は知りませんが、結局当時はまだ強大だったヴァチカンの圧力によって、映画そのものが上映取り止めになったのかもしれません。
 そのくらいでしたから、私はキリスト教会の無謬性を信じ込むあまりそんな異説を知っても、内なる「キリストの独身性」を打破するには大変な年月を要しました。打破出来たのは、アメリカのスピリチュアルな著作物が多く翻訳され国内で出版され出した、ここ何年かのことです。

 イエスの独身性は、純粋に宗教教義上の問題です。よってこれを、「確かにイエスは生涯不犯の独身だった」と学術的に証明するには甚だなじみません。この場合はむしろ逆に、「イエスは妻帯していた」という確かな根拠なり、2千年前の何がしかの動かぬ古文献の存在が求められることになります。しかしそれとてもローマカトリック教会によって、「異端文書」は悉く抹殺もしくは奥深く秘匿されて来たはずで、極めて可能性の低いことです。
 ことほどさように、キリスト教会という人類史上最も強固な信仰体系に対抗するには、途方もないエネルギーが必要とされてきたのです。

 しかし今日ヴァチカン(ローマカトリック教会)の力ようやく衰え、『ダ・ヴィンチ・コード』のようにヴァチカンの根本教義にまともに抵触する大問題映画も、全世界で公開が可能になりました。
 これはヴァチカンを陰でコントロールしてきた「彼ら(暗黒勢力)」のパワーの低下を示すものであり、大変歓迎すべき事態だと思われます。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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