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ふるさとまとめて花いちもんめ

                             寺山修司

  村境の春や錆びたる捨て車輪ふるさとまとめて花いちもんめ

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《私の観賞ノート》
 寺山修司(てらやま・しゅうじ) 昭和10年青森県三沢市生まれ。29年早稲田大学に入学。同年、第2回短歌研究新人賞受賞。以後、前衛短歌運動の一翼を担う。やがて映画、演劇に進み、次第に短歌から遠ざかるが、その青春性や土俗性に根ざした作品は今も多くのファンを持つ。歌集『空には本』『血と麦』『田園に死す』『テーブルの上の荒野』。昭和58年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 この短歌のメンタリティ。ある年代以上の方なら、十分ご理解いただけるものと思います。しかしそれ以降の、「日本列島総都市化」状況で生まれ育った若い世代には、理解しがたいかもしれません。
 上記略歴中の「その青春性や土俗性に根ざした作品」は、さすがに寺山修司の一連の短歌について、大変的確な指摘だと思います。「青春性」と「土俗性」。このアンヴィバレントな二つの要素のせめぎあいにこそ、今なお多くのファンを持つ寺山短歌の魅力が潜んでいるのかもしれません。

 人が生まれ育った風土、環境は、終生影響を及ぼします。(以下私ごとで恐縮ながら)私が山形県内陸部の郷里で過ごしたのは、私の60年の半生において十代までの18年間余。そして首都圏ぎりぎりに位置する当地での生活は、41年間余。当地での生活の方が圧倒的に長いのです。
 昭和50年代半ば頃の数年間、東京都内で仕事をしたこともあります。逆にズーズー弁が使えなくなるほど、東京弁ないしは標準語に慣れきってもしまいました。そのため、たまに人から「大場さんは地元の人?」などと聞かれることがあります。「いえ、東北、山形です」と答えますと、「えっ、ご出身は山形なんですか !?」と驚いた顔をされる方もおられました。

 しかし根っからの都会人やシティボーイになりきれるものでないことは、この私自身が一番よく知っています。たとえ生まれ育ったのがわずか18年であっても、私の体内には、何百年いな何千年にも及ぶ東北人の血が脈々と流れているのですから。これは否定しようがなく、また否定すべきものではないと思っています。

 草深くかつ雪深い東北で育った田舎者が、東京という大都会に出てきて、生き馬の目を抜く激しい競争社会の渦中に飛び込むこと。それは私の体験から申せば、首都圏生活が既に十分長くても、未だ気の休まることがない、内的、外的な緊張と葛藤の連続です。

 何千万人かの首都圏人の中の、名も無い私ごとき者ですらそうなのですから。早稲田入学と共に上京し彗星のごとく短歌界にデビューした寺山修司の場合は、想像を絶する苛烈さだったことでしょう。それはおそらく、青森県出身の先輩作家・太宰治などもそうだったと思いますが、共に背伸びに背伸びをしっぱなしの苦しい日々の連続だったのではないでしょうか。(そのためかどうか、太宰も寺山も短命に終わっています。)

 この短歌がいつどのような状況下で作られたものなのか、私は寡聞にして知りません。しかし思うに、首都での文壇的、歌壇的修羅のただ中に身を置きながら、内心では苦しみ悶えていた時、なぜか「春の村境」そこの「捨て車輪」の思い出がふと甦(よみがえ)ってきた。華やいだ祭りの思い出などではなく。同時に寺山の心の深い基層(東北的土俗性)から、直感的に短歌となって奔り(ほとばしり)出てきたのではないでしょうか。そうでなければ、「ふるさとまとめて花いちもんめ」という表現はとても得られるものではないと思います。

 捨て車輪=二束三文の鉄くず=ふるさと。
 今大都会のただ中に身を置く都市生活者として、『ふるさとなんて、そこでの生活で身につけたものなんて、しょせん秤(はかり)にかければいちもんめの値打ちしかないんだよ』と捨て鉢な表現はしてみても。人一倍望郷の想い強かった、寺山の本心は決してそうではなかったはずです。ふるさとは、いわく言いがたし。

 私はこの短歌に初めて接した時、涙がどっと溢れてきたことを思い出します。

 (大場光太郎・記)

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