ある夜の呼び声(1)
今から四半世紀以上前の、昭和57年の春のある深夜の出来事です。
私は当時(以前何度かふれたことがありますが)、東京都内は明治通りに面したビルの4階にある会社で業務を行っていました。その会社というのは、新日本○○開発(株)という土木コンサルタント会社でした。日本工営や(最近東南アジアでの土木建設に関して贈賄で問題になった)パシフィックコンサルタンツの次の次の次くらいの規模のコンサル会社でした。
その会社に勤務して2年余ほど。といっても正社員ではなく、当初は日本工営を退職した社長が海老名市で経営する土木設計会社から、その会社に派遣される形でした。今でいう派遣社員の走りといったところでしょうか。
後に派遣元社長の失踪事件があり、同社と私個人との直接の雇用契約となりました。一時は担当部長から「社員でどうだ」という話があり、同社の役員会に諮ったものの、30過ぎという年齢がネックとなり没になったもようです。
直接契約ですから、当時としては十分な報酬でした。しかし仕事はかなり苛酷でした。出社は午前10時、従って居住地の厚木市の自宅を8時過ぎに出れば十分間に合います。
しかし一旦仕事が始まると、そこからが大変なのです。確か月曜から土曜までびっしり毎晩9時過ぎ、10時過ぎ。日曜出勤はざら、月に何度かは会社にそのまま泊まりこみという状態でした。。
相手は建設省(当時呼称。現国土交通省)や日本道路公団(当時呼称。現在は分割民営化)などです。私の所属部署は道路課でしたから、もっぱら上記役所発注の例えば常磐自動車道路などの道路設計に当たるわけです。
官庁の仕事は、とにかく納期が厳格です。一つの道路設計は、基本設計、概略設計、詳細設計という具合に3段階くらいに分かれ、それぞれに納期を切られその日までに何が何でも当該官庁が要求するレベルの設計書ならびに設計図面をどっさり揃えて、担当者たちが役所に持っていかなければならないのです。
当時はバブル期に向う上昇経済だったのか、全国的に高速道路建設ラッシュの活況を呈していたようです。ですから、同社もとにかく日々戦争のような忙しさだったわけです。
早春のある夕方、私はたまたま新宿の紀伊国屋書店の一階前にいました。社用でその付近に来たついでに寄ったのか別の理由があったのか、記憶は定かではありません。同書店店頭に備えられたスピーカーから、ある少女の歌声がしきりに流れていました。少し甲高いそして幾分金属的な歌声です。
都会は秒刻みの あわただしさ
恋もコンクリートの 篭の中
君がめぐり逢う 愛に疲れたら
きっともどっておいで
愛した男たちを思い出に変えて
いつの日にか 僕のことを
思い出すがいい
ただ心の片隅にでも小さくメモして
薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』でした。私はその歌になぜか惹きつけられて、そこから離れられずしばらくじっと聴き入りました。直前の、薬師丸と同じ年頃の少女との出会いと別れが切実に胸迫ってきて、喪失感に襲われて動けなかったというのが正直なところです。(但し、淫行に当たるようなことは何もしていません。)
やっと我にかえってから、その頃の時代の空気をうまく伝えている歌だなあと率直に思いました。昭和53年に(霞ヶ関は共同通信社ビル内の)新東京国際空港公団の仕事に従事してから、東京での仕事も早や4年。『東京はもういいなあ』とも。
それから少し経ったある日、ほぼ終電くらいの小田急電車で本厚木駅に着きました。駅から深夜バスに乗り込み、当時住んでいた住居近くのバス停で降りました。そこから砂利道を7、800m歩いて母の待つ我が家です。
確かクレマチス(当時はそんなシャレた名前ではなく「鉄線」)が、通り沿いのとある家の庭先にいっぱい咲いているような季節でした。だから仔細に覚えていないものの、春たけなわの4月中旬頃のことだったでしょうか。
既に深夜12時も回った頃合。表通りではありませんから、街灯はあまりなく薄暗い夜道です。そんな通りをいつもながらに、疲れた体を引きずるようにして何も考えずただボーっと歩いていました。
我が家までちょうど半分くらいの所でのことでした。突然不意打ちのような、背後からの声が聞こえてきたのです。
「お前のこの世での使命は何だ ! 」 (以下次回につづく)
(大場光太郎・記)
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