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「母の日」に思うこと

    遠き日のバラ一輪を亡き母に   (拙句)

 きょう5月10日は「母の日」です。今さら申すまでもなく、自分という存在をこの世に産み出してくれた第一の恩人が「母」です。母なくして自分は今こうしてこの世に存在することはあり得なかった―そう思い至る時、母への感謝は何も特定の日に限ったものではなく、常日頃忘れることなく持ち続けるべきものなのだと思います。

 しかし私たちは、ともすれば太陽や空気や水など人間が生きていくのに欠かすことの出来ないものを「あって当然」と思うあまり、それらのありがたさをついつい忘れてしまいがちです。その意味で「母」もまたいてくれて当然の存在とばかりに、日頃は感謝するどころか、ともすればグチをこぼしてみたり不満をぶつけたり八つ当たりしてしまいがちです。
 それゆえ母のありがたさ、偉大さを改めてよく考え感謝する日として、「母の日」を特に設けてあることはその意味でもよいことなのかもしれません。

 かく言う私は、既に度々述べさせていただきましたとおり、平成16年春に母を亡くしました。「母の思い出」につきましては、「二木紘三のうた物語」の『母さんの歌』コメントで少し詳しく述べさせていただきました。その中から抜粋して以下に、ご紹介させていただきます。
                         *
 貧農出身の母は、もって生まれた貧乏性に加えて、出来の悪い息子を持ったがために、70過ぎまで掃除の仕事などを続けました。「もう、やめなよ」と言っても、聞きませんでした。
 長い間の心労がたたったのでしょう。平成9年6月、脳梗塞で倒れました。私が今の業務を開業して、間もなくの頃でした。当時75歳でしたが、本当にしわくちゃの小柄な婆さんになっていました。しかし病気によって心労から解き放たれたのか、入院後の方がしわが取れて、若返ったようでした。
 ある日病院を訪ねると、私を認めるなり、まるで童女のようなあどけない笑顔で、にっこり笑うのです。長い間母と共に暮らしてきましたが、そんな無邪気な笑顔は初めてでした。いかに母の心労が大きかったか。胸が締めつけられる思いでした。
 (その後脳梗塞が再発し、半ば植物人間化してしまいました。)

 母入院後半年余り経った、翌平成10年2月。諸般の都合で、自宅介護をすることにしました。当時はまだ「介護保険法」が施行されておらず、世間一般はまだ自宅介護という通念があまりない頃でした。しかし私は、昔太郎村の家で、母が父を介護していたのを見ていましたから、別に大層なことだとは思いませんでした。
 以来、6年余り続けました。「要介護度5」でしたから、逆にそんなに手のかからない病人でした。母は私が息子であることも分からなくなっていましたから、張り合いはありませんでしたが…。私としては、これ以上ない親不孝のせめてもの償いのつもりでしたが、そんなことぐらいで償いきれるものでも、大恩に報いられるものでもありません。
 ともあれ「悲哀の中に聖地あり(オスカー・ワイルド)」。救いようのない愚か者の私も、この経験から「大切な何か」を少しは学ぶことができました。
 (なお母の介護に当たって、主治医の先生、看護師さん、市役所の方々、ケアマネージャーさん、ヘルパーさん、入浴サービスのスタッフの方々…。実に数十人以上の方々に、その都度我が家に来てサポートしていただきました。これらの方々のお力がなければ、とても私一人では介護を続けることは出来ませんでした。)

 生前も死後も全く世間様に知られることのない、無学な母でした。ですから皆様。申し訳ございませんが、母の名前をここに記させてください。母は「大場ノヱ」と申します。大正の生まれですから、当時の慣習でカタカナですが、漢字では「野枝」でしょう。みちのくの野にひっそりと生えた木か草花かの、一枝。いかにも母にふさわしい名前でした。出来れば、郷里にそのまま住み続けさせてやるべきでした。
 平成16年4月2日。母ノヱ逝去。享年82歳。ごく内輪で葬儀をすませました。4月5日午前。母を荼毘に付すべく向かった、当日は朝から大快晴でした。その年は丁度その頃が桜の満開でした。途中相模川のほとりの道を通りました。数百メートルほど桜並木が続き、特に二百メートルほどは道の両側から全体を覆い、さながら満開の桜のトンネルの趣きです。対岸の海老名市の桜並木も見事でした。
 余りにも報われなかった母には、およそ似つかわしくないほどの「最後の花道」になりました。
 (なお、同年5月下旬帰省し、親族立会いのもと、父が眠る太郎村の当家の墓所に納骨致しました。)
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 以上のように、私が亡母を語るということは、私の親不孝ぶりとダメ人間さ加減を共に語ることになります。現在お母さんがご存命の皆様は、悔恨を残されぬよう私を悪しき例として、どうぞお母さんを大切にしていただきたいと存じます。

 上記引用の『うた物語』の二木先生が、最近印象的なことを述べておられます。ご紹介しますと―
 「ことしもまた母の日がきます。私は亡き母に、心の中で一輪の草の花を捧げます。ごく幼かったころに、そんな場面があったような気がして。」(『わが母の教えたまいし歌』の“蛇足”より)
 二木先生にならって私も、そうさせていただきます。昨年6月記事の『バラの思い出(2)』の、あのバラを亡き母に。一輪の真紅のバラは、私の心の中で今なおしおれることなく生き生きと咲き続けていますから。

 (大場光太郎・記)                    

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