« 絶句 | トップページ | 日々雑感(2) »

イエスとマグダラのマリア(2)

 それにしても、映画『ダ・ヴィンチ・コード』をはじめとして、近年「イエスは妻帯していたのではないか?」とする問題提起や論争が巻き起こっているのはどうしてなのでしょう?

 これは20世紀半ば頃、これまで正典(カノン)とされてきた新約聖書の4福音書以外に、『(マグダラの)マリアの福音書』(断片のみ)『トマスの福音書』『フィリポによる福音書』などが発見されたことによるものです。
 (後にご紹介しますが)これら外典(げてん)の中でマグダラのマリアは、イエスとの親密なようす、男性たちと並ぶイエスの弟子として記述されているのです。
 これらに基づき一部聖書研究家たちによって、イエス宣教の旅での女性たちの役割りや、マグダラのマリアの地位を見直させることになったのです。

 ここで従前の「マグダラのマリア像」について、以下に簡単に述べてみます。
 4福音書において、マグダラのマリアは出身地や行跡などは詳しく触れられていません。ただカトリック教会では早くから『ルカによる福音書』に登場する、「娼婦」を意味する「罪の女」と同一人物視してきました。そのためいつしか、金持ちの出自でありその美貌と富ゆえに快楽に溺れ、後にイエスに出会い悪霊に取り憑かれた病を癒され、以後改悛したというイメージが定着していくことになります。
 それでもよほど悔い改めがずば抜けていたのか、マグダラのマリアはカトリック教会、正教会、聖公会いずれにおいても、列聖されたレッキとした「聖人」なのです。そしてなぜか、民衆の間では人気の高い聖人の一人でもあります。

 またマグダラのマリアが新約聖書においてひと際重要なのは、エルサレム郊外のゴルゴダの丘で磔にされたイエスを遠くから見守り、イエスが捕えられるとともにチリヂリに去っていった弟子たちの中にあって、その埋葬までを見届けたこと。さらには、『マタイによる福音書』などによると、「復活したイエス」に最初に立ち会った一人とされることです。
 そして彼女は復活したイエスからじかに、復活の事実を弟子たちに伝えるように言われたとされることです。このため(娼婦に貶められる以前の)初期キリスト教父たちから「使徒たちの(中の)使徒」と称えられたということです。

 これはあくまでも私見かつ余談ながら―。
 十字架刑から3日目で、イエスキリストは死者の中から復活した。これはキリスト教徒以外はとても信じられることではないでありましょう。しかし私は、十分にあり得ることだと考えます。
 イエスのみならず。「ヨガの奥義」を極め肉体を含めた諸体を精妙化させることによって、例えば自分の体をそこに残しながら同時に何百キロも離れた弟子の前に姿を現したり、1800年間もこちらの世界とあちらの世界を自在に行き来できたり、300年以上40歳くらいの姿で生き続け近代西洋史の重要な場面を陰で支えたり…という超人たちが実在したのです。
 彼ら大師級の存在は、私たち凡人の生死の尺度など遙かに超越しているのです。なおイエスは、福音書ではまったく触れられていない、ヨルダン川での洗礼以前の空白の18年間、インドやエジプトで高度のイニシエーションを受けていた可能性があります。

 さて今度は「外典」において、マグダラのマリアはどのように記述されているのかを見てみましょう。『ダ・ヴィンチ・コード』でも引き合いに出されていた『フィリポによる福音書』の2ヶ所で、彼女について言及されています。

 「三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリアと彼女の姉妹と彼の伴  侶と呼ばれていたマグダレーネーであった。」

 ここではマグダレーネー(マグダラのマリア)は、ズバリ「主(イエス)の伴侶」と記述されています。もう1ヶ所は、弟子たちすべてよりイエスが彼女を愛しているのを見て、弟子たちがイエスに尋ねる以下の場面です。

 「主は、マグダラのマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして、主は彼女の口にしばしば接吻した。他の弟子達は、主がマリアを愛しているのを見た。彼らは主に言った。「あなたはなぜ、私たちすべてよりも彼女を愛されるのですか?」救い主は答えた。「なぜ、私は君たちを彼女のように愛せないのだろうか」。」  (以上岩波書店版・荒井献訳より) 

 4福音書の記述とはまったく異なるマグダラのマリア像であり、イエスキリスト像です。
 もしこれらの記述が本当なら、2,000年近く不動の教義であり続けた「キリストの独身性」や「キリスト像」あるいは「男性のみの12使徒像」は根底から揺らぐことになります。(ついでに、聖母マリアに姉妹がいたとする記述も新事実です。)
 真実は一つのはずです。さて真実はローマカトリック教会の方なのでしょうか?それとも外典としてこれまで除外されていた『フィリポ福音書』などの方なのでしょうか?  (以下次回につづく)

 (注記) 本シリーズ(1)では、聖書として採用された以外の古文献は、抹殺もしくはヴァチカンの奥深く秘匿されているという趣旨のことを述べました。しかし今回ご紹介しましたように、今日既に一部表に出されている文書もあったわけです。以前述べましたとおり、今が「黙示録の時代」だとしますと、そのギリシャ語は「アポカリプス」、つまり覆い隠されていた真実が明らかになるという意味だそうです。
 皆様思い返されればご納得のとおり、そういう現象は今日社会の各分野で多く見られるようです。上記古文献も、あるいはその一例なのでしょうか?
 ともかくも、上の件は私の浅学によるミスであり、謹んでお詫びしつつ訂正致します。

 (大場光太郎・記)

|

« 絶句 | トップページ | 日々雑感(2) »

所感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 絶句 | トップページ | 日々雑感(2) »