« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

ご報告致します(7)

 諸事、雑事に追われてつい忘れておりましたが、おかげ様で23日(火)当ブログ開設以来の総訪問者数が15,000人を越えておりました。遅ればせながら、ここにご報告申し上げます。訪問者等の概略は以下のとおりです。

(1)開設~‘09年6月23日(延べ日数-421日)
    訪問者合計       15,046 人
    日 平 均          35.7 人
(2)1万人達成時点(4月14日)~6月23日(延べ日数-70日)
    訪問者合計        5,007 人
    日 平 均          71.5 人
(3)訪問者5,000人当たり対比
    前回  100日で到達  (1月5日~4月14日)
    今回   70日で到達  (4月14日~6月23日)
    今回/前回比        0.70
(4)直前1ヵ月間(5月25日~6月23日)
    訪問者合計        2,287 人
    日 平 均           76.2 人
 
 実際のところ前回の1万人到達が、私の中で一つの大きな区切りであったようです。と申しますのも、以来訪問者累計がさほど気にならなくなったからです。ですから今回は何日も見過ごしてしまい、気がついたら15,000人(中には開設以来毎日のようにご訪問たまわり、お一人で300回以上ご訪問されている方もおられます)に達していたというような具合です。
 ともあれ私如き者のブログに、これほど大勢の方々のアクセスをたまわりましたこと、心より感謝申し上げます。大変ありがとうございました。

 最近は、毎日のようにご訪問される方が10人前後おられます。その方々は毎日の記事更新を楽しみにしておられることと存じますが、ここ何ヶ月かは記事更新無しの日がけっこうあり心苦しく思います。しかしこれは私の諸事、雑事により止むを得ないこととご理解たまわりたいと存じます。

 記事数も既に450を越え、さすがに「書き慣れ感」はあります。しかしだからといって、以前よりさらに皆様の心を打つような優れた文章が書けているのだろうか?と己が胸に問いただしてみますに、必ずしもそうではなく、最近はむしろ安直な文章になっているようにも思います。
 何ごともそうだと思いますが、「初心忘るべからず」という先人の言葉はまこと至言です。皆様のお心に響く文とは、きらりと光る文とは、人様を惹きつける文とは、人様のつかの間の癒しとなるような文とは…?。先ずもって私自身の心のリフレッシュを常に心がけ、日々新生のつもりで日常の出来事に新鮮な気持ちで向き合い、その中から得られたキラッと光るものを逃さず掴んで文章化、記事化していければと思います。
 今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨だより(3)

   青梅雨の哲学の道逍遥す   (拙句)

 ここ何日か晴れて暑い日が続きました。それは梅雨のさなかの気まぐれの晴れ間というようなものではなく、まるで梅雨がすっかり明けきって盛夏になってしまった感じでした。
 しかし本日当地は朝から雨となり、久しぶりに梅雨本来の姿を取り戻しました。この雨こそは、何日も続いた晴天により、プチ日照り状態で雨を欲していた青苗やきゅうり、トマトなどの農作物や草や木々にとって、かっこうの慈雨、喜雨となったかもしれません。

 午後外出し、いつもの水路道を通りました。道沿いの木々も草花も息を吹き返したように青々とした生気ある緑になっていました。
 ただその中で一群の赤紫の紫陽花は花の盛りを過ぎて、既に腐(く)たれ気味。せめて本当に梅雨が明けるだろう7月中旬頃までは咲いていてよ、と思わないでもありません。梅雨といえば紫陽花、紫陽花といえば梅雨なのですから。

 当地近郊の田んぼの早苗は、丈を既に20cmくらいまで伸ばしています。神奈川県央の当地では、街を離れると青田が遠くまで連なっている田園風景にも出会います。そんな青田のさまを眺めると何となく心が落ち着いてきます。
 雨に打たれる時はしっかり打たれて、やがて来る炎暑に身をこがされながら、ずしりと重い稲穂になっていくのでしょう。

 冒頭の句は、ある人のブログで画像と文章で「哲学の道」が紹介されており、それに触発されてにわかに詠んだものです。
 「哲学の道」は京都市左京区にある小道です。その昔『善の研究』という名著などで名高い哲学者・西田幾多郎が、この道を散策しながら思索にふけったことからいつしか「思索の小径」と呼ばれました。その後西田の愛弟子だった田辺元や三木清なども好んでこの道を散策するようになり「哲学の道」と名づけられ今日に到っています。
 「日本の道100」にも選ばれている散歩道です。古都京都に憧憬の思いはあっても、私自身はまだ京都の由緒あるスポットを見て回ったことがありません。『いつかは…』と思いつつも、さていつのことやら。そこで往時の京都学派の優れた業績に思いを馳せながら、せめてイメージの中だけでもその道を歩いているつもりになって作ってみました。春は桜、秋は紅葉が見事なら、きょうのような梅雨の風情もまた格別なのではと…。

 …夕方雨は上がりました。この季節は雨雲が垂れ込めた夜7時過ぎでも、外はほんのり明るさをとどめた薄暮の感じです。帰路のため少しの間バス停で待っていますと、思いのほか強い風が街路に吹きつのっています。2、300m先の本厚木駅に続く街路の木々が身もだえのように白っぽい葉裏を見せています。
 住居への道を北に向って歩いていますと、風はいよいよ強い向かい風に思われました。なるほどよく確かめてみますと、この季節にはそぐわない北風なのです。そのせいか風をまともに受けながら進む身には、涼しさをとおり越して幾分肌寒さすら感じられるほどでした。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

梅雨の名句(2)

              与謝蕪村

   さみだれや大河を前に家二軒

…… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 与謝蕪村(よさぶそん、よさのぶそん) 享保元年(1716)~天明3年(1784)は江戸時代中期の俳人、画家。摂津の国(現大阪市)の生まれ。20歳の頃江戸に出て俳諧を学ぶ。27歳の頃松尾芭蕉に憧れ、その足跡をたどり東北地方を周遊した。42歳の頃京都に居を構え、この頃から与謝を名乗るようになった。以後京都で生涯を過ごし68歳で没した。

 松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人であり、江戸俳諧中興の祖と言われる。また俳画の創始者でもある。写実的で絵画的な発句を得意とした。独創性を失った当時の俳諧を憂い「蕉風回帰(芭蕉に帰れ)」を唱え、絵画用語である「離俗論」を句に適用し、天明調の俳諧を確立させた中心的な人物である。  (フリー百科事典『ウィキペディア』「与謝蕪村」の項より)

 芭蕉の「五月雨をあつめて早し最上川」を取り上げた以上、蕪村のこの句も取り上げざるを得ません。それくらいこの2句は昔から「五月雨の句」の代表句として、必ずと言っていいほどどの歳時記にも掲載されている有名な句です。
 二大巨匠の同一テーマの句の、それぞれの句風の違いなどを読み比べてみるのも面白いかもしれません。

 なお「梅雨の名句」と銘うった割には、私自身がピンと来る「梅雨」という季語の句があまり見つからず、そこで「五月雨の句」を多く取り上げることになるかもしれません。どうぞご了承ください。

 さてこの句です。「さみだれが降り続く中、川には水が溢れている。勢い大河になってしまった川の前に家が二軒ある」というような大意かと思います。

 略歴にもありますとおり、優れた画家でもあった蕪村は、風景を絵画的に描いた句が得意な俳人だったようです。この句はまさにそのとおりで、極めて絵画的です。と同時に芭蕉の最上川の句同様、どんどん水かさを増していく大河の臨場感が伝わってきます。そしてその真ん前の二軒の家はどうなってしまうのだろうという、スリルとサスペンス的要素も感じられます。こういう情景こそは「俳句的場面」というべきです。

 この句の「二軒」という家の数に関しては、昔から「二軒というのが絶妙なのだ」というのが定説になっています。いわく、一軒だけでは極めて危うい感じで、読み手は『ああだダメだ。こりゃあ、家は間違いなく流される』と感受される。また三軒では安定性が増してしまい、先ほどのスリル、サスペンスな面白味がそがれてしまうというのです。
 私もなるほど言い得て妙だと思います。

 そこで気になるのは、この二軒の家はこの先どうなったのだろう?ということです。蕪村はただ現前する情景を絵画的に叙景するのみ。「二軒の家は、その後かくかくしかじかになったのですよ」というような、事後報告的な次の句は詠まないのです。前にも述べましたが、そういうことはすべて読者の想像に委ねられているところが、俳句という超短詩形の味わいの一つだと思います。

 だから私も独断と偏見により考えて見ますに―。芭蕉の最上川の句の場合は、「五月雨」と漢字表記で、荒々しい男梅雨を想像させます。最上川の水かさを増した急流、激流を表現するにはそれが最もふさわしかったわけです。

 対して蕪村のこの句では「さみだれや」とかな表記にしています。そこから、穏やかに降り続ける女梅雨が連想されます。そうしますと、さみだれは静かに降りたいだけ降ってしまえば止んでしまう。(増水して川幅が膨れ上がった)大河の前の二軒の家は、結局大事には到らなかったのではあるまいか?と思われるのです。
 皆様の捉え方はいかがなものでしょうか?

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

UFO記念日(2)

 我が国では昭和20年代後半既に、「世界人類が平和でありますように」の提唱者・五井昌久先生が、宇宙人の実在を説いていました。奈良時代のアセンデット・マスター「役(えん)の行者」を過去世に持つと思われる、金星の長老からのメッセージをことあるごとに伝えていたのです。
 弟子の一人・村田正雄氏には、『空飛ぶ円盤と超科学』という驚くべき本があります。それによりますと氏は、幽体(ゆうたい)で円盤に乗せられ金星に連れて行かれたそうです。その間の金星人との対話、金星の超科学基地の見学、円盤の詳細な断面図などが掲げてあるのです。(注 金星は地球の姉星にあたり、今後地球が目指すことになる「アセンション」を星全体で既に果しています。三次元に囚われると理解出来ない話しながら…。)
 当時の理解者からは、「先生の宗教のお話はとっても素晴らしい。しかし空飛ぶ円盤や宇宙人のお話だけはいただけない」と言われたそうです。しかし先覚者・五井先生は「私は実際(むこうの)話を聞いて、(こちらも)話をしているんだから」と、宇宙人の実在を取り下げることは決してありませんでした。

 また作家の三島由紀夫も、空飛ぶ円盤や宇宙人にはことの他関心があったようです。三島は昭和30年代半ば過ぎ頃、それをテーマにした『美しい星』という小説を書いています。文明批評的なものも含まれた、なかなかの秀作です。
 さらに三島は生前の昭和40年代前半、当時気鋭の前衛芸術家だった横尾忠則の才能を高く買っていました。その横尾はご存知のとおり、40年代後半から50年代にかけて、UFOが登場するサイケな絵をずいぶん描いています。そして昭和60年代前後のある時、幽体離脱(アストラルトリップ)状態でUFO母船内に招待され、そこで三島と逢ったそうです。三島の立ち居振る舞いの見事さとかっこうよさは、母船内宇宙人の賞賛の的だったとか。
 そこで横尾は三島から、人類の未来の一端を知らされ、また横尾は三島の魂の弟だと告げられたそうです。(これは、当時住んでいた我が家の郵便ポストにたまたま入れられていた、新宗教「世界救世教」機関紙の横尾氏インタビュー記事によるものです。)

 世間一般の話題としては、昭和50年代前半ピンクレディによる『UFO』が大ヒットしました。2人の独特のコスチュームは今思い返しても大変印象的で、当時10代以下の子供たちは競って「ユーフォー ! 」という歌と振り付けを真似していました。
 また世界的には、スティーブン・スピルバーグ監督による1978年の『未知との遭遇』、1982年の『E.T』の世界的ヒットがあげられます。
 これらの大衆芸術的な分野でこれらのテーマが取り上げられたことは、UFOや地球外知的生命体の存在可能性に対して、人類が潜在的に受容していく上で測り知れない影響力を及ぼしたものと思われます。

 しかし問題は常に世界レベル、国家レベルでの統治機構に行き着きます。ここでは詳述出来ませんが、各国政府特にNASA(米国航空宇宙局)を擁するアメリカ政府の姿勢が大問題なのです。UFOやE.Tに関して、相当な重大情報を隠していると見て間違いないものと思われます。自分たちが永続的に、国民や人類をコントロールするためには「不都合な真実」は隠蔽し続けなければいけないのです。
 だがいつまでも隠し続けることは出来ないでしょう。種々の理由により、それは不可能です。

 以上「UFO記念日」ということで、それをテーマとするものを駆け足で述べてまいりました。広島原爆投下以降なぜ急激にUFOの目撃例が増え出したのか、一体何の目的があって現在地球上空にUFOの大群が集結しているのか、UFOはどうやって光速の壁を超えられるのか、といったことにつきましては、いずれ機会があればさらに詳しくご紹介してみたいと思います。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

UFO記念日(1)

 だいぶ前の、俵万智の「サラダ記念日」の影響でもないのでしょうが。当今はまあさまざまな「記念日づくし」です。1年365日「何とか記念日」あるいは「何とかの日」で埋め尽くされているような感じもします。5月3日の憲法記念日のようにきちんとした由来があるものもあるかと思えば、中には「二ャー二ャー二ャー」という鳴声にあやかった、2月22日の「猫の日」などというものまであります。
 そんな中で今回取り上げるのは、「空飛ぶ円盤記念日」別名「UFO記念日」です。本日6月24日が、まさにその日にあたるのです。さてその由来は―。

 1947年(と言うことは、現在60歳を迎えた私が生まれた年よりもさらに2年前)の6月24日、実業家のケネス・アーネストが自家用飛行機でワシントン州カスケード山脈上空を飛行中のこと。後にアーネスト自身が語ったところによれば、時速2700Kmという当時も今も驚異的なスピードで急降下急上昇する、9個の円形の奇妙な飛行物体に遭遇したというのです。
 アーネストは航空機にしては尾翼がないので、遭遇当初は『あれっ。新型ロケットかジェット機か?』と思ったそうです。しかしアメリカ空軍は、そのような新型ロケットまたは航空機の存在を否定する公式発表を行いました。

 いずれにしてもその飛行物体は、「受け皿を川で投げ、水切りしたような飛び方」(アーネスト談)から、「Frying Saucer」つまり「空飛ぶ円盤」と名づけられました。そしてアーネストの目撃談が全米中に報道されると同時に、堰を切ったように各地から同様の目撃証言が多数寄せられました。
 事態を重く見た米国空軍は、改めてこの飛行物体を
  UFO(Unidentitied Frying Object)―未確認飛行物体
と命名して、UFOは依然「未確認飛行物体」のまま今日に至っています。

 その後UFOは世界中で目撃例が相次ぎ、それらしき飛行物体が映っている写真や画像が世界各地で膨大に撮られてきました。それらの中には甚だ信憑性に欠け、中には明らかにトリック写真と思われるものがないでもありません。否「これはまさしくUFOだ」と断定出来るのは大変少ないのかも知れません。

 そんな中で、私なりに信頼出来るものとしては、比較的初期(1957年頃)の頃のジョージ・アダムスキー(1891年~1965年)の円盤遭遇、同乗あるいは金星人との会見があげられます。この頃撮影されたと思われる円盤写真は「アダムスキー型」と呼ばれ、その後同型の円盤が多く目撃されることになります。しかしアダムスキーは、この問題のデリケートさを映し出すかのように、今では彼の事跡や情報はおおむね否定的に捉えられているようです。
 アダムスキーには『空飛ぶ円盤同乗記』『金星人会見記』などと共に、『生命の科学』『テレパシー』『宇宙哲学』などの深遠な内容の著作も多く、それらを読むかぎりではアダムスキーはひたむきな「宇宙哲学の求道者」だったのではないだろうか?と私は個人的に思います。

 またUFO情報に関しては、スイスのビリー・マイヤー(1937年~)が、1950年代後半から、プレアデス星系出身の女性宇宙飛行士・セムシャーゼなどからのメッセージを取り次ぎ、また数千枚にも及ぶUFO画像やビデオを公開し世界中の注目を集めました。ただしそのUFO画像は、多くのUFO研究者から捏造とみなされているようです。
 彼のプレアデス星人からのメッセージは、多くが地球の歴史と未来に関するもので、予言的な内容も多く、1991年のソ連邦崩壊などを何十年も前に予言するなど、今でもアメリカではその内容に対する評価は高いようです。そのメッセージを伝達する目的でスイスに「フィグ(Figu)」という団体を設立し、1991年には日本でも「フィグ・ヤーバン」という支社が設立され今日に至っているようです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨の名句(1)

              松尾芭蕉

   五月雨をあつめて早し最上川

  …… * …… * …… * …… 
《私の観賞ノート》

 松尾芭蕉の『奥の細道』紀行中に詠まれた名句中の一句です。「何日も降り続いた五月雨を集めて水かさを増した最上川の、何と流れの急なさまよ」という大意となりましょうか。
 ここで先ず述べたいことは、「五月雨(さみだれ)」という季語についてです。五月雨だから現新暦5月に降る雨、というとさに非ず。

 (五月雨)は旧暦五月に降る長雨で、古くから和歌にも詠まれてきた。五月(さつき)の「さ」と(雨を表わす)水垂れの「みだれ」を結んだ意といわれている。梅雨がその時期のことも含むのに対して、五月雨は雨のみをいう。 (角川文庫版『俳句歳時記・夏』「五月雨」より)
 つまり五月雨は、今の梅雨時に降る雨そのものを指す季語であるわけです。

 ところで松尾芭蕉は、大石田(現山形県北村山郡大石田町)を訪れた際、最上川の船着場の家で地元の俳句同好家たちと句会を催しました。その会での芭蕉の句は以下のとおりでした。

   さみだれをあつめてすずしもがみがわ
 句会が開かれたのは今の暦(新暦)で7月末頃のこと。梅雨晴れ間ともいうべきかなり暑い日だったようです。ただ最上川から吹き渡ってくる川風は涼しく、暑気を和らげてくれる心地良い風なのでした。「すずし」の語感といいすべてかな表記であることといい、最上川のやさしく爽やかな気候のさまが読み取れます。この句は、最上川を川辺から眺めている、一幅の静止画的最上川といったところでしょうか?

 その数日後(山寺・立石寺に立ち寄った後)、また戻り梅雨が続いた中芭蕉は次の目的地である新庄宿に向けて、舟で最上川を下って行くことになります。ということは既に新暦8月に入っていたわけで、私たちの感覚からすれば梅雨はとうに明けて盛夏の真っ只中のような気もしますが、その年の何らかの気候事情により梅雨はまだ継続中だったことになります。
 
 ここで最上川について簡単に―。

 最上川は、山形県を流れる一級河川最上川(一級)水系の本川です。(同水系上流には、当ブログでたびたび触れました我が郷里を流れる「吉野川」も含まれます)。同川は山形県と福島県の県境に位置する吾妻山(あづまやま)付近に源を発し、山形県中央部を北に流れ下り、新庄市付近で向きを西に変えて酒田市で日本海に注ぎます。
 富士川と球磨川と共に、日本三大急流の一つに数えられています。また同一県のみを流れる河川としては、229kmの最上川は国内全河川中最長となっています。

 最上川を一躍有名にしたのは、何と言っても20数年前のNHK朝の連続テレビ小説『おしん』によってだったのではないでしょうか。あの中で、7歳のおしん(小林綾子)がある冬の日の朝、大石田に隣接する尾花沢から、最上川の筏(いかだ)舟に乗せられて奉公に出て行くシーンがありました。それを川岸で両親(でしたか?)がじっと黙って立っている。蓑笠を着せられた筏上の小さなおしんが、両親(もしそうだったら、父親は伊東四朗、母親は泉ピン子)に必死で呼びかける。両親はじっとこらえて見送っている。筏はどんどん流れ去って行く。雪は小止みなく降り続いている…。
 視聴率60%以上と驚異的な数字。とにかく日本中が感動の涙にむせんだ名場面の一つでした(かくいう私は、後にダイジェスト版で観ただけでしたが)。
 
 「五月雨をあつめて」最上川は水かさをぐんと増し、流れも急に早くなっていたようです。芭蕉はその乗船のようすを『奥の細道』で、「水みなぎって舟危うし」と述べているほどです。

 その時の上舟体験から、芭蕉は句会での句を、
   五月雨をあつめて早し最上川
 と改めました。すべてがかな表記から、固有名詞を漢字に変えたこと。そして何より重要なのは、「すずし」を「早し」に変えたことです。それによって五月雨による増水、激流の生の臨場感、スピード感が段違いに加わることとなりました。

 私の個人的な見解ながら、もしこの句が「早し」に改まっていなかったとしたら、名句として今日に至るまで広く人口に膾炙されることがあっただろうか?おそらく無理だったのではないだろうか?と考えます。
 
 (大場光太郎・記) 

| | コメント (1)
|

けふは夏至

   夏至遠きメリケン波止場の灯を想ふ   (拙句)

 きょう6月21日(日)は「夏至(げし)」です。多分列島の広い地域でそうだったのかも知れませんが、当地(神奈川県厚木市)ではあいにく朝からの雨となりました。午後から雨は小降りとなり、夕方にはほぼ雨は上がったものの、それでもなお外を歩いていますと、湿っぽい細やかな水滴のようなものが絶えずまとわりついてきます。しかし薄暮の街に涼風が吹き渡り、それすらも心地良い感じがして周りの草花などを眺めて歩きました。
 考えてみますと、毎年この時期はちょうど梅雨にあたるわけで、夏至の日が雨もよいなのは致し方ないのかも知れません。

 夏至は二十四節気の一つで、太陽黄経が90度の時で、この日の太陽は北回帰線上にあるため、北半球では昼が最も長く、夜が最も短くなります。旧暦では五月中にあたります。夏至はまたこの日から小暑までの期間を指すこともあります。
 春分から秋分までの間、北半球では太陽は真東から上りやや北寄りの方角に沈みます。また北回帰線上の観測者から見ると、夏至の日の太陽は正午に天頂を通過します。また夏至の日には、北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域では極夜となります。
 なお1年で日の出の時刻が最も早い日、日の入りの時刻が最も遅い日と、夏至は一致しません。日本では日の出が最も早い日は夏至の一週間前頃、日の入りが最も遅い日は夏至の一週間後頃となります。  (この項、フリー百科事典『ウィキペディア』「夏至」の項を参考にしました。)

 ところで古来から夏至、冬至、春分、秋分などは、1年でも最も「神聖な日」とされてきました。しかし現代人たる私たちは、このような季節の節目に対して大変鈍感になり、夏至が来てもさほど関心をはらうことなくその一日をやり過ごしてしまいがちです。
 以前少し触れたことがありますが、現在「世界共通暦」になっているのはグレゴリオ暦です。これは残念ながら、自然のサイクル、諸天体の運行などとは同調出来ない暦なのです。
 どうしてか?その一端を申し述べれば―。グレゴリオ暦は「1年12ヶ月」表示です。そもそもこれがいけないのです。昔の太陰暦をご存知の方はお分かりかと思いますが、満ち欠けしながら月が1年で巡る回数は「13回」です。よって「1年13ヶ月」表示に戻すことが必要であるようです。

 我が国で「聖(ひじり)」の語源とは、「日知り」すなわち「天文暦数を明らかに知る賢者」を意味していたそうです。私たちは今日、中世キリスト教会が制定した同暦を何の疑問もなく用い、それに合わせた日常生活を送っています。暦は今日の社会全体、私たちの生活全般を深いところから支配していると考えて間違いではないのです。
 肝心要の「暦(こよみ)」から変えなければ、いくら口先で「エコロジー」だ「地球にやさしく」だと唱えてみても、それはしょせん虚言、自然破壊が止むことは決してないと思われます。

 キリスト教会は「13」という神聖数を隠すために、「13番目の使徒(裏切り者・ユダ)」あるいは「13日の金曜日(イエスが処刑されたとされる日)」などを強調することで、13を「忌み嫌うべき数字」という刷り込み(マインドコントロール)をしてきました。
 これはとんでもないことです。「マヤの予言」を今日でも遵守している中南米の先住民、あるいはオーストラリアのアポリジィ二などは「13月の暦」の重要性をよく知っていて、今でもグレゴリオ暦とは違う暦で生活しているのです。
 これだけ世界中で、日本全体で各方面の破綻が目立ち始めている昨今、彼らは遅れている人類、そして私たちは進んでいる人類などと本当に言えるのでしょうか?

 私ははっきり申し上げておきます。近未来グレゴリオ暦は廃止されます。代わって、「マヤ暦」を基本とした「13月の暦」が採用されることになるでしょう。自然や諸天体や銀河と真に同調するためには、それが不可欠であるからです。
 現に世界各地で、ごく少数ながら「13月の暦」に切り替えている人たちが以前から出始めているのです。そしてさらに「心ある人たち」は、夏至や冬至や春分、秋分には、日の出日の入りの太陽を拝し、夜は一人であるいは小グループで瞑想をしている人たちもいるようです。(諸事ずぼらな私はまだそこまでは到っておりません。)

 なお冒頭の拙句は、本夕「二木紘三のうた物語」の『別れのブルース』コメントに掲げたものです。(ハンドルネームは「街の灯」。)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

ベールを脱いだ『IQ84』

 何も記事にするテーマが見つからない時、私はよく管理ページ右欄に表示されている「ココログニュース」見出しをたどってみます。私の心に響いて来ない時は、それまでにしてやり過ごします。
 しかし時にグッと引きつけられる見出しがあり、クリックして「ニュースそのもの」を読む場合があります。その中から私自身がさらにセレクトして、『おっ。このニュースはブログ記事になりそうだぞ』となることもあります。

 この度は『えっ。小栗旬が映画監督 !?』『「大山詣で」復活?』と、ココログニュースから連続して2つも「記事ネタ」を提供してもらいました。大助かりです !
 さらにその上さらに―。
 「ベールを脱いだ『IQ84』」という記事が目に止まりました。

 これは、かの村上春樹の最新作『IQ84』を指すようです。2巻合わせて既に百万部突破という、文芸書としては驚異的な売り上げを記録しているとのこと。最近は浜崎あゆみだって出した歌のシングルをそれだけ売り上げるのは至難なのではないでしょうか?
 なのに若者のみならず日本人全体の「活字離れ」が指摘される中、単行本としてこれだけ売れるとは。一つの奇跡現象と言えるかもしれません。

 今作品のプロモーションでは、完全に事前情報をシャットアウトさせたようです。これが読者、ファン層の渇望を煽り見事に成功したようだと、同ニュース記事では分析しています。(それにしても驚くべき読者層であり、ファン層です。)
 また記憶に新しいところでは、村上は今年2月イスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞しました。その際村上は現地で英語でスピーチをし、その中の「卵と壁」の譬えが話題となりました。人間個々人を壊れやすい“卵”に、政治や軍事力などのシステムを“高い壁”に―。当時問題となっていたイスラエルによるガザ侵攻に対する批判だと、高く評価されたようです。
 私はその話題性も今回の大ベストセラーの一翼を担ったのかなと考えますが、さてどうでしょうか?

 そんな情報遮断の中、村上本人が某新聞社のインタビューに応じ、次のように答えたとか。「オウム裁判の傍聴に10年以上通い、死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。それが作品の出発点となった」。オウム裁判を10年以上傍聴とは。少し前の記事『山ほととぎすほしいまヽ』の杉田久女もそうでした。テーマを貪欲に追求してやまない姿勢、これが平凡と非凡とを分けるのでしょうか?
 ただ『IQ84』は宗教的な問題のみを扱っているのではなく、社会のさまざまな問題、テーマを重層的に扱っており、村上春樹の代表作になるポテンシャルを秘めた作品だと言うことです。

 と、ここまで紹介してきても、私自身は多分読まないだろうと思います。と申しますのも、最近とみに減ってきている読書量ですが、その中でも「小説」の占める割合はさほど多くないからです。
 村上春樹は『ノルウェーの森』をはじめ、これまでもほとんど読んだことはありません。『風の歌を聴け』を文庫本で途中まで読んだくらいなものです。90年代半ば頃のことですが、その途中までの内容もすっかり忘れてしまっています。それより少し後で読んだ、吉本ばななの『キッチン』。こちらの方は何とかすじもたどれ、印象深い個所なども何となく覚えていそうなのですが…。
 村上春樹ファンの皆様、申し訳ありません。機会がありましたら、先ず手元の『風の歌を聴け』から読み返してみます。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

『大山詣で』復活?

 今回もまた「ココログニュース」で見つけた話題です。前回の『えっ。小栗旬が映画監督 !?』は派手めな話題でしたが、今回はそのような話題ではありません。

 「大山(おおやま)」は、当厚木市西部にひと際高く聳える秀峰です。標高1,250m、その奥と右手に連なる丹沢の山々と並んで「丹沢大山国定公園」に指定されています。
 この大山については、当ブログの季節の便りや当地紹介文の中で、しばしば触れてきました。ですからあまりよくご存知ない方にとっては、『大山は厚木市がメーンの山?』とお思いかもしれません。しかし実際の大山は、神奈川県伊勢原市、厚木市、秦野市の三市と境を接する広大な裾野を有する山なのです。

 私は当地に住んでかなり長いですから、厚木市からのみならず、伊勢原市あるいは秦野市からも大山を眺めてきました。しかし三角形にキリッと尖ったその秀麗さが一番引き立つのはやはり厚木市からの眺めだと思います。
 昭和30年代前半頃、当市出身の農民文学者・和田傳(わだ・でん)原作の『鰯雲(いわしぐも)』が映画化されました。主演は淡島千景。女学校卒業後厚木市在の農家に嫁に入った女と、東京から赴任して来た若い新聞記者とのうたかたの恋を描いた秀作でした。この映画の背景として、厚木市から見られる大山の姿が、当時ののどかな田園風景の後方に映されていました。「変わりゆくもの、変わらぬもの」。変化ただならぬ今の世にあって、大山は以前と少しも変わることなく、当市にあっては今日でもどこからでも眺められる何ともシンボリックな山の姿です。

 大山は別名・阿夫利山(あふりやま)とも言われます。以前述べましたとおり、「雨降り山」からの転化と言われますが、実は大山の頂上には「阿夫利(あふり)神社・本社」が鎮座ましますのです。ですから私たち当地の者がその頂上を振り仰ぐ時は、無意識的にその本社に波長を合わせている具合になるわけです。
 大山は奈良時代に遡ると言われるほど歴史の古い信仰の山でもあったのです。鎌倉幕府3代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)は歌人としても有名ですが、次の和歌を阿夫利神社に奉納したと伝わっています。
   時により過ぐれば民の嘆きなり八大竜王雨やめたまへ  (源実朝)

 特に江戸中期の宝暦年間の「大山講」以降、江戸を初めとする関東一円の庶民の間で、「大山詣(もう)で」が盛んになりました。信仰、物見遊山、観光と目的は違っても、多い時は年間20万人もが大山詣でに押し寄せたと言われています。『大山詣(まい)り』はまた有名な落語の演題でもあるようです。
 「信仰の山・大山」という観点で捉えますと、(残念ながら)主役は伊勢原市になってしまいます。江戸中期以降各地に大山を目指す「大山道」が出来ました。現在でも神奈川県内には「大山街道」と旧名で呼ぶ道路が残っていますが、それらの行き着く先はすべて伊勢原市内です。そこから下社そして頂上の本社まで登り参拝することが「大山詣り」だったのです。
 
 (以上回りくどい説明になりましたが)今回「ココログニュース」で、 ブーム再来?大山詣り というのは、その大山詣りが再び注目されるイベントが始まったことによるものです。同ニュース記事を以下に紹介致します。

 ―6月6日、歌舞伎の十代目坂東三津五郎さんが大山を訪れ、9月に大山阿夫利神社に奉納する舞踊の成功祈願とお練りを行った。当日は、伊勢原市民と坂東流門弟の女性、ファン、報道陣で参道を埋め尽くし、かつてないほどの賑わいを見せた。
 9月16、17日には、坂東流の家の踊りともいえる『山帰り』を、大山阿夫利神社に奉納する公演のほか、林家正蔵さんによる落語『大山詣り』の奉納公演を予定しており、当日はお練り以上の人々で賑わうことが予想される。

 私は残念ながら下社駐車場で車を停めて、その辺りをぶらぶら散策したくらいなものです。下社すら参拝しておりません。いつか機会がありましたら、当地域に何十年も住まわせていただいてお礼として、山頂の本社はともかく下社くらいはきちんとお参りしたいものと考えております。
 その折りはまた「阿夫利神社参拝記」の一文を記事にしてみたいと思います。と同時に今回のイベントが、本当に『大山詣り』ブーム再来となりますよう心より願っております。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

えっ。小栗旬が映画監督 !?

 以下は「ココログニュース」で見つけた話題です。

 話題というのは、小栗旬(26)がこの夏「映画監督デビュー」するというものです。
 小栗旬といえば、若者たちを中心に人気の今をときめくイケメン俳優です。当ブログでシリーズ記事にしております、NHK大河ドラマ『天地人』にも石田三成役で準レギュラー出演の真っ最中です。私自身は小栗・三成はイマイチ評価しておりませんが、TBS系ドラマ『スマイル』の悪党役は凄みにあふれ、上々の評判のようです。また昨年は、ドラマで共演した女優の山田優(24)との熱烈交際が報道され話題になりました。

 小栗旬が本当に映画監督デビューするなら、20代俳優による大手配給会社の作品は今まで例がないそうです。俳優史上最年少でメガホンを取る映画は大きな注目を浴びることになりそうです。 小栗自身は以前から映画制作には興味があったようで、ハリウッド映画『イーグル・アイ』の監督と対談した際は、映画の演出について質問攻めにし、「君は映画監督になれるよ」と言われたこともあったそうです。
 作品の正式タイトルはまだ明らかになっていないとのこと。しかしオリジナル脚本で、出演者へのオファーも既に済んでいるようです。誰が「小栗監督」のもとで演技をすることになるのか、今から発表が待たれるところです。

 話は変わって―。今日の「映画監督流行り(ばやり)」。先鞭をつけたのはやはり「世界のキタノ」こと北野武監督だったのでしょうか。私は北野作品は一度も観たことはなく、今後も観る予定はありませんが、何せ作る作品が皆カンヌ映画祭などに出品され、今や毎年のようにその作品はマスコミに大きく取り上げらます。
 同監督に刺激を受けたのか、つい先年はコメディアンの松本人志(ダウンタウン)が『大日本人』という映画を作りました。
 それ以外にもやはりコメディアンの品川祐(品川ヒロシ名義)が、『ドロップ』という自伝小説を自分が監督して映画化しました。コメディ界は「北野武」という大御所に追いつけ追い越せとばかりに、ちょっとした「映画監督流行(ばや)り」のようです。

 のみならず「外様に負けてたまるか」と、映画界に身を置いてきた俳優たちも続々映画監督としてメガホンを取っています。主だったところでは、津川雅彦(マキノ雅彦名義)の『旭川動物園物語』、奥田瑛二の『長い散歩』、役所広司の『ガマの油』などなど。
 これらの人たちが監督としてメガホンを取ることについては、あまり目くじら立てることはありません。既に俳優としてまた映画人として映画制作に十分なキャリアがある人たちだからです。その間いろいろな監督の下でさまざまな役を演じ、映画監督としてのノウハウも身につけてきたことでしょう。だからこの人たちの作る作品がどんな時代のどんなテーマであれ、水準以上の作品には仕上がるはずです。

 問題はやはり門外漢であるコメディアンや、年少の俳優が「我も我も」と映画を作りたがる、その危うさです。現に先ほど紹介した、松本人志の『大日本人』は、初作品ながらカンヌ映画祭にも出品されマスコミの話題をさらった作品です。ところが同映画祭での外国人観客からは大不評だったようです。松本はよほどの天才でシュールレアリズム的手法を駆使したものか、ストーリーは支離滅裂。各シーンで失笑が起きたり、あげくは途中で席を立つ人がずいぶんいたようです。某映画評論家は、「この映画は国辱ものだ」とまでこき下ろしています。
 
 小栗旬が映画監督としてどれだけの才能があるのかは知りません。意外な才能を発揮する可能性がないとは言い切れません。しかし、プロ野球の世界に「名選手必ずしも名監督ならず」という箴言があります。映画の場合も「名優必ずしも名監督ならず」となりかねません。
 もっとも小栗は「名優」とは言うもはばかられる、まだ駆け出しの若手俳優です。当今マスコミ界の諸事情で、「今たまたま人気が出ている」というにすぎません。彼が真に名優であるかどうかは、十分長いスパンで見ていかなければなりません。


 私などは『誰も彼も猫も杓子も、ただ映画を作りゃぁいいってもんじゃないんだよ ! 』と思ってしまいます。一映画ファンとして言いたいのは、くれぐれも一時の気晴らし・気まぐれで映画監督になって欲しくくない。タレント続けて、コメディアン続けて、空いた片手間で映画のメガホンでも取ってみるか…。映画監督って、そんな安直に出来る仕事じゃないでしょっ !?ということなのです。

 今日の「映画監督ブーム」。小津安二郎や黒澤明などの往年の巨匠は、泉下でどう思っていることでしょう?

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨だより(2)

   梅雨時は雨降るがよき暮色かな   (拙句)

 当地では本日、朝からどんよりした曇り空の蒸し暑い日でした。空全体に雨雲が低く垂れ込め、くぐもった薄暗さに覆われた街のようすです。
 我が国はいかに行き過ぎた国土開発、乱開発が行われていようと、四季の巡りはめりはりが効き自然豊かな国柄です。少し街中を離れますと、田畑や荒地や小山などがけっこう点在し、緑豊かな木立を方々で目にします。

 このような梅雨曇りの日は日盛りの緑陰というイメージではなく、木立の間には一種陰鬱な感じの闇が広がっています。しかしよく見てみれば、木立に図らずも生じる深い闇こそは、見る者にある深い静けさ、幽玄さを伝えてくれているようです。
 私たち現代人は「明るい生活」になじみ過ぎて、ともすれば「闇」の持つ豊かな側面、深遠な側面を見落としがちです。そう言えば、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』が本棚のどこかにありましたっけ。『はて、どんな内容だったのだろう?』。何せ読みかけ、積読(つんどく)こそは我が習い。そのうち(はなかなかこないものながら)じっくり読み直し、出来うれば読了したいものです。

 小山全体を覆わんばかりの深緑の木々の深い下闇に、しばし目を奪われそうになりながら車を走らせます。すると木立のとば口の道伝いに、紫陽花が一群全体に大ぶりな赤紫の色で咲いているのが認められます。その赤紫の色はほの暗い闇の中から鮮烈に私の視覚に訴えかけてきます。『紫陽花は何も、青紫だけではないんです。赤紫の私たちだって、立派な紫陽花の花なんです。色にこだわらずに、紫陽花全体をもっとよく見て味わってくださいね ! 』

 今の季節方々に車を走らせていますと、『おっ。ここにも ! あそこにも ! 』と思われるほど、家々、道々、畑々いたる所で紫陽花の花を見かけます。なるほどよく見ると、青紫系に限らず、赤紫は赤紫でなかなか良い色です。これまで『あじさいは水色、青紫に限るわい』と思っていた私にとって、ささやかながら意外な発見というべきです。

 午後は内外ともに一段と薄暗くなってきました。そして午後4時過ぎ頃から、とうとう雨が降り出しました。10日に気象庁が「梅雨入り」を発表してから、当地では初めての本格的な雨となりました。
 時折り遠雷も聞こえてきます。去年は当ブログ記事で述べましたとおり、強烈な雨と雷で、当居住地は2回も夜の停電に見舞われました。しかし今年は年初以来去年に比べてずっと穏やかな天候で推移していると言うべきで、まだそのような強烈なことにはなっていません。雷自体、ずいぶん久しぶりで聞いた思いがします。

 雨は一旦夕方6時頃には小止みになりました。夏至もほど近い6月中旬とはいえ、午後6時過ぎの街は早や暮色に包まれています。木立や草花は雨にたっぷり打たれて、にわかに生気を取り戻したかのように、生き生きした緑色で夕闇から浮かび上がってきます。
 その中を人々は、傘を指したり折りたたんで手に持ったりしながら、慌しく夕暮れの通りを行き交っていました。
 
 夜8時頃、再び激しい雨となり遠くで夜雷が鳴り出しました。と、そのうち「バリバリ、ドッカーン」という今年初の強烈な雷が轟き、そしてじきに遠雷となりました。ただ雨はその後もしばらく小止みなく降り続きました。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

『天地人』について(12)

 NHK大河ドラマ『天地人』第23回は「愛の兜(かぶと)」でした。
 上杉景勝(北村一輝)は豊臣秀吉(笹野高史)に上洛の約束をしました。秀吉家臣の石田三成(小栗旬)から「上洛急がれよ」との書状も届いています。しかし景勝は突然「上洛を取り止める」と言い出します。
 筆頭家老の直江兼続(妻夫木聡)は対応に苦慮しますが、妻のお船(常盤貴子)の助言により、主君・景勝を故郷である上田庄(うえだのしょう)に誘います。

 2人が幼少の頃共に起居した禅寺・雲洞庵を訪れます。私は前回の予告編で加藤清史郎君の再登板を知って、『一体どんな場面でどんな設定で出るんだ?』と、密かに心待ちにしていました。そうしましたら、何のことはない。雲洞庵での、回想シーンとしてでした。
 景勝は、幼少時の自身・喜平次(溝口琢矢)と与六(加藤清史郎)との回想シーン、また師匠である北高全祝(加藤武)より渡された一枚の書により、ようやく上洛する意思が固まります。一枚の書とは、幼少・喜平次が書いた「第一義」という言葉なのでした。

 結局加藤清史郎君の再登板とは、この回想シーン限定だったわけです。確かに今回新たに取り直されたシーンもありました。しかし、いかにも苦肉の策といった感じがしないでもありません。それならばいっそのこと、兼続とお船の子という設定の方が何回かは登場させられるわけで、そっちの方がよかったのではないだろうか?と思い、兼続の子孫関係を調べました。ところが、男子は早世、養子縁組もうまくいかず、直江家は兼続死後断絶となったようです。それではやはり、ああいう形での再登板しかなかったわけだ、と妙に納得してしまいました。
 ちなみに今回の視聴率は、ここ10余回のうちで最も高い22.0%となりました。「幼少与六効果」てきめんといったところでしょうか。

 参考まで、今回(第23回)以前数回の視聴率を、以下に掲げます。

  第18話「義の戦士たち」 直江兼続誕生というのに、過去最低の16.7%
  第19話「本能寺の変」 さすが久々20%台を回復して20.2%
  第20話「秀吉の罠」 題名効果か、サブリミナル効果か(後述)21.6%
  第21話「三成の涙」 小栗旬の「涙効果」か21.0%
  第22話「真田幸村参上」 人気武将・幸村(城田優)の登場も20.7%

 なお昨年の大河ドラマ『篤姫』の最低視聴率は20.3%、つまり『篤姫』全50話中ただの一度も20%を切ったことはなかったのです。
 『天地人』では第13話「潜入 ! 武田の陣」から第15話「御館落城」までの3回は、いずれも10%台と低迷しました。なるほど今思えば、その頃から「天地人 おもしろくない」検索フレーズでの、過去の当ブログ『天地人』記事へのアクセスがぐんとふえ出しました。それでも第19話「本能寺の変」以降は、20%台を辛うじてキープしています。

 しかし同話放送終了直後から、一部視聴者の間で密かにささやかれ、5月14日の新聞でも大きく取り上げられた問題があるそうです。(新聞非購読者の私は今になって知りました)。それは何か?ズバリ「“本能寺の変”の変」についてです。
 既にご存知の方も多いかも知れませんが、実はその回のあるシーンに、「サブリミナル効果が挿入されたのではないのか?」というのです。

 ここで「サブリミナル効果」とはごく簡単に―。
 「サブリミナル効果は潜在意識と潜在意識の境界領域に刺激を与えることで表れるとされる効果のこと。ただし科学的にはまだ証明されておらず、効果を疑問視する学者も多い。映画やテレビ放送などでは、使用を禁止されている」。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「サブリミナル効果」の項より)
 例えばかつてアメリカでの話として、ある映画のあるシーンにポップコーン画像をこっそり挿入させました。その結果見終わった観客たちが、売店にポップコーン買いに押し寄せたそうです。

 問題のシーンは本能寺が爆発するシーンの直前で、「天、地、人」に対応する三つのシーンが挿入されているというものです。あるサイトでその問題のシーンを掲載していますが、なるほど確かに「天-空」「地-水田」「人-明智光秀」が映り込んでいるのが認められます。このシーンに対して、NHK広報部は「死を目前にした織田信長の気持ちを印象的に伝えたいと考えての演出。(略)サブリミナル技法ではない」と主張しているようです。
 このシーンが果して「サブリミナル効果」に該当するのか否か?門外漢の私には分かりません。NHKは、1995年9月26日(民放に先駆けること4年以上前)サブリミナル的表現方法を禁止することを明文化しているようです。
 クリーンこの上ない、天下のNHKさん。あれは決してサブリミナルなんかじゃ、なかったんですよね。
 (上記映像及び本ドラマ視聴率推移にご興味ある方は、下記URLにて―。)

  http://tv.parallel-world.jp/tenchijin/cat0007/1000000064.html

 (注記) 紙面の都合上、肝心の「愛の兜の義」に触れられませんでした。また次回述べさせていただきます。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

山ほととぎすほしいまヽ

                  杉田久女

   谺(こだま)して山ほととぎすほしいまヽ

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 杉田久女(すぎた・ひさじょ)の略伝は、『朝顔や』を参照のこと。

 この句における季語は「ほととぎす」です。夏の季語となります。時鳥、子規、不如帰などとも表記されます。
 ほととぎすは、日本で繁殖するホトトギス科の鳥中最も小型で、背面は暗灰色、風切羽はやや褐色、尾羽には黒色の地に白斑がある。5月中旬ごろに南から渡ってきて、低山帯から山地などに棲息し飛び回る。卵を鶯(うぐいす)などの巣に托(たく)す習性(托卵)がある。昼夜の別なく一種気迫のある鳴き方をし、「てっぺんかけたか」「本尊かけたか」「特許許可局」その他いろいろに聞き倣(な)す。 (角川文庫版『俳句歳時記・夏』より)

 「ほととぎす」は近代俳句にとっても、おなじみの名称です。先ずその先駆者だった正岡子規(本名・正岡升-のぼる)の「子規」という雅号(俳号)は、結核の病で喀血した自分を、血を吐くまで鳴くと言われるほととぎすに喩えたものです。
 また子規が創刊した俳句雑誌(俳誌)の名称も『ホトトギス』で、それは郷里の後進俳人・高浜虚子に受け継がれました。虚子は一時、それを俳誌のみならず総合文芸誌に発展させ、夏目漱石の『我輩は猫である』や伊藤左千夫の『野菊の墓』などは同誌に発表されたものです。

 『ホトトギス』はその後再び俳誌の形式に戻り、現在も続いています。同誌同人が増え出した昭和初期には、同誌への句の掲載は狭き門となり、掲載された人は大喜びで赤飯を炊いてお祝いしたものだそうです。
 そんな中久女の句は同誌にたびたび掲載され、天才的でひときわ光輝き同人たちの注目を浴びる存在でした。

 この句は、杉田久女の代表句とも言われる句です。その成句に到るまでのエピソードが残されています。
 この句は、久女が教師である夫の赴任先福岡で詠まれたものです。「山ほととぎす」の山とは、「英彦山(ひこさん)」。福岡県南部の大分県との県境に位置する標高1,200mの山で、古くから修験者たちが修行したそうです。深緑の季節久女はこの英彦山に登ったのです。少し険しい谷伝いの山道を登っていますと、突然谷間から大きな鳥の鳴声が聞こえてきました。
 久女の随筆によりますとその時のようすは、「行者堂の清水を汲んで、絶頂近く杉の木立をたどる時、突然何ともいえぬ美しい響きをもった大きな声が、木立の向うかの谷間から聞こえてきました。それは、単なる声というよりも、英彦山そのものの山の精でした。短いながら妙なる抑揚をもって切々と私の魂を深く強くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつつ声は次第に遠ざかって、ばったり絶えてしまいました。時鳥 ! 時鳥 ! とこう(宿の)子供たちは口々に申します。」

 「谺して山ほととぎす」の上五中七は、その時すぐに思い浮かんだそうです。しかし下五の結びの言葉がどうしても思いつきません。山頂で、山を降りる途中で、山から戻った宿で…。一心に思案しても、今一つピンとくる結句がどうしても得られないのです。
 そこで久女は、もう一度英彦山に登ることにしました。今度はただ一人で。再び足下の谷間からほととぎすの鳴き音が聞こえてきました。久女は「ほととぎすは惜しみなく、ほしいままに、谷から谷へと鳴いています。実に、自由に。高らかに谺して」と書いています。
 たった5文字を得るために何という執念か、と思ってしまいます。でもそうして、再び実際の自然の景の中にわが身を置くことによって、久女はほととぎすの鳴声の「真の写生」に超入出来たのではないでしょうか?その結果、「生の実相」をそのまま「写す」言葉である、「ほしいまヽ」という下五の結句が得られたと思うのです。

 昭和5年、大坂日日新聞と東京日日新聞が共催で「日本新名勝俳句」を募集し、久女はこの句を投句。約10万句の中から、高浜虚子選で「帝国風景院賞」を受賞しました。
 思えば久女の天才性は、常にこの「ほしいまヽ」の自由を欲していたのかも知れません。しかし当時の社会はがちがちの男性優位社会です。女性が一定の枠を越えて「ほしいまヽ」に振舞うと、必ず厳しい制裁が待ち受けていたのです。
 師である虚子も確かに昭和初期「台所俳句」を提唱し、女性が日常ありふれた場面で俳句を作ることを奨励しました。しかし昭和7年久女が、女性だけの俳誌『花衣』を創刊するに及んでは看過出来ません。同誌は5号で廃刊、昭和11年に久女は『ホトトギス』同人を除籍されてしまいます。
 久女は戦後間もない昭和21年、失意のうちに大宰府の筑紫保養院で没しました。

 杉田久女はこれまで何度か、テレビや舞台でその生涯を取り上げられたことがあるようです。俳人としては異例のことと言えます。また十数年前『B面の夏』で鮮烈デビューした黛まどかは、久女から強い影響を受け俳句の道を志したのだそうです。彼女もまた女性だけの俳誌『オードリー』を創刊しましたが、やはり途中で廃刊になりました。
 なお英彦山には、久女の筆になるこの句の句碑が建っているそうです。
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

どうなってんだ?今の政界 !!

― 鳩山総務相辞任に思うこと

 鳩山総務相は12日日本郵政の西川善文社長の更迭要求が受け入れられなかったとして、麻生首相に辞表を提出し受理されました。これまでの経緯から、これは表向き「辞任」の形を取ってはいるものの、事実上首相による「更迭」と見られます。
 日本郵政がいかに巨大組織で西川氏がそのトップだからとは言え、既に「民営化」され政府が100%出資している一民間企業です。片や鳩山総務相は同社を所轄する立場であり、麻生首相の盟友でもあり、派閥横断的「太郎会」会長として先の総裁選では麻生太郎新総裁誕生に貢献した恩人でもあります。

 なのに「時代劇で『御用商人が悪事を働いていて懐を肥やしている』と家老が殿様に進言したら、『お前が腹を切れ』と言われたようなものだ」(国民新党・長谷川憲正議員談)という喩えどおりの展開です。益々麻生首相の「バカ殿様ぶり」が強く印象づけられたような今回の一件でした。
 麻生首相は以前図らずも、「私は郵政民営化に必ずしも賛成ではなかった」とのたまいました。それなのになぜ民営化に懐疑的な盟友・鳩山邦夫を切ったのか、理解に苦しみます。それに恩人を自ら切ったことにより、党内支持基盤の更なる弱体化は必至でしょう。いくら「鈍感力」の鑑(かがみ)のようなお人でも、今回はさすがに苦渋の決断だったのではないでしょうか?

 そもそもことの本質は、国民の財産である「かんぽの宿」を、日本郵政が不当に安く売ろうとしたことに対する是非にあります。2,400億円で建設した施設をたったの109億円で売却しようとしたのです。これは(時価よりだいぶ安い)固定資産評価額でも857億円の価値があるものです。しかも売却先は西川社長とも親しく、郵政民営化推進派だった、宮内義彦社長率いるオリックス不動産でした。
 誰が考えても怪しい話なのです。そのため国会議員12人は、西川社長を「特別背任未遂容疑」で東京地検に刑事告発しています。(もっとも「西川留任」でまたあいまいな決着にされることでしょう。)

 今回もし反対に「西川更迭」の決断をしていれば、今週末に行われる各社世論調査で内閣支持率は急上昇していたかもしれません。というのも、だいぶ以前からくすぶり続けていたこの問題に対して、「辞任すべきは、鳩山、西川、どっち?」という世論調査では「西川社長が辞任すべき」が約7割にも達していたからです。今回の件を受けて、「国民感情からすると、鳩山大臣の主張の方がすとんと胸に落ちる」(井吹元幹事長)という党内からの声もあるほどです。
 しかし麻生首相は、「国民感情」からしても真逆の決断をしました。これによって、現在の支持率20%台からの下落は避けられないと思います。それを見て党内からは、「麻生では総選挙が戦えない」という麻生降ろしの機運が一層強まることも予想されます。

 上記諸々のマイナスが懸念されながら、麻生首相は今回なぜこのような決断を下さざるを得なかったのでしょうか?
 言わずと知れた、郵政民営化を推進してきた小泉・竹中一派の圧力に屈したからです。小泉元首相からは、「西川社長をクビにしたら選挙がもめるぞ」と直接脅されたなどという話も伝わっています。
 またそれ以上に、アメリカや財界を敵に回すことを恐れたとも言われています。(まあ麻生太郎は、漫画好き、ハードボイルド好きなくせして、あっちこっちの「脅し」にはいとも簡単に屈してしまう男だ)。どうも日本郵政を完全民営化させ、日本の郵貯、簡保資金を開放させるというのが、アメリカや財界の悲願であるようなのです。総額350兆円にも上る莫大な財産(言っておきますけど、国民から預った貴重な財産ですよ ! )を山分けしてボロ儲けしようとしているのです。
 そして西川社長は、民営化のシンボル的存在として小泉元首相が送り込んだ人物です。もし解任されたら、民営化がどうなるか分からなくなる上、郵政民営化にまつわる巨大な「悪」が一気に表面化し、疑惑は小泉元首相自身にも及ぶかもしれないと言われています。

 ホントに「いやはや何とも…」ではないでしょうか?組織に大きな不祥事が発生した。トップは、その不始末をきちんと片付けてその上で身のけじめをつける。これが一般社会の常識というものです。私はこれまで「社会通念の打破」ということを述べてきましたが、これは世の中がどうなろうとも決して崩してはいけないことです。
 しかし特に小泉元首相時代あたりから、とにかく政界をはじめとする各界トップの「けじめの無さ」「いいかげんさ」が目にあまります。「上の如く下もかく在り」「政(まつりごと)乱れれば民乱れる」で、この社会全体にそのような無責任の風潮が瀰漫(びまん)しています。今やモラルハザードは凄まじく、この国は根っこの部分からどんどん腐ってきているのです。結果、「今の世の中何でもありなんだ」とばかりに、詐欺、脅迫果ては殺人などの異常犯罪が増加する一方ではないですか。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

中津川寸描(4)

   川の面(も)に目を凝らしをり梅雨晴れ間   (拙句)

 11日午後県厚木合庁からもう一つ別の役所に寄り、それから帰路に着きました。中津川側道ルートを通り、久しぶりでいつもの中津川堤防に降りてみました。(午後3時半頃。)

 すぐ下流側の大堰は早春の頃早々とまた堰き止められ、こちら側はさながら湖水のように満々たる水を湛えています。それに最近の雨続きで、水量はことのほか豊かです。去年よく鴨が一羽ずつ蹲(うずくま)っていたテトラポットも、今は再び頭だけ水面に出て、二列で飛び飛びに見えています。残念ながら、本日鴨たちの姿はありません。
 堰の方からはゴーッと大量に流下する水音が絶えず聞こえています。が、それとても自然の音声、さほど気になりません。

 本夕河原を渡る風はそよ吹く風で、コンクリート堤防中ほどの突起に腰を下ろしている私を、爽涼とかすめて吹き過ぎていきます。町場から持ち来たった蒸し暑さが払われます。
 そよそよ風のせいか、きょうの川面(かわも)は少し揺らいではいるものの、いたって穏やかなようすです。私が位置しているより数メートル上からそのままずっと上流に伸びている中州にも、目路(めじ)の限りの対岸にも、葦が繁茂していて一面青葦原といった感じです。その葦群と対岸に飛び飛びにある木々と、さらに川向うの工場の建物なとが、鏡のような水面(みなも)にほぼそのまま逆さに映じています。特に、濃淡の緑の上下対称形は絶妙です。

 空模様はと見上げますと、なるほど梅雨空らしく一面雲で覆われています。しかしそれはおおむね薄い横すじ雲の集まりで、雨雲のたぐいではないようです。それに時たま背後の西の方から日差しが漏れ出し、河原全体を明るく照らしたりしています。

 改めて川に視線を下ろしますと、こちら側(右岸側)の堤防面は、早春の頃はきれいに刈り込まれ丸坊主のように視界良好でしたが、今は雑草がびっしりです。ともすれば、堤防中ほどまでの古いコンクリート護岸の四角い枠の割れ目伝いにさえ、草は根を生やしています。
 まして私のすぐ前に見えている、土を締め固めネットで連結した堤防下部は、それはもう伸び放題です。その中に何という草花なのか、丸い小さな(よく見るとほんの少しうす紫がかった)花がいっぱい咲いています。こんな名もない花でさえ、こうして今まさに花の命を咲いているのかと、健気(けなげ)に思われます。

 その先はもうこちら岸の青葦の連なりです。水際(みぎわ)に葦が浸っているさまは、何ともいい水辺の風情です。
 今月1日から鮎解禁のはずですが、やはりこの辺一帯は禁漁区になったのか、昨年同様ずっと下流の方まで釣り人の姿はまったく見かけられません。そんな中、上流百メートルほど先に一本の釣竿が認められました。白くて細い竿がしなって放射状に上向いています。葦原にうまく隠れて、釣り人の姿はまったく見えません。

 時折り上流の遠くから、ピィーーッ、ピィーーッとやや節の長い鳥の鳴声が聞こえてきます。そちらの方に耳を澄ましていますと、今度はピッピッピッという何鳥かの声。また時折りうぐいすの声まで聞かれます。
 すぐ前の草むらの上を、上流からひらりひらりとモンシロチョウが下流の方に飛んでいきました。と次の瞬間、堰の方から白鷺がゆったりと羽ばたいて川の中ほどの上空を上流に向って飛んでいきます。川面はその優美な白い飛跡をつかの間映し出していました。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨だより

   紫陽花(あじさい)の夢はつかの間午後の街   (拙句)

 6月10日気象庁は、「関東甲信地方は、梅雨入りしたとみられる」と発表しました。両地方の例年の梅雨入りの平均は6月8日らしいですから、2日ほど遅かったわけです。
 ちなみに昨年は5月29日とだいぶ早い梅雨入りでした。そういえば昨年は、当ブログでしょっちゅう記事にしましたとおり、3月から5月にかけてやたら雨の多い年でした。
 今年は昨年とはうって変わって、3月から5月中旬までは通常の穏やかな気候で、おかげ様で麗しい春の季節を十分堪能できました。しかし先月下旬から空模様が一変し、連日『もう梅雨の走りか?』と思われるようなぐづついた天気が続きました。そのため私は、今年はとうに梅雨入りしていた感じがしていました。

 梅雨入り翌日の本日は、空に雲が多く占めるものの、けっこう薄日が射すまあまあ「晴れ」といってもいいような一日となりました。
 そんな午後2時過ぎ、当厚木市内のある役所に向いました。246号線からそれてすぐの道沿い。右手に二階建ての広いテナントビルがあります。何ヶ月か「テナント募集」のもぬけの空状態だったのです。そのビルの一階で引越しが始まっています。見ると「民主党」ののぼりが建物の何ヶ所かに立てられています。『おっ。いよいよ臨戦体制か?』
 実はこの建物、昨年晩秋頃まで同じ民主党候補の選挙事務所だったのです。しかし自民党秋の総裁選で、「選挙に勝てる顔」として選ばれたはずの麻生太郎が、例によって解散先延ばし戦術で。資金的に苦しくなったのか別の所に移転していて、どう転んでも3ヶ月以内には総選挙が実施される今、同じ所にまた戻ってきたようなのです。

 車が渋滞気味なので、そこのようすを見るともなしに見ていました。建物内外でスタッフが、荷物運びなどで出たり入ったり忙しく立ち働いています。と、候補者のGが隣の車修理工場への挨拶を終え、今度は道の向かい側の某不動産会社に挨拶に行こうと道をまたいでいきます。(同社は私の顧客でもあります。)
 候補者Gは、これまで何度も本厚木駅頭で見かけました。まだ30代、例の郵政選挙の際は直接握手もしましたし、立会い演説も聞きました。名門厚木高校卒業後東大法学部に進み某省出身という割にはインテリっぽくなく、見るからにバイタリティ溢れ「何かやってくれそう」な感じです。

 市内のご年配の某司法書士は厚高出身、ご子息も厚高でGと同級生だったとかで、前回は事務所入り口にポスターを貼っていたりしました。前回はあんな具合で、直前の父の死により自民党から立候補した同世代の世襲議員(3代目)のKに大差で敗れました。
 今度はどうなのか、捲土重来となるのかどうか。もし当選でもしたら、ここの事務所内から各局の選挙特番で、Gの喜びの第一声が全国のお茶の間に流されることになるのでしょう。さて、どうなることやら。

 (途中別の所に立ち寄り)向った役所は、神奈川県の厚木南合同庁舎です。午後3時少し前に同庁舎に着きました。いつもの習慣で、広い玄関手前に車を停めます。本来そこは停車してはいけない場所なのですが、先の駐車場まで行くのが億劫で『どうせ十数分以内には戻ってきますから…』と、ついここに停めてしまうのです。
 停めた車のすぐ際から、庁舎壁面までの1、8mくらいの奥行き(幅3mほど)に、ちょっとした植え込みがあります。そこには「オカメザサ」―と小さな表示プレートがあります―が植えられています。「笹」とはいっても、いたって小ぶりで、葉も竹の葉をもっと小さくしたような感じです。それがせいぜい40cmほどの高さで一面びっしり植え込まれているのです。
 そしてその奥の一角(庁舎壁面際)に、紫陽花(あじさい)の一塊りが見られます。

 ここの紫陽花の花の色が、私にぴったりの色なのです。一言で紫陽花とはいっても、俗に「七変化」とも言われるとおり、植えられた土壌の酸性度の強弱により青紫から赤紫までいかようにでも花の色が変わります。(昨年知ったことには、それまでの私の思い込みとは裏腹に、青紫系の方が酸性度が強い)。私はどちらかというと赤紫よりも、青紫というのか水色というのか、そちらの寒色系の紫陽花を好みます。
 この庁舎内の紫陽花がまさにぴったりその色なのです。こんもり丸い一花も、株全体の花々も、すっきりした青紫(水色)の純色です。そこで私はこの季節にここに来ると、着いて車から降りる時に、一瞥、二瞥(というのも、いつも慌しく庁舎内に駆け込みますので)、庁舎内での所用を終えて車に乗り込んで一服しながら、今度はじっくり見るのを常としています。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

『レッドクリフPartⅡ』を観て

 大いに時期を外してしまいましたが、『レッドクリフPartⅡ』観てきました。
 実は5日夕方『天使と悪魔』を観を終わって、『観られる時に観ておくか』と引き続き観ることにしたのです。以前『観ないつもり』と言っておりましたが、結局気になっていたわけです。
 「ワーナー・マイカル・シネマズ海老名」は、海老名サティというデパートの2階にあります。デパートの買い物客がついでに映画でも…という思惑からか、こういう形式の映画館は全国の地方都市でふえているのかもしれません。これ一つ取ってみても、まさに「大衆娯楽社会」の極みのような良き時代です。

 しかしどこもかしこも「禁煙」なのには、愛煙家の私などは本当に困ってしまいます。映画館内の2時間強の禁煙は致し方ありません。世の中のマナーですから。しかし『天使と悪魔』が終了と同時に、やたら長いエンディング字幕などそこそこに館内を出ました。もっともトイレにも行きたかったもので。外に出て一服して、見ると外はざあざあ雨の本降りで…。その時ふと『このまま帰ってもつまんないな。レッドクリフやっぱり観るか』となったのです。
 決断が少し遅れた分(今度は別のスクリーン)、既に本編に入っていました。どうやら前編のダイジェストを先ず持ってきているようでした。それからタイトルが出て、PartⅡ自体がそこから始まりますからぎりぎりセーフといったところです。
                          *
 『レッドクリフPartⅡ』。全体を通した印象では、中国映画とはいえ監督は中国生まれながら、アメリカで長く映画を作ってきたジョン・ウーですから、ハリウッド映画の手法が随所に見られる映画だなという印象を強く持ちました。
 確かにハリウッド映画仕込みの、迫力あるスピード感溢れるストーリー展開は魅力です。「三国志」をあまりご存知ない観客、特に欧米の観客にとっては、歴史エンターティーメント映画として十分楽しめたかもしれません。

 しかし中学2年以来の「三国志ファン」である私にとって、観るほどに原作をこれだけ改変していいのだろうか?という疑問が湧いてきました。それがすんなりストーリー展開されていれば文句のつけようもないのですが、どうも違和感を感じてならなかったのです。
 原作はたびたび述べますとおり、『三国志演義』です。それまでさまざまに語り継がれてきた三国時代の説話や民間伝承を基に、明代初期羅貫中らによって『演義』という形にまとめられたのです。これ自体が史実とは大きく異なるフィクションです。ですからこれをいかように変えようとも、誰も文句を言えないこともまた事実です。
 しかし『演義』は、千古の歳月を経てきた中国三大奇書中の一書です。それを簡単に変えて果して、原作を超えることが出来るのだろうか?ということなのです。

 『三国志演義』は中国民衆の判官びいきを受けてか、魏・呉・蜀の三国のうち蜀を中心に描かれた物語です。しかしジョン・ウー監督は、広東省広州市(三国時代は呉の領土)生まれで香港育ちのせいか、当初から呉を中心とした『三国志』を作りたかったのではないでしょうか。それには「赤壁(レッドクリフ)」に的を絞るに限る。その意図は分からないでもありません。おおむね蜀と魏の抗争史としての色彩の濃い三国志の中で、唯一呉が精彩を放つのが、「赤壁の戦い」であるからです。
 しかし呉への思い入れが強すぎて、『三国志演義』の骨子を大きく崩してしまったようです。

 呉の中でも中心人物は、大都督・周諭。演じたのは、トニー・レオン。この映画では、「美周郎」と讃えられた美丈夫としてよりも、魏の曹操の大軍襲来に国運を双肩に託された沈着冷静な総司令官としての周諭像を全面に出していたようです。なかなか味のある「周諭ぶり」だったと思います。
 しかし周諭を主人公にしてしまったため、完全に割を食ってしまったのが諸葛孔明です。『演義』では常に周諭を上回る神の如き明察で、周諭は殺意を抱きことあるごとにその殺害を企てます。しかし周諭びいきのジョン・ウーは、それでは困るわけです。ですから、孔明の「神秘力」をそいでしまって、共に魏の大軍に立ち向かう同志(あけすけに言えば「お友だち」か?)にしてしまうわけです。そのため、赤壁というより全三国志中のハイライトの一つである、南屏山に壇を築いて「孔明東南(たつみ)の風を七星壇に祈る」の名場面までカットしてしまったわけです。

 神通力を失った孔明役として、金城武はそれなりによく熱演していたと思います。しかし金城武には悪いけれども、中国電視台制作『三国志』で孔明を演じた唐国強には遠く及ばなかったな、という印象です。
 敵方の曹操は、チャン・フォンイー。いかにも内に狡猾な才知を隠しもっていそうな曹操像で、これも気に入りました。しかしこちらも中国電視台『三国志』の曹操役・鮑国安の勝ち。(なお鮑国安と唐国強は同『三国志』で、共に中国映画界最高賞である金獅子賞を受賞しました。)
 その他主だった配役では。劉備役はいかめしい顔立ちで、もう少し温和な顔立ちの役者の方がよかったのかなという気がします。張飛役の凄いメーキャップには失笑気味です。関羽役は迫力不足に感じました。趙雲役に到っては、終いまで顔が覚えられませんでした。結果として私が思うに、周諭役のトニー・レオン以外は全員中国電視台『三国志』キャストの方が勝っていたということです。

 艶話が何度か出てくる『水滸伝』と違って、『三国志演義』は騒乱に明け暮れる男くさい物語です。それにジョン・ウーはハリウッド的味付けで、印象的な女性二人をけっこう主要な場面で用いています。一人は呉の君主・孫権の妹(架空の人物)役・孫尚香役のヴィッキー・チャオ。兄に内緒で魏軍に単独潜り込み、敵情を偵察する役柄です(以下は省略)。
 もう一人は、周諭の妻・小喬役のリン・チーリン。小喬欲しさに、曹操は南征を決意したと『演義』で述べられている、絶世の美女役をリン・チーリンは良く演じていたと思います。その美貌も小喬に迫るものがあり、何よりも一つ一つの挙措に気品が感じられました。私が知る限り、残念ながら日本の女優にはこのような気品ある女優はいないようです。(匹敵するのは、『宮廷女官・チャングム』のイ・ヨンエくらいなものでしょうか?)

 しかしいくら何でも、この小喬が夫の周諭にも内密で、赤壁大戦直前に単身魏陣営の曹操に面会に行くという設定はいかがなものか?と思います。大変失礼な物言いながら、「ジョン・ウーさん。あなたは中国人でしょ?母国の大切な古典物語を勝手に作り変えて、アンタ一体何様のつもりだ ! 」と言いたくなります。
 ヒロインが果敢に敵陣に立ち向かい、十中八九は首尾よく行くものの、結局は危難に陥る。それをヒーロー(この場合は周諭)が敢然となぐりこみ、危機一髪ヒロイン(小喬)を救い出す。めでたし、めでたし。いわゆるハリウッド映画のワンパターンです。

 赤壁の戦いの戦闘シーンは確かに、大スペクタクルらしい凄い迫力がありました。しかしそういうことが結果として、中国史上名高い「赤壁大戦」を単なるハリウッド映画的アクションシーンに貶めてしまったのではないだろうか?と思われてなりません。
 この映画は誰も彼もがおおむね好意的な感想のようです。そこで天邪鬼な私は、『一人くらい辛口コメントもいいだろう』とばかりに、いささか辛辣な批評をしてみました。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

陸奥をふたわけざまに

                            斎藤 茂吉

  陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ

  …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 斎藤茂吉(さいとう・もきち) 明治15年、山形県南村山郡金瓶村の守谷家に生まれ、のち斎藤紀一の養子となる。東京帝国大学卒業。伊東左千夫に師事し、明治41年「アララギ」創刊に参加。大正2年、第一歌集『赤光(しゃっこう)』を刊行。以後、大正・昭和を代表する歌人として活躍。昭和26年文化勲章受賞。歌集に『あらたま』『白き山』など17冊があるほか、多くの歌論集などがある。昭和28年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 斎藤茂吉は、山形県が生んだ近代短歌における代表的な歌人の一人です。
 またこの短歌に詠まれている「蔵王」は、奥羽山脈の一部を構成する蔵王連峰のことです。山形県と宮城県の両県南部の県境に位置します。主峰は「熊野岳(1,841m)」であり山形県側に位置します。活火山であり、エメラルドグリーンの水をたたえた御釜(おかま-火口湖)は有名です(御釜は宮城県側)。火山の恩恵である温泉が両県の裾野に数多く存在し、スキー場も多く設置されています。『日本百名山』(深田久弥 1964年)の一つでもあります。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「蔵王連峰」より)

 「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳えたまふ」。これは、実際に蔵王山頂に立てば実感として分かります。片や宮城県・太平洋側、片や山形県・日本海側。蔵王連峰のほぼ稜線伝いが県境になっているわけですが、歌に詠まれてみれば、なるほどそのとおりなのです。
 
 一読その光景を思い浮かべては、つかの間爽快かつ気宇広大な気分にさせてくれる短歌です。これは蔵王という詠まれている対象の大きさもさることながら、茂吉自身の心の容量(キャパシティ)の大きさでもあるように思われます。
 何ごとも「相応の理(そうおうのり)」というもので、主体である作者の力量に応じて、同じ対象であってもいかようにも変化するものであり、茂吉と同じ景観を見ても凡人にはとてもこのような名歌は詠めるものではありません。

 ともかく、我が郷土の山をこれだけ雄大に詠んでくれた茂吉に、心から敬意を表したいと思います。

 それとこの短歌には、作者のエネルギーが感じられます。とにかく一気呵成に詠み込んでいる感じで、漲る気力のようなものが伝わってくるのです。
 先ず大景の俯瞰、鳥瞰。それから少しずつズームの対象を絞り込んで、終いに「雲の中に立つ」茂吉自身がフォーカスされてくる。何やら、大スペクタクル映画でよく用いられる手法を先取りしていたかのような描写法です。

 蔵王という「自然」の大景の中に立つ「人間」の小ささ、その対比と捉えることも出来ます。蔵王は名前のとおり古来山岳信仰の対象ですから、「聳えたまふ」という恭(うやうや)しい表現となっています。そこからその時の茂吉は、畏怖すべき大いなる自然の一部となって、溶け込んでいたと捉えることも出来ると思います。
 さらにまた「(雲の中に)立つ」という動詞止めから、茂吉の強い意思もしくは気迫のようなものが感じられます。

 「雲の中」であるからには、周りは雲霧状態、あまり良好な眺望ではなかったようです。そんな蔵王山頂に立ちながら茂吉は、自分が今背負っている短歌界さらには近代日本の行く末への責任といったことが脳裏をかすめていたのかもしれません。いかな茂吉といえども、その得体の知れない巨大な荷物に、時には挫けそうになり、また押しつぶされそうな時もあったことでしょう。

 しかし、ふるさとの山はありがたきかな。『なにくそ、負けてたまるか ! 』。郷里の名山と相対しながら、茂吉は改めてそう心に強く言い聞かせていたのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

そゞろあるき

           アルチュール・ランボー

  蒼き麦の夜や
  麦の香に酔ひ野草をふみて
  こみちを行かば
  心はゆめみ、我足さはやかに
  わがあらはるる額、
  吹く風に浴み(ゆあみ)すべし。

  われ語らず、われ思はず、
  われたゞ限りなき愛 魂の底に湧き出るを覚ゆべし。
  宿なき人の如く
  いや遠くわれ歩まん。
  恋人と行く如く心うれしく
  「自然」と共にわれは歩まん。

          (永井荷風・訳詩集『珊瑚集』より)

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 アルチュール・ランボー(Arthur Rimbaud) 1854年10月20日~1891年11月10日。19世紀のフランスの詩人。20世紀の詩人に多大な影響を与えた。主な作品に散文詩集『地獄の季節』、『イリュミナシオン』など。
 永井荷風(ながい・かふう) 1879年(昭和12年)12月3日~1959年(昭和34年)4月30日。小説家。号は断腸亭主人、金阜山人。代表作『つゆのあとさき』『墨東綺譚』など。

 私がこの詩(訳詩)に初めて出会ったのは、高校三年生のちょうどこの詩の季節頃でした。高3の現代国語で学んだ何篇かの詩の一番初めにこの詩があったのです。
 何度も繰返すようですが、私の人生で最も多感な時期で、とにかく詩でも、漢詩でも、訳詩でも、外国歌曲でも『これだ ! 』と思うものは心にびんびん響いてくるような時期でした。 この訳詩も何と鮮烈に私の心を捉えたことか !

 「蒼い麦の夜や」でまずハッとさせられます。私の郷里に麦畑はあまりありませんでしたので、余計「蒼い麦の夜」は新鮮でした。
 しかし後に続く情景は、郷里の情景とさほど変わりません。どんどん感情移入でき、まるで私自身がこの詩の中の「こみち」を歩いているような感覚にとらわれました。爽やかで涼しげな夜の野道を闊歩する感じです。

 この詩はランボー15歳の時の詩だそうです。彼の略伝によりますと、15歳から詩を作り始めピークは19歳だったそうです。何とも恐るべき「早熟の天才」ですが、この詩はそうするとごく初期の詩ということになります。
 「心はゆめみ、我足さはやかに わがあらはなる額、吹く風に浴みすべし」。「われただ限りなき愛 魂の底に湧き出るを覚ゆべし」。今まさに内なる天才が花開かんとする予兆に、心が躍っているようです。

 (ここで話題一変)「宿なき人の如く いよ遠くわれ歩まん」。これは、詩人のその後を予見していたかのような一節です。というのも、間もなくランボーは故郷を捨てパリに出て行くことになるからです。そして年長の詩人・ヴェルレーヌと知り合い、一時深い仲(同性愛)となり、ヴェルレーヌがランボーの左手首を拳銃で撃つという悲劇的結末が訪れます。
 直後代表作『地獄の季節』をまとめ、21歳で詩作を止め、亡くなる直前37歳で病を得て南仏に戻ってくるまで、遠くアラビアにまで赴き、まさに「宿なき人(原詩ではジプシー)」のような人生を送ることになるのです。

 考えてみれば、ランボーの原詩をいっそう光彩あるものにしているのは、永井荷風の訳業のたまものと言えます。荷風自身アメリカやフランスに滞在したこともある、当時の欧米通です。しかし同時に、『墨東綺譚』などに見られる豊かな江戸情緒や、漢文の素養も十分に持ち合わせていました。そのためか、訳詩にままありがちな生煮えのバタくさい感じがまったくありません。我が国の自然風土に無理なく溶け込ませたような、名訳詩だと思います。

 この詩はその後、中原中也をはじめ、フランス文学者なども訳を試みているようです。それらを読み比べてみると、(当時は何の抵抗もありませんでしたが)確かに文語調で幾分古めかしさはあります。しかし私にとってこの詩は、多感な時期に初めて読んだ、荷風の『そゞろあるき』に限ります。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

『天使と悪魔』を観て(2)

 既にご紹介しましたとおり、この映画を試写した有名人たちからは大絶賛のコメントが寄せられました。(諸般の都合上、当然といえば当然ですが。)
 ただ私のような「オカルティスト」(冗談です。もしそうであれば、最高の名誉だと思いますが)からすれば、『天使と悪魔』は前作の「イエスキリストの妻帯をめぐる謎」という大ミステリーには残念ながら及ばなかったのではないだろうか?と思われてなりません。
 それに今回の映画では秘密結社・イルミナティを重要な鍵としていながら、同結社の歴史的経緯や悪魔崇拝などの説明が省かれていたことにも物足りなさを感じます。

 『ダ・ヴィンチ・コード』では、キリスト教最大のタブーに果敢に鋭く斬りこみました。それが『天使と悪魔』では少し影をひそめたようでその意味でも残念です。『ダ・ヴィンチ・コード』の公開からまる3年、その間一体何があったのでしょう?
 前作は、ヴァチカンをはじめとするキリスト教会から猛烈な抗議を受けたようですし、今回の映画では予定していた2つのローマ市内の教会の撮影の許可が取り消されるということもあったようです。
 
 ところでタイトルの『天使と悪魔』(『Angels&Demons』)が意味するものとは何でしょう?原作者ダン・ブラウンや監督ロン・ハワードの意図するところは分かりません。だから勝手に推測するならば、「神の教会」であるヴァチカンが「天使」、それに対して攻撃や破壊を企てる犯人、その背後にあるとみられるイルミナティという秘密結社などが「悪魔」という図式になるのかもしれません。
 さらには、演繹的に「神初めに天地を創り給えリ」(『創世記』冒頭)という、「神の御業」としての天地創造を持ってくる宗教が「天使」、対して帰納、分析、実証的手法によって「神抜き」の宇宙の起源にまで迫り、遂には究極の超物質である反物質まで手に入れてしまう科学は「悪魔」、ということを暗示しているのでしょうか?
 その意味で、ヴァチカンという宗教的大殿堂の最奥部に、それを破壊するため反物質が据えられたというのは、極めてドラマチックな設定です。

 「天使と悪魔」のみならず、「神と悪魔」「善と悪」「光と闇」「霊と肉」というようなキリスト教的宗教概念から始まって、「人間と自然」「宗教と科学」「精神と物質」というような西洋近代原理の相克概念に到るまで、このような対立的二元論は欧米思想の大きな特徴です。(もっとも東洋的一元融合論では、今日のような物質文明の開花はあり得なかったことでしょう。)
 その意味では、大変月並みなタイトルであると言えると思います。
 もっとも映画の中でラングドン教授に「宗教と科学は対立するものではなく、元々は互いに補完し合うものだったのだ」というようなことを言わせていますから、原作者、監督の意図はそんな単純な対立図式でもないようです。

 直前の『イエスとマグダラのマリア』シリーズで、ヴァチカンを厳しく批判し過ぎたキライがあります。少し補足させていただければ―。
 キリスト教2千年史の中で、聖フランチェスコ、聖コルベ、マザーテレサのように非の打ちどころのない「天使的聖人」も多く輩出させています。
 例えばこの映画で2番目の教会(だったでしょうか?)として登場したサンタ・マリア・ヴィットリア教会の中で、「聖女テレジアの法悦」という彫像が映し出されました。傍らに立つ天使が矢をテレジアの胸に突刺そうとして、テレジアが恍惚の表情で横たわっているという白い大理石の立派な芸術彫刻です。

 これはスペインは「アビラの聖女・テレジア」(1515年~1582年)が、ヴィジョンの内に現われた天使に、何度も心臓を槍で突き刺された実体験を元にしていると言われています。
 聖テレジアはそれのみか、いともたやすく法悦状態に入れ、すると彼女の体が自然に浮き上がることがしばしばだったそうです。何十分も何時間も、そのまま修道院の天井近くで浮いていたそうです。同僚の修道尼(シスター)たちはすっかり慣れっこになって、さほど気にも留めずに、下で通常のお勤めを果たしていたそうです。
 「5次元の意識状態になれば、体は浮いて、飛べるようにさえなります」。聖テレジアは、私たちの今回の目標地点に、数百年も前既に達していたと推察されるのです。
 ただキリスト教全史を通しても、彼女のようなずば抜けた霊的巨人は極めて稀だったことも事実です。信徒、民衆のレベルにいたっては、「(キリスト教によって)本当に救われた者がどれほどいたのだろうか?」ということだろうと思います。

 ともかく。この映画のラスト近くで、大選皇枢機卿がラングドンに言います。「宗教は不完全であることを認めざるを得ない。しかしそれはとりもなおさず、人間が不完全だからなのだ」。
 なるほど確かに。しかし同時に、『そんなに簡単に片付けられては困るんだがなあ』という想いも残ります。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

『天使と悪魔』を観て(1)

 5日(金)夕方、映画『天使と悪魔』を観てきました。(海老名市サティ内「ワーナー・マイカル・シネマズ海老名」。)当日は終日の雨、業務も一段落、そして何よりもとにかくこの映画が観たかったので。
 
 何ヶ月か前の『K-20』以来です。今回はスムーズに上映スクリーンに入り、席も観やすいようにやや後列の中央部にしました。花の金曜日の夕方なのに、見れば観客は私と同列右の年配のご夫婦の三人のみ。評判の映画なのに何とも寂しい限りです。地方館の厳しい実情を垣間見る思いがしました。
 予告編5本のうち、若い人ならば圧倒的に『ターミネーター4』でしょうが、私は『愛を読むひと(洋画)』『真夏のオリオン』『ハゲタカ』を機会があれば、と思いました。もっとも『おくりびと』『禅-Zen』なども結局見ず終いでしたから、さてどうなることやら。
                         *
 『天使と悪魔』は、ヴァチカン(ローマカトリック教会)が主な舞台としてストーリーが展開される極めて珍しい映画です。いきなりローマ教皇の死という、何十年に一度しか起こらないような事態からストーリーは始まります。規則により、教皇の死後14日以内に新教皇を選ばなければなりません。コンクラーべ(教皇選挙)の期限が迫っていて、広大なサンピエトロ広場には、無数の信徒や各国の報道機関などがひしめき合って選出を今か今かと待ちわびています。

 冒頭のヴァチカン内部という極めて宗教的な映像から、一転場面は急転回。最先端の物理学研究所での、のっぴきならない事態発生が描かれます。(「宗教」と対極に位置する「科学」を次いでもってくるあたりのコントラストは見事です。)
 同研究所でやっとのこと生成した「反物質」が、何者かによって盗み出されてしまったのです。この反物質はもし悪用されれば、核爆発にも匹敵する怖ろしい武器にもなりかねません。

 一方のヴァチカンでは、コンクラーベの期限が迫る中、4人の教皇候補者(プレフェリーティ)がこれまた何者かによって誘拐されてしまいます。犯人からは、陰に秘密結社「イルミナティ」の存在をにおわせる一枚の暗号文が届けられます。さあそうなると、前作『ダ・ヴィンチ・コード』で大活躍の、ハーバード大学の宗教象徴学教授ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)の出番です。
 早朝ラングドン教授がヴァチカンに到着すると、中には既に研究所の女性研究者ヴィットリア・ヴェトラ(アイェレット・ゾラー)の姿も見えています。(余談ながら。ゾラーはユダヤ系らしいエキゾチックな雰囲気の漂う知的な美人女優です。)ローマ市警の警部も交えた話で、反物質はヴァチカン内部に隠された可能性があることが分かります。反物質はそれまでに発見しないと、明日午前〇時には爆発してヴァチカン(サンピエトロ大寺院)全体が吹き飛んでしまうことになると、ヴェトラは説明します。

 ヴァチカンのトップクラス以外立入り禁止の最重要文書保管所に、特別に許可を得てラングドンとヴェトラが入り、膨大な古文献の中から今回の事件の手がかりとなるガリレオの古写本を探し出します。閲覧リミットの間際ヴェトラが咄嗟の機転で問題のページを引きちぎるあたりから、ドラマのテンポが一気に早まり、次々と息もつかせぬ展開になっていきます。
 当該ページで示された「土、火、空気、水」の四大元素に対応する、ローマ市内の古い教会に手がかりがあるはずだ。二人と共に、部外者が普段うかがい知ることの出来ないヴァチカン最深部のようすや、ローマ市内や由緒ある古教会を一緒に追体験している感じがしてきます。
 二人は苦労して教会を一つずつ探し出すも、誘拐された教皇候補者が次々に、胸に各要素を示す焼きごてを当てられた謎の変死体で…。

 この映画の面白さは、ラングドン教授をシャーロック・ホームズに、ヴットリア・ヴェトラをワトソン博士に置き換えてみると分かりやすいと思いますが、純粋な推理小説的謎解きの面白さだと思います。それと犯人たちとのスリリングな攻防サスペンスも面白さの一つになっていると思われます。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

天地人について(11)

 NHK大河ドラマ『天地人』今回(第22回)は「真田幸村参上」。
 大変申し訳ない物言いながら、特別おもしろかったので記事にするわけではありません。今回タイトルの真田幸村に前々から興味があったため、幸村について述べてみたくなり記事にする次第です。

 真田幸村については、同じNHKでだいぶ前シリーズ化されたドラマがありました。適当なことを述べては失礼ですので、今回そのドラマについて少し調べてみました。タイトルは『真田太平記』。あるいは当時ご覧になった方もおいでかもしれませんが、放映されたのはずいぶん前で、1985年(昭和60年)4月5日~1986年(昭和61年)3月19日。全45話。
 私の記憶からしますと、『えっ。そんな昔だったっけ?』そして『そんなに長かったっけ?』という思いです。まるまる1年ドラマだったわけで、じゃぁ大河ドラマか?というとそうでもなかったようです。当時NHKでは「新大型時代劇」と呼んでいたようですが、そういえば確か日曜の夜ではなく平日の夜だったように記憶しています。

 『真田太平記』。原作:池波正太郎、脚本:金子成人、音楽:林光、殺陣:林邦史朗(以下省略)。今考えると何とも贅沢なスタッフです。そしてキャストがこれまた豪華絢爛なのです。真田幸村:草刈正雄、父の真田昌幸:丹波哲郎、兄の真田信之:渡瀬恒彦はじめ、夏八木勲、榎本孝明、石橋蓮司、佐藤慶、長門裕之、加藤武、岡田茉莉子、遙くらら、今野美紗子、小山明子、津島恵子(以下省略)。
 ともかく私は同ドラマが面白くなり、初めの頃から「大坂夏の陣」で幸村が壮烈な討ち死にをする最終回まで、ほぼ欠かさず夢中で観ていました。何しろそんな前のドラマですから、あらすじなど大方は忘れてしまいましたが、豪華なキャスト陣といい重厚なストーリー展開といい綿密な時代考証といい、まさに今考えても「This is a“時代劇”」といって良いほど戦国時代劇の醍醐味を堪能出来たドラマだったように思います。

 それでなくとも、真田一族といえば「真田十勇士」。多分戦前の立川文庫の名残りだったのでしょうが、私らが子供だった昭和30年代前半にもまだ『少年画報』(月間少年漫画雑誌)だったかで、猿飛佐助や三好青海入道などが大活躍する連載漫画があり、血湧き肉踊らせながら読みふけっていた記憶があります。

 今回の『天地人』で真田幸村が、若い頃上杉藩に人質となっていたこと、初めて知りました。そこで改めて幸村の事跡を調べてみましたが、確かにそれは史実のようです。
 『天地人』でも描かれていたとおり、天正10年(1582年)織田・徳川・北条連合軍によって主家筋の武田家滅亡。それにより信州上田郷の真田家は、織田信長に恭順し所領安堵。しかし本能寺の変により信長が死んだことにより後ろ盾を失い、真田家は所領を守るため上杉・北条・徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩くこととなりました。
 この際当主・真田昌幸の息子であった幸村(実際の名前は「信繁」。幸村は死後百年くらい経過してから現われた名前)は、人質として諸大名の下を転々としたようです。
 
 上杉家の人質だった期間、真田幸村は具体的にどのように過ごしていたのか、ドラマのように直江兼続とあのように濃密な関係を持ったのか、実際のところは分かりません。しかし後に二人共徳川家康を脅かした軍略の天才として、歴史にその名前をとどめています。その意味で、二人は確かに邂逅していてしかも親交があったとするのは、一つの歴史的ロマンではあります。

 信長(吉川晃司)が死にもうお役御免か?と思われた、女忍びの初音(長澤まさみ)。何と真田幸村(城田優)の妹だったとは ! 口あんぐりの苦笑ものです。
 次回の予告編で、いつかも触れましたとおり、今ではすっかりお茶の間の人気者となった感のある、幼少与六役・加藤清史郎君が再登場するようです。見ると姿かたちは幼少与六とまったく同じ。どういう役どころなのか分かりかねますが、先ずは次回を見てのお楽しみ、といったところでしょうか。
 ここのところ視聴率も下落傾向の同ドラマ。妻夫木聡でも北村一輝でも常盤貴子でも比嘉愛未など誰でもダメで、いよいよ名子役を再登板させなければならない事態ということなのでしょうか?私はかつての『真田太平記』のようなスタイルを見習えば、「視聴率急上昇間違いなし ! 」と思うんですがねぇ。
 (ただし第21回「三成の涙」では、小栗旬人気なのか久々に20%台に戻したようです。)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

日々雑感(3)

 蒸し暑い初夏の候、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 大懸案だった『イエスとマグダラのマリア』、きのう5回目で何とか完結させることが出来ました。いざ記事にはしてみたものの、最近は『弱ったなあ。これをどうやって完結させようか』とそればかりが気がかりで。当初は例により、2回くらいで終わらせる予定でした。しかしいざ始めてみますと、「歴史的大問題」がそんなに簡単にまとまるはずもなく、書くべきことがどんどん広がって収拾がつかなくなりそうでした。

 今までの長い記事、例えば『万物備乎我』『東京ビッグサイト』『レッドクリフ&三国志』『田母神論文をめぐって』などと同じように、とにかくまとめるのに大変苦労しました。しかし、現時点で私の持てるものを全部投入するつもりで記事にしました。だから私としては、このような記事こそ大勢の皆様にお読みいただきたいのです。
 しかし実際はアクセスが少ないのです。まあこうして一度公開した以上、今後ボチボチのアクセスに期待はしておりますが…。(嬉しいことに、中には繰り返し熱心に読まれている方もおられます。)

 以前述べましたとおり、今は有史以来のありとあらゆる「信念体系」「社会通念」などへの根本的見直しが迫られている時期だと思われます。私たちが日常ごく普通に当然のこととして受け入れていることの中にも、「おかしいこと」「クサイこと」がいっぱいありそうです。
 今とこれからの超変化にスムーズに対応していくためにも、一人一人が『本当にそれで間違いはないのだろうか?』と、その課題に進んで取り組んでいくべきだと思われます。そういうものを後生大事にいっぱい抱え込んでいる分、変化に対応するのが困難になると思われるからです。
 その意味で、今回の記事を含め当ブログ記事の中には、それを読み通していただくことによって、知らず知らず「信念体系」や「固定観念」打破のためのトレーニングになることがあるかもしれません。
                          *
 5月下旬に発生しました「アクセス解析障害」は、当ブログの場合同31日時点で完全に復旧致しました。開設以来のアクセス・訪問者数データもすべて復旧し、その後現時点でのアクセス状況表示も順調です。
 2、3の方が、「ココログ アクセス解析 障害」というような検索フレーズでアクセスしてこられました。やはり同障害は当ブログだけではなかったようです。@nifty ココログのコメントでは「サーバー不良により」とありました。当ブログはここのところ少し急にアクセス数が伸びていました。これと同じようなケースの各ブログに対応出来ず、突然サーバーが何らかのトラブルを起こしてしまったのでしょうか?
                          *
 以前『天使の歌声』でご紹介しました、英国の中年の歌姫、スーザン・ボイルさん(48)。一週間ほど前、デビューと同じオーディション番組「ブリテンズ・ゴット・タレント」の決勝まで進みました。
 決勝戦において彼女は、英国中いな全世界注目の中、デビュー時よりももっと洗練された美しい歌声で『夢やぶれて』を熱唱していました。しかし結果は惜しくも優勝を逃してしまいました。
 彼女を破ったのは、「ダイバーシティー」というダンス集団。メンバーは12~25歳の10人編成で、黒い衣装を着てアップテンポな音楽に合わせて一糸乱れぬストリートダンスを披露。そのユーモラスな動きに、観客は大興奮だったようです。

 「ブリテンズ・ゴット・タレント」での優勝は逃したとはいえ、スーザン・ボイル人気は以前凄まじいようです。世界的な人気に火をつけた動画サイト・You Tubeへのアクセスが、遂に1億件を突破し、それまでの記録を抜き去るのは時間の問題と報じられたのは1ヶ月も前のこと。今では新記録樹立はおろか、2億件にも達しているのではないでしょうか。
 そして実利的な話題として英マスコミによると、彼女は今後CDや書籍販売で12億円以上稼ぐだろうと予想され、また2012年のロンドン五輪にも登場か?とも噂されているそうです。
                          *
 噂の草なぎ剛(34)のテレビ復帰スタートは、先月29日の『笑っていいとも ! 』(フジテレビ系)だったようです。同番組は草薙がレギュラー出演していた番組で、黒いジャケットで登場し、番組冒頭深々と頭を下げ、「一月休んでしまいました。(スタジオの)この空気を毎週感じるのは生活の一部ということが分かりました。よろしくお願いします」と挨拶したそうです。
 また1日夜に放送された『SMAP×SMAP』(フジテレビ系)にも出演し、平均視聴率が22.0%。同番組の前4週の視聴率は平均12.5%で、2倍近い大幅アップとなったことになります。また2日夜放送の、テレビ朝日系「『ぶっ』すま」でもレギュラー復帰。ともに司会を務めるタレント、ユースケ・サンタマリアに「あれ、剛 !! 」と番組冒頭で驚かれ、草薙は土下座で謝罪して笑いを誘ったようです。しかしこちらの視聴率は12.8%と、前週の13.2%よりやや下降しました。

 同じ芸能界の話題といえば―。以前当ブログ記事『薬物汚染の広がりを憂う』で取り上げた、元タレントの小向美奈子(24)。小向は覚せい剤取締法違反(使用)で有罪判決を受け執行猶予の身ですが、5日からのストリップ劇場「浅草ロック座」にゲスト出演する予定(ただし極端な露出は避けるもよう)だったものの、東京地裁が2日出演禁止の仮処分命令を下しました。
 小向の前の所属事務所との間で、そういうものには出演しない旨の合意書が取り交わされていて、それを盾に前事務所が直前になって地裁に出演停止を申し立て、認められたもののようです。
 しかし小向と浅草ロック座側は出演を強行する構えを崩しておらず、『元アイドルがここまで…』と三面記事的ながら成り行きが注目されます。(そういえば『薬物汚染』記事、いまだ未完でした。)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

イエスとマグダラのマリア(5)

 私が今回土台にしましたチャネリング情報によりますと、マグダラのマリアはエルサレムにあったイシス神殿の巫女だったようです。それのみか彼女は、エジプトやスペインなど当時各地に点在していたミステリースクール(秘教学校)のイニシエーションをクリアーした、高度の女性イニシエートだった可能性すらあります。
 もしそれが事実なら彼女は「女性キリスト」とでも呼ぶべき存在で、イエスキリストの伴侶としてはまさにうってつけの女性だったわけです。

 ところで「イシス」は、古代エジプトにおける主要な女神です。イシスの夫はオシリス神です。エジプト神話によりますと、オシリスは弟のセトにより体をバラバラに切断され世界各地に捨てられてしまいます。それを妻のイシスは必死で探し出し、オシリスを元のようにつなぎ合わせます。その結果、甦ったオシリスは冥界の王になったといわれています。
 マグダラのマリアがイシス神殿の巫女だったというのは、極めて象徴的です。

 イエスとマグダラのマリアの結婚は、イシス、オシリス神話と深くリンクしているようなのです。同情報の他の個所では、「(キリストがイシス神殿の巫女・マグダラのマリアと結婚したことにより)イシスを通じてオシリスの男根をつけ直し、断ち切られていた男性性を回復したのである」とあります。
 ローマカトリック教会がイエスとマグダラのマリアの真実の関係を隠したのは、再びオシリスの体を切断するような行為であり、それゆえ「ローマカトリック教会の全構造とは、手足を切断されたオシリス神の上に成り立ってい」ることになるのです。これは、私たち人間の歴史そのものでもあったといえないでしょうか?

 私たちが認識を新たにすべきは、イエスは2000年前精力旺盛な生身の男性として、生命力溢れるキリストの生涯を生きたということです。ただしかつめらしく神の国を観念的に説いていた、「去勢されたキリスト」ではなかったのです。
 「他の弟子たちは、主がマリアを愛しているのを見た」(『フィリポによる福音書』)。時にイエスは、マグダラのマリアと聖なるオルガズムを分かち合う、エロティックな錬金術師でもあったのです。
 水をぶどう酒に、ぶどう酒をキリストの血に。錬金術とは、「平凡なものを貴重なものに変換するプロセス」とも定義されます。そのプロセスには、「性エネルギーの昇華」が不可欠なのです。

 同情報では、二人の間に(生身の人間の)娘が生まれたとしています。名前は「サ・ラー」。(確か映画『ダ・ヴィンチ・コード』では、「サラ」という名前になっていたでしょうか?) 「ラー」は、これまたエジプト最高の太陽神の名前です。ここからマグダラのマリアはパレスチナのユダヤの民ではなく、エジプト出身の女性だったのではないだろうか?とも推測されます。
 ともかくこうして「キリストの血」は、サ・ラーを通して受け継がれていき、今日では100代目にあたる子孫がこの地球上に現存しているそうです。

 ならば私たちは、『ダ・ヴィンチ・コード』のようにキリストの子孫を探すべきなのでしょうか?いいえ、そんな必要はありません。なぜなら直系の子孫ではなくとも、キリストは現在の人類すべての体内のDNAに生きているからです。
 まさか?とお思いなら、ご自分の先祖をずっと過去に遡っていってみてください。10代前で千余人、20代前で百余万人、30代前で十億余人、40代前で一兆余人…。これを引っくり返してみてください。たった二組の始祖のカップルから100代も経過するとそれはまさに天文学的数字、直系ではなくてもどれだけの子孫の数になることか。まさに65億人余の現人類に、幾重にもキリストの血が注ぎ込まれていることになるのです。

 だいぶ長かった本拙文の結論です。
 イエスキリストとマグダラのマリアの結婚の真の目的とは、2000年後の今日の人類すべてに「キリストの血」を行き渡らせることにあったのではないだろうか?と思われるのです。特に「2000年後の今日」に限定したのは、「水瓶座新時代」の入り口にさしかかっている「今この時」こそ、私たちのすべてがやがて「キリスト」になるべき時代だからです。
 これは以前『天皇家3代の御名・考』で述べました、「ヒロヒト→アキヒト→ナルヒト」の「ヒトの意義」と完全に一致します。「一十(ヒト)」つまり「真(まこと)の人」とは、「キリスト」に他ならないからです。

 そうなれば、キリスト教をはじめとする「組織宗教」は必要なくなり、皆悉く崩壊することでしょう。有史以来私たちをこずき回してきた「彼ら」の呪縛から、今度こそ完全に抜け出せるのです。 私たちは元々自由な存在です。いかなる「首輪宗教」も最初から必要ではなかったのです。  ―  完  ―
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (4)
|

イエスとマグダラのマリア(4)

 ローマカトリック教会(それに続く正教会や聖公会などすべてのキリスト教会)は、なぜ「イエスが独身だった」ということを教義の根本にすえる必要があったのでしょう?それは「聖体拝領」の儀式と深く関係することです。キリスト教会にとってこの最重要儀式を執り行う司祭はすべて「独身男性に限る」と定めたことと関係があるのです。
 つまり未来永劫、カトリック教会での最重要儀式を独身男性に執り行わせるためには、大本であるキリストが「独身であった」ということを教義化する必要があったということです。

 ここで一般的に「聖体拝領(ユウカリスト)」とは、イエスが「最後の晩餐」で弟子たちと最後の食事を共にしたことに由来します。その席上、イエスはパンを取り「これは私の体である」と言い、次いで杯(後にさまざまな「聖杯伝説」の元となった)を取り「これは私の血である」と言って、それぞれを弟子たちに分け与えたとされます。
 各教会によって呼び方や進め方などは多少異なるものの、祭壇に捧げられたホスチア(小麦粉を薄く焼いた食べ物)をキリストの体に、水で薄めたぶどう酒をキリストの血に見立てて、ミサのクライマックスに司祭と信徒が飲食するという儀式です。

 それではなぜ、この最重要儀式を独身男性司祭に限定する必要があったのでしょうか?それはイエスキリストの聖体拝領の「真の意図」を隠し、換骨奪取して「彼ら」の「コントロール儀式」にすり替えてしまったからです。(ここでキリストの真の意図とは何かは限られた紙面の関係上述べません。またこれまでも何度か触れてきた「彼ら」の正体についても、いずれ別の機会にということで説明を省きます。)

 これは裏を返せば、「女性の力を弱める」ということでもありました。弱めるどころか、カトリック教会において女性は徹底的に排除されてきたのです。(中世キリスト教会による「魔女狩り」によって、火あぶり、拷問などで数万人もの女性が殺されたのがその好例です。)
 特に経血中(生理で出血中)の女性を儀式の中に入れることはご法度とされてきました。もっともこれはキリスト教に限らず、世界中の主だった宗教儀式でも似たり寄ったりです。「経血中の女性は不浄で穢れた存在だから」というのが、その理由でした。
 しかしこれはとんでもない魔違い(間違い)のようです。経血中の女性は逆に、ことのほか「神聖な存在」のようなのです。女性たちをなぜ宗教儀式の場から締め出したかといえば、女性特に経血中の女性に儀式を主宰させることによって、その宗教儀式が偽物で「彼らのコントロール儀式」であることをたやすく見破ってしまうから、と「特殊情報」では伝えています。

 余談ながら。当ブログ年初記事『児玉神社参拝記(1)(2)』が好評です。「山本白鳥」「児玉神社」などで頻繁にアクセスがあるのです。ところで同記事で紹介しましたとおり、同神社の宮司は山本白鳥という女性です。もう四半世紀くらい、同神社の祭祀責任者として日々の重要儀式を執り行ってこられたわけです。これは我が国はおろか世界的にも極めて稀なはずです。山本宮司はまさに「女性性復権の時代」「女神復権の時代」でもある、「水瓶座(アクエリアス)新時代」の先駆者のお一人であるように思います。
 ほんの少しだけご縁のあった者として、山本宮司の今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。

 ―以上のキリスト教的文脈の中で「マグダラのマリア」は、西暦500年代の宗教会議で最終的に「娼婦」に貶められることとなったのです。もちろんそこには彼女がイエスキリストと性的関係にあり、実はキリストの子供まで産んでいたという事実を闇に葬る意図もあったわけです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

6月1日

   あじさいや開港遠き昔にて   (拙句)

 早いもので今年ももう6月です。そしてきょうは月のスタートのついたちです。
 午前中は薄日もさして、先月末何日も続いたぐずついた天気ともおさらばか、と何となくほっとした気分になりました。しかし昼が近づくにつれて、家の中からのぞかれる外は徐々に暗くなり出し、何やらまたもや怪しい雲行きのようです。
 本当に梅雨の走りのような空模様の中、昼過ぎ久しぶりで横浜に向うべく家を出ました。出がけに外を窺(うかが)うと、路面は乾いており全体的に何となく薄ら明るい感じ。それでも長道中何が起きるか分からんぞとばかりに、一応使い古した小さなビニール傘を持って出ました。

 何度も触れました水路道に直交する、その手前の100mほどの砂利道を通ります。右手中ほどに、小潅木が適宜植え込まれ地面にはびっしりと青草で覆われた空地があります。以前空地はもっと多かったものの、今ではそこだけになってしまったのです。その先の民家との境の垣に蔦(つた)が絡まった辺りで、小さな黄色い蝶が一匹ゆらりゆらりと飛び回っているのが認められます。
 
 さらに民家の先右手は舗装道路となり、両脇に住居が奥までびっしり建て込んでいます。と、そちらのやや上空の方から、幾分甲高い鳥の鳴声がしきりに聞こえてきます。
 私は比較的音には鋭敏な性質(たち)らしく、人間同士のでかい話し声をすぐ間近で聞いているうちに、それは凶暴化した音となって神経に直接突き刺さってくるようで、逃げ出したくなったり実際急ぎその場を離れてしまうことがあります。
 しかし小鳥たちの鳴声に対しては、決してそうはなりません。かえって耳そばだてるほどに、心に脳に心地良い音色(ねいろ)なのです。かといって、その場に佇んで聴き入るわけにもいかず。小鳥たちの囀(さえず)りに押されるようにして水路道に入り、いつものとおり左折してその道を通ります。

 毎度述べておりますとおり、その両側に数軒の住宅が並び建つ、わずか20m未満の通路です。しかしこのわずかなスペースこそが、私にとっての当居住地での唯一の緑のオアシスといった感じなのです。(実際はその先の広い道路まで数10m通路は延びていますが、その代わり雑草だけになります。)
 通路の両側に何本かの低い木が植えられており、ムラサキツユクサの一群以外目立った花とてなく、今はほぼ緑一色です。二株ほどのアジサイも、これから本式に咲くべく今はまだつぼみで待機中といったところです。

 この水路道を右左折して300mくらい歩いた、広い通り沿いにバス停はあります。バスを待ちながら周りを見回しますと、街並みはいっそう明るさを増したように感じられ、にわかに手に持っている傘が邪魔なものに思えてきました。もう雨は降りそうもないのに、横浜まで持っていき、また持って帰る。なんだか面倒になってきて、『どうせもうずいぶん使い古したビニール傘だし、無くなってもいいや』と、バス停の目立たない所に寝かせて置いていくことにしました。
 それでも一応、『帰りに取りにくるからな』と心で呟きながら。

 間もなく『大失敗だった』と思いました。バスの途中で、車窓に細い雨筋が何本もかかり始めたのです。本厚木駅に着いた時は、もう本降り状態。電車に乗って、長い陸橋から望む相模川は茫(ぼう)と雨に煙ってよく見えないほど。小田急線から相鉄線に乗り換えるべく海老名駅構内から外を見た時は、何と滝のような豪雨状態、皆あっけにとられたように外を見ていました。
 『横浜に行くのイヤになっちゃったなあ。引き返して明日また手直すか?』。しかしそうも言っておられず、気を取り直して『まあ、なるようになるさ』と相鉄電車に乗り込みました。

 海老名駅構内の頃が雨のピークだったようです。横浜に近づくにつれて少しずつ小降りになり、関内駅に降りた時にはまだ降ってはいるものの、どうしても傘が必要なほどの降りでもなさそうです。
 そこで私は、とにかく走って県庁分庁舎まで向うことにしました。とはいっても、そこまでは2、3キロはあります。走っては歩き、歩いては走りしているうちに、道の半分もしないうち雨は止みました。向かう先の横浜港の方の空の雲間から、青空ものぞき出しました。私はほっとして急に速度を落として歩きます。途端に息がせわしなくなりました。
 急ぎ駆け過ぎたきょうの横浜は、平日で開港150周年の記念イベントもないようで、いつもどおりの平静な街のようす。所用を済ませた夕の街路の一角に、水色のアジサイが株全体見事に咲いているのが印象的でした。

 …帰り、例のバス停に立ち寄りました。傘は寝かせて置いた同じ状態でありました。私はそっと取り上げ、今度は幾分大切に抱えながら、あと少しの我が家までの道を歩きました。
 空を見上げると西の方に上弦の半月がかかっています。そして眼を地上に転ずると、先ほどの空地の反対側の駐車場の隅の草むらに、点々と黄なる月見草の花が淡い月の光と側の家の灯に照らされて浮かびあがっています。
 一風変わった私にとって、そんな小さな花が当地でまだ、月夜に咲いていてくれることがとても嬉しいのです。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (2)
|

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »