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イエスとマグダラのマリア(4)

 ローマカトリック教会(それに続く正教会や聖公会などすべてのキリスト教会)は、なぜ「イエスが独身だった」ということを教義の根本にすえる必要があったのでしょう?それは「聖体拝領」の儀式と深く関係することです。キリスト教会にとってこの最重要儀式を執り行う司祭はすべて「独身男性に限る」と定めたことと関係があるのです。
 つまり未来永劫、カトリック教会での最重要儀式を独身男性に執り行わせるためには、大本であるキリストが「独身であった」ということを教義化する必要があったということです。

 ここで一般的に「聖体拝領(ユウカリスト)」とは、イエスが「最後の晩餐」で弟子たちと最後の食事を共にしたことに由来します。その席上、イエスはパンを取り「これは私の体である」と言い、次いで杯(後にさまざまな「聖杯伝説」の元となった)を取り「これは私の血である」と言って、それぞれを弟子たちに分け与えたとされます。
 各教会によって呼び方や進め方などは多少異なるものの、祭壇に捧げられたホスチア(小麦粉を薄く焼いた食べ物)をキリストの体に、水で薄めたぶどう酒をキリストの血に見立てて、ミサのクライマックスに司祭と信徒が飲食するという儀式です。

 それではなぜ、この最重要儀式を独身男性司祭に限定する必要があったのでしょうか?それはイエスキリストの聖体拝領の「真の意図」を隠し、換骨奪取して「彼ら」の「コントロール儀式」にすり替えてしまったからです。(ここでキリストの真の意図とは何かは限られた紙面の関係上述べません。またこれまでも何度か触れてきた「彼ら」の正体についても、いずれ別の機会にということで説明を省きます。)

 これは裏を返せば、「女性の力を弱める」ということでもありました。弱めるどころか、カトリック教会において女性は徹底的に排除されてきたのです。(中世キリスト教会による「魔女狩り」によって、火あぶり、拷問などで数万人もの女性が殺されたのがその好例です。)
 特に経血中(生理で出血中)の女性を儀式の中に入れることはご法度とされてきました。もっともこれはキリスト教に限らず、世界中の主だった宗教儀式でも似たり寄ったりです。「経血中の女性は不浄で穢れた存在だから」というのが、その理由でした。
 しかしこれはとんでもない魔違い(間違い)のようです。経血中の女性は逆に、ことのほか「神聖な存在」のようなのです。女性たちをなぜ宗教儀式の場から締め出したかといえば、女性特に経血中の女性に儀式を主宰させることによって、その宗教儀式が偽物で「彼らのコントロール儀式」であることをたやすく見破ってしまうから、と「特殊情報」では伝えています。

 余談ながら。当ブログ年初記事『児玉神社参拝記(1)(2)』が好評です。「山本白鳥」「児玉神社」などで頻繁にアクセスがあるのです。ところで同記事で紹介しましたとおり、同神社の宮司は山本白鳥という女性です。もう四半世紀くらい、同神社の祭祀責任者として日々の重要儀式を執り行ってこられたわけです。これは我が国はおろか世界的にも極めて稀なはずです。山本宮司はまさに「女性性復権の時代」「女神復権の時代」でもある、「水瓶座(アクエリアス)新時代」の先駆者のお一人であるように思います。
 ほんの少しだけご縁のあった者として、山本宮司の今後の益々のご活躍をお祈り申し上げます。

 ―以上のキリスト教的文脈の中で「マグダラのマリア」は、西暦500年代の宗教会議で最終的に「娼婦」に貶められることとなったのです。もちろんそこには彼女がイエスキリストと性的関係にあり、実はキリストの子供まで産んでいたという事実を闇に葬る意図もあったわけです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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