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『天使と悪魔』を観て(2)

 既にご紹介しましたとおり、この映画を試写した有名人たちからは大絶賛のコメントが寄せられました。(諸般の都合上、当然といえば当然ですが。)
 ただ私のような「オカルティスト」(冗談です。もしそうであれば、最高の名誉だと思いますが)からすれば、『天使と悪魔』は前作の「イエスキリストの妻帯をめぐる謎」という大ミステリーには残念ながら及ばなかったのではないだろうか?と思われてなりません。
 それに今回の映画では秘密結社・イルミナティを重要な鍵としていながら、同結社の歴史的経緯や悪魔崇拝などの説明が省かれていたことにも物足りなさを感じます。

 『ダ・ヴィンチ・コード』では、キリスト教最大のタブーに果敢に鋭く斬りこみました。それが『天使と悪魔』では少し影をひそめたようでその意味でも残念です。『ダ・ヴィンチ・コード』の公開からまる3年、その間一体何があったのでしょう?
 前作は、ヴァチカンをはじめとするキリスト教会から猛烈な抗議を受けたようですし、今回の映画では予定していた2つのローマ市内の教会の撮影の許可が取り消されるということもあったようです。
 
 ところでタイトルの『天使と悪魔』(『Angels&Demons』)が意味するものとは何でしょう?原作者ダン・ブラウンや監督ロン・ハワードの意図するところは分かりません。だから勝手に推測するならば、「神の教会」であるヴァチカンが「天使」、それに対して攻撃や破壊を企てる犯人、その背後にあるとみられるイルミナティという秘密結社などが「悪魔」という図式になるのかもしれません。
 さらには、演繹的に「神初めに天地を創り給えリ」(『創世記』冒頭)という、「神の御業」としての天地創造を持ってくる宗教が「天使」、対して帰納、分析、実証的手法によって「神抜き」の宇宙の起源にまで迫り、遂には究極の超物質である反物質まで手に入れてしまう科学は「悪魔」、ということを暗示しているのでしょうか?
 その意味で、ヴァチカンという宗教的大殿堂の最奥部に、それを破壊するため反物質が据えられたというのは、極めてドラマチックな設定です。

 「天使と悪魔」のみならず、「神と悪魔」「善と悪」「光と闇」「霊と肉」というようなキリスト教的宗教概念から始まって、「人間と自然」「宗教と科学」「精神と物質」というような西洋近代原理の相克概念に到るまで、このような対立的二元論は欧米思想の大きな特徴です。(もっとも東洋的一元融合論では、今日のような物質文明の開花はあり得なかったことでしょう。)
 その意味では、大変月並みなタイトルであると言えると思います。
 もっとも映画の中でラングドン教授に「宗教と科学は対立するものではなく、元々は互いに補完し合うものだったのだ」というようなことを言わせていますから、原作者、監督の意図はそんな単純な対立図式でもないようです。

 直前の『イエスとマグダラのマリア』シリーズで、ヴァチカンを厳しく批判し過ぎたキライがあります。少し補足させていただければ―。
 キリスト教2千年史の中で、聖フランチェスコ、聖コルベ、マザーテレサのように非の打ちどころのない「天使的聖人」も多く輩出させています。
 例えばこの映画で2番目の教会(だったでしょうか?)として登場したサンタ・マリア・ヴィットリア教会の中で、「聖女テレジアの法悦」という彫像が映し出されました。傍らに立つ天使が矢をテレジアの胸に突刺そうとして、テレジアが恍惚の表情で横たわっているという白い大理石の立派な芸術彫刻です。

 これはスペインは「アビラの聖女・テレジア」(1515年~1582年)が、ヴィジョンの内に現われた天使に、何度も心臓を槍で突き刺された実体験を元にしていると言われています。
 聖テレジアはそれのみか、いともたやすく法悦状態に入れ、すると彼女の体が自然に浮き上がることがしばしばだったそうです。何十分も何時間も、そのまま修道院の天井近くで浮いていたそうです。同僚の修道尼(シスター)たちはすっかり慣れっこになって、さほど気にも留めずに、下で通常のお勤めを果たしていたそうです。
 「5次元の意識状態になれば、体は浮いて、飛べるようにさえなります」。聖テレジアは、私たちの今回の目標地点に、数百年も前既に達していたと推察されるのです。
 ただキリスト教全史を通しても、彼女のようなずば抜けた霊的巨人は極めて稀だったことも事実です。信徒、民衆のレベルにいたっては、「(キリスト教によって)本当に救われた者がどれほどいたのだろうか?」ということだろうと思います。

 ともかく。この映画のラスト近くで、大選皇枢機卿がラングドンに言います。「宗教は不完全であることを認めざるを得ない。しかしそれはとりもなおさず、人間が不完全だからなのだ」。
 なるほど確かに。しかし同時に、『そんなに簡単に片付けられては困るんだがなあ』という想いも残ります。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

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