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山ほととぎすほしいまヽ

                  杉田久女

   谺(こだま)して山ほととぎすほしいまヽ

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 杉田久女(すぎた・ひさじょ)の略伝は、『朝顔や』を参照のこと。

 この句における季語は「ほととぎす」です。夏の季語となります。時鳥、子規、不如帰などとも表記されます。
 ほととぎすは、日本で繁殖するホトトギス科の鳥中最も小型で、背面は暗灰色、風切羽はやや褐色、尾羽には黒色の地に白斑がある。5月中旬ごろに南から渡ってきて、低山帯から山地などに棲息し飛び回る。卵を鶯(うぐいす)などの巣に托(たく)す習性(托卵)がある。昼夜の別なく一種気迫のある鳴き方をし、「てっぺんかけたか」「本尊かけたか」「特許許可局」その他いろいろに聞き倣(な)す。 (角川文庫版『俳句歳時記・夏』より)

 「ほととぎす」は近代俳句にとっても、おなじみの名称です。先ずその先駆者だった正岡子規(本名・正岡升-のぼる)の「子規」という雅号(俳号)は、結核の病で喀血した自分を、血を吐くまで鳴くと言われるほととぎすに喩えたものです。
 また子規が創刊した俳句雑誌(俳誌)の名称も『ホトトギス』で、それは郷里の後進俳人・高浜虚子に受け継がれました。虚子は一時、それを俳誌のみならず総合文芸誌に発展させ、夏目漱石の『我輩は猫である』や伊藤左千夫の『野菊の墓』などは同誌に発表されたものです。

 『ホトトギス』はその後再び俳誌の形式に戻り、現在も続いています。同誌同人が増え出した昭和初期には、同誌への句の掲載は狭き門となり、掲載された人は大喜びで赤飯を炊いてお祝いしたものだそうです。
 そんな中久女の句は同誌にたびたび掲載され、天才的でひときわ光輝き同人たちの注目を浴びる存在でした。

 この句は、杉田久女の代表句とも言われる句です。その成句に到るまでのエピソードが残されています。
 この句は、久女が教師である夫の赴任先福岡で詠まれたものです。「山ほととぎす」の山とは、「英彦山(ひこさん)」。福岡県南部の大分県との県境に位置する標高1,200mの山で、古くから修験者たちが修行したそうです。深緑の季節久女はこの英彦山に登ったのです。少し険しい谷伝いの山道を登っていますと、突然谷間から大きな鳥の鳴声が聞こえてきました。
 久女の随筆によりますとその時のようすは、「行者堂の清水を汲んで、絶頂近く杉の木立をたどる時、突然何ともいえぬ美しい響きをもった大きな声が、木立の向うかの谷間から聞こえてきました。それは、単なる声というよりも、英彦山そのものの山の精でした。短いながら妙なる抑揚をもって切々と私の魂を深く強くうちゆるがして、いく度もいく度も谺しつつ声は次第に遠ざかって、ばったり絶えてしまいました。時鳥 ! 時鳥 ! とこう(宿の)子供たちは口々に申します。」

 「谺して山ほととぎす」の上五中七は、その時すぐに思い浮かんだそうです。しかし下五の結びの言葉がどうしても思いつきません。山頂で、山を降りる途中で、山から戻った宿で…。一心に思案しても、今一つピンとくる結句がどうしても得られないのです。
 そこで久女は、もう一度英彦山に登ることにしました。今度はただ一人で。再び足下の谷間からほととぎすの鳴き音が聞こえてきました。久女は「ほととぎすは惜しみなく、ほしいままに、谷から谷へと鳴いています。実に、自由に。高らかに谺して」と書いています。
 たった5文字を得るために何という執念か、と思ってしまいます。でもそうして、再び実際の自然の景の中にわが身を置くことによって、久女はほととぎすの鳴声の「真の写生」に超入出来たのではないでしょうか?その結果、「生の実相」をそのまま「写す」言葉である、「ほしいまヽ」という下五の結句が得られたと思うのです。

 昭和5年、大坂日日新聞と東京日日新聞が共催で「日本新名勝俳句」を募集し、久女はこの句を投句。約10万句の中から、高浜虚子選で「帝国風景院賞」を受賞しました。
 思えば久女の天才性は、常にこの「ほしいまヽ」の自由を欲していたのかも知れません。しかし当時の社会はがちがちの男性優位社会です。女性が一定の枠を越えて「ほしいまヽ」に振舞うと、必ず厳しい制裁が待ち受けていたのです。
 師である虚子も確かに昭和初期「台所俳句」を提唱し、女性が日常ありふれた場面で俳句を作ることを奨励しました。しかし昭和7年久女が、女性だけの俳誌『花衣』を創刊するに及んでは看過出来ません。同誌は5号で廃刊、昭和11年に久女は『ホトトギス』同人を除籍されてしまいます。
 久女は戦後間もない昭和21年、失意のうちに大宰府の筑紫保養院で没しました。

 杉田久女はこれまで何度か、テレビや舞台でその生涯を取り上げられたことがあるようです。俳人としては異例のことと言えます。また十数年前『B面の夏』で鮮烈デビューした黛まどかは、久女から強い影響を受け俳句の道を志したのだそうです。彼女もまた女性だけの俳誌『オードリー』を創刊しましたが、やはり途中で廃刊になりました。
 なお英彦山には、久女の筆になるこの句の句碑が建っているそうです。
 
 (大場光太郎・記)

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