« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »

2009年7月

総選挙あれこれ(2)

 自民党が民主党のマニュフェストを猛攻撃したと思ったら、今度は民主党の岡田幹事長が、2005年小泉マニュフェストの公約達成度についてこれまた猛烈に咬みつきました。「看板倒れの小泉改革は格差拡大を放置し、社会保障の崩壊、財政の悪化をもたらした」と指摘し、主要な公約が未達成で「公約違反」だと位置づけたのです。そして点数をつければ20~30点だというのです。
 これに対して麻生首相は、「郵政の民営化があの当時の一丁目一番地(の争点)だった。それは間違いなく実現した」などと反論しました。

 明日31日には自民党のマニュフェストが発表される予定です。これをめぐっても一悶着が予想されます。何やら両党間で泥仕合の様相を呈してきました。「マニュフェスト」をめぐっては、これから先も流動的な要素が多分にありそうです。
 よって今回この問題について、これ以上突っ込むのはやめにしようと思います。

 鳩山代表は、「首相になった人間がその後影響力を行使することは控えた方がよい」とし、自身がもし首相になった場合は「首相退任後は政界を引退する」と表明しました。
 今までの歴代首相のその後のあり方からして、ずいぶん潔い身の処し方というべきですが、この発言は同時にキングメーカー気取りの森元首相を指しているのは明らかです。在任末期は支持率10%を切った人物が、退任後も隠然たる影響力を行使し、安倍元首相以降の首相の後見人と称して陰でごちゃごちゃやってきたのです。
 鳩山代表の発言は至極もっともと言うべきで、ネット投票では「引退すべき…81%」「問題ない…19%」と、「引退すべき」が圧倒的多数となりました。

 しかし当の森元首相は、「政局が大混乱になった時に政界再編成をどうするのか。私はいろいろな経験もしているし、多くの人間関係もある。安定させる努力をしていかなければならない」と、しれっとしたものです。
 その森喜朗(72)-石川2区の対立候補は、名古屋市長に転出した河村たかしの秘書をしていた田中美絵子という33歳の女性です。森さん、上記発言は、8月30日無事ご当選なさってから言われた方がよろしいのではないでしょうか。
 森元首相以外にも、小沢一郎が仕掛けた自公の有力議員に「逆女刺客」をぶっつけられ、苦しめられている大物たちがけっこう多いようです。「女刺客」たちの追い上げが急で各地で旋風を起こしているらしいのです。
 
 主だったところでは。福田元首相の群馬4区には三宅雪子、「原爆しょうがない発言」の久間元防衛大臣には、薬害エイズ訴訟で全国の人気者になった福田衣理子(現在検討中?)など。また公明党の太田代表の東京12区には青木愛を。また女刺客ではないものの、冬柴前公明党幹事長の兵庫8区には、長野県前知事で新党日本代表の田中康夫を。
 公明党代表はおろか、肝心の麻生首相の福岡8区でさえ、山本剛正という民主党の新人に猛烈に追い上げられており危ないとも噂されています。
 前回の参院選では、「姫の虎退治」で参院のボスの一人だった片山虎之助が破れるという大波乱がありました。さて、結果はどうなりますことやら。これらの選挙区から目が離せないようです。

 「4つの権力」という言い方がされます。第一は何といっても、時の政権与党です。第二は中央官僚。第三は財界。そして第4はマスコミです。このうちさすが機を見るに敏な官僚と財界は、民主党による「政権交代」に徐々にシフトしつつあるようです。
 しかし政権与党はもちろん、今後30余日の選挙戦では政権維持に死に物狂いになってくるでしょうし、自民党政治のお目こぼしにしっかり与って来た各マスコミの、民主党への論調も一段と厳しくなってくるかもしれません。「政権交代阻止」に今後どんな仕掛けをしているのやら、予断を許しません。

 さらには海の向うのアメリカで、このタイミングでかねてから噂されている「デフォルト(国家債務破綻)」を宣言でもしようものなら。全世界特に我が国に与える衝撃は、去年のリーマンショックなど比べものにならないかも知れず。
 民主党優位など、完全に引っくり返ります。民主党幹部が解散直後「危機管理的な状況になれば与党が圧倒的に有利になる」と語っていたゆえんです。当のアメリカは、民主党よりは自民党の方がずっと組みしやすし、と見ているわけですから。麻生首相が妙に自信ありげなのが、どうも気になるのです。
 とにかく今後1ヶ月と少し。この先何かが起きるのやら、何も起きずすんなりといくのやら。近年になく、興味深い選挙戦であることは間違いないようです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

総選挙あれこれ(1)

 麻生首相が党内から沸き起こる「麻生おろし」を何とか静め、「公約」どおり21日衆議院を解散しました。公示日は8月18日とずっと先ではあるものの、衆議院議員選挙戦が事実上スタートしました。
 今回の選挙は何といっても、「政権交代」という歴史的な出来事が本当に起こるのかどうか、この一点に絞られていると思われます。自公両党にとっては、政権与党として党の命運を賭けた戦い。片や民主党にとっては、悲願の政権獲得を賭けた戦い。前回の「郵政選挙」とはまた違った意味で、大いに興味深い選挙戦であることは間違いありません。

 投開票日は8月30日(日)と、今の時点でもまだ30余日もあります。真夏の選挙戦。果して大方の予測どおり、民主躍進、自民敗北となって、すんなり政権交代となるのかどうか。しかしこれだけ長いと、途中何が起きるか分かったものではありません。
 当ブログでは、選挙戦中興味深い出来事などがあった場合随時、このように『総選挙あれこれ』と題して記事にしていきたいと思います。

 今回の話題は何といっても、今週初めに発表された民主党のマニュフェスト(政権公約)です。元三重県知事の北川正恭が提唱したマニュフェストも、ここ何年かの選挙を通してより洗練されたものとなり、国民も次第にその重要性に目覚めてきつつあります。以前のように、ただ単にキレイ事を並べただけの口約束では済まされなくなってきているのです。現に鳩山由紀夫代表は、政権交代で自身が首相になって政権公約が実現できなかった場合には、「政治家としての責任を取る」と明言しています。

 さてその民主党のマニュフェストは、国の総予算(一般会計と特別会計などを含めたもの)約207兆円を全面的に組み替え、予算編成を国民生活重視に改めることに主眼を置いたものになっています。
 従前のような官僚主導型政治からの脱却を目指して、「政治家主導」「政策決定を内閣に一元化」「地域主権」など鳩山政権の政権構想5原則のもと、「5つの約束」を打ち出しています。(1)総予算207兆円の全面組み替え(2)中学卒業まで一人当たり年31万2000円(月2万6000円-来年度はその半額支給)(3)後期高齢者医療制度の廃止(4)農業者個別所得補償制度の創設(5)高速道路の無料化等々。これらはいずれも国民にとって関心の高いものばかりです。
 
 これらの政権公約実現のために、政策の実行手順としての「工程表」まで示して、いよいよ責任政党への脱皮を図る苦心の跡が見られます。
 そのため所要額として、来年度は総額7.1兆円、約束通りの規模となる13年度には16.8兆円と見積もっています。これらの財源として、一般会計・特別会計のうち70兆円を対象に「全面組み替え」を実行するとしています。また八ツ場・川辺川両ダム中止、天下り先法人の廃止、補助金改革などで9.1兆円の無駄をなくすこと、「埋蔵金」4.3兆円の活用や所得税見直しなどによる増税分を当て込んでいるようです。その上で4年間は増税の必要なしとして、消費税の引き上げは行わない方針です。

 これにはさすがの自公与党も中身については文句のつけようがなく、ただ「財源はどうするの?」という一点に絞って攻勢をかけるつもりのようです。案の定日曜日のテレビの討論番組に出まくった石原伸晃、そしてきょうは与謝野何でも兼務大臣をはじめ各閣僚がいっせいに、財源問題について辛辣な攻撃を始めています。自民党は、「財源問題」を「政権交代」に変わる争点として大きく取り上げていく方針のようです。
 しかし「ちょっと、待ってよ」ではないでしょうか。第一各党のマニュフェストがほぼ出揃っているのに、自民党だけは後出しジャンケンのように今週末やっと出すのです。「よその文句を言う前にオタクのを早く出してよ」と言いたくなります。
 それに長期自民党政権でぐちゃぐちゃな政官財癒着構造が構築され、今や少なく見積もってもGDPの1.5倍という世界に類を見ない借金大国にしたのは、一体どこのどなただったのでしょう?民主党からすれば、「アンタにだけは言われたくない」という思いなのではないでしょうか。  (以下(2)は明日)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

宮里藍、米ツアー初優勝 !

 昨深夜『うるぐす』という日本テレビのスポーツ番組の後の、ニュース番組を見ました。冒頭女性アナウンサーが、「速報が入りました」と言って渡された原稿を読み上げました。それは宮里藍の米ツアー初優勝を告げるものでした。同アナはそれを手短に読み終えると、本来のトップニュースである九州地方を襲った集中豪雨被害に移っていきました。しかし私はその第一報に率直に思ったのです。『ほう、とうとうやったか。それは良かった ! 』。

 宮里藍(24)にとって、米ツアーに参戦して4年目でやっと掴んだ栄冠でした。
 エビアン・マスターズ(フランス、エビアン・マスターズGC)で、プレーオフの末S・グスタフソン(35-スウェーデン)を破り、83試合目で悲願の初優勝を果たしたのです。
 試合後のインタビューで、「大変嬉しい。小さい時からこの瞬間を夢見ていました。それが実現しました」と喜びの声を語っていました。そして「この4年間は自分にとっては貴重なものでした。これまで支えてきてくれた皆さんに感謝し、喜びを分かち合いたいと思います」とも。

 今まで誰しも思ったことでしょうが、米ツアー4年目83試合目での初優勝は、とにかく長かったと思います。米ツアー参戦前の、国内では向うところ敵なしの10代の宮里にとって、米ツアーで結果を出すのにそんなに時間はかからないと思っていたからです。
 しかし国際レベルともなるとその壁は意外にも厚く、宮里は常に飛距離に引け目を感じていたようで、事実昨年は243.2mの101位。相手のドライバーに圧倒され飛距離を欲しがり、力んでフォームを崩し曲げてしまうことが多々ありました。
 それが今年は256.5mで37位と飛躍的にアップしました。お尻の筋力アップのため、オフの間下半身を中心に筋トレに励んだことなどが実を結んだようです。

 加えてスイングをしながら打球音だけを聞く練習も続けたそうです。これが感覚を鋭くし集中力を高めるトレーニングにもなったようです。事実その成果は飛距離だけではなく、ドライバーのフェアウエーキープ率21位(75.2%-昨年は66.9%の91位)にもハッキリ表れています。
 さらにパッティングの打ち方も変えたようです。従来のラインを読み、構えて素振りをしてから打つスタイルから、今は素振りをせずにストロークするようにしたところ、その分迷いなく宮里のリズムが崩れないそうです。
 これらの地道な努力が実を結び、今年は14戦で1回の予選落ちもありませんでした。

 実は私は、(今の男子プロ・石川遼(17)も似たようなものですが)各マスコミから追いかけ回されていた頃の宮里藍は、あまり好きではありませんでした。見るからに小憎らしい小娘という印象だったのです。
 その後ほぼ同世代か少し若い、横峯さくら、上田桃子などの可愛い系が国内で人気急上昇していき、逆に米ツアーで苦しむ宮里はすっかり影が薄くなっていました。女子プロのタレント化の波に私もすっかりはまり、気がついたら「さくら頑張れ ! 」「桃子頑張れ ! 」になっていました(笑)。

 しかし私が密かに宮里藍を見直すことになったのは、図らずも米ツアーでの彼女の不遇時代なのでした。米ツアーに出続け、何度トライしチャレンジしてもその都度分厚い壁に阻まれる。しかし見たところ(内心どうだったかは分かりませんが)宮里はめげたり、くさったりしていないようでした。私はそれを見て『何とも見上げた根性だ ! 』と改めて感心したのです。
 またいくら勝利から見放されても、テレビに映る彼女の目からは強い力を発しているようで、『この娘(こ)は大丈夫。きっといつか望みを遂げるだろう』と思っていました。

 話は変わって。私は30代前半の頃横浜駅近くに営業所のある、小中学生向けの教材の訪問販売営業に飛び込んだことがあります。研修期間「アイス・ブレーク」という有意義な言葉を教えてもらいました。
 私のような営業のズブの素人にとって、初めて「成約(お客との契約成立のこと)」を得ることの難しさを、分厚い氷をぶち破るということで、アイス・ブレイクだと言うのです。いざ強制的に横浜、川崎市街の営業に出されてみて、そのことを実地で痛感させられました。(その営業体験はなかなか思い出深く有意義でした。いつかまた体験記を綴れたらと思います。)

 今回の初優勝は、宮里藍にとってまさに「アイス・ブレイク」だったのではないだろうかと思われるのです。これまで米ツアーで優勝した(国内開催を除く)のは、樋口久子、岡本綾子、小林浩美、福嶋晃子の4人だけだそうです。いずれも錚々たるメンバーです。宮里もこれで5人目として、その仲間に加わったわけです。
 宮里は、今回の優勝で「大きな何か」を掴んだのではないでしょうか。私が思いますに、宮里はこれをきっかけに、米ツアーで優勝を重ねていき、前の4人より凄いツアー実績を残すのではないでしょうか。
 今後とも注目して見続けていきたいと思います。今後とも頑張ってくれ、宮里藍 !

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

赤き鉄鎖

                山口 誓子

   夏の河赤き鉄鎖のはし浸(ひた)る

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 山口誓子(やまぐち・せいし) 明治34年、京都市岡崎町生まれ。東京帝国大学法学部卒業。在学中高浜虚子の指導を受ける。大阪の住友本社に就職。「ホトトギス」に、東の秋桜子・素十、西の青畝と共に4S時代を展開する。病気にて住友を退社。昭和23年「天狼」を創刊。新興俳句運動の指導者的存在となる。句集は『凍港』に始まって『紅日』まで16冊。平成6年没。 (講談社芸術文庫・平井照敏編『現代の俳句』等より)

 私も時によって使い分けることがありますが、「河と川」。河と表記する場合は、現在の河川区分でいえば一級河川のような大河が連想されます。
 この句における「夏の河」が、具体的に何川なのかは分かりません。しかしそれだけ大きな河川ともなると、上流から下流まで川はさまざまな側面を垣間見せてくれます。
 小学校4年生頃の社会科の教科書で、「川の一生」というのを習いました。山の渓流に源を発し、上流の山あいの集落を下り、中下流域の住居、商店、工場などが建ち並ぶ町場の側を流れ、やがて海に注ぎ込む。そのさまを図解入りで説明してありました。私はその絵に、子供ながらにわかに「神の眼」を獲得したようなワクワク感で、あかず眺めていたことを覚えています。

 この句は、河川という本来は自然なものに人間たちがより密接に関わってくる、比較的下流域の町場を流れる川の一光景を切り取ったものでしょう。
   夏の河赤き鉄鎖のはし浸る
 一読すると『えっ。だから何なの?』と思うような、取り立ててどうということもない川の一寸景です。しかし近代俳句の代表的俳人の一人である山口誓子にこう詠まれてしまうと、別にどうということのないはずの「赤き鉄鎖」が、にわかに実存主義的な存在物のように感じられてくるから不思議です。

 この句における「赤き鉄鎖」は、不心得な輩(やから)がその場所に今で言う不法投棄していったものなのか。あるいは別の理由で持ち込まれたものなのか…。詳細は不明です。
 いずれにしても、それが山口誓子の心を強く捉えたのです。鉄鎖の「赤」は夏という季節にあっては取分け強烈な色のように思います。おそらく真っ赤ではなく使い古されて、塗装された赤い色も褪色してしまっているような長い鉄の鎖の、端だけが川水に浸かっている。通常なら見逃しかねない光景を、誓子は独特の俳人的嗅覚で捉えたわけです。

 端が水に浸かっていることにより、冷気が何か毛細管現象のように赤い鉄鎖の暖色をじわじわ浸食しつつある。そんなふうに思われてきます。

 人間という奇妙な存在がいなければ、川という自然にあって「赤き鉄鎖」はおよそ有り得ない物のはずです。その有り得ない「オーパーツ」(場違いな存在物)のような物が、誓子の心をざわつかせ、何となく不安にもさせた。その結果生まれた句なのではないでしょうか。
 楕円形の赤い鉄の輪の連鎖はまた、背後にある近代文明の得体の知れない不気味な連鎖-自然界の巧まざる連鎖とは明らかに異質な連鎖-をも連想させます。そんな黙示的な句であるように思われます。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (2)
|

夏祭り

   お祭りを見るや見ざるや蛾眉(がび)の月  (拙句)

 週間予報では確か、関東地方のきょうあしたは曇りのはずでした。(私の天気予報感覚はそんなもので、今朝最新の予報など見ないのです)。きのうおとといの雨がちの空模様からして、私は『おそらく予報どおりかな?』と思っておりました。
 しかし当地では曇りは朝のうちだけで、その後少しずつ雲が切れ始め薄日が射してきました。昼過ぎは日差しが強まり、それと共に気温もぐんぐん上昇し、午後は何ごともなかったかのような真夏の日となりました。

 所用で午後、当厚木市内を少しぐるぐる回るかっこうになりました。街並みは夏の太陽の輝きのただ中にある感じです。そして市街地を逸れでもすると、当地はけっこう自然が豊かで、おちこちに小山が連なっています。それがさながら夏の季語の「青嶺(あおね)」そのものなのです。久しぶりの日差しに、全山の深緑が生き生きとして目に迫ってきます。遠い前線から運ばれてくるものなのか、やや強い風が吹き渡っています。暑い戸外ではこの風こそは涼風です。
 述べる機会がありませんでしたが、蝉ももう10日ほど前から聞かれました。久しぶり晴れたきょう午後は、また一段とかまびすしい鳴声が聞かれます。

 このような天気を目の当たりにすると、きょう現在の天気図など見ていないので梅雨前線がどうなったのか分からないものの、『あれっ。やっぱり気象庁の梅雨明け発表は正解だったのかなあ』と思えてくるから奇妙です。しかし明日になればまたぐずついた天気に戻るかも知れず。こればっかりは、今しばらくは予断を許しません。(深夜のニュースによると関東地方は真夏のような日でも、今度は九州地方が集中豪雨に見舞われたとのこと。)

 きょうのこの真夏そのものの天気に誘われたわけではないものの、方々を回って目につくのは「お祭り」の多さです。そう言えばきょうは7月下旬の土曜日。子供たちも20日頃から夏休みのはず。夏祭りを行うにはもってこいの日であるわけです。
 その一つ。厚木市街を少し南の平塚方面に行った高層住宅群の自治会では、夕方普段は団地内公園と思しき場所がすっかりお祭り広場と化していました。もう大勢の人が集まっていました。信号待ちの間見ていますと、中央に櫓(やぐら)が組まれています。本番はやはり盆踊りの夜祭りのようです。櫓から少し離れて、煙がもくもく上がっています。見ると自治会の役員たちが焼き鳥を焼いて参加者に振舞っているようです。もっとよく見ると、焼き鳥をもらおうと、たくさんの人が一列になって並んでいます。
 これからお祭り広場へ行こうとして、歩道を歩く家族連れの姿も見かけられました。中に、小学生と思しき可愛らしい浴衣の少女の姿も認められます。

 そして我が住居から何百mか南にある5階建ての団地群自治会でも、やはり今夜夜祭りのようです。7時少し前、今度は徒歩で歩いていて分かったのです。そのお祭り広場を見る前から、ドンドンドーンという太鼓の音が聞こえてきて『おっ。こっちでもやってるな』とすぐ気がつきました。
 少し離れた道を、そのようすを横目で見ながら通りました。やはり先ほど見た祭りの光景とだいたい同じような感じです。そのさまを見ながら思い出しました。去年の7月最終土曜日は26日でしたが、その日のことを『暑気所感』という記事にまとめました。同じくその日はそこのお祭りだったものの、何と夕方からもの凄い雷と豪雨になり、道に水が溢れるは、近年珍しく停電になるはで、お祭りも取り止めになったことでしょう、というようなことを述べました。
 あれから1年、今年は好条件の中無事夜祭が行われそうです。

 そう言えばきょうお祭りが行われるのは、ほとんどが大きな団地関係の所のようです。やはり現住居から数百m先の、例の中津川堤防道に到る旧道沿いの自治体の場合は、例年8月が夏祭りです。お寺の駐車場が会場ですが、付近は旧農家など古くからの家が多いため旧盆過ぎくらいになるのでしょう。ちなみに現居住地付近は、皆新しい住宅群で果してきちんとした自治会があるのかないのか、今もってよく分かりません。ついぞそのような催し物の案内を受けたことがないのです。
 特に都市部ほど、普段から人間関係が疎遠になりがちです。それを解消し、同じ地域社会に住むお互いの交流、親睦を図る意味でも、お祭りのような老若男女誰でも参加できる場がもっと必要なのかもしれません。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

我が懐かしのS&G

 1970年代前後一世を風靡したアメリカの音楽デュオ・サイモン&ガーファンクルが、当月日本公演ツアーを行いました。7月8日ナゴヤドームを皮切りに、10、11日東京ドーム、13日京セラドーム大阪、15日日本武道館、18日札幌ドームというスケジュールだったようです。
 サイモン&ガーファンクル(以下「S&G」と表記)は、私にとっても「我が懐かしの“青春のデュオ”」といっていいくらいです。今回の来日公演にあたっては、東京公演など4月頃から前売り開始していたようです。私も『行ってみたい』と思いながらも、諸事、雑事に追われがちな昨今、『どうしようかな?』と迷っているうち、気がついたらもう終わっていたという次第です。

 これはあくまでも私個人のことながら。当時20代の私にとって、S&Gはビートルズなど問題にならないほど深い影響を受けました。その音楽的水準の高さ、込められたメッセージ性、知的でクールで時に哲学的とも思われる歌の内容…。
 その音楽性が私の感性にフィットしたからなのでしょうか。私はアメリカをはじめ外国のミュージシャンの音楽はほとんど集中して聴いたことがないのに、S&Gだけはレコードやカセットテープなどをせっせと集めては、とにかく繰り返し聴いていました。

 S&Gが我が国で最初にヒットしたのは、昭和43年の秋以降。私が山形の高校を卒業して現居住地である厚木市にやってきた年でした。映画『卒業』のテーマソングでもあった『サウンド・オブ・サイレンス』が、日本でも大ヒットしたのです。しかしその頃私は度々述べましたとおり、仕事にも首都圏(ぎりぎり)での生活にも共になじめず、おろおろもじもじしていた時でした。何となく『いい歌だなあ』とは思いながらも、その時は特別な思い入れはありませんでした。
 『卒業』も同じ頃我が国でも上映され大評判だったものの、すぐには観ませんでした。観たのは、2年くらいたってからのリバイバルだったと思います。

 余談ながら、映画『卒業』について―。
 この映画は、その後相次いで公開された『俺たちに明日はない』『真夜中のカーボーイ』などと共に、「アメリカ映画を変えた映画」と評されました。何せラストにおいて、教会で他の男との結婚式の最中の恋人(キャサリン・ロス)を、大学卒業間もない主人公(ダスティン・ホフマン)が強奪するのですから。それまで「教会」といえば、キリスト教国・アメリカでは絶対的権威のシンボルのような所です。その神聖な場所で、今まさに「永遠の愛」を誓い合ったはずの花嫁を奪い去る。これは神の冒涜そのもので、とても許される行為ではなかったはずです。さあ当時のアメリカはさぞショッキングで、大センセーショナルを巻き起こしたことでしょう。
 非キリスト教国である我が国で、その衝撃の深さが本当に理解できた人がどれだけいたのだろうか?少なくとも私は、ただぼんやりこの映画を観ただけでした。
 なおこの映画でS&Gは、『サウンド・オブ・サイレンス』の他にも『ミセスロビンソン』『スカボロ・フェア』という名曲もカバーしています。

 私が本式にS&Gを聴くことになるのは、それから2年後の昭和45年以後のことでした。きっかけは何だったのか、今ではよく覚えていません。上記の歌以外にも『早く家に帰りたい』『ボクサー』『いとしのセシリア』『コンドルは飛んで行く』『アメリカ』などは繰り返し聴きました。20代のあの頃の私にとって、とにかくS&Gの歌は「もう聴きあきた」ということがなかったのです。
 その中でも私が特に好きだったのは、比較的マイナーな『四月になれば彼女は』でした。S&Gの楽譜集でこの曲を見ながら、下手くそなギターでコードを弾いて、これまた下手な英語で歌ったりしていました。また『アイ・アム・ア・ロック』という歌からは、生きる方向性が見出せないで苦しんでいた当時、「お前はお前のまま、今のまま強く生きるんだよ」という励ましをもらいました。

 我が懐かしの青春のデュオ・S&Gも、爆発的な世界的大ヒットとなった『明日に架ける橋』を最後にデュオを解消してしまいました。ポール・サイモンとアート・ガーファンクル。共にユダヤ系アメリカ人で、小学校時代からの親友だったものの、お互いの音楽観の違いからそれぞれソロ活動をすることになったのです。
 私はデュオ解散後もしばらく、二人のソロアルバムを集めてはそれも熱心に聴いていました。しかし30代になるとさすがにS&G熱も冷めて、徐々に遠ざかっていきました。
 これを機会にまたS&Gメロディ、じっくり聴いてみたいと思っております。

 (注記) 本記事は、「二木紘三のうた物語」の『明日に架ける橋』コメント(昨年2月14日)と一部重複しています。ご了承ください。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

雨大暑

   作物に人によろしき雨大暑   (拙句)

 本日23日は二十四節気の一つの「大暑」です。
 去年は1日早い22日が大暑で、やはり『大暑』という記事にしました。それを読み返してみますと、去年はその前の週末に梅雨明けし、それから22日までの3日間ほどそこそこ暑かったようです。同記事では暑さが更に増幅するような、「暑さを表現する季語」をズラッと並べたり、気象庁の「暑い夏を表現する用語」を紹介しました。

 暑さが最も厳しい時期とされる大暑ながら、日本列島の広い範囲できょうも曇りや雨模様となり、西日本では梅雨明けのめどさえ立たないなど、すっきりしない一日となりました。
 思えば、今年の関東甲信地方の梅雨明けが発表されたのは14日のことでした。その後確かに3日ほどは真夏らしく連日30℃を越える暑い日が続いたものの…。その後はずっと曇ったり雨が降ったりの、ぐづついた日が続いています。当厚木市でも本日は朝から雨がちで、昼過ぎに一時ぶんまくような激しい雨さえ降りました。

 私はこのぐづついた天気から、何日か前から『関東地方の梅雨明け発表は少し早すぎたんじゃないの?』と思っておりました。きょうの昼のあるテレビ番組で、この天気について特集していました。その中で知ったことには、この疑問は私だけではないらしく、気象庁には「いったいどうなってるの?いっそ(関東甲信地方の)梅雨明けを取り消したらどうか」というような問い合わせが、けっこう多く寄せられているそうです。
 その番組専属の気象予報士によると―。(気象庁が関東甲信地方の梅雨明けを発表した)14日の日本列島の天気図では、太平洋上の高気圧が強まり、関東甲信地方をすっぽりその勢力圏内におさめ、なおかつ列島広く包み込み、梅雨前線は南は中国大陸の方、北は北海道の海上に分断されてしまっていた。これは典型的な夏型の気圧配置で、この状態では関東甲信地方に梅雨前線が下りてくることはもうないだろう。ただ関西など西日本は高気圧の周縁部にあたり、まだ予断を許さない。それで西日本に先駆けて、関東甲信地方の梅雨明け発表となったもようです。

 しかし何のいたずらか、真夏をもたらす太平洋高気圧はその後勢力を弱め、列島から大きく後退し、代わって分断されていた梅雨前線が再びつながって活発化していることが、現在の戻り梅雨のような状態をもたらしている、ということのようです。
 過去にも1993年、2005年が今年と似たような年だったようです。そして両年とも冷夏傾向で、特に1993年は昔なら大冷害、大凶作といっていいほどで、ご記憶の方も多いことでしょうが国内の備蓄米が底をつき、タイ米などを急遽輸入して何とかしのいだ年でもありました。

 ということは、今年は例年の猛暑による熱中症の急増などはあまり心配しなくてもいいのかもしれません。その代わり、21日中国地方特に山口県を襲った集中豪雨被害のようなことが多くなるかもしれません。
 私は気象庁は潔く誤りを認めて、関東甲信地方の梅雨明けを取り消すべきだと思います。しかし、お役所における「メンツ意識」はなかなかのもの。そう簡単に取り下げはしないでしょう。ただその代わり、例年その年の梅雨の状況を9月末頃見直して、その時点で改めて梅雨入り、梅雨明けを確定する仕組みのようです。
 なお同予報士の見立てでは、今のこの状態は今月30日くらいまでで、それ以降本当の梅雨明けとなるでしょう、ということでした。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

皆既日食

 本日22日は日本の陸地で観測できる、46年ぶりの皆既日食だそうです。近づくにつれて、テレビや新聞で特集が組まれているため、関心が高くなるのも当然というものです。ネットでこれについて投票を呼びかけたところ、「関心ある…71%」「関心ない…29%」という結果となり、改めてその関心の高さが裏付けられました。
 しかし皆既日食帯に入るのは、トカラ列島や奄美大島の一部だけで、ほとんどの人はテレビやインターネット中継で観賞するしかありません。部分日食なら全国で観測することができます。たとえ部分日食でも専用メガネで「直接観賞したい」という人も2割以上いるそうですから、予想以上のフィーバーぶりということができるのかもしれません。

 日本では46年ぶりということは。1963年(昭和38年)7月21日北海道東部で見られた時以来ということだそうです。次回は2035年9月2日北陸、北関東などで見られるそうですが、実に26年後のことで、皆既日食とはかくも珍しい現象ということができます。

 果てして皆既日食だったのかどうか。私の記憶ではそうだったのですが、人間の記憶はとかく不完全なものまで完全なものとしてデフォルメして記憶しがちです。とにかく私が子供の頃に、日食を見た思い出があります。
 定かではないものの、昭和30年代前半私が小学校の3、4年生頃のことです。(ますますもって、皆既日食ではなかった可能性が高くなりました)。季節はいつだったのか覚えていませんが、比較的暖かかったこと、雪などなかったことから冬でなかったことは間違いありません。

 山形県内のわが町(宮内町)の我が母子寮付近でも、日食は大騒ぎでした。日食が始まったのは、日が南の高い空にあったように記憶していますから、昼過ぎて間もない時分だったでしょうか。
 寮内の大人たちや子供たちそれに近所の人たち十数人が、母子寮前の道路に集まりました。その当時日食専用のメガネなどというハイカラなものがあろうはずがありません。さりとて裸眼で太陽を直視するのは危険だということは、大人は皆知っています。そこで寮の職員の人だったか、長方形のすりガラスにロウソクの火か何かで煤をつけて曇らせたのを用意し、「ええが。これを当でで見んなだぞ」と子供たちに一枚ずつ渡してくれました。

 その日は幸いにも晴天でした。それが日食の始まりとともに、少しずつ不気味に薄暗くなり…。なぜか私の記憶はそこまでです。世の常ならぬ出来事に、すっかり魂消(たまげ)てしまったからなのでしょうか。果して日食中に渡されたガラスを有効活用したものか、肝心の日食のようすはどうだったのか、まるで覚えていないのです。

 日食とは誰でも知ってのとおり、月が太陽の前を横切るために、月によって一時的に太陽の一部(部分日食)または全部(皆既日食)が隠される現象です。皆既日食では太陽の周りにはコロナが広がって見られます。また太陽の方が大きく見えるため、月の周りから太陽がはみ出して見えた時には「金環日食(金環食)」と呼ばれます。

 大変珍しい現象ではあっても、その起きる原理さえ知ってしまえばさして驚くような現象でもありません。しかし今日の私たちのような天文学的知識がなかった昔々の人々にとって、突如太陽が見えなくなって世界が闇に覆われる日食は、畏怖すべきまた大変不吉な前触れとして恐れられてきました。そのため世界各地にさまざまな日食伝説、伝承が残されているようです。
 ちなみに我が国の古事記の有名な、天照大神(アマテラスオオミカミ)の「岩戸隠れ」の故事の元となったのは日食だったのではないだろうかとする研究者もいるようです。

 今回の日食に関しては、私はさほど関心がありません。しかしそうは言っても、いざ日食が始まってしまえば、真っ先に戸外に飛び出して食い入るように空を見上げるかもしれません。

 (追記)最後にのん気なことを記しましたが、前日は山口県を中心に大変な集中豪雨被害が発生してしまいました。被害に遭われた地方の皆様のご苦労、お察し申し上げます。またお亡くなりになられた方々には心よりお悔やみ申し上げます。
 当地でも数日来ぐづついた空模様が続いていて、まだまだ梅雨前線は活発なようすです。これは「戻り梅雨」と見るべきで、気象庁の梅雨明け宣言は少し早すぎたのではないでしょうか?この分では、関東地方で部分日食が見られるかどうか、大変微妙です。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

面白くなってきたぞ。ペナントレース !

 以前の私は大のプロ野球ファンでした。開幕前のオープン戦からペナントレース終了後の日本シリーズまで、ほとんどの試合中継を見て、なおかつ深夜のプロ野球ニュースをはしごするほど。ペナントレースが白熱してくると、自分で先の結果を予測してその場合の各チームの勝率やゲーム差などを計算するほどでした。
 しかしいつの頃からか、プロ野球に対する思い込みが徐々に失せていきました。ですからここ数年は開幕戦だけ見て、後は両リーグで導入されたプレーオフ、そして日本シリーズだけ見て「はい。今年はこれでおしまい」となっていました。
 今年は開幕戦すら見ていません。たまたまテレビをつけた時、どこかの局で野球中継をやっていれば、10~15分程度見るくらいです。

 どうしてこうなってしまったのでしょう?私の場合やはり、イチロー、松井秀喜、松坂大輔といった超一流プレーヤーが我も我もと米国大リーグに移ってしまったことが一番大きいと思います。とにかくそれによって著しく国内プロ野球への興味がそがれたことは間違いありません。
 プロ野球ファンにとって原因はそればかりではないと思いますが、やはりここ数年の「プロ野球離れ」は深刻なようです。実際ここ何年かの各球団の観客数、テレビの野球中継の視聴率低迷など、プロ野球人気凋落は目を覆うものがあるようです。それは球界の盟主・読売巨人軍とて同じことで、巨人軍のキー局である日本テレビでも恒常的な10%以下の視聴率に、年々巨人戦中継を減らしているのが実情です。

 思えば長嶋・王の巨人軍V9の、昭和40年代がプロ野球全盛期でした。それからすると現状はまさに隔世の感があります。再びプロ野球人気を復活させるにはどうすべきか?これはプロ野球機構、各球団に智恵をしぼってもらうとして―。

 今年のベナントレース。これまでの前半戦、特にセリーグにおいては、WBC優勝監督である原辰徳率いる巨人軍が開幕ダッシュに成功し、何やらぶっちぎり独走の勢いで。常日頃申し上げておりますとおり、“アンチ巨人”の私などは『何だよ。つまんねえな』と更に興味をなくしておりました。(毎度のことながら“巨人ファン”の皆様、申し訳ございません。何せ私のアンチ巨人は、子供の頃からの筋金入りなもので。平にご容赦ください。)

 しかし球宴(オールスターゲーム)前の今現在、巨人独走がだいぶ怪しくなってきたようです。ために俄然『面白くなってきたぞ ! 』という状況なのです。
 先ず巨人の一番打者として首位打者争いをし打線を引っ張ってきた、若い坂本が調子を崩し始めたこと。これは過日の中日戦で執拗なインコース攻めにあい、フォームを崩されたことが大きな要因だと思われますが、それを見た各チームスコアラーがそこに坂本攻略法を見出したことも大きいと思います。その上坂本は、腰痛を訴え20日の横浜戦を欠場しました。正捕手の阿部、ストッパーの豊田も腰痛で欠場と、主力の故障が相次いでいます。

 巨人が明らかに下降気味なのに対して、中日がぐんぐんチーム状態を上げてきています。同日中日は広島に逆転勝ちし、これで6連勝。ついに巨人に2.5ゲーム差まで詰め寄ってきました。巨人のみならずどのチームも暑い夏場は投打とも戦力がダウンするものですが、中日は逆に「昇り竜」の勢いです。
 思えば中日の落合監督は、開幕ダッシュに成功した巨人に対して、「巨人は夏場以後必ず落ちてくる」と冷静に分析し、中日らしい粘っこい野球を続けてきました。
 実際落合監督は、巨人に8ゲームもの大差をつけられ5位に低迷していた5月でも、「巨人を追いかけられるのはうちだけ。ここから始まると考えればいい。追いかけますよ」と言い切っていたといいます。「ただの強がり」と取材陣などは相手にしなかったものの、親しい関係者には自信満々で次のように言っていたとか。 「何のために、あれだけの(春季)キャンプをやってると思ってんのよ。シーズン中盤、終盤にかけて、必ずあのキャンプが生きてくるから。まあ見ていなさいよ。」
 事実交流戦以後の中日は17勝5敗。特に7月に入ってからのチーム防御率、チーム打率ともライバルの巨人を上回っています。

 昨年何かの記事のある人とのコメント交換で、たまたま次期WBC監督は誰がいいか?という話になりました。私は真っ先に落合監督を推しました。(但し、楽天の野村監督がもう少し若ければ、そちらが優先ということで。)
 私は3度の三冠王に輝いた現役時代からの落合博満ファンなのです。「オレ流」。あんな個性的な名選手は今の球界にはおりません。それに星野仙一が監督でも低迷し続けた中日を、短期間でリーグ優勝、日本一に導いた監督としての手腕、頭脳は並みではありません。ハッキリ申し上げて、監督としての力量は、WBC優勝の原監督より上だと今でも思っています。球宴開け後、中日が巨人に追いつき追い越すのはもう時間の問題だと思います。
 阪神タイガースが5位と元気がないのは意外でした。やはり阪神が優勝争いに加わってくれないと、セリーグはもう一つ盛り上がりません。

 最後に、パリーグについて簡単に―。
 やはりダルビッシュ・有という、絶対的エースを擁する北海道日本ハムは強い ! それに引き換え、我がひいきチームの東北楽天は現在4位。球団は野村監督とは来期以降の契約更新はしない方針とのこと。楽天の懸案はやはり投手陣です。そこで岩隈以下先発投手の駒を揃えて、マー君こと田中将大を思い切ってストッパーとしてフル回転させれば、あるいは…。でもそれでは将来の日本球界のエース候補が潰れてしまいそうだし…。
 どうせなら、日本シリーズは中日vs楽天つまり落合vs野村で。そんな奇跡的な対決が実現すれば、超オモシロイんだけど。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

海の歌二首

                             源 実朝

  箱根路をわれこえくれば伊豆のうみや沖の小島に波の寄る見ゆ

  大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 源実朝(みなもとのさねとも) 建久3年8月9日(1192年9月17日)~建保7年1月27日(1219年2月13日)。鎌倉幕府第三代征夷大将軍。
 鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権を務める北条氏などが主に執ったが、成長するにつれて関与を深めた。官位の昇進も早く武士として初めて右大臣に任ぜられるが、その翌年に鶴岡八幡宮で頼家の子公暁に襲われ落命した。子はおらず、源氏の将軍は実朝で絶えた。
 歌人としても知られ、92首が勅撰和歌集に入集し、小倉百人一首にも選ばれている。家集として『金塊和歌集』がある。 (フリー百科事典『ウィキペディア』「源実朝」の項より)

 この2首が同じ旅で詠まれたものなのか、詳しいことは分かりません。がしかし、普段ならば征夷大将軍という最要職にある実朝は、滅多なことで鎌倉を離れ諸国を旅することは適わなかったでしょうから、同じ旅で詠まれたとみてよいと思われます。

 (1) 箱根路をわれこえくれば伊豆のうみや沖の小島に波の寄る見ゆ

 「われこえくれば」から、天下の険・箱根を越えてどうしても伊豆に行きたかった実朝の意思が感じられるようです。伊豆国といえばご存知のとおり、父源頼朝が平治の乱(1159年)以降流人としての日々を送った土地であり、同地の豪族・北条時政(実朝の母政子の父)と同盟して平家討伐の挙兵をしたゆかりの地です。その父頼朝は、実朝が7歳の頃世を去りました。だからこの伊豆の旅は、亡き父を偲ぶという目的もあったのではないでしょうか。

 山路続きの箱根路を越えるとにわかに視界が開けて、眼前に伊豆の海が広がっていた。「伊豆の海や」は、それを目の当たりにした強い感動表現であるように思われます。その伊豆の広々とした海原遠く、沖の小島が見える。なお目をこらすと、波が寄せているさまも見えるではないか。

 おそらく伊豆の海に初めて接したのであろう実朝の、感動、高揚感が伝わってくるような歌です。

 (2) 大海の磯もとどろに寄する波われて砕けて裂けて散るかも

 前の歌が伊豆の海の遠景であるとすれば、この歌は間近までやって来てズームアップした海の実景といった趣きです。
 しかしあるいは前の歌と同じ地点にいて、続けて詠んだ歌ということも考えられます。その場合は、遠く離れた小島の磯に寄せる波のさまに、豊かなイマジネーションを働かせて詠み込んだことになります。

 そうも考えられるのは、この歌は万葉集中のある歌が本歌としてあるからです。それは笠女郎(かさのいらつめ)の以下の歌です。
  伊勢の海の磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひわたるかも

 実朝の歌の前段は「伊勢の海の」を「大海の」に置き換えただけの、いわゆる本歌取りそのものです。しかし後段は、笠女郎の歌が恋歌であることが明らかになるのに対して、「寄する波」のたたみかけるようなダイナミックな風景描写に転じています。

 これは元歌の作者・笠女郎の功に帰すべきなのかもしれませんが、「磯もとどろに寄する波」の「とどろに」が実によく効いていると思います。磯の大岩に波がぶつかった時に発する轟音の表現なのでしょう。この「とどろに」があることによって、「われて砕けて裂けて散るかも」が生きた表現になったと思われます。

 「すべての芸術は模倣から始まる」。「とどろに寄する波」をうまく本歌取りし、かつ後段の生きて躍動するような波の動きを描写した実朝の非凡さはさすがです。

 なお、実朝と万葉集の関わりは大変深いものがあります。実朝はある時同時代の和歌の先達・藤原定家(ふじわらのていか)から万葉集を贈られました。以来自分の血肉にすべく一文字もゆるがせにするまいと、精魂込めて同集を詠み込んだようです。
 そのためなのでしょう。この歌は、古今集から新古今集を経ることによって、「もののあはれ」の無常観やいたずらな虚構の頽廃美に陥りがちな傾向から脱しています。歌柄の大きさ、雄渾さに、万葉集の深い影響が認められるようです。

 青年将軍としての実朝は、鎌倉における権力闘争や、将軍の立場を利用しようとする輩に取り囲まれている我が身の状況を疎ましく感じていたことでしょう。また父頼朝亡き後は、母政子を始めとする北条氏が鎌倉幕府の実権を握りつつあり、自分は単なるお飾り将軍に過ぎない、そんな鬱屈した感情があったかもしれません。

 それが伊豆の大海原、なかんずく磯にとどろに打ち寄せる波のさまを目にして、抑えていた感情が一気に噴出した。その迸り(ほとばしり)として詠まれたのがこの歌であると捉えることも出来ると思います。

 7月20日-海の日に  

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

若き日の夢に別れて

                         前田 夕暮

  魂よいづくへ行くや見のこししうら若き日の夢に別れて

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 前田夕暮(まえだ・ゆうぐれ) 明治16年、神奈川県大住郡生まれ。本名洋造(洋三)。尾上柴舟に師事。44年「詩歌」を創刊。自然主義歌人として出発するが、昭和初年代には自由律短歌運動の先頭に立つなど、振幅の大きい作歌人生をおくる。歌集『収穫』『陰影』『生くる日に』『水源地帯』など。昭和26年没。 (講談社学術文庫・高野公彦編『現代の短歌』より)

 先ずもって鮮烈な「青春挽歌」という感じのする短歌です。「見のししうら若き日の夢」。人は「大人」になる過程で、うら若き日に夢を見たこと、その夢を見残したことなどすっかり忘れてしまいます。ですからこのような歌を歌えるのは、「うら若き日」に近接した世代だけです。なるほど調べましたら、この短歌は明治43年刊歌集『収穫』に収められている歌です。ということは少なくとも前田夕暮27歳以前の短歌ということになります。

 この短歌からは清新な「明治の青春」といったものもまた感受されます。平成21年の今日の私たちにとっては既に「昭和は遠くなりにけり」ですが、大正、明治はさらに遠い過去、歴史時代のようになってしまっています。
 だから私たちの観念で捉えている明治は、ずいぶん古ぼけた時代という感覚です。しかしこの歌に見られるように、今の時代以上に真摯でみずみずしい青春性があったのだ、ということは記憶のどこかにとどめておいた方がよさそうです。

 さらにこの短歌からは、前田夕暮の「鎮魂歌」といった哀切な感じが伝わってきます。人は誰でも、「うら若き日の夢」を「見のこし」ます。見残したことに敏感であるからこそ哀切なのです。
 いわゆる鎮魂歌といった場合、西洋音楽では「レクイエム」、つまり死者の魂を慰め安からしめるための音楽を指していいます。

 しかし以前どこかの記事で述べましたように、我が国古神道の行法で「鎮魂」という場合、それは生きて行をしている当人の「御魂鎮め(みたましずめ)」という意味となります。「魂よいずくへ行くや」。通常人の生にあって魂は、とかく浮遊しがちで肉体内にピシッと落ち着くことが少ないのです。そのため人生の焦点はほやけ、真の目的から逸れた人生を送ってしまいがちです。それを鎮め、真の自己を取り戻すための行法が、古神道の「鎮魂法」といわれているものです。

 前田夕暮が、そんな行法の存在を知っていたかどうかは定かではありません。知らなかった可能性の方が高いと思います。しかしそれでもこの短歌は、やはり鎮魂歌であったと思います。そしてこの短歌における御魂鎮めの要(かなめ)となるものは、「うら若き日の夢」ということだろうと思われます。前田夕暮にとって、うら若き日の夢に別れることなしに、ピタッとその夢に寄り添っていることが魂がさ迷わない、つまり彼にとっての「鎮魂」に他ならなかったわけです。

 確か後年『愛と認識との出発』の作者・倉田百三だったかが(断定はできませんが)、述べていたかと思います。

 「汝の夢を清からしめよ。夢を見ることを止めた時青春は終わるのである。」

 だから「うら若き日の夢」=「清き夢」なのです。それはまた「気高い理想」と言い換えることもできます。魂から発せられる、純度100%の混じり気のない理想(ゆめ)。

 ともすれば私たちは、この現実なるものにのめり込み世俗に紛れていくにつれて、理想(ゆめ)は純度を失い、果ては理想そのものさえ忘れ去っていきます。これこそは人生最大の悲劇の一つであるはずなのです。だからある人は言っています。
 「我々は、日常生活に埋没することの恐ろしさを知らなければならない。」

 考えてみますと、今は恐ろしく現実主義的で計算高い世の中です。そんな時代の中、大人ばかりでなく多くの若者にとっても「理想」などということは死語に近く、こんなことを語ろうものなら「ダサい ! 」の一言で片付けられてしまうそうなのです。そうして刹那的な生き方によりいっそう拍車がかかっていくのです。世の中全体が。

 「理想(ゆめ)無き時代」だからこそ、時にはこのような短歌をじっくり味わってみたいものです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (1)
|

日々雑感(4)

 気象庁が関東地方の梅雨明けを発表してから、なるほど急に暑い日が続いていました。しかし本日、当地では朝から曇りがちな空模様。昼前はけっこう激しい雨に見舞われたりして、『さては戻り梅雨か?』と思われました。雨は30分ほどでやみ、昼過ぎからは薄日が射したりしたものの、まあまあしのぎやすい一日となりました。

 近年は特に梅雨が明けると、半端ではない猛暑が連日続く傾向があります。その間何日も何日も雨が一滴も降らないような。これも地球全体の温暖化傾向による異常気象のしからしむるところなのでしょう。しかし農耕社会の昔だったら、確実に旱(ひでり)、旱魃(かんばつ)で大騒ぎだったことでしょう。
 現代は自給自足ならぬ「他給他足の時代」ですから、ついそのことは看過されがちです。特に我が国では、農作物、穀物の自給率が30~40%にも関わらず、あい変わらずの飽食ですから、実は旱魃であることには少しも気づかず『毎日暑いですねぇ』で済まされてしまうわけなのです。

 しかしご存知のとおり、先進国といわれる国々でも我が国のように極端に低い自給率の国は他にありません。フランスなどは200%に迫るといわれ、やや低いアメリカでさえほぼ100%に達しています。もし仮に今日うまく機能している農作物輸入頼みの他給他足システムが万一全世界的に破綻したとしたら?…。国民の6、7割は飢餓線上をさ迷うことになるわけで、考えただけでもぞっとします。
 そういう意味では、来るべき総選挙では、各党ともこの問題にどう取り組むのか、しっかりした農業政策をきちんとマニュフェストに盛り込んでもらいたいものです。

 総選挙といえば。麻生首相が「解散予告」という前例のない発表をしてから数日。案の定「麻生おろし」の風が吹き荒れました。16日(木)には中川秀直、加藤紘一、武部勤といった元幹事長の面々を中心とする反麻生派が、与謝野馨何でも兼務大臣、石破茂農水大臣も取り込んで、両院議員総会を開催するのに必要な120余名以上の議員の署名を集めたとかで、大騒ぎになりました。
 「すわっ。やっぱり麻生さんは解散できずに退陣か ! 」と、成り行きを興味深く見守っていました。しかし結局は、現執行部と各派閥の締めつけにより、その勢いが急速にしぼんでしまったようです。今の自民党には「○○の乱」を起こすようなエネルギーすらないようで。これで、麻生首相の下で、今月21日解散、8月30日投票は確定のようです。
 しかし国外的に見た場合、これでよかったと言うことができます。もし仮に、一国の宰相が「解散する」と宣言しながら「解散できませんでした」では、また我が国の国際的な赤っ恥となるところでしたから。

 ここのところ『天地人』は、まあまあ可もなし不可もなし。特別『天地人シリーズ』として取り上げることのほどもなさそうです。
 肝心の主役・直江兼続役の妻夫木聡は、若くてイケメン過ぎて、回が進んで上杉家筆頭家老になっても、何度秀吉と対面しようと、どうもイマイチ戦国武将、名参謀、名軍師としての威厳、風格が感じられません。(これは、始まる前から言い続けていることながら。)
 と思っておりましたら、もう少し回が進むとヒゲをはやした兼続になりそうです。それによって、少しは風格が出てくれればなあと、今から期待しております。
 その点主君である上杉景勝役の北村一輝は、さすが決まっています。どっしりした落ち着きと重厚感があり、「さすが名門・上杉藩主」といった趣きで安心して見ていられます。

 今回の『天地人』では脇役である、豊臣秀吉や徳川家康を演じている笹野高史、松方弘樹は、さすがベテランの役者らしく、これも安心して見ていられます。特に笹野高史の秀吉は、『実際の秀吉もあんな感じだったんじゃないの?』と思われるほど、はまり役だと思います。
 小栗旬の石田三成役も最近ようやくなじんできました。しかしいつまでたっても何となく「小姓っぽい」いでたちなのが気になります。あの独特のカツラや衣装も含めて、実際の三成もあんな感じだったのだろうか?『少し違っていたんじゃないの?』という違和感は残ります。

 その他女性陣について。高島礼子の仙桃院、常盤貴子のお船の方、その侍女役のあき竹城…。それぞれの持ち味を出して、よく演じていると思います。目立たないながらあき竹城、そのうち舞台が生まれ故郷の米沢に移るわけで、さぞ大張り切りなことでしょう。深田恭子の淀君は意外でした。今後どんな演技を見せてくれるのか楽しみです。
 ただ高島・仙桃院は、幾つになってもシワ一つない若々しさです。まあ、若くてお美しい女性(にょしょう)は大歓迎ですけれども…。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (2)
|

白い夏野

              高屋 窓秋

   頭の中で白い夏野になってゐる

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 高屋窓秋(たかや・そうしゅう) 略歴は『名句観賞』中の『桜の名句(4)』参照のこと。

 以前取り上げました「ちるさくら海あをければ海にちる」もそうでした。高屋窓秋は、一貫して口語調の秀句を作り続けた俳人です。ついつい気取って、「頭の中で白い夏野になりゐたり」あるいは「頭の中で白い夏野でありにけり」などと読みたくなるところです。そこをあえて「白い夏野になってゐる」。通常の口語文のような平明さです。

 この句が出来たのは昭和7年(窓秋22歳)の頃のようです。そういう時代背景を考えれば、それだけでこの句は十分に革新的だったのではないでしょうか。

 ところでこの句の場合問題となるのは、発句の「頭の中で」の読み方です。この俳句を取り上げている中には、「頭(づ)の中に」とわざわざルビをふっているものもあります。そう読むと五・七・五の定型となり、確かにスムーズです。しかし一方では『はあっ。頭を“づ”とはどういうことだ』という違和感もまたあります。

 ですから私は以前から「頭(あたま)の中で」と読んでいました。そうすると七・七・五となり破調句ではあるものの、何となく納得して読めるのです。

 今回この句を取り上げるにあたって、それについて少し調べてみました。そうしたら窓秋自身『百句自註』の中で、「普通、五・七・五に則って読めば“ヅ”であるが、作者のぼくの中では“アタマ”としていた」と述べています。やっぱり ! ここはだいぶ字余りではあっても、素直にそう読んでいいのではないだろうかと思います。

 この句の革新性は、破調句であること、口語調であること以上に、二句目の「白い夏野」にあると思います。言うまでもなくこの句の季語は「夏野」です。歳時記・夏をひも解かれればお分かりかと思いますが、夏野はまた「青野」でも置き換えがききます。あらゆる草木が青々と繁茂する夏の野なのですから、当然といえば当然です。

 しかし高屋窓秋は「青い夏野」などと陳腐な詠み方はしません。通例に背くように「白い夏野になってゐる」。これが22歳だったという青年俳人のシャープな感性であり、類い稀な革新性だったと思われます。
 当時の俳壇はさぞ驚いたことでしょう。大変な衝撃だったかもしれません。私が知る限り、夏野をこのように詠んだのは後にも先にも窓秋ただ一人です。

 しかしよく考えてみますと、現実の夏野(あるいは真夏の街でも)を目の当たりにすると、何となく白っぽく感じることがあるものです。あまりに強い夏の日差しが、野原全体の草木の深緑色さえ漂白したように感じられるからなのでしょうか?

 さらに考えれば「頭の中で」と言うからには、窓秋は現前している夏野を詠んでいるのではないのかもしれません。それは遠い記憶の中の少年時代の夏野。確かに、遠い記憶の中の夏の景色ほど、なぜか白っぽい景色となって思い出されてくるようです。

 (大場光太郎・記) 

| | コメント (0)
|

梅雨が明けて

   梅雨明けの夢のやうなる白き雲   (拙句)

 13日気象庁は、関東甲信地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。ここ何日かの夏そのもののような晴れがちの天気から、『梅雨明け間近か?』と思っていました。しかしいささか唐突だったようにも思われます。
 例年なら、梅雨明けは7月の20日前後だったように記憶しているからです。それに過日の1週間予報では関東地方は今週半ば頃また天気がくずれて梅雨が戻ってくるでしょう、というようなことでしたから。
 また異例なのは、中部、関西、中国など関東以南の地方をさしおいて、関東地方が一足お先に梅雨明けとなったことです。梅雨明けは必ず南の方から順ぐりでなければならない、という決まりがあるわけではないものの…。確かに今年の関東地方の梅雨明けは、例年より6日ほど早く、去年より5日早かったようです。

 それでも梅雨明け翌日の14日は、確かに暑かったものの空に雲も多く、その雲は既に梅雨雲のような鉛色の雲ではないとしても、かといって夏特有のニョキニョキムクムクの雲の峰といった感じでもない白い横雲で、何となく「プチ梅雨明け」といった趣きでした。

 しかし本15日は違います。朝から雲も少なく、日がカァーッと照りつける一日となりました。昨晩は熱帯夜で寝苦しく、早朝には既に30℃近くあったようです。それが日差しの強まりとともにぐんぐん気温も上昇し、(確かめたわけではありませんが)関東各地は35℃に迫ろうかという所が多かったのではないでしょうか。
 長くうっとうしい梅雨が早く明けないかなあと望みながら、いざ明けてみると今度は容赦ない暑さが襲いかかります。こういう季節の変わり目は、えてして体の変調が起こりやすいもの。体調管理には十分留意したいものです。

 話は変わって―。イギリスの作家サー・アーサー・コナン・ドイル(1859年~1930年)は、名探偵シャーロック・ホームズの生みの親(原作者)として有名です。しかし同時にコナン・ドイルは、イギリスにおけるスピリチュアリズムの先駆者の一人としても有名なのです。いな実はそれを広めることこそ彼のライフワークだと考えていて、そのため大評判のシャーロック・ホームズ物語で得た印税のすべてを、その啓蒙のために注ぎ込んだくらいです。
 コナン・ドイルは、死後の世界の最上界を「サマーランド」と名づけました。その世界は常夏のように果実がたわわに実り、緑豊かで、日が輝いて影のない(さりとて暑すぎもしない)世界とイメージしたわけです。あるいはイメージばかりではなく、コナンドイル自身が霊覚者としての一面がありましたから、それは彼自身の霊視によるものだったのかもしれません。

 なるほどと思いますね。これは対極的季節である真冬と比べてみると明らかです。万物が凋落し、すがれて寒々とした世界を天界とは誰も思わないだろうからです。
 しかしコナンドイル以降、スピリチュアリズムの進歩は目覚しく、今日ではここ地球世界に限ってみても、彼の表現した「サマーランド」は実はアストラル界という下から2番目の世界の最上界であって、その上に更に大別して5つもの精妙世界(細分化すれば35階層)が展開されていることが分かってきています。これは何を意味するのでしょうか?私たちの進歩、進化には限りがないということです。本当に「もうこれでオーケー」ということがないのです。無限に続く「学び」です。こちらの世界でも、あちらの世界でも。

 …日に向って歩こうものなら、まるでこの私の体に暑さがフォーカスされてでもいるかのようです。そのような暑さの中街を歩きます。見れば西の遠くの大山の峰の上に、薄黒い雲が横に大きくわだかまっています。何やら雲の峰崩れといった感じです。しかしそれを見ていると、何とはなしに涼感を感じてくるから奇妙です。
 にわかに風が吹いていることに気がつきました。それも、街並みの各店舗の店先の多くの布旗や木々の梢(こずえ)を、なみなみ揺らすほどのけっこう強い風です。これには救われます。本式な炎暑になると、風はベタッと凪いでしまいまるで無風状態、ただただ暑さだけが猛烈に実感されるということになるからです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

やっと解散総選挙 !?

 政府与党は13日昼、首相官邸で麻生首相らが出席して幹部協議会を開き、衆議院選挙を「8月18日公示、同30日投開票」とする方向で合意しました。そのため7月21日にも衆院を解散する見通しです。

 12日の都議選の自民党の歴史的敗北により、政局は最大の山場を迎え、麻生首相は解散を決断するのか、それとも敗北の責任を取って退陣するのか。そのどちらを選択するのか注目されていました。
 しかし自らが連日のように都議選の応援に駆けつけていながら、「国政と解散は今回の都議選とは関係しない」とうそぶく、常人とはかなり違う神経の持ち主である麻生首相の辞書に「退陣」の文字はないのか、ついに解散に打って出る決断をなさったようです。

 しかしこれは都議選の敗北により一気に高まるであろう「麻生おろし」を封じ込める狙いによるものであり、あまりにも遅い解散の決断だったと思わざるを得ません。そのためある野党の幹部からは、「国民に追い込まれ解散」「野垂れ死に解散」だなどと揶揄的にコメントされていました。
 
 都議選同様大躍進が予想される民主党としては、支持率が低く国民から毛嫌いされている麻生首相の下で総選挙を戦いたいわけです。そのため同13日午後衆院に麻生内閣不信任決議案を、参院に同問責決議案をそれぞれ提出しました。自民党が不信任案を否決させれば、それは即麻生首相への信任の表明となり「麻生おろし」は大義名分を失い、嫌でも麻生首相の下で総選挙を闘わざるを得なくなるからです。

 それにしても、民主党の岡田幹事長が言ったように「なぜ7月21日解散なのか。どうして今直ちに解散出来ないのか」と思ってしまいます。しかし当初は首相自身は直ちに解散することが念頭にあったものの、都議選直後の選挙では自民党が持たないという幹部たちの声、同じく8月末くらいの投票なら何とかオーケーとする公明党への配慮から、先の解散時期を事前に発表するという前例のないことになったようです。

 例えば麻生首相の祖父である、戦後の名宰相・吉田茂には、有名な「バカヤロー解散」がありました。その結果迎えた総選挙で吉田は大敗し、辛うじて少数与党とはなったものの以後吉田の影響力は低下し、後の退陣につながっていくことになりました。
 祖父の吉田茂とは、政治家としての力量に雲泥の差がある麻生太郎の今回の解散は、その例にならって言えば誰かが言ったとおり、「破れかぶれ解散」「自爆テロ解散」とでもなるのでしょうか。
 とにかく投票日までの今後1ヶ月半、麻生自民党がどんな手を使ったとしても、都議選同様の結果となり、第一党の座、政権与党の座から転落するのは必至と思われます。

 一つ気がかりなのは―。麻生さん、本当に7月21日解散してくれるんですよね?それまで1週間、短いようでけっこう長いです。政界は一寸先は闇、何が起きるか分かりません。この間気がついたら、「やっぱり麻生の下では選挙は戦えない」とばかりに、首相の座から引きずり落とされていたなどということはないですよね?

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

都議選の結果に思うこと

―政治的チェンジの流れは最早変えられない !

 12日(日)に行われた東京都議選の結果を、自民党の歴史的大敗とみるべきなのか?それとも民主党の大躍進とみるべきなのか?
 いずれにしても、皆様その結果はとうにご存知のことと思います。自民党38議席(現有48議席)など自公与党合わせても61議席と、過半数の64に及ばず。対して民主党54議席(現有34議席)など非自公は66議席と、過半数を越えました。
 その結果自民党は44年ぶりで第一党の座から転落することとなり、逆に民主党は都議会で初めて第一党の座を獲得することとなりました。
 (44年ぶりとは言っても、専門家の見方では今回の方がはるかにひどく深刻とのことです。)

 しかし今回の結果は、専門家によって1ヶ月以上も前からある程度予測されていたことです。いや専門家のみならず多くの都民、国民の間でもおおよそ予想されていたことなのではないでしょうか?各種選挙では、時に驚くような意外な結果になることがありますが、その意味で今回の都議選は意外性に乏しい選挙だったと言うことが出来そうです。
 それはそうでしょう。だって民主党の方は、名古屋、さいたま、千葉の各政令指定都市市長選、5日の静岡県知事選と、大型地方選挙で連勝につぐ連勝だったのですから。始まる前からある程度は予測出来たことでした。
 もうここまでくれば、都民そして国民有権者が「自民党はもういい。とにかく早く政権の座から去ってくれ」と声を大にして意思表示しているようなものなのではないでしょうか?

 ところで今回の都議選の結果は、石原都政にとっても最悪のシナリオとなりました。石原都政は自公支持の上に成り立っていたからです。今回の結果、石原都知事は、3期目の途中まで石原都政ならぬ石原王政のような好き勝手をやってこられました。しかしもうそんなことは出来ません。
 大懸案の新銀行東京は清算されることになり、築地市場の移転問題は白紙に戻される公算が大です。なぜならそれが民主党のマニフェストでの公約だからです。
 もしかしたら、(巨大な利権に群がる一部企業を喜ばせるだけの)‘16年の東京五輪招致も落選となるかもしれません。もしそうなれば石原都知事は、任期途中で知事の座を放り出すのではないかとみられています。

 そんな中で与党の一角を占める公明党の善戦―23候補者全員当選―には改めて驚かされます。支持母体の創価学会を基盤とした強固な選挙システムによるものですが、こういう結果を見せつけられると、何やら薄気味悪さを感ぜずにはおられません。
 宗教が政治の中枢に食い込んでいる不気味さです。創価学会の機関紙利権が複雑に絡み、その恩恵を受けている大マスコミから創価学会批判、公明党批判はほとんど聞かれませんが。これは明らかに政教一致であり、憲法違反にあたると思われます。
 宗教法人が無税なのをいいことに、せっせと稼ぎまくり蓄えた総資産は数兆円。政界のみならず、中央官庁、検察、裁判所…要所要所に、創価大学卒の人材を大勢送り込んでいます。池田大作の腹黒い野望は、「日本乗っ取りでは?」と思わせられるのです。

 少し話が脱線してしまいましたが。都議選はその直後の国政選挙の先行指標となるケースがほとんどです。都議選の結果が、次の総選挙の結果に直結しているのです。
 本当に多くの国民有権者は、自公政権にほとほと愛想をつかし、心底嫌気が差しています。今回都議選で示された首都・東京都民の意思は、(よほどのことがない限り)そのまま来るべき総選挙に国民の総意として反映されるものと思われます。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨の名句(4)

                桂 信子

   ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 桂信子(かつら・のぶこ) 大正3年、大阪市生まれ。本名、丹羽信子。大手前高女卒。昭和13年、日野草城門に入る。45年「草苑」を創刊、主宰。52年、第1回現代俳句女流賞受賞。平成4年、第26回蛇笏賞受賞。句集に『月光抄』『女身』『晩春』『新緑』『初夏』『緑夜』などがあり、ほかに『草花集』『信子十二か月』のエッセイ集がある。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 これは女性ならではの句です。「ふところに乳房ある」ことがどうして「憂さ」となるのか、世の男どもには皆目分かりませんから。そして世の女性すべてがそのように感じるものなのか、それともそれは桂信子という俳人独特の感覚だったのか?それすらも分かりません。

 俳句のみならず「詩」というものは、作る者の独特な感性、ものの見方で捉えた事象を、独自の詩的世界として描き出すものです。その詩がそれまで使い古された月並みな表現を脱して、独創性を発揮しているほど、読み手は面白く感じるわけです。
 その意味でこの句などは、女性特有の感覚を俳句として詠みこんだ点で大変ユニークな句であるといえます。(そのため今回こうして取り上げたわけです。)

 しかしいくらユニークであっても、その俳句の中に普遍性がなければ、幅広い読者の共感を得ることはできません。この句は昭和30年刊句集『女身』に収録され、以来広く読み継がれてきた句ですから、やはり何らかの普遍性がありそうです。
 
 じとじとと湿気の多いうっとうしい梅雨時、特にふところに汗がにじみ、にわかに乳房が意識され物憂く感じられてきた。そのような表面的な大意ばかりではなく、この句は「乳房を有する性」「我が子に授乳させる性」つまり女性であることの、根源的なメランコリー(それこそが普遍性)にもつながっていると思われます。
 しかしそのメランコリーは、少なくとも昭和30年以前に桂信子が感じたもの。以来半世紀以上が経過して、その間「女性の意識」は大きく変化しました。だから同じようなことを、今日の女性も感じるものなのか?これまた世の男どもにとっては謎というものです。

 ともかくも、「梅雨」という季語が、「憂さ」を表わすのに実によく効いていると思います。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

私のマイケル・ジャクソン観

 世界的なスーパースターといえども、その名前や表面的なことを知っているだけ。だから自分の中では世間が大騒ぎするほどのスーパースターとは思っていない、ということがよくあります。これまで私がマイケル・ジャクソンに対して抱いていたものは、おおむねそんなところでした。

 マイケル・ジャクソン情報として、私が知っていたことといえば―。
 代表作の『Thriller(スリラー)』くらいなもの。黒人のくせして、何だか薄気味悪い白蝋(はくろう)のような畸形的な顔に変わっていったヤツ。幼児への性的虐待によってその親から訴えられたヤツ。何だかよく分からない歌を歌いまくって、変なクネクネ踊りを踊っただけで超億万長者になったヤツ。そうして稼いだ金をつぎ込んでネバーランドなどという広大な遊園地のような所に住んでいたヤツ…。

 このように私の場合、世界はおろかこの日本にも無数にいるであろう「マイケル命」の熱烈なファンとは、かなりの温度差がありました。それゆえ6月25日(日本時間26日)の彼の急死の報に接しても、特段驚くでもなく『あっ、そう』くらいなものでした。
 生前のミステリアスなマイケル像を死後なお引き継ぐかのように、その死因をめぐって乱れ飛ぶさまざまな憶測。違法な麻酔剤使用の問題。死の直後主治医が行方をくらました。ロス市警が主治医の車を押収した。彼の死は他殺か?どうなる、数百億円のマイケルの遺産の行方。マイケル自筆の遺言書があり、それによると遺産は彼の子供そして母親、母親死後はダイアナ・ロスに遺産の管理を頼む。父親や元妻には相続の権利がないそうな…。
 むしろ三面記事的なそんな情報を面白がって観ていました。

 当ブログ最近の記事『梅雨だより(4)』の中で、マイケル・ジャクソンについて少しふれました。「(正式なマイケルについての感想が)今にまとまりましたら公開します」と述べたものの、実はその時点では何が何でも、ということでもなかったのです。いや実のところ、ここ何日かはそう述べたことすら忘れかけていました。
 それが11日未明NHK総合テレビで、『マイケル・ジャクソン“King of Pop”の軌跡』という追悼特別番組の再放送の冒頭部分をたまたま(本当にたまたま)目にしたのです。そうしたら観るにつれて魅き込まれて、とうとう最後まで観てしまいました。

 観終わった後、私のマイケル・ジャクソン像あるいはマイケル・ジャクソン観はがらりと変わりました。どう変わったのか?やっぱりマイケル・ジャクソンはスーパースターだった。マイケルの前にマイケルなく、マイケルの後にマイケルなしだ、というように。
 マイケルの生涯の主な事跡が、映像という極めて訴求力のある媒体によって端的に紹介されていたことが大きいと思います。そして頑(かたく)なな私のこれまでのマイケル観を決定的に打ち破ったのが、1982年の『Thriller』や1987年の『BAD』などの十数分にも及ぶプロモーション映像がノーカットで流されたことです。今までは『Thriller』のほんの一部しか観たことはなかったのですから。全部を観せられていやあ驚いたの何の !

 あのような映像、ミュージックそして踊り。21世紀の今日でも色褪せない斬新かつ革新的なものでした。それはまさに衝撃的でした。歌もさることながら、特に踊り。ムーンウォークに代表される、彼の天性の身体能力のなせる神業的ダンス。
 私は改めて思ったのです。マイケル・ジャクソンは紛れもない天才だったではないか ! 革命児だったではないか ! どのくらいの天才?どのくらいの革命児?ビートルズの4人のメンバー全員で成し遂げたことを、たった一人で成し遂げてしまったほどの。
 うかつにも私はほとんど知らなかったものの、マイケルはどれほどのインパクトを当時の世界に与えたことだろうか !?

 そういえば数日前、上記当ブログ記事に「マイケル・ジャクソン プレアデス」という印象的な検索フレーズでアクセスしてきた人がおられました。確かに上記番組の中の何かの歌のプロモーション映像で、「白か黒か」という人種差別を乗り越えようというメッセージのもと、世界各地でそれぞれの民族衣装に囲まれながら歌い踊るマイケルの姿がありました。こういう人類愛こそまさにプレアデス的です。
 マイケル・ジャクソンは、バッハやゴッホのように、この世界を大きくチェンジするためにプレアデスから特別に派遣された使者だったのではないだろうか?…。

 この世界は、本当に惜しい天才を失いました。
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

娘ことごとく売られし村

                            結城 哀草果

  貧しさはきはまりつひに歳(とし)ごろの娘ことごとく売られし村あり

 …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 結城哀草果(ゆうき・あいそうか) 明治26年山形市生まれ。本名光三郎。黒田家より結城家の養子となる。大正3年「アララギ」に入り、斎藤茂吉に師事。以後、農民生活を歌い、特に昭和10年刊行の『すだま』で東北の凶作を歌い、注目を集める。昭和24年に「山塊」、同30年に「赤光」を創刊、主宰した。歌集『山麓』『群峰』など。随筆集『村里生活記』他数冊。昭和49年没。  (講談社学術文庫『現代の短歌』より)

 山形県出身の歌人・斎藤茂吉は、近代短歌の代表的歌人として広く知られています。しかし茂吉の弟子だった結城哀草果は、活動の中心が地元山形というローカル歌人だったこともあり、よほどの短歌通でなければその名を知らないと思います。
 ちなみに私の出身中学である山形県東置賜郡宮内町立(現南陽市立)宮内中学校の校歌は、結城哀草果の作詞によるものです。

 略歴にあるとおり今回の短歌は、昭和初期の東北の凶作を歌った歌集『すだま』収録中の一歌です。日本史の教科書に載った「娘売ります」の張り紙を立てた写真の部落が、私の母校があった長井市の一部落だった。このことは、昨年末記事『今は昭和初期と酷似 !?』の中で既に述べました。

856


 この歌は、解釈の必要がないほど平易な歌ですが、当時の深刻極まりない東北の農村の実情を直視した社会的短歌です。

 歌冒頭の「貧しさきはまり」とは、一体どのような状況だったのでしょう?

 直接の原因は当時東北地方を襲った凶作です。しかしそれと共に、上記記事でもふれました1929年(昭和4年)ニューヨークのウォール街に端を発した、世界恐慌のあおりを受けた「昭和恐慌」の影響も見過ごすことはできません。当時もアメリカ輸出依存だった我が国は、それによって米国への輸出品だった東北産の生糸(きいと)の値段が三分の一にまで落ち込み、また米価も半値以下にまで暴落したからです。
 その結果、当時は(自己所有の田畑を持たない)小作農が多かったわけですが、それによって地主への重い小作料が払えなくなった貧農が東北各村で急増したのです。

 それに、冷害による「昭和大凶作」が追い討ちをかけました。しかも冷害は一度ならず、昭和6年、7年、9年、10年と続けて発生しました。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」の中の、「サムサノナツハオロオロアルキ(寒さの夏はオロオロ歩き)」は昭和6年冷害を叙述したものです。昭和6年と同9年の冷害が特に深刻で、両年の米の収穫高は、例年の半分以下だったといわれています。

 昭和6年の大凶作で、例えば青森県では借金を抱える農家が続出し、やむを得ない口減らしの手段として「芸娼妓(げいしょうぎ)」として売られた少女は、県累計7,083人にも上ったといいます(そのうち一部は町場の娘も)。当時山形県内のある女子児童は、「お母さんとお父さんは毎晩どうして暮らそうかと言っております。私がとこ(寝床)に入るとそのことばかり心配で眠れないのです」と作文で述べたそうです。

 上に見られるとおり、東北の娘たちは東京の遊郭に売られていくケースが圧倒的でした。そもそも「娘売り」は、江戸時代から女衒(ぜげん)の手によって行われていましたが、明治以降戦前まで継続されました。

 特に今回問題となる昭和恐慌、大凶作のダブルパンチで、東北地方から売られてきた娘たちと、遊郭の楼主との生々しい証文(契約書面)も多く残っています。(このような契約は、「公序良俗」を厳しく求める戦後の現民法では無効となる契約です。)
 なぜ「娘売り」で「息子売り」ではなかったのか?これには当時の厳格な家父長制も関係しますが、農家の長男は家の跡継ぎ、二男、三男でも当時は軍隊の下級兵になる道がありました。現に旧日本軍の下級兵で、東北出身の二男、三男の占める割合は多かったのです。社会的地位の低かった女子はそうはいきません。そこで一家の人柱となって、何百円(当時)かで売られていくケースがずいぶん多かったのです。

 こうして東北の娘たちは、主に東京の吉原、州崎などの遊郭に売られていきました。東京に行儀見習いに行くといって上京したはずの妹が、実は吉原に売られていた。兄が上京してたまたま吉原で遊女を買ったところ、出てきたのが実の妹だった。二人は抱き合ってワンワン泣いた、というような話が伝わっています。

 東京だけでなく、遠く京都の遊郭にも東北出身の遊女が多くいたようです。さらには国内のみならず、海を越えて旧満州の遊郭や、果ては南は東南アジア、北はシベリアのウラジオストックの娼館に連れていかれた娘たちもいたようです。
 そうして連れていかれた東北農村の娘たちは、甚だ劣悪な環境の下で途中で病に冒された者も多く、よほどの僥倖でもない限り悲惨な生涯を送ったであろうことは想像に難くありません。

 同じ条件にあった東北の農家の全部が全部ではなかったにしても…。
 近代日本の赫々(かくかく)たる歩みの中で、光に影が寄り添うように、このような哀しい裏面史があったのだ―結城哀草果のこの歌は、そのことを歌の行間から告発しているようです。

 (大場光太郎・記)

関連記事『今は昭和初期と酷似 !?』
http://be-here-now.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-4fd0.html

| | コメント (1)
|

俳句を始めた頃(5)

 句作を始めた年が明けた2月頃、毎日俳壇(毎日新聞日曜版俳句コーナー)に投句しました。同俳壇の選者は3名ほどいたと思いますが、好きな選者を指定して投句してよい決まりになっていました。そこで私が選んだのが鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう)でした。既に『現代の俳句』収録の鷹羽の代表的な何十かの句を読んでその句風に共鳴出来たこと、そして同じ山形県出身であることに共感を覚えたことなどが主な理由だったと思います。

 投句したのは、
   煮凝り(にこごり)の凝るをかしさ食ひにけり  
という句です。寒さ厳しい雪国では、冬の夜に母が煮魚をこしらえておきますと、次の日の朝になると煮汁が固まってこげ茶色の寒天状になってしまいます。そうして食べた煮魚そのものももちろんですが、煮凝りのトロンとした舌ざわりがまた何とも言えず乙な味だったのです。寝たきりで臥せっている母を介護しながら、そんな郷里でのことをふと思い出して詠んだ句です。 
 それが何と、初投句でいきなり毎日俳壇に掲載されたのです(もちろん私の句ばかりではなく、10数句くらいと共に)。『うわぁ、オレの句と名前が全国紙に載ったんだ ! 』。今となっては別にどうということもありませんが、当時の私はまるで天にも昇る嬉しさでした。嬉しさあまって、その日曜版を5部ほどまとめて買ったことを覚えています。

 味をしめて次も鷹羽選で投句しました。しかしその時は採用されませんでした。初投句でいきなりというのは良し悪しというもので、その後は毎日俳壇への投句をやめてしまいました。
 代わって、私が当時購読していた朝日新聞の朝日俳壇にチャレンジしてみることにしました。しかしこれがなかなかの難関なのです。選者も、稲畑汀子(いなはた・ていこ)、金子兜太(かねこ・とうた)ら4名、いずれも当時超一流の俳人です。後で分かったことながら、同俳壇に掲載されるのはわずか数10句ですが、それに向けて1回あたり約1万句くらいの投句があるというのです。
 投句者の中にはプロを目指している人も大勢いたことと思います。そんな中で駆け出しの私など、とても太刀打ち出来るものではありません。不採用が何回続いてもこりずに10数回投句し続けました。しかし結局ただの一度も採用されることなく、終いには断念しました。

 なお毎日俳壇の選者だった鷹羽狩行は、毎年中秋の名月に行われる伊勢神宮観月会・俳句部門の選者でもありました。テーマは「月」でしたが、私は3、4回毎年こちらにも投句しましたが、その度に採用していただきました。次の句はその中の一句です。
   あをあをと月に読まるる川原かな

 このようにして数年間、1日10句以上をノルマに俳句を作り続けました。そうして句がびっしり書き込まれた手製の俳句手帳も6冊に及びました。
 しかし身心のコンデションが何とか復調し、頭の働きも自分で『まあまあ元に戻ったかな』と思われる段階になると、毎日句を作り続けることが面倒くさくなってきました。そうして気がついた時には、ほとんど句を作らなくなっていました。

 当ブログでしばしば過去の拙句を冒頭に掲載するのは、現在ほとんど句作していないからです。そして今現在にわかに句を作ってみても、「継続は力なり」というもので、集中して句作していたあの頃より句のレベルは明らかに落ちてるなと、自分でもそう思います。  ―  完  ―

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

俳句を始めた頃(4)

 そのようにして手製俳句手帳に書き連ねていった1000以上の句の中から、50句、100句くらい何とかものになりそうな句を選んで、今度は別の用紙に書き出してみました。その頃になると単なる能力開発という目的とは別に、『もっと俳句がうまくなりたい』という欲が出てきました。
 そのため歳時記を揃え読み出したり、有名俳人の俳句入門書を読んだり、『名句観賞』の俳人略歴で度々引用しております講談社学術文庫中の『現代の俳句』(平井照敏編)を少しずつ読み込んだりしました。また『角川俳句』『俳句朝日』『俳句研究』という月刊の俳句雑誌を毎号欠かさず講読するようになりました。

 何事もそうでしょうが、俳句の場合も上達の最も良い方法はとにかく先人の優れた作品に数多く接し味わうことに尽きるようです。その意味で『現代の俳句』を繰り返し読みこんだことは、私の句作のレベルを上げる上で大いに効果的だったと思います。
 実はもう一つ優れた方法があります。それは自分と波長の合った先輩俳人を見出し、その同人結社に加わることです。そしてそこで催される句会などに積極的に参加して、そこから大いに刺激を受けること。句会は俳聖・松尾芭蕉以来の伝統でもあるわけで、本当はこれこそが俳句上達の王道であるのかもしれません。

 しかしすっかり出不精になり、元々あまり社交的でない私は、これには当初から抵抗がありました。句会の席で自分の作った句を周りの人から批評、指摘される。逆に私がそういう立場になることもある。『ウーン、どうもなあ』という感じがしたのです。
 それにもう一つ、特定の俳句結社に所属してしまうことは、その結社のカラーに染められ縛られてしまい、それを越えるような発想が出来にくくなる可能性もあるのではないだろうか?とも思われたのです。

 それに、この年になって何も「プロの俳人」を目指すわけでもないのだし。結局早い段階で、同人結社に所属しないことにしようと決めました。
 ただ同人結社の利点はもう一つ。自分の作った句が大勢の批評眼にさらされることによって、独りよがり、自己満足になりがちな傾向から逃れられるということがあると思います。自分の作った句はどうしても評価が甘くなりますから。そこで極力そうならないよう、自作を厳しくチェックする「もう一人の自分」を常に置いておかなければならないなとも思いました。

 「プロ俳人を目指すわけではない」と言いながら、次の段階として『自分の作った句を出来るだけ多くの人に読んでもらいたい』という欲求が芽生えました。ともかくもそういう欲求が芽生えたということは、その頃には当初の軽いウツ傾向は脱しつつあったといっていいのかもしれません。

 各俳句雑誌では、定期的に「俳句賞」「俳句新人賞」などへの応募を呼びかけていました。例えば「角川俳句賞」「俳句朝日賞」「俳句研究新人賞」といったものです。30句または50句をまとめて、それに自分で決めたタイトルをつけて応募するというような形式です。その中でも角川俳句賞は俳句界では権威ある賞ですから、もし受賞でもすれば一気にプロ俳人への道が開かれるわけです。また俳句研究新人賞も、プロ俳人としての登竜門になるような賞です。

 無謀にも私は、句作を始めて何ヶ月かした段階でこれらに次々に応募するようになったのでした。応募して何ヶ月かすると、各誌に受賞した作品、次点何作品かが発表され、それに選考委員の講評が出されます。
 結果は言わずと知れたもので、毎回まるでかすりもしませんでした。しかしせっせと応募した効用は確かにありました。私自身が応募した賞ですから、まず受賞作、次点作を丹念に読むわけです。そして『なるほど違うなあ』と彼我の力量の差が、そこで測れるわけなのです。そして選考委員の講評をじっくり読んだことで、自分の句作の力を高める上でずいぶんヒントが得られたように思います。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

七夕だより

   雲切れて七夕富士の全容(すがた)かな   (拙句)

 7月7日七夕のきょうは、久しぶりの梅雨晴れ間の一日となりました。それでも午前9時過ぎいったん曇りだし、どっちに転ぶか分からないような空模様となったものの、昼が近づくにつれて日差しが優勢となり、後は気温もぐんぐん上昇し、夏そのものの一日となりました。そういえば本日は、七夕であるとともに、二十四節気の「小暑」でもあります。
 ただ空全体を、梅雨雲ではないものの薄白色の雲が覆っており、『これじゃあ、彦星も織姫星も見られないな』と、日中から何となく予想されました。

 昼過ぎお隣の平塚市に向かい、同市内の不動産会社を訪問しました。
 その話のついでに、「いい天気で(平塚の)七夕、きょうはさぞ賑わっているでしょうね?」と私。すると同社社長は「何言ってんですか。七夕は日曜日で終わっちゃいましたよ」。「えっ。そうだったんですか。ずいぶん早かったんですねぇ」
 新暦7月7日の七夕の日を待たずに、その2日前に七夕まつりが終わってしまうとは。いくら何でもちと早過ぎませんか?平塚市さん。しかし実際そのとおりらしく、同社長いわく、平塚市紅屋町(べにやちょう)の大通りを華々しく飾った七夕飾りは、旧暦(新暦8月)で催される仙台の七夕まつりにずいぶん流用されるのだとのこと。
 「こっちが本場なのに、いつの間にかあっち(仙台)の方が有名になっちまって」と社長。『んっ、ホントに?』。その言葉は出さずに飲み込みました。

 気になって後で調べてみました。平塚七夕、去年までは7月7日と土日をはさんだ数日間行われていたものの、今年からは7月第一木曜日からの4日間(つまり次週日曜日-今年は7月5日まで)に変更されたもようです。なお平塚市が7月開催にしている由来は、平塚七夕が始まった戦後間もなくの頃は新暦による開催地がなく注目度が集まることや、飾り物が旧暦の開催地に対して譲渡出来る(やっばり ! )利点があるなどの理由によるもののようです。
 平塚市は第二次世界大戦中、海軍火薬廠があったため米軍の攻撃目標とされ、1945年(昭和20年)7月の「平塚空襲」で焼け野原となりました。終戦後の1950年(昭和25年)7月に復興まつりが開催され、翌年平塚商工会議所、平塚商店街連合会が中心となり、仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が行われた。云々。
 社長の話の中の、仙台七夕への譲渡は正解。しかし「平塚の方が本場」というのは誤りだったわけです。

 ついでに「仙台七夕まつり」の由来も少々―。
 始まりは、江戸時代初期の仙台藩祖・伊達政宗公の肝入りでとも言われますが、詳細は不明のようです。ただ1783年(天明3年)の有名な「天明の大飢饉」による荒廃した世俗の世直しを目的として藩内で盛大に七夕祭りが行われ、以来江戸末期まで続いたようです。その後明治新政府による新暦採用により、七夕の風習は廃れる一方でした。
 1927年(昭和2年)この事態を憂えた地元商店街の有志らによって大規模な七夕飾りが飾られました。すると大勢の見物客で大賑わいだったそうです。これが仙台七夕まつりの原点と言えるもののようです。
 ただ第二次世界大戦の戦局悪化により縮小の方向に行かざるを得ず、それに仙台も平塚と同じように空襲で焼け野原となりました。戦後の1946年(昭和21年)52本の竹飾りをし、復活の兆しが見えました。翌47年(昭和22年)昭和天皇の巡幸の際には、沿道に5000本もの竹飾りで天皇をお出迎えし、これが完全復活になったようです。その後高度経済成長期には、東北三大祭りの一つに数えられ、日本全国から団体客が大勢押しかけ、日本有数の七夕まつりとなって今日に至っています。

 …午後3時前帰路につきました。ルートは金目川(かなめがわ)という秦野市方面を上流として、相模湾に注ぐ中河川沿いの道を秦野市方向に向いました。そのまま川沿いにずっと進めば、以前ご紹介した東海大学湘南キャンパスの校門が道の右手に見えます。その何キロか手前を右折して、小田原厚木道路の側道に入るのです。
 この道を走っていますと、ちょうど真正面に大山が見えています。厚木市から望む大山は、その右手に一連なりのように少し低く丹沢連峰が並んで見えます。しかしこちらから望む大山は、丹沢連峰がその陰に隠れている按配で、大山の秀峰だけが強調されている感じです。この道は以前からずいぶん通ったはずなのに、今まで気がつきませんでした。
 新しい発見ですが、この方向からの大山も実に秀麗です。本日上空に少しグレーの雲で覆われているものの、深緑(ふかみどり)色した大山はその全容を余すところなく現しています。ただし、厚木市で見られるよりは幾分遠い感じなのが難点です。

 と、そのずいぶん左手の方向に、大山以上に美麗な富士山の姿が見えているではありませんか。麓から中腹にかけて幾分白い雲に包まれているものの、その濃紺の気高い全貌がくっきりと望まれます。山頂から縦に幾筋かの残雪の富士が、また素晴らしいのです。
 確か7月1日に「富士のお山開き」があったはず。こんなに隔たっていては確かめようがないものの、この時分にも山頂目指して登っている人もずいぶん多いことでしょう。

 小田原厚木道路沿いは何度も述べましたとおり、まだまだ豊かな田園が広く残っています。水田の青苗も、畑の里芋の大ぶりな葉群も、玉蜀黍(とうもろこし)葉群も。輝く陽光のもと、一帯がすっかり夏野になっておりました。

 夜何度か外に出て夜空を見上げました。夜が更けるとともに、雲は切れ出しました。ですから幾つか強い光を放つ星は認められるものの、彦星、織女星の今夜の主役星は探し出せませんでした。ましてや天の川の所在などからきしダメで…。やはり夜光都市での星探しは無理のようです。
 加えて今夜は旧暦6月15夜の満月です。雲を払って、夏満月が煌々と光を放っていることも多分に影響しているのかもしれません。
 空地の方々から、(既に6月下旬頃からですが)早や虫の声が聞こえています。ただ秋虫よりは、まだか細い鳴き音(なきね)です。やや強い風が吹き渡っています。日中の暑さにさらされた身を元から冷ましてくれそうな心地よい夜風です。
 そういえば、金目川沿い道で信号待ちしている時気がついたのですが、川の葦原の上を何と気が早いことに赤とんぼがけっこうな数、すいすい飛んでおりました。 
 
 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

俳句を始めた頃(3)

 俳句を作ろうと思い立った当初、私の俳句心得は、俳句とは五・七・五の十七音で季語を一つ入れて作るものという、初心者の域を出ないものでした(でも後々分かったことには、この基本こそがいつの場合も句作で最も大切なのです)。当初は、入門書や歳時記や有名俳人の名句集など何一つ用意せず、ぶっつけ本番で『とにかく俳句を作ってみよう』という甚だ無謀なものでした。

 しかしいざ句作に取り組んでみると。子供の頃からどちらかというと、知的関心があっちこっちと分散、拡散しやすい散文タイプの私にとって、予め「十七音」に制約されている俳句という詩形を作るということは予想外に難しいことでした。例えば「すすき」という秋の風物を目の当たりにすると、その周辺の事物の連想が広がり『あれも、これも句の中に盛り込みたい』となってしまって収拾がつかなくなり、一句として凝縮、収斂させていくのが困難だったのです。
 それに(当時)50歳という年齢も意識され、いくら初心者でも子供じみた稚拙な句は作れない、というような変な気負いのようなものもあったと思います。

 こうして、一句目がなかなか作れずに何日も過ぎてしまいました。しかしある時、俳句を作るのは人様に読んでもらうためではない、あくまで自分の能力開発の一環なんだと思い直し、目先の事物をとにかく一句にまとめてみようと思い立ちました。そしてまた「すすき」を一句だけでまとめようとするからかえってまとまらないのであって、関連した句を幾つ作ってもいいじゃないかと考えることにしました。
 これ自体は、アィデア創出法の一つである「ブレーンストーミング法」にならったやり方だったかもしれません。通常は会議などで、良し悪しを一切判断せず参加者に自由気ままにアィディアを出させる手法ですが、私は句作に当たって「一人ブレーンストーミング法」を試みたことになります。

 そのためには、字余りでも季語がない句(無季句)でもなんでも構わない。散文、雑文でも構わないから、思いつくままどんどん作ってみよう、ということになったのです。そうして思いついた「俳句もどき」を、用意した一冊の小さなノートに次々に筆記していきました。後で気がついたことですが、自前のにわか俳句手帳だったわけです。
 すると大いに気が楽になって、「十七文字」がポツリ、ポツリと出てくるようになりました。大変お恥ずかしい話しながら、時には変なエロの句も飛び出してきました。それらを委細構わず、小ノートにどんどん書きとめていったのです。業務上車で少し遠い所に移動している時など、移り行く風景を眺めているうち途中から調子が乗ってきて、その日1日で100以上の句が出来た時もありました。

 こうして気がついた時には、小ノートは4、5ヶ月で「俳句もどき」でほぼびっしり埋め尽くされていました。数えてみますと、ゆうに1000句以上。当初のそのプロセスは、長年私の心の奥深くで重く澱んでいたものが、これをキッカケに表面に浮上させられた具合でした。そのため作ったものの大半は、自分自身で後で読み返しても恥ずかしいようなもので、とても公に出来るようなシロモノではありませんでした。
 しかしそれが呼び水となったのか、途中から10数句に1句くらい(あくまで初心者の判断ながら)『んっ。これはいけそうだぞ ! 』という上澄みのような句が、ポツリポツリと混じり出したのです。例えば上に例に出しましたすすきの句として当時出来たのは、以下のようなものです。
   薄穂(すすきほ)のそこだけさはなる夕の風   (拙句)
 なお「さは(さわ)なる」は、「多なる」の古語、雅語として用いたものです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

裕次郎二十三回忌

 テレビなどで既にご存知かと思いますが。石原裕次郎の二十三回忌法要イベントが5日、東京・国立競技場で盛大に行われました。
 会場となった競技場内には、聖火台の下に立つ総持寺をモチーフにした壮麗な“裕次郎寺”が築かれ、その前には11万人以上のファンが列をなし、昭和の大スターを偲んだそうです。雨男の裕次郎の法要イベントとしては初めて雨が降らず、時折り日差しも差し込む空模様の中、石原軍団を率いる渡哲也(67)の音頭で「裕ちゃん」コールが唱和され、会場に大きくこだましたそうです。 (ネット版『中日スポーツ』より)

 なぜ総持寺なのか?さして裕次郎通でない私は初めて知りましたが、総持寺に裕次郎が眠っているからなのだそうです。そして会場内の度肝を抜くような“裕次郎寺”は、総持寺の太祖堂を模したものなのだとか。同寺からはこの法要イベントに、総勢120人もの僧侶が参加したとのことで、これまたびっくりです。
 
 ご存知の方も多いかと思いますが、横浜市・総持寺は福井県・永平寺と並ぶ曹洞宗の二大本山の一つです。個人的な話で恐縮ながら、当家も曹洞宗の最末席檀家の一家です。ですから母逝去の折りは、郷里に帰って当家が所属する曹洞宗寺院にて、親族だけでひっそりとした葬儀を執り行ないました。
 私は数年前のそのことが想い起こされ、彼我の違いをまざまざと感じながら、テレビで繰り広げられている盛大な裕次郎忌のニュースを眺めていました。
 
 曹洞宗の宗祖・道元の生涯を描いた映画『禅-Zen』が、今春公開されました。一末席檀家として是非観てみたいと思いつつ、つい観そびれてしまいましたが…。途方もなく高い仏法の境地を求め俗塵に対して峻厳だった孤高な道元禅師と、遙か後代の度肝を抜くような裕次郎法要イベントと。
 この落差は一体何なのだろうと、正直思いますね。泉下の裕次郎さんも、これで本当にお喜びなのかな?もしお喜びなら、裕次郎大居士院のあちらでのご境地まだまだなのでは?とも。

 私のような団塊の世代の者にとって、石原裕次郎は私らより一世代前のスーパーヒーローという感じなのです。今ひとつ私自身のヒーローという実感が湧きません。その分同法要に直接感情移入出来ずに、少し離れて冷ややかに見てしまうのかもしれません。
 第一私らが青年だった昭和40年代以降、時代は「英雄」つまり「ヒーロー」を必要としない社会に変貌していきました。その意味で昭和45年の三島由紀夫の死は、極めて象徴的だったと思われます。

 「英雄が必要とされない社会」。これに対する是非論はさまざまにあることでしょう。しかし私個人としては、結果的にこれで良かったんだと思います。
 もう外なる英雄、ヒーローを追い求め、担ぎ上げる時代ではないのですよね。裏を返せば日常の一つ一つの身近な場面で、「私が」「オレが」ヒーローであり、ヒロインだということなのだろうと思います。すべては自己責任。もう外なるヒーローに頼り、すがれる時代ではないということです。そして事実、外なるいかなる権威にも頼れません。答えはすべて、自分自身の内側にあるそうですから。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

俳句を始めた頃(2)

 何日かクルミ回しを続けた結果は効果てきめんでした。それまでクモの巣が張られているようで何となくもやもやしていた頭の中が、少しずつ晴れていく感じがしました。それと共に失いつつあったやる気も、徐々に取り戻しつつあることが実感されました。

 手はよく「第二の脳」「脳の出先機関」などと表現されることがあります。実際最新の脳科学によりますと、手のひら全体また手の各指は脳の特定の部位と密接に関連し合っていると言われています。よってクルミ回しという一見何の変哲もない運動は、実は脳全体に直接的、間接的に大きな刺激を与えていることになるのです。ちなみに、左手は右脳へ、右手は左脳への刺激となります。
 とにかくこのシンプルな手の運動を、気がついた時特に夜寝る前や車で遠出した運転時など、1日15~30分ほど毎日続けるのを習慣にしました。我が錆びついた頭の機能が、少しずつ回復していくのが実感されました。特にやり始めの頃、普段なら夢はほとんど覚えていないのに、明け方しばしば鮮明な夢を見るようになりました。

 こうして頭と心が少しずつ元気回復して半年ほど経ったその年の秋頃、次に始めたのが「俳句」でした。クルミ回しが我が脳トレの基礎編なら、俳句はその応用編、実践編というべきものだったでしょうか。
 当時も今も、高度な脳トレあるいはボディワークは数多く存在します。しかしいかに高い成果が見込まれるとしても、長続き出来なければあまり意味はありません。その点何事も飽きっぽく三日坊主的傾向のある私には、この2つのワークはまさにうってつけだったようです。毎日欠かさずとはいかないまでも、今日に到るまで継続出来ているからです。

 何で俳句をと思いついたのか、今となっては仔細に覚えていません。しかし思い当たるのは、30代半ば頃(昭和60年頃)脳科学者・品川嘉也の著した『俳句は右脳から飛び出す』といういっぷう変わった俳句入門書を読んで、いたく感じ入ったことです。多分その時その本を思い出し、『イメージ脳である右脳を鍛えなければ。それには俳句が一番いいのでは?』と思ったのだろうと思います。

 俳句は中学2年の国語の授業で、(当ブログ『名句観賞』でも取り上げた)高浜虚子の「桐一葉日当たりながら落ちにけり」「流れ行く大根の葉の早さかな」などの句を教わり、社会人になってから河出書房版・日本文学全集中の『現代詩歌集』の、子規、虚子、飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男といった有名俳人の句をぱらぱらと拾い読みしたくらいでした。
 いや中学時代詩作を始めた頃、実は句作を試みたことがありました。しかし頭をひねりにひねってようやく出来たのは、
    世の波に忘れられゆくすすきかな  (拙句-中学3年)
という一句だけという、大変お寒い状況でした。以来俳句を作るのは大変難しいというのが、私の固定観念となっていたのでした。

 その後30数年も経ってから、改めて俳句に取り組もうというのです。しかしその後人間社会の大波にもまれて、さまざまな人生経験を積んできた大人なのだから、今度は俳句を作るのは簡単だろうと思ったらさにあらず。いざ句作を試みても、やはり難しくてなかなか一句として形になってくれないのです。
 10年前俳句について知っていたことと言えば、原則として一句は五・七・五の十七音であること、そして一句の中に「季語」を一つ入れるということだけでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

俳句を始めた頃(1)

 『梅雨の名句(3)』で鷹羽狩行について述べながら、私が俳句を始めた頃のことを思い出していました。今回はその頃のことを述べてみたいと思います。

 私が拙い俳句を始めたのは、今から10年ほど前のことです。
 その頃は現業務を開業して2、3年ほど、また自宅で母を介護して1、2年ほどでした。その頃は思うように業務が確保出来ず、その上連日の母の介護による疲れ、両方から知らず知らずのうちに身心にストレスがかかっていた時期でした。
 今考えれば、当時は軽いうつ病にかかっていたのではないかと思われます。何となく諸事やる気が湧かなかったのです。また例えば深夜母のその日の介護を終えて、座イスを適当に倒しながら身を横たえ見るともなしにテレビを見ていますと、『死にたい』という想いが意識の表面に上ってくるのです。次の瞬間『そんなことを考えてはダメだ』と打ち消せるほど軽症なものながら、その想いは毎晩のように続きました。

 また同時期、若年ボケのような症状も自覚されました。とにかく我ながら呆れるほど、物忘れやとんでもないポカが多かったのです。お客や横浜の県庁窓口に行ったのに、肝心な書類などを忘れてお話にならず、出直しというようなことがけっこうありました。
 『これは放置していたらとんでもないことになるぞ』。早めに何とかしなければと焦りました。何かリハビリの必要性を痛感したのです。しかし当初は何をどうすればよいのか、皆目見当がつきません。しかし先ず思ったのは、『頭の働きを元どおりにしなければ…』ということでした。
 人間の「力」というものを「知力」「体力」に大別した場合、私は若い頃から体力の方はからきし自信がありませんでした。そのため(元々有るか無きか分からないながら)ともかく知力だけが私のすがるべき力なのでした。なのに『肝心の頭がダメになってしまったら…』、それこそ私という人間の一巻の終わりだと思いました。

 そこでボケ症状を直し、知力を取り戻すにはどうすれば良いのか?その方法は意外なところで見つかりました。多分ビデオだったと思いますが、以前評判になった映画『梟の城』(司馬遼太郎原作)を観ていた時でした。その中で戦国武将の前田利家が、居城にいて家臣の者に何事か指示する、というようなシーンがありました。見ればその時利家の手のひらには3個のクルミの実があり、それをくるくる回していたのです。
 途端に『これだ ! 』と思いました。そこでクルミの実をどこからか探し出すことが、当面の懸案事項ということになりました。

 とは言っても、それはそう簡単には見つけられないだろうと思っていました。しかし必要を強く感じているものはどこからか手に入るもののようです。
 時は3月上旬早春の頃のことでした。中津川堤防道のことは、当ブログでしばしば述べてきました。ある午後、いつもの地点より下流(大堰より数百メートル下流)の堤防道端に車を停めて、そこから川に降りて行ったのです。その辺では川の本流は向こう岸側にあり、こちら側はわずか1m弱のちよろちょろとした流れがあるばかり。早春の午後の日を浴びて輝いている細い流れをまたいで、広い中州に入って行きました。
 というのも、そこの州に胡桃の木が3本ほど植えられているのを知っていたからです。その季節葉はすっかり落ちた裸木になっていました。ひょっとしてその木の下に実が落ちていないだろうか?と淡い期待を抱いて木の根元に向ったのです。

 すると、そこら一面に実がどっさり落ちていたのです。思わぬ展開に小躍りしながら、『どうせ今もって誰も拾っていないんだから…』とばかりに、私は一心にクルミの実を拾いました。既に皮は無く黒くて固い殻むき出しの実を、コートとズボンのポケットいっぱいに、詰めるだけ詰め込みました。(なお3本ほどの川中の胡桃の木は、現在では伐採されてもうありません。)
 そして家に持ち帰って、早速その日から掌でのクルミ回しトレーニングを開始しました。当初は回しているうちに、殻表面の黒っぽいのが手に付着したりしましたが、構わず回しているうちに徐々にピカピカ光るほどツヤが出てきました。と共に天辺の角もとれて、より滑らかに回せるようになりました。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

『天地人』について(13)

 本シリーズ(12)以来だいぶ間があいてしまいました。前回は第23回「愛の兜」についてでしたが、それから「戸惑いの上洛」「天下人の誘惑」「関白を叱る」と第26回まで、3回分も進んでしまいました。
 この3回は、上杉景勝(北村一輝)と直江兼続(妻夫木聡)主従の「初上洛シリーズ」といったところでした。この上洛シリーズ、私は素直にまあまあ面白かったと思います。

 なぜだろう?と考えてみました。理由は意外にも簡単で、ドラマの舞台が一気に戦国時代末期の中心地である京都、大坂に一時的に移ったこと。そしてまた織田信長亡き後の戦国大スターである豊臣秀吉(笹野高史)を中心とした、名だたる戦国スターたちが勢揃いしたためです。
 秀吉以外に、徳川家康(松方弘樹)、前田利家(宇津井健)、福島正則(石原良純)、石田三成(小栗旬)、千利休(神山繁)、北条氏政(井吹吾郎)、真田幸村(城田優)…。それら戦国豪華スターたちの中に立ち混じって、景勝、兼続の名門・上杉主従がお家の面子にかけていかに立ち回ったのか?
 おそらく今回の上洛シーンの多くはフィクションであるとしても、当時の歴史的中心地で上杉主従を巻き込んで繰り広げられた人間模様がけっこう楽しんで観られたのです。

 これは何度も述べることですが、やはり戦国ドラマは戦国スターたちによる戦国絵巻が展開されないと面白くありません。例えば越後の直江家の兼続とお船(常盤貴子)の家庭の事情を情緒的に描かれても…。それは現代的メロドラマのテーマを戦国時代にただ移し替えたに過ぎず、これでは面白くない、つまらないとなりがちだと思いますがいかがでしょうか?

 ここで上洛シリーズにおける主要キャスト評を―。
 まず秀吉役の笹野高史についてです。どちらかのブログで、笹野高史は『釣りバカ日誌』での運転者役のイメージが強すぎて、天下人秀吉の風格などありゃせんよ、というような批評がありました。私は幸いにも(?)同映画はあまり観ていませんので、運転手笹野がどういうものなのかイメージが湧きません。
 笹野高史には申し訳ありませんが、「猿のようだった」と評される秀吉の風采には、まさに打ってつけなのではないでしょうか?信長(吉川晃司)存命の頃は、秀吉の特異なキャラクターを誇張し過ぎな演技がいささかハナにつきました。しかし天下人になった現在の秀吉役としては、なかなかさまになっていると思います。

 誇張し過ぎといえば、松方弘樹の徳川家康にもその傾向が見られます。秀吉、家康(ついでに言えば石原良純の福島正則も)を戯画的に演じさせる、これは今回のドラマの演出家、脚本家の方針によるものなのでしょう。
 いずれ秀吉は死に、家康が戦国の世にピリオドを打つことになります。そのプロセスでもなお戯画的に演じさせるのだろうか?あるいは、松方弘樹はどのような家康像を作り上げていくのだろうか?今後注視していきたいと思います。

 何日か前、「小栗旬 目で演技する凄み」というような検索フレーズで本シリーズにアクセスしてこられた人がいました。なるほど言われてみれば。今回の「関白を叱る」の中で、北条家から逃げてきた初音(長澤まさみ)の扱いをめぐって、三成の屋敷で三成と兼続が差しでやりとりするシーンがありました。襖一枚へだてた次の間で、初音は耳そば立てて二人のやり取りを聞いている。その時、小栗旬の「目の演技の凄み」を感じました。
 私の中で「小栗旬映画監督効果」が生じたのか、小栗三成を少し(だいぶ)見直しつつあります。小栗は26歳、主役の妻夫木は27歳。妻夫木の方が一歳年上ながら、役者の力量としては小栗旬の方が上なのかな?と感じられます。

 その他今回私が特に触れたいのは、(おそらく架空の人物に違いない)千利休の娘で上杉主従の上洛中の世話係のお涼役の木村佳乃です。
 個人的な好みで大変恐縮ながら、私は実は現在の日本の女優の中で木村佳乃が一番のお気に入りなのです。彼女は、日本航空の幹部だった父親の赴任先のロンドン生まれだそうです。小学時日本に帰国したものの、中学時今度は父親の転勤でニューヨークで。高校からようやく日本に住み続けることになった、ばりばりのバイリンガルなのです。
 にも関わらず、私は以前から木村佳乃に、日本女優の伝統的気品のようなものを感じるのです。そのような女優さんは、吉永小百合以来本当に数少なくなりましたから。今回のお涼役もぴったりはまっているようです。

 またその父親の千利休役の神山繁。神山利休もなかなか良い味を出しています。今後悲劇的最期をどのように演じるのか、今から楽しみです。

 今回もキャストなどをめぐって、「天地人評」を気楽に述べてみました。上杉主従が越後に戻った途端、また「戦国越後版メロドラマ」に先祖帰りしませんように(既に今回のラストでその徴候が見えていました)。ドラマチックな、上杉版戦国絵巻を期待したいものです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨だより(4)

   キキと鳴き嬉々(きき)と飛びたり雨つばめ   (拙句)

 ここ何日か雨が降ったり曇ったりの梅雨らしい日が続いています。むしむししてうっとうしい感じはあるものの、真夏の暑さではない分しのぎやすいというものです。雪国生まれで猛暑に弱い私にとっては大助かりです。それでも今月中旬過ぎにはほぼ間違いなく梅雨は明け、以後9月初旬頃まで連日の暑さが続くと予想されるわけで…。今から夏バテしないよう、しっかりと心構えをしていきたいと思っています。

 近所のとある家の垣にバラが広がっています。5月中旬頃そこには真紅の美しいバラの花が幾つも咲き誇っていました。その後6月に入って気がついた頃には、そこのバラの花は消えていました。
 それが本日たった2輪だけですが、また見事な花を咲かせていました。緑の葉群の中、真っ赤なバラですから、遠目にもすぐに分かるのです。同じ夏の間ながら、これも戻り花というべきなのでしょうか。
                         *
 マイケル・ジャクソン(50)が急死して、早や一週間ほどが経過しました。マイケルは生前から私生活をあまり覗かせず、ミステリアスな部分の多い人物でした。いな謎が多いゆえに、スーパースターだったのかもしれません。今の日本の芸能界のようにすぐに私生活がフォーカス・フラィデーされてしまう状況では、スーパースターは育ちにくいのかもしれません。何の神秘性もミステリアスもなくなってしまうからです。
 マイケルの死因をめぐってはさまざまな揣摩(しま)憶測を呼びました。莫大な彼の遺産の行方も気になるところです。
 私は急死後何度か記事にしようと試みました。しかしマイケルという存在が大きすぎることと、あまりよく知らないこともあいまって、一文としてまとめるのは大変です。今後もしうまくまとまりましたら、公開したいと考えております。

 我が国の政界模様もこの梅雨空と同じくどんより澱んだ状況が続いています。これを一気に晴らすには解散総選挙しか方途はないはずですが、依然ずるずると先延ばしの方向です。
 今回の東国原英夫宮崎県知事入閣問題にしても、結局小粒だった内閣改造人事にしても、麻生内閣、自公政権の小手先だけの延命策ばかり。もういい加減にしてよ ! というところですが、今日のこのような閉塞的状況を招いた責任は、そもそも私たち国民にもあります。
 考えてみれば、自公政権は現在絶対多数の議席数を占めているわけです。そう簡単に解散などするはずがありません。選挙をすれば減りこそすれ、まず増は見込めないわけですから。だったら任期いっぱいまで引き延ばそうじゃないの、となるのが人情というものです。

 これは小選挙区制度の怖さでもあります。やはり私たち国民は、不用意に一つの政党に絶対安定多数を与えてはダメだということだろうと思います。今回のように解散は任期満了までずるずる引き延ばされるは、その間国民の審判を仰ぐことなく何人も総理大臣が変えられるは、数の力を頼りに2/3の衆院再議決を乱発して慎重審議なしの法案が可決されるは…。
 かえって国政の停滞、閉塞を招くばかりで、国民にとっていいことはあまりありません。まるで「一億総霊がかり」のようだった、先の郵政選挙から私たちはどれほどの教訓を得ただろうか?なりふり構わぬ自民党による東国原擁立問題、それをほぼ無批判で垂れ流し報道する大マスコミ…。少なくとも「権力側」は何も変わってはいません。後は私たち国民がそれらに影響されることなく、どれほど冷静な国政判断が出来るかどうかにかかっていると思われます。
                         *
 早朝はざあざあ降りだったものの、少しして雨は上がりその後は終日曇りでした。
 夕方市街地を離れて愛川町方面に車を走らせました。車道の右片側(そのずっと先は中津川)には、何十枚も見渡す限りの田んぼが広がっています。たまに農家がポツンと点在し、道際に消防署分署があるくらいなもの。そちら側は市街化調整区域で開発から免れているのです。
 昔なら日本全国どこででも見られた田園風景は、今はこのようにごく限られた場所でしか見かけられなくなりました。でも青々と伸び広がる苗のさまが目に心地良く、チラッチラッとそちらの方に顔を向けながら運転していました。

 途中つばめが私の向うすぐ前を低く滑空しています。以前にも書きましたが、つばめたちはこういう曇り日が本当に大好きみたいです。田んぼといわず道路といわず、嬉しさが伝わってくるようにすいすい飛び交っています。『おい。ぶつかるぞ』と冷や冷やしながらも、そこはつばめたちも慣れたもの。際どいところで、すいとばかりに優雅に逸れていきます。
 暑くなって涼しいお国に行くまで、梅雨の間はまだ当地で滑空を楽しみたいようです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

梅雨の名句(3)

                  鷹羽 狩行

   黴(かび)の世の黴も生きとし生けるもの

  …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 鷹羽狩行(たかは・しゅぎょう) 1930年(昭和5年)山形県新庄市生まれ。父親の仕事でその後幼少を広島県尾道市で過ごす。本名、高橋行雄。中央大学法学部卒業。1946年俳句を始め、山口誓子、秋元不死男に師事。1978年から俳誌「狩」を主宰。
 1965年句集『誕生』で俳人協会賞、1974年句集『平遠』で芸術選奨新人賞、2002年句集『翼灯集』『十三星』で毎日芸術院賞、2008年句集『十五峯』で詩歌文学館賞、蛇笏賞をそれぞれ受賞。俳人協会会長、日本文学者協会理事。十数冊の句集のほか、評論集『古典と現代』『俳句の魔力』、入門書『俳句のたのしさ』『俳句を味わう』その他がある。
 俳句表現における言葉の選択を重視する。鋭い感覚、奔放で大胆な表現が特色。
 (フリー百科事典『ウィキペディア』「鷹羽狩行」の項などを参照)

 着想が実にユニークで面白いと思います。
 黴はどなたもご存知のとおり、食物、衣類、住居などに生える青かび、黒かびなどがあります。特に梅雨の今頃の湿度と温度により発生しやすい菌類の一種です。各季節の万般に関わる事物を広く網羅して詠む俳句ならではですが、黴も立派な「夏の季語」なのです。ですから黴を題材に詠んだ句は、他にたくさんあると思います。歳時記などにも「黴の例句」が並んでいます。

 しかしこの句がそれら例句の中でもひときわ抜きん出ているのは、発句においてこの世界を「黴の世」と、ドーンといきなり規定していることです。
 これには思わずハッとさせられます。まるで不意打ちを食らったような、意表を衝いた表現です。でも後で冷静に考えてみますと、『なるほどそうも言えるよなあ』と思わせられる説得力がある句だと思います。

 鷹羽狩行による「新しい世界観の樹立」と言ってもいいような、斬新かつ独創的な表現です。

 お偉いさんがわんさかひしめく「人の世」に対して、どちらかといえばその人々から嫌われがちな「黴の世」。確かに、中には人間にとって毒になる黴もないではないが…。
 1940年初めての抗生物質・ペニシリンは、アオカビの分泌物から抽出されたのではなかったですか。また日本酒、焼酎、醤油、味噌という我が国の食文化に欠かせない基本的なものは、皆々コウジカビのお世話になっていますし。ブルーチーズはアオカビで、カマンベールはシロカビで…。

 高尚で優雅な花鳥諷詠も素晴らしいけれど。普段人間様がとんと眼中にないこのような素材に着目して詠むこと、これこそまさに俳諧味の本領発揮であるわけです。

 続く2句、結句の「黴も生きとし生けるもの」。思わずウーンとうならされます。鷹羽狩行という人の、「生きとし生けるもの」への暖かい眼差しが感じられるからです。
 普段私たちが気にとめもしない黴がもしそうであるならば。他の生きとし生けるもの、例えば牛、豚、猿、犬、猫、鰐(わに)、蛇、鳥、魚、蟻(あり)、蜘蛛(くも)、草、花、苔(こけ)……。まさに生物連鎖、無限に広がっていきそうです。
 このうちどれか一つでも欠けてしまえば、もうその時点で生物連鎖は途切れてしまうわけです。自然界のかくも見事な連鎖をもうこれ以上途切れさせないためにも、私たちはこれらの一つ一つを大切に思い、もっともっと関心と愛情を注ぐ必要がありそうです。

 私たちの「人の世」はもちろん大切です。同時に「黴の世」も「牛の世」も「猫の世」も「蟻の世」…も、皆々それと等価値で大切だと思うのです。

 (大場光太郎・記)

| | コメント (0)
|

« 2009年6月 | トップページ | 2009年8月 »