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梅雨の名句(4)

                桂 信子

   ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき

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《私の観賞ノート》
 桂信子(かつら・のぶこ) 大正3年、大阪市生まれ。本名、丹羽信子。大手前高女卒。昭和13年、日野草城門に入る。45年「草苑」を創刊、主宰。52年、第1回現代俳句女流賞受賞。平成4年、第26回蛇笏賞受賞。句集に『月光抄』『女身』『晩春』『新緑』『初夏』『緑夜』などがあり、ほかに『草花集』『信子十二か月』のエッセイ集がある。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 これは女性ならではの句です。「ふところに乳房ある」ことがどうして「憂さ」となるのか、世の男どもには皆目分かりませんから。そして世の女性すべてがそのように感じるものなのか、それともそれは桂信子という俳人独特の感覚だったのか?それすらも分かりません。

 俳句のみならず「詩」というものは、作る者の独特な感性、ものの見方で捉えた事象を、独自の詩的世界として描き出すものです。その詩がそれまで使い古された月並みな表現を脱して、独創性を発揮しているほど、読み手は面白く感じるわけです。
 その意味でこの句などは、女性特有の感覚を俳句として詠みこんだ点で大変ユニークな句であるといえます。(そのため今回こうして取り上げたわけです。)

 しかしいくらユニークであっても、その俳句の中に普遍性がなければ、幅広い読者の共感を得ることはできません。この句は昭和30年刊句集『女身』に収録され、以来広く読み継がれてきた句ですから、やはり何らかの普遍性がありそうです。
 
 じとじとと湿気の多いうっとうしい梅雨時、特にふところに汗がにじみ、にわかに乳房が意識され物憂く感じられてきた。そのような表面的な大意ばかりではなく、この句は「乳房を有する性」「我が子に授乳させる性」つまり女性であることの、根源的なメランコリー(それこそが普遍性)にもつながっていると思われます。
 しかしそのメランコリーは、少なくとも昭和30年以前に桂信子が感じたもの。以来半世紀以上が経過して、その間「女性の意識」は大きく変化しました。だから同じようなことを、今日の女性も感じるものなのか?これまた世の男どもにとっては謎というものです。

 ともかくも、「梅雨」という季語が、「憂さ」を表わすのに実によく効いていると思います。

 (大場光太郎・記)

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