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七夕だより

   雲切れて七夕富士の全容(すがた)かな   (拙句)

 7月7日七夕のきょうは、久しぶりの梅雨晴れ間の一日となりました。それでも午前9時過ぎいったん曇りだし、どっちに転ぶか分からないような空模様となったものの、昼が近づくにつれて日差しが優勢となり、後は気温もぐんぐん上昇し、夏そのものの一日となりました。そういえば本日は、七夕であるとともに、二十四節気の「小暑」でもあります。
 ただ空全体を、梅雨雲ではないものの薄白色の雲が覆っており、『これじゃあ、彦星も織姫星も見られないな』と、日中から何となく予想されました。

 昼過ぎお隣の平塚市に向かい、同市内の不動産会社を訪問しました。
 その話のついでに、「いい天気で(平塚の)七夕、きょうはさぞ賑わっているでしょうね?」と私。すると同社社長は「何言ってんですか。七夕は日曜日で終わっちゃいましたよ」。「えっ。そうだったんですか。ずいぶん早かったんですねぇ」
 新暦7月7日の七夕の日を待たずに、その2日前に七夕まつりが終わってしまうとは。いくら何でもちと早過ぎませんか?平塚市さん。しかし実際そのとおりらしく、同社長いわく、平塚市紅屋町(べにやちょう)の大通りを華々しく飾った七夕飾りは、旧暦(新暦8月)で催される仙台の七夕まつりにずいぶん流用されるのだとのこと。
 「こっちが本場なのに、いつの間にかあっち(仙台)の方が有名になっちまって」と社長。『んっ、ホントに?』。その言葉は出さずに飲み込みました。

 気になって後で調べてみました。平塚七夕、去年までは7月7日と土日をはさんだ数日間行われていたものの、今年からは7月第一木曜日からの4日間(つまり次週日曜日-今年は7月5日まで)に変更されたもようです。なお平塚市が7月開催にしている由来は、平塚七夕が始まった戦後間もなくの頃は新暦による開催地がなく注目度が集まることや、飾り物が旧暦の開催地に対して譲渡出来る(やっばり ! )利点があるなどの理由によるもののようです。
 平塚市は第二次世界大戦中、海軍火薬廠があったため米軍の攻撃目標とされ、1945年(昭和20年)7月の「平塚空襲」で焼け野原となりました。終戦後の1950年(昭和25年)7月に復興まつりが開催され、翌年平塚商工会議所、平塚商店街連合会が中心となり、仙台七夕まつりを模範とした第1回「平塚七夕まつり」が行われた。云々。
 社長の話の中の、仙台七夕への譲渡は正解。しかし「平塚の方が本場」というのは誤りだったわけです。

 ついでに「仙台七夕まつり」の由来も少々―。
 始まりは、江戸時代初期の仙台藩祖・伊達政宗公の肝入りでとも言われますが、詳細は不明のようです。ただ1783年(天明3年)の有名な「天明の大飢饉」による荒廃した世俗の世直しを目的として藩内で盛大に七夕祭りが行われ、以来江戸末期まで続いたようです。その後明治新政府による新暦採用により、七夕の風習は廃れる一方でした。
 1927年(昭和2年)この事態を憂えた地元商店街の有志らによって大規模な七夕飾りが飾られました。すると大勢の見物客で大賑わいだったそうです。これが仙台七夕まつりの原点と言えるもののようです。
 ただ第二次世界大戦の戦局悪化により縮小の方向に行かざるを得ず、それに仙台も平塚と同じように空襲で焼け野原となりました。戦後の1946年(昭和21年)52本の竹飾りをし、復活の兆しが見えました。翌47年(昭和22年)昭和天皇の巡幸の際には、沿道に5000本もの竹飾りで天皇をお出迎えし、これが完全復活になったようです。その後高度経済成長期には、東北三大祭りの一つに数えられ、日本全国から団体客が大勢押しかけ、日本有数の七夕まつりとなって今日に至っています。

 …午後3時前帰路につきました。ルートは金目川(かなめがわ)という秦野市方面を上流として、相模湾に注ぐ中河川沿いの道を秦野市方向に向いました。そのまま川沿いにずっと進めば、以前ご紹介した東海大学湘南キャンパスの校門が道の右手に見えます。その何キロか手前を右折して、小田原厚木道路の側道に入るのです。
 この道を走っていますと、ちょうど真正面に大山が見えています。厚木市から望む大山は、その右手に一連なりのように少し低く丹沢連峰が並んで見えます。しかしこちらから望む大山は、丹沢連峰がその陰に隠れている按配で、大山の秀峰だけが強調されている感じです。この道は以前からずいぶん通ったはずなのに、今まで気がつきませんでした。
 新しい発見ですが、この方向からの大山も実に秀麗です。本日上空に少しグレーの雲で覆われているものの、深緑(ふかみどり)色した大山はその全容を余すところなく現しています。ただし、厚木市で見られるよりは幾分遠い感じなのが難点です。

 と、そのずいぶん左手の方向に、大山以上に美麗な富士山の姿が見えているではありませんか。麓から中腹にかけて幾分白い雲に包まれているものの、その濃紺の気高い全貌がくっきりと望まれます。山頂から縦に幾筋かの残雪の富士が、また素晴らしいのです。
 確か7月1日に「富士のお山開き」があったはず。こんなに隔たっていては確かめようがないものの、この時分にも山頂目指して登っている人もずいぶん多いことでしょう。

 小田原厚木道路沿いは何度も述べましたとおり、まだまだ豊かな田園が広く残っています。水田の青苗も、畑の里芋の大ぶりな葉群も、玉蜀黍(とうもろこし)葉群も。輝く陽光のもと、一帯がすっかり夏野になっておりました。

 夜何度か外に出て夜空を見上げました。夜が更けるとともに、雲は切れ出しました。ですから幾つか強い光を放つ星は認められるものの、彦星、織女星の今夜の主役星は探し出せませんでした。ましてや天の川の所在などからきしダメで…。やはり夜光都市での星探しは無理のようです。
 加えて今夜は旧暦6月15夜の満月です。雲を払って、夏満月が煌々と光を放っていることも多分に影響しているのかもしれません。
 空地の方々から、(既に6月下旬頃からですが)早や虫の声が聞こえています。ただ秋虫よりは、まだか細い鳴き音(なきね)です。やや強い風が吹き渡っています。日中の暑さにさらされた身を元から冷ましてくれそうな心地よい夜風です。
 そういえば、金目川沿い道で信号待ちしている時気がついたのですが、川の葦原の上を何と気が早いことに赤とんぼがけっこうな数、すいすい飛んでおりました。 
 
 (大場光太郎・記)

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