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白い夏野

              高屋 窓秋

   頭の中で白い夏野になってゐる

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 高屋窓秋(たかや・そうしゅう) 略歴は『名句観賞』中の『桜の名句(4)』参照のこと。

 以前取り上げました「ちるさくら海あをければ海にちる」もそうでした。高屋窓秋は、一貫して口語調の秀句を作り続けた俳人です。ついつい気取って、「頭の中で白い夏野になりゐたり」あるいは「頭の中で白い夏野でありにけり」などと読みたくなるところです。そこをあえて「白い夏野になってゐる」。通常の口語文のような平明さです。

 この句が出来たのは昭和7年(窓秋22歳)の頃のようです。そういう時代背景を考えれば、それだけでこの句は十分に革新的だったのではないでしょうか。

 ところでこの句の場合問題となるのは、発句の「頭の中で」の読み方です。この俳句を取り上げている中には、「頭(づ)の中に」とわざわざルビをふっているものもあります。そう読むと五・七・五の定型となり、確かにスムーズです。しかし一方では『はあっ。頭を“づ”とはどういうことだ』という違和感もまたあります。

 ですから私は以前から「頭(あたま)の中で」と読んでいました。そうすると七・七・五となり破調句ではあるものの、何となく納得して読めるのです。

 今回この句を取り上げるにあたって、それについて少し調べてみました。そうしたら窓秋自身『百句自註』の中で、「普通、五・七・五に則って読めば“ヅ”であるが、作者のぼくの中では“アタマ”としていた」と述べています。やっぱり ! ここはだいぶ字余りではあっても、素直にそう読んでいいのではないだろうかと思います。

 この句の革新性は、破調句であること、口語調であること以上に、二句目の「白い夏野」にあると思います。言うまでもなくこの句の季語は「夏野」です。歳時記・夏をひも解かれればお分かりかと思いますが、夏野はまた「青野」でも置き換えがききます。あらゆる草木が青々と繁茂する夏の野なのですから、当然といえば当然です。

 しかし高屋窓秋は「青い夏野」などと陳腐な詠み方はしません。通例に背くように「白い夏野になってゐる」。これが22歳だったという青年俳人のシャープな感性であり、類い稀な革新性だったと思われます。
 当時の俳壇はさぞ驚いたことでしょう。大変な衝撃だったかもしれません。私が知る限り、夏野をこのように詠んだのは後にも先にも窓秋ただ一人です。

 しかしよく考えてみますと、現実の夏野(あるいは真夏の街でも)を目の当たりにすると、何となく白っぽく感じることがあるものです。あまりに強い夏の日差しが、野原全体の草木の深緑色さえ漂白したように感じられるからなのでしょうか?

 さらに考えれば「頭の中で」と言うからには、窓秋は現前している夏野を詠んでいるのではないのかもしれません。それは遠い記憶の中の少年時代の夏野。確かに、遠い記憶の中の夏の景色ほど、なぜか白っぽい景色となって思い出されてくるようです。

 (大場光太郎・記) 

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