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アウシュビッツの聖者・コルベ神父(1)

 8月15日終戦の日を期して、「二木紘三のうた物語」の『長崎の鐘』にコメントすべく、ネットで資料をあたりました。同コメントの中で、長崎と縁が深かったコルベ神父のことにも触れたくなり、少し同神父の事跡について検索してみました。すると本日8月14日が同神父の記念日であることを知りました。
 「アウシュビッツの聖者」と讃えられたコルベ神父は、1941年8月14日同収容所で殉教したのです。それを記念して,カトリック教会においてこの日を同聖人の日と定めたようです。

 コルベ神父については、昨年6月の『バラの思い出(番外編)』において少しご紹介しました。すなわち同神父は、才気煥発、いたずら盛りの幼少時、聖母マリアの示現を受け、聖母より「純潔」と「殉教」を意味する赤白2本のバラ(異説では、赤白2つの冠)を授けられたというエピソードについてでした。
 とにかくコルベ神父は規則に厳格なヴァチカンが、列聖(聖人と認めること)したほどの霊的巨人です。また彼は、もし仮に信仰者の道に進まなかったら、科学者として大きな業績を残しただろうと言われるほどの天才です。だから私たちとは無縁な人だったのだろうか?私は決してそうは思いません。キリスト者という特殊な分野ではあっても、コルベ神父の残した足跡は、人類全体にとっての一つの偉大な道しるべとなるはずです。
 今回は同神父の足跡を簡単に述べてまいりますが、どうぞそのことを踏まえられまして、最後までお読みいただければ幸甚です。
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 マキシミリアン・マリア・コルベ(本名ライムンド・コルベ)は、1894年ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで生まれました。聖母示現によって信仰に深く目覚めたコルベ少年は、13歳の時当時のガリシア国の首府・ルヴォフにある宣教師養成所であるコンベンツァル聖フランシスコ修道会に入会し、聖職者としての第一歩を歩み始めます。
 1911年18歳の時、同修道会の上長たちはコルベが卓越した才能に恵まれていることを発見し、ローマのグレゴリアン大学(大神学校)に入学させることに決定します。このローマ留学中の1914年、第一次世界大戦が勃発します。しかし「神を愛する人にとり、すべてが、戦争さえもが有益なのである」。第一次世界大戦はコルベを成長させ、第二次世界大戦は彼に栄光をもたらすことになったのです。

 マキシミリアン修道士(コルベ神父のこと)は、大学の時から「鉄のような論理」に生きており、彼ほど信仰上の幻想から遠い人は稀だったといわれています。明晰な思考、科学者のような緻密な知性こそが彼に備わった特質だったのです。
 彼はあらゆる学科に秀でていましたが、特に数学に優れ、どんな偉い教師をもやり込めることが出来たそうです。当時学長を務めていた神父は、「私の手にゆだねられていた人のうちで、(マキシミリアン修道士は)最も優れた頭脳の持ち主でした。彼は“恐るべき知力”を持っていました」と述懐しています。

 このように稀に見る明晰な頭脳の持ち主だったマキシミリアン修道士は、同大学で優秀な成績を収め、受けるべき試験は「賞賛つきの最高点」で次々にパスしていきます。そして1915年には、21歳の若さで哲学博士の学位を獲得し、4年後には同じ熱意で神学博士の学位も獲得してしまいます。
 しかしそんな輝かしい日々の1917年の夏、突然の喀血続いて激しい出血が彼の体を襲いました。彼は生涯健康に恵まれたことは一度もありませんでしたが、この時は当時不治の病だった結核に冒されてしまったのです。

 だがしかし彼はその後も、自分の病気について語ることはありませんでした。神学生仲間は、彼が重篤な結核に罹患していることを全く知らなかったといいます。その頃から彼は激しい頭痛にも襲われていたそうですが、後の皆の証言では彼は決して苦痛を訴えることはなかったそうです。
 彼は、そんな生死にかかわりかねない病気であっても、まるで気にかけていなかったようなのです。むしろ「この病によって速やかに天国に行ける」と喜んでいたフシすらうかがえます。彼はどんな試練に直面しても、その都度従順かつ英雄的に耐え忍び、その度ごとに大きな「霊性」を獲得していった人のようです。

 そんな苦しい病の中マキシミリアン神父は、大学時代7人の仲間に働きかけて、「M・I(Militia Immaculatae)-無原罪聖母の騎士会」を設立することになるのです。  (以下次回につづく)
 
 (大場光太郎・記)

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