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帰郷

                中原 中也

  柱も庭も乾いてゐる
  今日は好い天気だ
        縁の下では蜘蛛(くも)の巣が
        心細さうに揺れてゐる

  山では枯木も息を吐く
  あヽ今日は好い天気だ
        路傍(みちばた)の草影が
        あどけない愁(かなし)みをする

  これが私の故里(ふるさと)だ
  さはやかに風も吹いてゐる
        心置きなく泣かれよと
        年増婦(としま)の低い声もする

  あヽ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が私に云ふ

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の観賞ノート》
 中原中也の略伝については、『サーカス』参照のこと。

 今は旧盆のただ中、あした13日は中日にあたります。全国各地それぞれの故郷に帰省している人もずいぶんおられることでしょう。今回はそんな時期にうってつけの詩として、中原中也のこの詩を取り上げてみました。

 昭和初期、時代を先取りするするかのような、斬新かつシャープな詩を作り続けた青春詩人である中原中也にしては、何やら土俗性すら感じられる詩です。私などはそのことにまず深い共感を覚えます。
 この詩は4聯詩です。出だしの1聯から3聯までは整然とした各聯4行で、中也を暖かく迎え容れてくれる慈母のような故里のさまが、中也独特の表現で描かれています。さながら「故里賛歌」といった趣きです。また中也の故里(山口県現山口市湯田温泉)に寄せる、並々ならぬ想いが伝わってくるようです。

 しかし最終聯である4聯に到って、事態は急変します。それを示すように、この聯のみは、2行とそれまでと比べて破調となっています。
  あヽ おまへはなにをして来たのだと……
  吹き来る風が云ふ
 「おまへはなにをして来たのだ」と叱咤する「吹き来る風」は、もちろん故里に属する五大(地、水、火、風、空)のうちの一要素です。「故里に声なし。風をして言わしむ」といったところでしょうか。とにかくここに到って故里は、それまでの慈母のようなさまから一転閻魔大王のような審判者としての厳しい面を露わにするわけです。

 ところでこの詩は、昭和5年5月中也が当時所属していた、音楽団体の機関誌『スルヤ』に発表されたのが初出のようです。中也23歳頃のことです。
 中也はそもそも大正14年3月18歳の時、早稲田大学受験のため上京しました。4月には、後に昭和を代表する評論家・小林秀雄と知り合います。(但し手続の不備により、早稲田は受験出来ず。)その前の年には、長谷川泰子と同棲もしています。

 余談ながら。以前の『サーカス』に、「中也が愛した女事務局」の方が、2度ほど4月に上演される『中也が愛した女』のPRコメントを寄せられました。この「中也が愛した女」こそが長谷川泰子で、共に上京するもその年の10月、泰子は中也のもとを去り小林秀雄に走りました。私は『機会があれば…』と思っていましたが、結局舞台は観られずじまいでした。同演劇では、中也、泰子、秀雄の微妙な関係を、ドラマチックに上演したものと推測されます。
 なお小林秀雄は、死後(30歳)すっかり世間から忘れられて無名だった中也を、(同じく友人だった大岡昇平と共に)ことあるごとに紹介しました。小林らの尽力がなければ、中也が今ほどメジャーな詩人たり得たか、疑問です。

 翌大正15年日本大学予科に入学するも、同年9月家に無断で退学。昭和3年には父が逝去するも帰郷せず。このように中也の東京生活は、後に無頼派と呼ばれた坂口安吾、太宰治、織田作之助らの走りのような、無頼なものだったのかもしれません。

 第4聯は以上のようなことを踏まえると、より理解出来るかと思います。
 「おまへはなにをして来たのだ」。だからこれは「吹き来る風」に仮託しているものの実はそうではなく、中也自身の自責の念、悔恨の想いが綴らせた言葉だったわけです。
 確かに離郷者に対して、故郷は決して甘いものではありません。久しぶりに帰郷でもすると、離郷の間の生き様を厳しく問い返す側面がある―それを私も痛感したことがあります。
 しかしそれゆえにこそ、故郷は「ありがたきかな」なのです。

 (大場光太郎・記)

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