« 薬物汚染の拡がりを憂う(5) | トップページ | けふ立秋(2) »

喜びのタネをまこう(3)

 -意識レベルの高い人ほど「喜びのタネをまこう」と心がけるものなのである-
 
 ところである人が「意識の地図」というのを提唱しています。人間個々のさまざまな感情レベル、意識レベルを10数段階に分類して、それぞれの段階におけるレベルの数値化を試みているのです。それは大変示唆に富み、時々私自身それを読み返してみて、今現在の自分のレベルはどのレベルにあるのかの指標としています。

 「意識の地図」を簡単にご紹介しますと―。
 そうとうの覚者や達人ならいざ知らず、私たちの「心」は日々刻々揺れ動いています。「一日中考えていること、それ自体が取りも直さずその人自身である」という、19世紀アメリカの思想家エマーソンの有名な名言があります。常日頃の「想い、考え、心構え」などが原因となって、現在ただ今あるいは未来のその人間を形成することになるのです。
 その意味で私たちは、「想い一つ、考え一つ」で日々刻々上昇(アセンション)か下降(ディセンション)かを繰返していることになります。その「心のバランスシート」がプラスかマイナスか、その総和で今後の行き先が決定されていくわけです。決して「外なる神」によって決定されるのではなく、「内なる心」が決定するのです。

 その上昇か下降かの、分かれ目となるのが「勇気(肯定)」だそうです。これを数値化すると200です。これ以下は下降となり、以下「プライド(軽蔑)」「怒り(憎しみ)」「欲望(切望)」「恐怖(不安)」…「罪悪感(責める)」「恥(屈辱)」となります。下に行くほど負のスパイラルがきつくなり、エントロピーがどんどん増大するだけの、どうしようもない状況となります。「外は内の反映」ですから、内心の苦しみに応じて、思うにまかせない環境、状況に置かされることになるわけです。

 対して、「勇気」を起点とした上昇局面は、「中立(信頼)」「意欲(楽観)」「受容(許し)」…と続き、今回問題となる「喜び(落ち着き)」では540という高い数値となります。さらにその上に「平和(幸福感)」(600)そして「悟り(言語に絶する)」(700~1000)が最上位の境地となります。
 このように「喜び」は極めて高い意識レベルなのです。

 ある人(上記「意識の地図」提唱者とは別の人物)はかつて、「人間は喜びの表現体」と言いました。これは幼い子供たちを見ているとよく分かります。「幼子は天国の型」という言い方もされますが、とにかくピュアで喜びにはちきれんばかりです。このように常に喜びに満ち溢れていることこそが、人間としての自然な在り方なのです。
 しかし私たち大人は、「喜びの表現体」でないことが多いものです。どうしてなのでしょうか?それは上記でご説明しました「プライド」「怒り」「欲望」「罪悪感」「恥」などに我が心を占領されてしまいがちだからです。心の中で常に他者との比較があり、「憎い、惜しい、嫉ましい」となりがちです。欠乏、飢餓、闘争などの想いが渦巻いています。肉体生活に付随した「小我(エゴの我)」に、内なる「大我(真の我)」が覆われてしまって、外に光が出られない状態なのです。
 
 「神は喜びなり」。「大我」はまた「神我(=真我)」といわれます。ゆえに「大我は喜びなり」とも言い換えられます。覆っていた不純物、邪魔物(小我=エゴの心)を取除いて、それを輝き出させるようにすれば、いつしかふつふつと「喜び」が湧いてくるのが道理です。
 肉体の自分を通して大我を周囲に輝かせるためには、禅家で言うさまざまな「静中の工夫、動中の工夫」が必要でしょう。私はその中の重要な工夫の一つが、「喜びのタネをまこう」なのではないだろうかと思うのです。

 大我は、肉体に付随した小我を遙かに超えた文字どおり「大きな我」です。小我が見る世界は、肉体として別なら赤の他人という、分離、分割、対立の世界。対して大我が観る世界は、肉体としては別々でも深いところでは一つにつながっている「共通的生命の兄弟同士」という、統合意識です。片や「我善し(小我=不調和)」、片や「皆善し(大我=調和)」。
 このように「あなたは私であり、私はあなたである」という認識に立てば、「怒り」や「憎しみ」などというネガティヴなものを蒔くことなど出来ましょうか。心の奥底からの自然な発露として、「喜びのタネ」を蒔くはずだと思います。

 以上、偉そうなことを申し述べさせていただきました。未熟者の私自身、「喜びのタネをまこう」という高い意識状態から外れることがままあります。しかし心の片隅でいつも、そのことを心がけていることもまた事実です。
 ともあれ、私たちは「今喜べているだろうか?」と時折り自問してみる必要がありそうです。地球全体が「アセンション(次元上昇)」しようとしている「今この時」、自然万物と共々そのコースに乗っていることの大切なバロメーターとして。   ― 完 ―

 (大場光太郎・記) 

|

« 薬物汚染の拡がりを憂う(5) | トップページ | けふ立秋(2) »

所感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 薬物汚染の拡がりを憂う(5) | トップページ | けふ立秋(2) »