荒海や
松尾 芭蕉
荒海や佐渡に横たふ天の川
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《私の鑑賞ノート》
「奥の細道紀行」を続けていた松尾芭蕉は、元禄2年旧暦7月4日(新暦8月23日頃)夜越後の国の出雲崎(いずもざき・現新潟県三島郡出雲崎町)にやってきました。この句は出雲崎で宿をとっていた時に詠まれたものです。
一読雄大な感にうたれる名句です。夜更けに出雲崎のとある浜辺に立つ芭蕉の姿。荒れて波浪逆巻く日本海。その遥か先に望まれる佐渡が島。そして佐渡と言わず中天を覆わんばかりの天の川の輝きなどが現前されてきそうな句です。
これほどの大景を詠みきった句は、古今稀なのではないでしょうか。俳句という超短詩形でも時としてこのような大景も詠めてしまうのだ、という証明のような句です。
それを可能にしているのは、まず何といっても「天の川」という季語です。天の川は、「月」「星月夜」などと並んで秋の季語です。秋冷の候は大気が澄んで、月や星が特にくっきり冴え冴えと輝いて見えることから、ずいぶん昔にそう定められたものと思われます。(念のため申し添えておきますが、昔々は夜間照明などほとんどなかったのです。夜空の星々の輝度はいかばかりだったでしょう。)
わずか「5、7、5」の17音だけでこれだけ大きな世界を描き出すには、「季語の力」が不可欠です。天の川という季語を一つ置くだけで、多言を要せずとも、万葉集、古今集の昔から日本人が共有してきたイメージが浮かび上がってくるからです。
次いで「荒海や」と冒頭に、「海」という大自然を持ってきたことも大きいと思います。そして芭蕉の立ち位置から「佐渡」までの遥かな距離感。深遠な「芭蕉的天地観」の表明のような句であると思います。
実際はどうであれ、一般の日本人にとって、日が昇る太平洋は「陽の海」片や日が沈む日本海は「陰の海」という通念があります。それは昔から、山陽に対する山陰また表日本に対する裏日本などという呼び方にも表われています。
そして芭蕉は、陽の季節といってもいい春から夏にかけて太平洋沿いを北上し、陰の季節の秋から冬にかけて今度は日本海側を南下しています。それは偶然の巡り合わせだったのでしょうが、芭蕉が今身を置いている場所の風土性、季節、気候などが相俟(あいま)って、このような類稀な名句が生まれたのではと独断ながら考えます。
ところで後世の読者たる私たちは、この句は上記のように浜辺に実際に立って詠んだものだろうと考えがちです。それほどこの句は「写生的真」に迫っています。しかし実際は違っていたようです。その謂れを少し述べますが、まずは「おくのほそ道」の芭蕉自身の文をー
<越後路>
酒田の余波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望(のぞむ)。遥々(えうえう)のおもひ胸をいたましめて、加賀の府まで百三十里と聞(きく)。鼠(ねず)の関をこゆれば、越後の地に歩行(あゆみ)を改(あらため)て、越中の国一ぶりの関に到る。此間(このかん)九日(ここのか)、暑湿の労に神(しん)をなやまし、病(やまい)起こりて事をしるさず。
文月や六日(むいか)も常の夜には似ず
荒海や佐渡によこたふ天河
奥の細道紀行に同行した曽良(そら)の日記(『曽良日記』)によりますと、鼠が関辺りからずっと雨が続いていたようなのです。「暑湿の労」とあるようにそれに残暑も加わり、早や晩年を迎えていた芭蕉には何ともこたえる道中だったようです。そのため「神をなやまし、病おこりて」、普段は筆まめな芭蕉も「事をしるさず」というほどすっかり体調を崩していたようです。
そしてこれを記している旧7月6日の夜も大雨、我が病重し。そんな中で「あヽあしたの七夕は見られないに違いない」という詠嘆を潜ませた前の句とともに、「荒海や」の句は詠まれたのです。
そのイマジネーション恐るべし。さすが芭蕉ならではですが、遥か後世の誰かが言った「文学上の真」というようなことをつい考えてしまいます。
(注記) 冒頭句は、岩波文庫『おくのほそ道』と角川文庫『俳句歳時記・秋の部』を参考に、私独自の表記をしております。ご了承ください。
(大場光太郎・記)
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