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二木紘三のうた物語(6)

 今回のこの記事をお読みの方は、『二木紘三のうた物語』というサイトをご存知の方も多いことと思われます。あるいは「ご存知」などというレベルを通り越して、「『うた物語』なしでは夜も日も明けぬ」くらい病みつきの方もおられることでしょう。

 さて私は昨年末の(5)記事で述べましたように、『うた物語』コメントから完全に撤退するつもりでした。そして事実4、5ヶ月はほとんどコメントしませんでした。しかし同サイトそしてコメントの行方はやはり気になるのです。
 かといってコメントする立場から離れてしまうと、以前ほど他人様のコメントは注意して読まなくなるものです。特に毎日のようにコメントを繰り返す人のものは、『またアンタかい。いい加減ウザッタイんだよ』と嫌気がさして、ハナから読む気にもなりません。けっこうなご年配の人が、よくもまあ臆面もなく「愚にもつかない」コメントを毎日2つも3つも出来るものです。よほどの「おひまびと」なのでしょうが、その常人離れした神経にはただただ驚くばかりです。(しかし振り返ってみますと、私自身も多少そういう傾向があったわけで大いに反省すべきところです。)

 しかしポイントとなるコメントには目を通していたつもりです。そんな折りの5月上旬、以前私がコメントしたものについて感想を述べられた方がおられました。それは同サイトコメントの「カラオケ大会化」を憂いておられるようで、私に『何とか元に戻してもらえまいか?』というSOSのシグナルのように感じられました。
 私は『多くの方もそうお感じなのでは?』と早合点してしまい、以後今度は「Lemuria(レムリア)」というハンドルネームで定期的にコメントし今日に到ったような次第です。

 その間4ヶ月余ほど。率直に申しますと、昨年末の時点で感じました時より今回はさらに「手応え」が感じられませんでした。初代の人そしてそれを受け継いだ2代目による、短コメント連発式の「カラオケ大会方式」がすっかり定着し、私のような堅いコメントは敬遠されがちになっていたようなのです。
 私は自身がコメントを始めた頃から比べてすっかりさま変わりしてしまったなあ、という違和感を感じるばかりです。しかしそれでご満足の方もけっこう多いようなのです。

 「カラオケ大会」とは、もっとあけすけに申せば、「お年寄りカラオケ大会」ということです。そうなのです。私が今回特に感じたのは、うた物語はしょせん「お年寄りブログ」なんだなということなのです。
 それらの方々は年齢的にも仕事をリタイアされ、年金や貯金でこの不景気にもさほどお困りではない。そして一日一日をどう過ごそうかと思うほど、余暇がたっぷりある。そういう方々が多いわけです。そこでまずは近くのカラオケやパチンコで暇つぶし。いやそんなカネのかかるめんどくさいことも省略して、パソコンの前に日がな一日座って『うた物語』サイトとにらめっこ。都合のよいことに同サイトには、昔懐かしい「懐メロ」がどっさり収録してあるし…。

 そういうことは、ご同好の方々のコメントからも十分うかがえます。ほぼすべての方のコメントが「過去」と「現在」についてのもの、将来展望や将来ビジョンを述べたものは滅多にありません。もっとも同サイトコメントの趣旨の一つが「歌にまつわる思い出など」ですから、致し方ない面もあることはありますが。

   大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大
   そして威力の霊感を受ける限り、
   人の若さは失われない。   (サミュエル・ウルマン『青春』より)

 私が「お年寄り」という時、何も肉体年齢のことだけを申しているのではありません。「心の中の実年齢」を指して言っています。現に齢80歳を過ぎても、十分若々しい「青年」のような方もおられるわけですから。(逆もまたあります。)
 現役時代からしみついた本音隠して建前だけで。一人が何かの歌にコメントすると右ならえで続けてぞろぞろと…。この国の国民性の一端を垣間見る思いです。そういう事なかれ主義が「お年寄り」の「カラオケ方式」の一例だと思うのです。そこには革新性も若々しさもまったく感じられません。ましてインスピレーションを得ることなどまず期待できません。
 
 「お年寄り状態」を何より厭(いと)う「反逆児」たる私は、今回も多少「ショック療法」のつもりで、少し踏み込んだコメントも幾つかさせていただきました。しかしそれは当ブログでこれまで述べてきた内容を、落とし薄めたものです。それでも「お年寄り」にはダメなんですねぇ。「精神的その日暮らし」が脅かされそうで、断固受け入れたくないしとにかく目障りなわけです。なんだかんだ言っても、今のぬるま湯が一番。この安穏な現状がいつまでも続くと幻想しているのです。だから本当の意味での変化(チェンジ)など、まるで望んでおられないのです。
 一体これらの方々は、(何度も繰り返しますが)史上かつてない重要な「今この時」を、ただパソコンの前に座して死を待つおつもりなのでしょうか?

  私はそんな方々によって、『うた物語』コメントから永久追放されることになるのでしょう。そして大変申し訳ない物言いながら、私もそんなご同好の方々にはとことん嫌気がさしつつあります。

 (大場光太郎・記)

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