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芋の露と連山と

                 飯田 蛇笏
 
   芋の露連山影を正(ただ)しうす

…… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 飯田蛇笏(いいだ・だこつ)の略歴については、昨年11月の『魂の映る菊見とは?』で述べました。高浜虚子に次いで近代俳句の発展に大いに寄与した巨匠です。それは、俳句界で最も権威ある賞が「蛇笏賞」であることにも表れています。

 当然ながら蛇笏は、秀句、名句を数多く残しています。それらの一句一句が彫心鏤骨(ちょうしんるこつ)の名品といってよく、そのどれもが彼の代表句といってもよさそうです。その中でもこの句は、代表句の筆頭に挙げられるべき句であるかもしれません。それほど「蛇笏俳句の精髄ここにあり」と思われるほど完成度の高い、近代俳句の一つの頂点を極めたような句であると思います。

 この句の場合、芋と露と季語が二つあります。共に秋の季語です。普通は一句で季語を二つ使うのは「季重なり」といってご法度です。一つ一つの季語は、大きな季節的イメージを背景として有しているため、季語が互いにぶつかり合って一句が壊れてしまうから、というのが主な理由だったかと思います。
 しかしそう厳しく規定されだしたのは近代以降のことで、それまでの俳人はもっと自由に季重なりの句も作っていたようです。それに当時は季語でなかったものが、新しく季語として加えられた例もあります。(例えば「運動会」が秋の季語に、「遠足」が春の季語となったように。)

 この句では発句で「芋の露」と、いきなりの季重なりです。ではそれで一句が壊れてしまっているか、うるさくなっているかというと、この句に限ってはそういうことはまったく感じられず、二句、三句に自然につながっていっている感じがします。だからこの句が作られて以降だと思いますが、「芋の露」を一つの季語として掲げている歳時記もあるようです。

 それはともかく。「芋の露」を発句に持ってきたということは、これがこの句における主眼目であるからに他なりません。またそれは作者の立ち位置をも明示しています。つまり蛇笏はとある芋畑の中の「芋の露」と間近に対面しているのです。

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 ところでご年配の方ならどなたもご存知でしょうが、俳句の場合芋とは「里芋」を指しています。改めてこう申し上げますのも、今の子供や若者たちにはそれが分からない、里芋自体どんなものかを知らないことが圧倒的に多いようだからです。
 里芋は夏からちょうど今頃の9月にかけて、茎が太く長く伸び、その上に丸くて大きな葉を広げて畑一面に生(な)っているのが見かけられます。そしてこの葉は、水をはじくのです。はじかれた水は、真ん丸い玉のような大きな露になって、風でも吹いて葉を揺らそうものなら、葉の表面をあっちこっち転げまわっているさまを見かけることがあります。

 さて露には「夜露」と「朝露」がありますが、この句の場合はどちらなのでしょう?それは二句と三句に示されています。「連山影を正しうす」。この句の場合の「影」は、いわゆる一般的な意味での「影(シャドー)」ではありません。蛇笏は「正しくす」ではなく「正しうす」と古雅な表現をしているように、影も古典的解釈が必要です。すなわち我が国古典における影の意味は、第一に姿、第二に光、そして三番目がいわゆるシャドーの意味だったようです。
 ですからこの句にあっては、「連山の姿を」の意味となります。つまり蛇笏の眼に止まった芋の露の中に遠い山並みの姿が映っている、という構図です。夜は真っ暗で連山の姿が夜露に映ることなどあり得ませんから、露は朝露、時刻は朝ということになります。

 露は時に、果敢(はか)ない命やこの世を表わす比喩として使われることもあります。その果敢ない露の玉に、蛇笏の住居(故郷)の山並みである南アルプスの連山が映っている。露と連山の対比は実に見事だと思います。超近景の果敢ない刹那的な露の玉に、遠景の雄大で悠久な連山の姿が整然と映り、納まっているのです。何やら単なる俳句の範疇を超えて、露の玉が曼荼羅(まんだら)世界を胎蔵(たいぞう)している、そんな仏教的世界観に踏み込むような心地すらしてきます。同時に、「全体は一部であり、一部は全体である」という最新のホリスティックな世界把握を先取りしていた句のようでもあります。

 そして「連山影を正しうす」。露の玉に映った、居住まいを正して整然と連なる南アルプスの姿は、また飯田蛇笏自身のピーンと背筋を伸ばしたストイックで潔い生き方の反映でもあるように思われます。他の句からも、蛇笏のそういう生き方がうかがえる句が多いようです。

 芋の露の中に映じた連山のさまを見て、当然のように蛇笏は背後の南アルプスの遠い山並みを振り返ったことでしょう。そして連山は秋の朝の澄み切った大気の中に、実際整然と連なっているのを再確認したことでしょう。

 (大場光太郎・記)

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コメント

小学校6年か中学校1年か、はっきりしないのですが、この句が教科書に載っていました。こどもの感覚で、ああ、露の玉に景色が写っているんだなあと、先生の解説を聞く前にわかりました。
 この句はまず絵画的ですね。朝の田舎の風景を描いて、実にわかりやすい。無駄なものがない。その次に露の玉という極小のものに、大きなまわりの景色が写っているという不思議さを思います。水玉をのぞき込んだ蛇笏という俳人は、子どもっぽい心を持った人にちがいない。ふつうの大人はそんなことはしませんもの。三番目に「レンザン」という硬い漢語を使って句をひきしめ、最後は影を正しうすと擬人法で終わる。
 この句は、聞いた後、頭から離れない句で、いつも眼の前に、その風景が浮かびます。技巧はたしかに感じますが、できあがった句はシンプルな感じで、覚えやすい。素人ながら、蛇笏が俳句界の巨人だと言われたなら、なるほどと、うなづきます。

投稿: 浮舟 | 2012年12月 6日 (木) 01時37分

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