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模様のちがふ皿二つ

             原 石鼎

   秋風や模様のちがふ皿二つ

  …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 原石鼎(はら・せきてい) 明治19年島根県塩治村(現出雲市)生まれ。中学時代子規門の教師竹村秋竹に俳句を学び、松江の奈倉梧月の句会に投句。文学との葛藤の末京都医専中退。家業の医者を継がず放浪。深吉野の次兄の診療所を手伝っていた時、俳句開眼。その秀句を虚子に賞賛された。「ホトトギス」編集を手伝ったのち、大正10年「鹿火屋」主宰となる。以後、神経障害などと戦いながら秀作を残し、二宮(現神奈川県中郡二宮町)に隠棲、療養につとめた。生前の句集に『花影』『石鼎句集』などがある。昭和26年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』などより)

 周りを秋風が吹き抜けています。ふと見れば皿が二つあります。その皿の絵柄の模様が違うのです。詠まれているのは、たったこれだけ。『えっ。こんなことでも俳句になるの?』と思ってしまうような単純素朴な句です。
 「秋風」と「皿二つ」がこの句の基本的な構成要素です。原石鼎の視野の中には、種々雑多な物があったことでしょう。しかしそんな中で石鼎はなぜか皿二つにフォーカスしたのです。言ってみればそれは、石鼎によって恣意的に選ばれた対象物です。

 なぜ選んだのでしょう?「なぜだかよく分からないけれど…」というのがその答えなのかもしれません。それは多分に直感的なものであり、それはしばしば表面的な意識の理由づけを拒否する場合があるからです。
 しかし部外者があえて詮索を試みるなら、それは皿が互いに「模様のちがふ」ものだったからではないかと思われます。おそらく石鼎は、「模様のちがふ皿二つ」が深いところで「秋風」とリンクしていると直感したのです。

 これはどんな状況で(屋外なのか屋内なのか)いつ頃作られた句なのだろうか?私は何となく気になって調べてみました。そうしましたら、この句にはやや長めの「前書き」があったのです。
 「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は、伯州米子に去って仮の宿りをなす」。
 先天的に詩人的だった石鼎には、家業の医者の道は向かなかったのでしょう。それで略歴にあるとおり学校も中退し、その後各地を放浪していたようです。それは遠い先人の松尾芭蕉の「わび、さび」の風(ふう)を慕ったのかもしれないし、直近の漂泊の歌人若山牧水などに憧れたのかもしれません。

 大正2年深吉野(みよしの)を去って、以後山陰の「海近きあたりをさすらへる時代」を送っていたのです。だからこの句は、その頃米子(現鳥取県米子市)に立ち寄った宿屋での一光景だと思われます。
 時に原石鼎27、8歳の頃。さすがに年老いた放浪者としての絶望感などはなかったはずです。しかしなにせ若い身空で一人流離(さすら)っている身、孤独感、悲哀がなかったといえばウソになるでしょう。「自分探し」のための放浪でもあります。それゆえ、未(いま)だ己の人生上のテーマが定まっていない焦燥感もあったことでしょう。

 そのような心境に、「秋風」は実によくフィットしていると思います。そして秋風に対応している「皿二つ」が、これまた「模様のちがふ」もので。その二枚の皿の不揃いさ、アンバランスさは、そのような石鼎の心の憂愁、焦燥、欠落を埋めるどころか、むしろざわつかせ助長させもした…。
 しかしそれが幸いして、このような名句となって結実したのだと思われます。

 (大場光太郎・記)

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