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清純派・考

 酒井法子が先日保釈され、1ヶ月半にも及ぶ酒井失踪、逮捕という一連の「酒井フィーバー」もやっと一段落したかっこうです。事件が起こる前の酒井法子のイメージは「清純派」というものでした。笑顔が可愛らしく、何となくチャーミングで清潔そうで、彼女はまさに清純派にうってつけと思われていました。
 しかし失踪以後、彼女のそんなイメージは総崩れに崩れてしまいました。連日テレビなどが暴く実像は目を疑うようなものばかりで、それまでの清純なイメージがいかに作り上げられた虚像であったかを思い知らされ、幻滅すると同時に時に暗澹たる気持ちにもさせられました。

 私自身は酒井法子を事件が起きるまではよく知りませんでした。というよりもあまり関心がなかったといっていいくらいです。
 そんな私の家には、彼女に関するある気がかりなものが残っています。それは亡母が使っていた部屋の、亡母専用の和ダンスにあります。そのタンスの上から二段目の引き出しの左隅に酒井法子の写真が貼りつけてあるのです。それは引き出し幅に少し足りないくらいの縦長のものです。よく見ると、あの問題官庁、社会保険庁からの「お知らせ」ステッカーのようです。そこに今から20年以上前の、デビューしたての頃16、7歳くらいの、白いセーラー服姿ののりピーが、天真爛漫な笑顔で、顔の左側に左手を当ててこちらに開いた、ちょっと身をかがめた立ちポーズで大きく写っています。

 今思い返してみますと、ずっと以前からそこに貼ってあったようです。というのも、それを貼ったのは私ではなく、亡母だからです。母が当時のりピーのそんな愛くるしい姿を気に入って、年金受給手続きで訪れた社会保険事務所からもらってきたステッカーを、そこに貼ったのだと思われます。
 以来私も母の部屋に入った折り、何度も目にしてきました。それは彼女の生まれ育った特殊な家庭事情など知る由もない私には、山の手辺りの育ちの良いお嬢さん、まさに清純派そのものに見えました。

 なのに今回の事件です。一連の大騒動によって酒井法子のイメージは地に堕ちてしまいました。『おい、のりピー。あの写真どうしてくれるんだよ』と言いたい気分です。それは多分裏のシールをはがしていったん何かに貼ってしまえば、もう容易にははがせないシロモノでしょう。ムリにはがそうとすれば、亡母の大切な遺品の一つを痛めてしまいかねません。それに亡母にとってのりピーはお気に入りで元気な頃、よく眺めていたのかもしれないし…。
 海外を含めた多くののりピーファンは、ずっと大切にしていた心の中のイメージを今回ズタズタに引き裂かれてしまったことでしょう。そのファンの心中たるや、私の家の写真云々の比ではないことでしょう。

 思えばわが国では特に映画産業を中心に、「清純派の系譜」のようなものがありました。その走りは、戦前から戦後にかけての、今でもその清楚な美しさを絶賛する年配の人が多い田中絹代でしょうか。そして戦後は、小津安二郎監督の作品の多くにヒロインとして登場した「永遠の処女」原節子。私個人としては、小津監督の代表作『東京物語』に原と同じく出演していた香川京子の名前も上げておきたいと思います。
 さらに時代が下って、高度経済成長の始まりの昭和30年代後半の映画『キューポラのある街』で、女子高生役として鮮烈デビューした吉永小百合。

 ここで私の連想はピタッと止まってしまいます。およそ客観的に判断して正統派としての清純派と認められるのは、吉永小百合あたりが最後だったのではないだろうか、そう思われるのです。その後強いて上げれば、私と同世代の酒井和歌子がぎりぎりセーフかな、というくらいで。
 その後なぜ正統清純派がいなくなったかと言いますとー。「清純」には根っこの部分で、「性的な純潔」に結びついている面があるように思われるからです。

 ある説によりますと、そもそも我が国の清純派のルーツは、大正期に活躍した武者小路実篤や有島武郎らの「白樺派」の恋愛小説に登場するヒロイン像にまでさかのぼれるそうです。そこに描かれているヒロインはまさに、清楚で可憐で、しかし人間らしい内面の葛藤を見せることのない女性像です。世の悩み多き男どもは、そんな清純派ヒロインに己のさまざまな想い、もっと言えば「着せ替え人形」的妄想を投影してきたわけです。
 ところで「白樺派」は、明治以来の文明開化によってもたらされたキリスト教文化に、多大な影響を受けていると言われています。そして清純派は、突きつめていけばマドンナ、聖母マリアの「処女懐胎」にまで行き着くわけです。それを反映した白樺派文学のヒロインが、その後娯楽の中心となった映画の中で白樺派作品の映像化、そして今日に到るステレオタイプの清純派が形成されていったと言うのです。

 ところが私などが青春期を送った昭和40年代以降、「フリーセックス」という考え方が欧米からどんどん流入され始めました。特に良くも悪しくも時代の最先端を走っている芸能界において、それは決定的な流れだったことでしょう。その後時代が進むにつれて性の自由化は一段と定着し、芸能界はおろか一般女性にも、「性的純潔」など求める方がヤボという状況です。
 今日では「清純派」などという言葉は、もはや「死語」であるはずなのです。

 なのになぜか芸能界では、酒井法子を持ち出すまでもなく、未だ「清純派女優」というものが流通しています。なぜなのでしょう?それは世の男どもの中には、今なお清純派という「幻想」を追い求める者が多いからだと思います。いわゆる需要と供給のバランスで、その需要に応えようと、今時は特に商魂たくましい芸能プロ、テレビ局、広告代理店の手によって、「清純派もどき」が次々に供給、増産されているわけなのです。

 このような清純派もどきを求める男たちは、どこか現実逃避の傾向のある「幼児性」が見られるとも指摘されています。その意味で今回の酒井法子の一件は、そんな甘ちょろい男どもの目を覚まさせるのには、かっこうの教材であったのかもしれません。
 
 (大場光太郎・記)

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