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2009年10月

薬物汚染の拡がりを憂う(27)

 「のりピー介護の道」にエールを送る

 のりピーこと酒井法子は26日の初公判の場で、「今後は介護を勉強し仕事にしていきたい」と言明しました。その時は『えっ?ホントかよ』と率直に思いました。初公判を注目していた多くの視聴者もそう思ったことでしょう。
 そんな素人の世間の風評はともかく。介護の現場を誰よりも知る専門家からも「介護を安直に考えてもらっては困る」「本当にのりピーに介護が出来るのか?」というような批判の声も多く挙がっているようです。
 今回は薬物問題はひとまず置いて、「のりピー介護の道」を少し考えてみたいと思います。

 覚せい剤、詐欺、窃盗などの刑事被告人が、裁判官に「今後どうするんですか?」と尋ねられた場合、「介護や福祉の仕事がしたいです」と答えるのは常套句のようです。たいがい弁護士がそう言うように勧めるのだとか。ですから裁判官はすっかり慣れっこになっていて、それを情状の判断材料にしないのが普通だと言われています。
 今回の酒井事件では、ことさら介護を強調しなくても「執行猶予3年」判決は確実とみられています。だから後は、「介護の道に進みたい」という酒井自身の本気度が試されるだけなのです。

 しかし酒井法子は意外にも本気のようです。11月9日執行猶予判決が出るのを待って、介護福祉士資格取得のための手続きを開始する方向のようなのです。群馬県高崎市にある「創造学園大学」の「ソーシャルワーク学部」に、願書を提出する手はずを整えつつあるというのです。同学部は、社会福祉や介護のスペシャリスト育成を目的とした学部で、現在約100人の学生が在籍しており、介護を専攻するコースもあるということです。

 酒井は同大学の通信教育プログラムを利用しての履修となるようです。同プログラムはスタートしたばかりで、利用している学生は十数名とまだ少ないのが実情のようです。同プログラムでは、卒業単位の大半は在宅受講が可能となります。英語、文学などの一般教養科目講義を、パソコンを通しての「eラーンニング」で受講出来るシステムです。卒業単位の残りは介護などの実習を伴う専門科目が中心で、この単位取得のため合計2週間程度東京校に通えば取得可能とのこと。
 これならマスコミに執拗に追いかけ回される心配も少なく、酒井としては願ってもない学習環境と言えそうです。

 同コースを卒業出来れば、4年制大学卒業資格と共に、介護関係の資格として准介護福祉士資格、介護福祉士国家試験受験資格が与えられるとのこと。
 同校を見つけてきたのは情状証人にもなったサンミュージックの相澤正久副社長で、既に同大学学長とも直接話をつけているようです。酒井がもともと人と接することが好きなことなどを考慮して、勧めたのだそうです。14歳から見守り続けてきた相澤氏の、「本当にまっとうに更正してくれよ」という親心がにじむような話です。
 大学側も酒井側の思惑と一致しているとみられます。というのも、同大学はここ数年入学者の減少で経営的に厳しい状況にあり、これが「のりピー入学」となれば宣伝効果は計り知れず、受験、入学希望者の大幅アップが期待出来るからです。

 酒井法子は、初公判を終えた26日夕方、8月3日未明の逃走劇以来久しぶりで都内南青山の自宅マンションに戻りました。同マンションは酒井名義になっており、近日中に継母の酒井智子と10歳の長男と新生活をスタートさせる予定のようです。
 思えば同マンションは、覚せい剤使用の舞台でもありました。しかし長男の学校生活を最優先に考え戻ってきたようです。ともかくここが新生のりピーの生活と学業の拠点となるわけです。

 ところで。亡母を6年余自宅介護した私の乏しい体験からしても、介護は本当に大変です。はっきり言って介護は3K(キツイ、キタナイ、キケン)の仕事の一つです。
 “下の世話”も喜んでしなければなりません。私の場合は「要介護5」で完全寝たきりの状態でしたから、かえって手がかからず楽な方でした。これが「要介護1~3」のまだ体が動くし歩けもする患者の扱いでは、手を焼くケースがけっこうあるようです。それに寝たきり老人は意外と重いのです。体位交換の場合など、けっこう体力も要求されます。さらに半ば痴呆状態にある患者が、介護者の目の前で自傷行為に及んだり、身近なモノを掴んで介護者に襲いかかる危険性が皆無とは言えません。

 超高齢化社会を迎えつつある我が国にあっては、さらに多くの介護従事者が必要とされています。しかし上記のような理由からなかなか人が集まらず、慢性的な人手不足状態です。その上3K仕事の割には賃金も安いのです。
 このような介護現場に日常的に生で接している関係者が、「のりピー介護の道」に批判的なのは当然なのです。とにかく介護の現場は、机上の空論が通用しない問題がどっさりあることを覚悟しなければなりません。要は実際の生きた介護体験を重ねて、一つ一つノウハウを蓄積していくしかないのです。

 ともあれ。そのようなことを十分覚悟した上での「のりピー介護の道」なら、大歓迎です。上に述べたように、介護従事者は慢性的に不足状態です。それが酒井法子が腹を決めて介護に従事し、立派に実績を積み上げていけば、世間の介護に対する見方が変わる可能性もあります。
 「私もオレも。介護の道に…」と殺到してくるかもしれません。それを見た厚労省も改めて介護対策を見直し、もっと働き甲斐のある賃金体系に組み直すことだって考えられます。

 もしそうなれば、今の社会が最も必要としている一分野での、絶大な「のりピー効果」と言うべきです。それはひとり介護分野にとどまらず、薬物から更正しようとしている者にも希望を与えます。のみならず、社会の広い範囲に好影響を及ぼす立派な“菩薩業”です。今回の薬物事件など完全にチャラになります。いや社会貢献の面から見れば、過去のそんな問題など取るに足らなく思われるほどの大貢献となることでしょう。
 酒井法子よ。虚名、虚像、幻影ばかりの芸能界へは、もう二度と戻るな。今後は介護一本で歩んで行ってくれ。悪女のりピーから聖女酒井法子への変身、変容だ。

 (大場光太郎・記)

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天に北斗の光あり 地上に花の香ある

       山形県立長井高等学校校歌 
                 県立長井中学校校友会 作詞
                      山崎藤得      作曲

  1 天(そら)に北斗の光あり 地上に花の香(かおり)ある
    緑の山河友となし 栄華の夢をよそに見て
    早苗ヶ原にそびえ立つ これぞ我らの理想郷

  2 銀河の星に照らされて 山錦繍(きんしゅう)に映(は)ゆるとき
    雄々しき姿白鷹(しらたか)の 強き力を双翼に
    理想の天地前にして 希望に燃ゆる我が健児

 (出来ましたら以下の記事をお読みになる前、同校歌mp3演奏をお聴きください。冒頭のタイトル左クリックで「校歌ページ」が開きます。)

 「人に校歌あり」。すべての人がかつて学び舎で過ごした経験を持ちます。小、中、高、大学と上級学校に多く進んだ人ほど、いくつもの校歌を持っているわけです。皆様にとって一番愛着のある校歌は、何でしょうか?
 私は高卒です。したがって私の場合は、小、中、高校の三つの校歌を持っていることになります。(実際は30代前半、都内新宿区にある工学院大学の専門学校課程の土木科夜間部に2年間通学し、一応卒業しました。しかし私自身はこれを最終学歴に含めないことにしています。)

 我が小学校の宮内小学校(山形県)校歌は、昨年11月記事『菊祭りの思い出』でその一部をご紹介しました。作詞:高野辰之、作曲:梁田貞と、当時の文部省唱歌を数多く手がけた大御所の作った歌であり、それなりの愛着も懐かしさもあります。また我が宮内中学校校歌は、本年7月記事『娘ことごとく売られし村』で取り上げた郷土の歌人結城哀草果の作詞になるもので、これまた捨てがたいものがあります。
 しかし私にとってひときわ愛着が深く懐かしさを感じるのが、今回ご紹介の長井高校校歌なのです。そこには、人生の中で最も多感な時期であった高校時代の校歌だからということもあるのでしょう。しかしそれ以上に、とにかく詞も曲もピカイチの歌だと思われるのです。

 同校歌は、母校ホームページの「校歌紹介」によりますと、<昭和3年10月3日制定>とあります。昨年記事『万物備乎我(2)』でも述べましたが、母校は大正9年に旧制山形県立長井中学校として発足しました。ですから校歌が制定された昭和3年当時は、旧制中学校の校歌であったわけです。いささか手前味噌ながら、このような校歌を持てたことを誇りに思います。

 いきなり「天に北斗の光あり 地上に花の香ある」。北斗は北斗七星。古代中国では、太乙(たいいつ-北極星)と共に、道教などでは特に重要視される星斗でした。私の郷里は北の地方でしたから「北斗」が自然に歌われているわけです。何とも心鼓舞される雄渾な出だしです。
 作詞は長井中学校校友会、作曲は山崎藤得という人。小学校校歌のように名だたる人たちの手によるものではない、おそらく当時の母校関係者による歌なのでしょう。なのにこのスケールと格調の高さ。

 「緑の山河友となし 栄華の夢をよそに見て」。旧制第一高等学校寮歌の『嗚呼玉杯に花受けて』の一節の、「治安の夢に耽(ふけ)りたる 栄華の巷(ちまた)低く見て」などの影響を多分に受けたのではないでしょうか?一般庶民が栄華を求めるのは致し方ない。しかし我々は、そんな泡沫(うたかた)の酔夢を追うことはしないのだ、という選良(エリート)たる青年たちの質実剛健の気概が偲ばれます。当時の社会体制がいかなるものであったにせよ、「理想(ゆめ)」を歌え、語れる世の中は、少なくとも今よりはずっとましだったと言えると思うのです。
 私の頃はぎりぎり「栄華の夢をよそに見」るメンタリティーを理解出来ました。しかし万事豊かになること、経済至上主義があたり前、そのための学歴であり偏差値であるという風潮の今日、母校在校生諸君はこの歌詞をどう捉えて歌っているのでしょうか?

 もっとも昭和40年代前半在籍していた頃の私は、同校歌に今ほど思い入れがあったわけではありません。「万物備乎我」という孟子の成句を、犬養毅(犬養木堂)が揮毫してくれて扁額になっていることすら知らなかったのですから。「意味をじっくり味わって校歌を歌いなさいよ」などと、在校生に言えたものではありません。

 私が「校歌の力」を実感するようになったのは、母校を卒業してずっと経ってからのことです。今でも思い出しては、口ずさむことがあります。年と共に涙もろくなったせいか、一節一節かみしめて歌っていると、熱いものがこみ上げてきます。
 そして気づかされるのです。『オレはホントに、それらしきことを何もしてこなかったよなあ』と。若き日の理想(ゆめ)とそれ以降今日の現実と。その何たる乖離(かいり)よ。いな現実に埋没してしまっているのに、それすらも気がつけない恐ろしさよ。

 だから改めて思うのです。『このまま終わってしまっては、オレの人生ゼロだな。何とかしなきゃあな』と。
 世に歌は星の数ほどあれど、同校歌は私にとって第一の「人生の応援歌」です。校歌はつくづくありがたきかな。   十三夜(後の月)の夜更けにー

 (大場光太郎・記)   

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時の話題(1)

 酒井法子の初公判、民放テレビ各局はこぞって過熱報道をしました。しかし期待したほどの視聴率は稼げなかったようです。例えば、TBSの「ひるおび ! 特別拡大スペシャル」は5.9%、テレビ朝日の「ワイド!スクランブル拡大SP」は前半が7.6%、拡大部分が6.7%、日本テレビの「ミヤネ屋」は第1部が8.1%、第2部が12.0%。「目標は2ケタ」という各ワイドショー関係者の思惑は外れたかっこうです。
 8月上旬の逃走劇から、逮捕、保釈、謝罪会見などを生中継で追い続け、軒並み2ケタ台で「のりピー特需」だっただけにどうしたことなのでしょう?

 実は視聴者のワイドショー的関心は、もう別の事件に向かっているようなのです。そうです。今一番ホットなのは都内豊島区の34歳の女の「結婚詐欺事件」なのです。報道で明らかなように、既に複数人の死亡が確認されています。そしてこの奇っ怪な事件がさらにどこまで拡大するか分からないため、余計人々の関心を集めているわけです。
 女の名前は木嶋佳苗(きじま・かなえ)。少し調べただけでも、まさに「毒婦」と呼ぶしかないとんでもない女です。

 そのうち当ブログで、『近世毒婦列伝』というシリーズを組んでも面白いかな?と思いますが、過去名だたる毒婦が登場しました。今回はそのさわりだけでもご紹介しますとー。
 まず有名なのは何といっても、昭和初期の伝説的毒婦・阿部定(あべ・さだ)です。1936年(昭和11年)5月18日愛人の石田吉蔵を殺害、のみならずその局部を切断し逃亡。あまりの猟奇的事件に当時としては珍しく号外が出たほどでした。
 次が小林カウ。同女は埼玉県生まれで、44歳の時愛人と共謀して夫を殺害。その後別の男と共謀して、1960年から61年(昭和35、6年)にかけてホテル経営者夫婦らを次々に殺害。世にいう「ホテル日本閣事件」を起こし、1970年(昭和45年)死刑となりました。戦後初の女性死刑執行者でした。

 平成に入ってからはご存知のとおり、1998年(平成10年)7月25日和歌山市園部地区の「毒物カレー事件」によって4名を死亡させた林眞須美。それに2006年(平成18年)秋田の藤里町で連続児童殺害事件を起こした畠山鈴香が、記憶に新しいところです。
 今回の木嶋佳苗の事件を探ってみますと、木嶋は歴代の毒婦たちをもしのぐような「稀代の毒婦」として後世に残るほどのものなのかもしれません。これもシリーズ化となるかどうか、私なりに調べがついたら(笑)近々にも記事として公開したいと考えております。
                         *
 次は、大河ドラマ『天地人』の石田三成役で、主役の妻夫木聡を食っちゃった感のある小栗旬に関する話題です。以前にも『えっ。小栗旬が映画監督 !?』記事で述べましたが、小栗の初監督映画がいよいよ本決まりになっているようです。映画のタイトルは『SURLY SOMEDAY』で来春公開予定だそうです。何しろ小栗の初監督作品であるだけに、ファンの関心は高そうです。
 その中でも注目されるのは出演陣の顔ぶれです。まず井上真央、上戸彩、小西真奈美は決まりのようです。そして現在スケジュール調整中なのが、親友の藤原竜也そして常盤貴子、妻夫木聡、水嶋ヒロなど。もしこのような顔ぶれが揃えば、けっこう豪華キャストというべきです。

 ところで上記キャストのほとんどがノーギャラだそうです。『えっ。この計算高い今の世に、何で?』と思うところですが、理由は「小栗の性格のよさ」に惚れこんで集まった仲間だからというのです。
 小栗は一見尖がって取っつきにくい感じですが、いったん仲間になると男女を問わずとことん悩みを聞いてくれる、そんな一面があるとのこと。真夜中に自転車で駆けつけて、悩み事を聞きにくることもあるといいます。意外と根は「いいヤツ」なのかもしれません。

 小栗旬については、『天地人』の石田三成役で関が原そして三成処刑と、次第に増していった凄みのある演技ですっかり見直してしまいました。役者としての今後が楽しみな上、今度は映画監督にチャレンジです。(ただ「薬物」で問題を起こさなければいいがなあ、と願うばかりです。)
 映画がどのような出来なのか、観てもいないのに何ともコメントのしようがありません。しかし以前の記事でも述べましたように、あの若さ(26歳)で「監督として映画を作りたい」という想いは、人一倍強いものがあるようです。今回の映画はそんな想いが結実した結果だと思われます。その「想い」そのものが一つの才能であるともいえます。
 今から公開が楽しみです。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(26)

 酒井法子の初公判は東京地裁425号法廷で、午後1時半から始まりました。法廷の場に現れた酒井被告は、ジャケット、スカート、ストッキング、パンプスと黒づくめの服装。ストッキングの色が濃く左足首のタトゥーは隠していました。これらすべてから判断するに、酒井なりに考え抜いた「法廷闘争用のいでたち」と見えなくもありませんでした。

 9月17日の保釈以来、公の場に姿を表わしたのは39日ぶりのことです。保釈日夜の都内某ホテルにおける涙の謝罪会見後東京医科大学病院に直行、入院し、同病院を今月1日極秘退院してから、酒井法子の姿は杳(よう)として知れませんでした。さすがの芸能追っかけリポーターも捉えきれなかったようです。まるで「第2の失踪事件」といった感じでした。一説にはその間、東京を脱け出し「闇の指南役」富永保雄のルートで千葉県のある所に潜伏しているのでは?というような情報もありました。しかし今法廷には、都内の知人宅から出廷してきたと見られています。

 今回の酒井裁判で特筆すべきは、何といっても各マスコミ特にテレビ局の過熱報道ぶりです。民放各局は、昼のワイドショーから弁護士や芸能ジャーナリストなどをゲストコメンテーターに迎え、午後4時までぶっ通しで酒井関係を報道し続けた局もありました。同法廷では新聞社、テレビ局には2名の傍聴席が割り当てられたようですが、開廷とともに傍聴席の記者からの情報を、外で待機している記者たちが逐次受け取り、4階から1階玄関前まで息せき切って駆けつけ、リポートを繰り返すという方式を取っていました。
 思えばスポンサーのCM料激減などで青息吐息の民放各社にとって、8月上旬の失踪事件以降今日まで、酒井法子は“救いの神”的存在だったのではないでしょうか?酒井関連を報道すれば、毎回必ず高視聴率が取れたわけですから、表では関係者が酒井バッシングを続けながらも、内心では「酒井法子、のりピー様々」だったかもしれません。

 入廷質問、職業の確認での「無職です」、罪状認否における「間違っているところはありません」という受け答えなど。約2時間に及んだ酒井裁判のもようは、テレビなどで繰り返し報道されましたから、おおむねのところは既にご存知のことと思います。
 ここでは何点か気になったことだけ述べてみたいと思います。酒井は今後の自身の方向性として、「介護を学び、それを仕事としていきたい」と述べました。これは意外でした。自身の継母が現在手術後の回復が思わしくなく、100mを歩くこともままならない、そこから当面の必要性に迫られ学んでみようという気になったのか。またサンミュージックの相澤副社長も情状証言の中で、介護の勉強を勧めていることを明かしました。

 また相澤副社長は、「仕事に対するサポートは一切できません」とも述べています。酒井法子の芸能界復帰の芽は100%なくなったということなのでしょうか?しょせん酒井自身が決断することながら、15歳から現在まで華やかなスポットライトを浴びてきた“スター”が、「介護」という日の当たらない地味な堅気の仕事を本当に業務として続けていけるものなのか。あるいは法廷での裁判官の心証を良くし、さらに実際一時的に介護関係に従事し世間から厚生努力の評価を得た段階で、芸能界復帰を考えているものなのか。
 酒井出演のCMキャンセルによってスポンサーから数億円規模の損害賠償を突きつけられているわけだし。一時は酒井が「私が全額賠償します」と言ったとか、サンミュージックと賠償を折半することで話がついたとかありましたが。結局これまでの酒井の貢献度からそれを退職金代わりとして、サンミュージック側が全額賠償するということになったのでしょうか。そうでもなければ、介護の仕事云々はよく分からないところです。(ただし既に、都内4年制私立大学の通信教育コースに願書申請中とのこと。)

 公判前から注目されていたのは、今後夫・高相祐一との関係をどうするのか?ということでした。以前から酒井も高相も「親子3人で暮らしていきたい」と言っていました。しかし医療専門家、薬物事犯専門家、更正施設関係者らが異口同音に「それでは再犯の危険性が極めて高くなり、更正は無理だ」と発言していました。
 それは判決の行方を左右しかねない問題でしたが、法廷で酒井は「夫と…話し合い…私としては…、離婚をして…お互いに更正するには努力が必要だと思います」と「離婚の決意」を初めて明言しました。酒井、高相両証言から、酒井は夫に勧められて覚せい剤に手を染め、また高相を通してしか薬物を入手していなかったとされていますから、入手の元を断ってしまえば、再犯の可能性は低くなるわけです。
 
 しかしこの段で酒井は、声を詰まらせ涙声だったようです。酒井自身、高相には未練があり、苦渋の決断を迫られたということなのではないでしょうか。
 離婚となると、女々しそうな高相祐一がすんなりそれに応じてくれるのか。また2人の間の10歳の子供の親権をどうするのか、ということにもなります。酒井は現在「継母と子供と3人で暮らしたい」との希望を抱いているようですが、高相にとって子供などどうでもよくても、高相の両親が親権を強く主張するよう促した場合どうするのか?円満離婚となってもらいたいとは思いますが、この件では今後一波乱、二波乱ありそうです。

 今回の初公判は、あるスポーツ紙の一面見出しに大きくありましたが、「シナリオ通り法廷女優」「成功 !! いい人作戦 のりピー」、まさにこの通りだったかもしれません。また相澤正久副社長が「情の部分では捨て切れるものではない」とばかりに、社内の反対を押し切って、情状証人として出廷してくれたことで、法廷の雰囲気がだいぶ良くなったようです。一時はろくに連絡もしなかった酒井ですが、相澤親子という大恩人をないがしろにするようなら、今度こそ本当に天罰が下ります。
 逃走劇という前代未聞の事態があったにも関わらず、「1年6ヵ月」の求刑。来月9日の判決では、間違いなく「3年の執行猶予」となるのでしょう。酒井側としては、満額回答の大勝利といったところではないでしょうか?一社会人になるにせよ、いずれ芸能界復帰となるにせよ。これを契機に、真に生まれ変わった酒井法子の姿を見せてもらいたいものです。

 ところで、検察尋問でもあまり深く追求しなかったようですが。酒井の覚せい剤入手ルートは、本当に夫の高相だけからだったの?他に入手ルートがあったんじゃないの?という疑問は残ります。というのも問題の逃走中、酒井は自身の携帯を壊して新宿かどこかで処分してしまっているからです。そこには密売人やらの激ヤバの着信履歴が入っていたのでは?とみられるのです。

 今後闇社会から狙われかねないヤバイことを、酒井は拘留中も一切供述しなかったようです。おそらく富永一族の指南もあったのでしょう。
 しかし酒井は、薬物に関係している芸能人を5人ほど、実名を上げて供述したともみられています。酒井にしてみれば『皆やってんじゃん。何で私だけが…』という思いがあったのかもしれません。そもそも「酒井夫婦も怪しい」とは、あの小向美奈子の供述で出てきて、警察は内々に捜査を進めていたという情報もあります。

 ちなみに酒井が実名を明かした芸能関係者とは。既に真っ黒と言われている沢尻エリカ、高城剛夫婦、大物政治家を父に持つタレントの小泉孝太郎、清純派女優長澤まさみ、有名格闘家の山本“KID”徳郁などでは?と言われ、このうちの何人かについては警察も内偵を進めているという情報もあります。
 それ以外にも、酒井夫婦と仲良しで千葉の海岸で一緒に写真に納まったこともある、工藤静香、木村拓哉夫婦、現代の歌姫の浜崎あゆみ、プッツン女優の広末涼子、魔性女優の奥菜恵など。既に知れ渡っているとは思いますが、芸能界薬物汚染は決して酒井一人を罰したから、「はい、おしまい」というようなものではなく、膿を出し切るのはむしろこれからだと考えた方がいいのかもしれません。押尾学、酒井法子の事件以降、枕を高くして寝ていられない芸能人は数多いものと思われます。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(25)

 26日は台風20号が列島に沿って太平洋上を北上し、その影響で首都圏も朝から冷たい雨が降りしきりました。そんな中注目の酒井法子被告の覚せい剤取締法違反(使用、所持)罪での初公判が、東京地方裁判所(以下「東京地裁」と略称)で開かれました。
 事件としての重要性からすれば押尾学の事件の方が断然のはずですが、世間の注目度においては酒井事件がダントツです。それを示すように、この日同被告の初公判を傍聴しようと朝から大勢の人々が押しかけました。早い人は昨晩11時頃から小寒い雨の中たった20席分の一般傍聴券を求めて待ち続けたようです。

 事前に混乱が予想されたため、東京地裁は隣接する日比谷公園内に傍聴希望者を集めて整理券を配り、抽選する方式を取りました。事前の予想では、平成8年4月24日のオウム真理教の麻原彰晃死刑囚(本名:松本智津夫)の、初公判時の12,292人という歴代1位の記録を抜くのでは?とも言われていました。でもさすがに悪天候の影響もあってか、実際同公園に集まったのは6,615人で第2位にとどまりました。
 しかしこの数字は、傍聴希望者/傍聴席で比較すると、麻原死刑囚の場合が約256倍、対して今回の酒井被告の場合は約330倍と、こちらの方では歴代1位となりました。

 酒井法子被告の初公判が開かれる425号法廷は、21日3被告の先陣を切って行われた酒井の夫高相祐一被告、23日の押尾学被告の時と同じ法廷です。同法廷は東京地裁4階にあります。そしていずれも記者席を除いた傍聴席は20席でした。
 そもそも425号法廷は、東京地裁の全法廷では「中法廷」です。今回の薬物3被告の初公判は世間の注目度が高く、傍聴席確保のため大勢の人たちが押しかけることが当初から分かっていたわけです。同地裁には例えば、1階には最も広い104号法廷(傍聴席98)、それに準ずる同階の103号法廷があるのです。ともにいずれの日も、それらの法廷は“空き室”だったのです。ならばこれらの法廷を使って、もっと傍聴者数を多くしてもよかったのではないでしょうか?

 それに対して、「どの法廷を使うかは裁判官の裁量次第。今回は事件の重大性の多寡を考慮した部分もあったのではないでしょうか」というのが、同地裁広報のコメントでした。いやいや。酒井事件のように「世間の注目度」、そして押尾事件のように「謎と闇の深さ」からして、今回の一連の初公判は十分「重大性のある事件」だったと、私は思うのですが…。

 降りしきる秋雨にも関わらず、色とりどりの傘をさした傍聴希望者やビニールガッパを着た報道陣でごった返す日比谷公園にあって、胸にとりどりのリボンをつけた1000人もの一団がいて目を引いたそうです。これはテレビの公開番組の観覧者を集める都内某社が動員したアルバイトとのことです。同社はホームページで呼びかけ、この日の朝同公園内の日比谷図書館前に集合させ、名前の五十音別に青、黄、緑、ピンクなどのリボンをつけて列に並ばせました。各自が整理券を受け取ったら同図書館前に戻り、会社スタッフに整理番号を報告する仕組みだったようです。

 ちなみに報酬は「当たり」だった場合は1万円、「外れ」の場合は千円とのこと。報酬額は全部外れの場合でも百万円にはなる勘定です。またアルバイトを先導する30人のスタッフ費用としてさらに数十万円、しめて百数十万円くらいかかったといいます。
 そんなに手間ひまかけて手に入れた傍聴券を、一体何に使うのでしょう?しかしそれに見合う何かの見返りがあってこその企画だったのでしょう。いわゆる“ダフ屋”の大掛かりなヤツか?なになに。20÷(6615÷1000)= 約3.02。つまり確率的に言えば、1000人を並ばせれば20席のうち3席分がゲット出来るっていうわけか !?それを欲しい誰かに1券当たり60万円以上で売れば、何とか採算はとれるわなあ。
 いやはや、今回の酒井初公判をめぐってこんな珍商売を編み出すとは ! そういう世相なのだとは言え、世の中には商魂たくましい連中がいるものです。

 話は変わって。今公判には、国内はおろか海外メディアも注目し、香港、上海、台湾などからも取材陣が押しかけ、傍聴希望者を並ばせたメディアもあったようです。向こうでは今なお「のりピー」は絶大な人気があり、やはりメディアとしても注目せざるを得なかったのでしょう。中には「一面扱いにする」という新聞社もありました。
 国内テレビ局が、北京、上海、香港などのファンの声も紹介していました。多くは今回ののりピーが犯した薬物事件を一応断罪しながらも、罪を認めてきちんと償ったら、今後の芸能界への復帰を希望するというものでした。のりピーは、こんな暖かい海外のファンに今後どのような形で応えていくつもりなのでしょうか?

 依然秋雨降り続く12時50分前頃、東京地裁西門に黒、白2台の車が入っていきました。どちらかに酒井被告が乗っているもようです。車窓は黒い目隠しシールで覆われていて分かりませんでしたが、どうやら後ろの白い車の後部に酒井被告はいたようです。車はそのまま、地裁地下駐車場へと消えていきました。
 また地裁には、情状証人として酒井の育ての親といってもいい、サンミュージックの相澤正久副社長も入りました。同証人には当初継母(酒井智子-法子の父にして暴力団酒井組組長・故酒井三根城の3番目の妻)が出廷する予定でしたが、ガン手術の術後が思わしくなく、急遽相澤副社長に変更になったもようです。  (「酒井初公判」は次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(3)

                 村上 鬼城

   痩馬(やせうま)のあはれ機嫌や天高し

…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 村上鬼城(むらかみ・きじょう) 1865年(慶応元年)東京生まれ。本名は村上荘太郎。元鳥取藩士の長男として軍人を志すも、18歳で重度の耳疾を病み断念。父の跡を継いで群馬県の高崎裁判所構内で司法代書人となる。
 正岡子規の教えをこい、やがてホトトギス同人となり「境涯の俳人」と呼ばれる。「古今独歩の俳人」(高浜虚子)「明治大正俳壇の第一人者」(大須賀乙字)「当代第一の作家」(飯田蛇笏)と三俳人から高い評価を受けた。『村上鬼城句集』『続村上鬼城句集』などの句集がある。1938年(昭和13年)没。73歳。

 10月下旬ともなると、大気が澄んで空が一段と高く感じられます。その感じを指す秋の季語が「天高し」です。秋の深まりとともに、真夏の地熱も収まり、地面は徐々に冷えてきます。そして大気の状態が安定し、さして強い風も吹かなくなります。また二百十日(9月初旬)前後の台風、その後の秋の長雨の後なので、ちりやごみが立ちにくくもなります。このため今頃の秋空は、一年のうちで一番澄んで高く見えると言われています。

 この句の「天高し」そしてやせ馬の「馬」から連想されるのは、「天高く馬肥ゆる秋」という昔からの成句です。これは我が国では、秋の爽快感や実りの秋の食欲旺盛になるさまを表す慣用句として定着しています。
 
 この慣用句のそもそもの語源は古代中国です。元の漢語は「秋高馬肥」。ただし肥えている馬は漢民族の馬ではなく、北方の匈奴(きょうど)の馬を指しています。『秋風辭』でも述べましたが、漢の武帝の時代領土は漢民族史上最大となりました。しかしそれでも北の辺境では、それ以北の匈奴からたびたび侵攻を受けていたのです。匈奴は北方騎馬民族で騎馬戦にはめっぽう強いのです。夏の間繁茂した牧草をたっぷりと食べさせ、馬が肥え太った秋に南侵してくることが多かったのです。
 司馬遷の史書『史記』の「匈奴列伝」にも、「秋、馬肥ゆ時期は漢民族にとっての大きな脅威の時」と記してあるそうです。

 つまり「秋高馬肥」は、前漢時代から北方の外敵に対する脅威を表わす成句であったわけです。それは後の唐の時代にも受け継がれ、唐の後の時代には脅威が現実のものとなります。すなわち北宋は北方民族の女真(じょしん)族の侵略により、黄河一帯から長江付近にまで押しやられ(南宋)、また次の時代には蒙古民族によって中国全土が侵略され、元(げん)という蒙古人国家が成立してしまったのです。
 また中国最後の王朝である清朝(しんちょう)は、これまた北方満州族の建国によるものです。清の時代北方脅威論は、当時列強国化していたロマノフ王朝のロシアに対して向けられることになり、秋高馬肥の成句を引用してその脅威を唱えた文章も著わされたようです。

 それはともかく。村上鬼城のこの句は、日本語として慣用句化された「天高く馬肥ゆる秋」を踏まえて作られたものと推察されます。
 鬼城は裁判所の訴状の司法代書人(後の司法書士)のかたわら、婦人とともに農作業にいそしむことも多かったようです。ですからこの句の「痩馬」は、農作業のある時目の当たりにした馬の姿の実写だと思われます。
 
 どこまでも抜けるように青い秋空の季節。とある地上の痩馬。上記の慣用句とのアンバランス。
 鬼城の観察眼では、そんな痩馬がなぜかご機嫌なようすに感じられたのです。そのことがかえって哀れを誘います。俳諧味と表裏にある深い哀しみ。といっても、作者にはどうしてやることも出来ず、ただそのようすをじっと見守るのみです。

 「あはれ機嫌や」に、鬼城の痩馬に対するシンパシー(共感)を感じます。それなしに、この句は生まれなかったと思います。いつかまたご紹介する機会があるかもしれませんが、村上鬼城の句には、この句のように「生きとし生けるもの」への暖かいまなざしが感じられる句が多いのです。

 (大場光太郎・記)

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君待つと

                                        額田王

 君待つと吾(わ)が戀(こ)ひ居れば吾が屋戸(やど)の簾(すだれ)うごかし秋の風吹く

                                      (万葉集巻4・488)
  …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * …… 
《私の鑑賞ノート》
 額田王(ぬかたのおおきみ。ぬかたのきみ、とも) 生没年不詳。斉明朝から持統朝にかけて活躍した代表的万葉女流歌人。
 『日本書紀』によると、鏡王(かがみのおおきみ)の娘で、大海人皇子(おおあまとのおうじ)の妃(一説には「采女(うねめ)とも」)として十市皇女(といちのひめみこ)出産後、大海人皇子(後の天武天皇)の兄である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ-後の天智天皇)に寵愛されたという説が根強いが根拠はないようです。

 なお額田王は、小説などでは絶世の美女だったというのが定説になっていますが、額田王に関する記述はごく限られており、その容貌について物語った資料があるわけではありません。彼女の容貌に言及したのは、ずっと後世江戸時代後期の名著『雨月物語』の作者上田秋成(うえだ・あきなり)の『金砂』が最も早いようです。
 また額田王をめぐって、天武天皇と天智天皇との間で三角関係にあったという定説については、やはり江戸時代の国文学者・伴信友(ばん・のぶとも)の『長屋の山風』などの発言などにより定着していったもののようです。 

 ともあれ額田王には、後世の歴史家、文人などの想像をかき立てるミステリー性があるようで、さまざまな形で彼女をヒロインとする物語が作品化されてきました。
 思い返せば1980年(昭和55年)、『額田女王』がテレビドラマ化されました。これは井上靖の同名小説を、朝日放送創立30周年記念番組としてドラマ化され、テレビ朝日系列で放送されたものです。歴史好きの私は、一も二もなく観た覚えがあります。
 今回前原国交相の「羽田空港のハブ化構想」で、ついでに成田国際空港も注目されました。当時私は、成田市内のアパートに先輩と下宿し、そこから成田空港敷地の外れにある工事局で土木系某業務を担当していました。

 同番組はしたがって成田のアパートで観たことになります。ある日の午前中同僚が寄ってきて、「大場さん。ゆうべ額田女王観たでしょ?」と聞いたのです。私は意外な質問にあっけにとられながらも「うん、観たけど…」と言うと、「やっぱりね。大場さんも観てるんだろうなと思いながら、オレも観てたよ」と言うのです。その同僚は、横浜市内の会社から派遣されてきた、岡山県出身で帝京大卒業者、私の2歳年下ながら既婚者でした。
 彼とは歴史の話などした覚えはありませんが、そこは目から鼻に抜ける才人タイプの彼のこと、私の性向などとっくに見抜いていたものとみえます。

 同ドラマは、制作:山内久司、脚本:中島丈博、監修:野村芳太郎など。私の記憶では1回ドラマのはずでしたが、同年3月中旬前編、後編の二夜にわたって放送された大型歴史ドラマだったようです。
 ヒロインの額田王には、当時美人女優の誉れ高かった岩下志麻。気位が高く気性が激しかったとされる額田王を好演したのでしょう、主演の岩下志麻しか記憶にありませんでした。今回調べてみましたら、天智天皇役に近藤正臣、天武天皇役に松平健、蘇我入鹿役に津川雅彦、皇極・斉明天皇役に京マチ子、持統天皇役に樋口可南子、有間皇子役に川崎麻世、大友皇子役に三田村邦彦、曽我赤兄役に藤田まこと、藤原鎌足役に三國連太郎などなかなかの豪華キャストだったようです。

 そのくらいですから、ストーリーなどまったく覚えていないものの、同ドラマでもやはり天智、天武両天皇から愛された女性として描かれていました。井上靖の原作そのものが、戦前ではタブーとされていた古代史最大の内乱である「壬申(じんしん)の乱」(672年)を井上史観を通して描いたものとして注目されたようです。

 さてこの歌は、近江大津宮(おおみのおおつのみや)にあって詠まれた歌とされています。恋歌が多い万葉集の中でもひときわ優れた恋歌だと思います。当時の慣習であった「夜這い」を切に望む王(おおきみ)の心を、簾を動かして吹く「秋の風」が実によく表しています。
 近江京は7世紀後半天智天皇によって造られた都ですから、この歌は定説によると、その時王は天智天皇の想い人であった、したがって待っている「君」は天智天皇を指すということになります。万葉集の解説書として定評のある、斎藤茂吉の『萬葉秀歌・上巻』(岩波新書)でもそういう解釈をしています。

 しかし今日ではその定説があやふやなものとされている以上、必ずしもそうとばかりは言えないことになります。
 かと言って、この歌の切実な響きから単なるフィクションとも思われず。それではこの歌の「君」とは誰だったのか?天智系から天武系へ。皇統を揺るがした壬申の乱というクーデターを経て、額田王の境遇はその後どう変転していったのか?ということも含めて、古代史の新たなミステリーの一つとなりそうです。

 ところで『千の風になって』で一躍有名になった作家の新井満(あらい・まん)は、この歌などに曲をつけた『万葉恋歌 ああ 君待つと』を発表。紅白のド派手な衣装でおなじみの小林幸子が歌い、CDも発売されています。
 「君待つ」恋心は千古の昔から変わることなく、現代人にも訴えかけてくるものがあるということなのでしょう。

 竹久夢二の名曲『宵待草(よいまちぐさ)』もそうでした。「待ちわびる、待ち明かす、待てどくらせど…」、日本語には「待つ」ことをめぐる表現が多くあります。「待つ」ことの切なさ、苦しさ。しかしそれあればこそ、恋なら恋がより深められ、純化、昇華されていく側面があるのではないでしょうか?
 しかしなべてスピード化の便利な今の世、現代人は「待つこと」が苦手になっている、こらえ性がなくなってきているようです。そのことが、現代人の精神生活を貧しいものにしているとは言えないでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(24)

 今月下旬は薬物事件で世間を騒がせてきた、押尾学、高相祐一、酒井法子3被告の、「初公判ラッシユ」の感があります。21日にはその先陣を切って高相被告の初公判が開かれました。
 そして23日は、今回の一連の事件の発端となった(と私が思っている)、押尾被告の麻薬取締法違反(使用)の罪での、初公判が開かれました。高相被告の場合にも、舞台となる東京地裁前には、傍聴席を手に入れようと1500人以上の人たちがつめかけたようですが、たった20人の傍聴券を手に入れるために、今回はそれを上回る2232人もの人たちが押し寄せ、日比谷公園の方から地裁まで長蛇の列だったようです。

 さすがに世間の注目の高さを思わせられます。これは私のブログなので私的なことを述べますが、当日は業務の都合上記事更新ができませんでした。その代わり昨年10月記事『10月はたそがれの国』をトップ表示としました。こういう場合は通常訪問者が減ることを覚悟しなければなりません。昼頃管理面を確認したところ、案の定通常以下の出足でした。
 ところが夕方所用から戻って確認したところ、当たり前に記事更新している日を上回るほどの訪問者になっていたのです。「押尾効果」というべきで、やはり多いのは過去の『薬物記事』。押尾学の初法廷が開かれたのは午後1時半からだったようですが、テレビでそのもようが報道され出したのか、午後3時過ぎから急にアクセスがふえ始め夜の9時頃まで続きました。結局この日は、何もしていないのに100人を軽く越える訪問者となりました。

 以上、押尾事件がいかに世間的注目度が高いかの一端としてご紹介しました。過去の薬物記事には、さまざまな検索フレーズでアクセスしてこられます。しかしなぜか、その名前をマスコミでは一度も報道されていないはずの、「森元総理の長男」「森祐喜」が圧倒的に多く、肝心の「押尾学」などを軽く抜く勢いです。
 これはネット情報などにより、いまだ明かされていない押尾事件の核心を、既に多くの人が知って関心を持っているからなのではないでしょうか。

 どうも同事件が起きた六本木ヒルズレジデンス一室には、政界ジュニアや金メダルアスリートたちがいたらしい。そのことをもみ消す政治的な圧力、経済界、警察検察ОB、闇社会からの圧力もあったらしい。しかしそれらのことは一般報道では何も明らかにされてこなかったのです。
 警察、検察当局あるいは各マスコミが、死亡した田中香織さんの遺族や国民の「真相を」知る権利にいつ応えるのだろうか?今回の初公判で真相はどれだけ明らかになったのでしょうか。

 押尾被告は黒の背広にネクタイ姿、髪は短く刈り込み、その所々に31歳とは思えないほど白髪が目立ちました。ふてぶてしいようでいてさすがに、今回の事件では押尾自身も相当の心身的ダメージを受けているということなのでしょう。もうこうなったら、事件の真相を洗いざらいぶちまけてしまった方が、すっきりし楽になるはずです。そこで法廷内の押尾の口から、あっと驚くような爆弾発言でも聞かれるかと思いきや。
 残念ながら、そんなことはあり得るはずもなく。既にニュースなどでご存知のとおり、検察側はかなり厳しく押尾を追及したとはいうものの、これまでの報道で知った範囲を越える事実は何も明らかにされませんでした。押尾はこの事件の真相や闇を墓場まで持っていくつもりなのでしょうか。

 その結果初公判ながら、検察側は1年6ヵ月の求刑という軽いもの。それに対して、弁護側は当然執行猶予を求めて本日の公判は終了。来月2日には、もう判決が出されるというのです。私は刑法はあまりよく知りませんが、2年以下の求刑の場合はまず執行猶予付きで結審となるケースがほとんどだそうです。押尾の麻薬使用罪も間違いなくそうなるのでしょう。

 こんな「あいまい法廷」そして「大甘求刑」にとうてい納得出来ないのが、田中さんの両親です。ご両親は初公判のためにわざわざ岐阜から上京したようです。そして母親は前から「真相を知りたいので、裁判を傍聴したい」と希望していたそうです。それに対して大問題の麻布警察署員から、「現場が混乱するから、行かないでくれ」と強く釘をさされたというのです。
 「ふざけんなよ。麻布署」ではないでしょうか。母親が現場に行くことによって、混乱というよりはマスコミを通して国民により広く注目される。そうなると麻布署の諸々の不手際や闇にも関心が集まることになる、それは困るので慌てて止めに入ったということなのでしょう。
 しかし父親は傍聴出来たようです。マスコミ関係の誰かが手に入れた傍聴券を譲られたのでしょうか。父親は法廷を出るなりのマスコミ取材で、「どうしてもっと早く救急車を呼んでくれなかったのか」と、無念と怒りに声を震わせて訴えていました。
 そのようすを見た国民視聴者は、ご遺族への同情の思いを新たにしたと同時に、「空白の3時間」を含めて多くの謎を解明してくれよ、と改めて思ったのではないでしょうか。
 
 それでなくても、10/27号「FLASH」が衝撃的なことを述べています。全裸死体で発見された「田中さんの体から、押尾被告を含む複数の男性の体液が検出された」というものです。事件現場となった六本木ヒルズレジデンスの一室では、浴室の状況などから事前に田中さんがシャワーを使用していたとみられ、同体液はそれ以前のものではないとのことです。これは田中さんの体に付着した微物のDNA検査や、肝臓など臓器の検査など科学的捜査の結果明らかになったものだそうです。
 このような新事実が明らかになりつつあるのに、今法廷での検察当局の追及は押尾と田中さん相対でのことのみに終始していて、まったく手ぬるいとしかいいようがありません。核心にはいつまで経っても届きそうにないのです。

 田中香織さん自身、生前クラブの同僚に、「私は覚せい剤も大麻もエクスタシーも何でもやったわ」と話していたそうです。今回の事件は確かに自業自得、田中さんにも責任がなかったとは言い切れません。
 しかし田中さんは間違いなく、変死体で発見されたのです。それを「事件性なし」で済ますのなら、日本は本当に「暗黒国家」です。そんな警察いりません。今回はこれで結審するとしても、保護責任者遺棄致死罪での再立件は是非すべきです。それを契機として密室で本当は何があったのか、「複数の男性の体液」が発見されたのであればそれは誰と誰のものだったのか。捜査当局はそれらのことを明らかにする責任があると考えます。

 (大場光太郎・記)

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鰯雲(鱗雲)

   遠き日の故郷の空ようろこ雲   (拙句)

 ここ何日か暖かい日が続いています。きょうも10月下旬にしては、通りを歩いていても思わず日陰を歩きたくなるような強い陽射しで、少し汗ばむくらいの陽気でした。
 午後風はやや強いものの、決して寒さをもよおすような風ではなく、肌に当たればむしろ心地よいほどの風です。しかし季節は争えないもので、真っ青で天まで抜けるような青空には、秋の徴(しる)しの一つである、鰯雲(いわしぐも)またの名を鱗雲(うろこぐも)が中空一面を覆っていました。

 角川文庫版・俳句歳時記「秋の部」によりますと、
 「秋によく見る鰯雲は、巻積雲あるいは高積雲のこと。さざ波にも似た小さな雲片の集まりで、この広がりは小さいことが多いが、一端が地平線まで延びていたり、空に一面に広がっていたりする。魚鱗のように見えることから鱗雲、鯖の背の斑紋(はんもん)のように見えることから鯖雲(さばぐも)などともいう。この雲が出ると鰯が集まるといい、そこからこの名(鰯雲)がついたといわれる」と述べてあります。

 うろこ雲、いわし雲と言うと、やはり北の我が故郷の、遠い少年時代の頃の秋空を思い出します。
   夕空晴れて秋風吹き
   月影落ちて鈴虫鳴く
   思へば遠し故郷の空
   ああ父母いかにおはす   (唱歌『故郷の空』1番)
 侘しさを誘う秋という季節もあいまってか、空にこのうろこ雲を見るとなぜか郷愁に駆られるのです。それは、現実的な郷里への望郷の想いというよりも、遠く過ぎ去った故郷での日々への郷愁の方がより強いようです。
 
 空にその雲を仰ぎ見ながらまた、映画『鰯雲』のことが思い出されました。この映画のことは、去年の『夕焼け小焼け』記事で少し触れましたが、厚木市が生んだ農民文学者の和田傅(わだ・でん)の同名の小説を映画化したものです。
 制作発表は昭和33年。監督は成瀬巳喜男、脚本は橋本忍。当時の厚木付近の農家の、当主、嫁、姑、息子たちの姿を、ある年の早春から初夏にかけての季節を描いた作品です。

  女学校を卒業後、厚木在の農家の嫁になった主役の八重を、淡島千景が演じていました。女優としての華は隠せないもので、農家の嫁にはあるまじき仄かな色香漂う好演が光りました。八重は、厚木通信部に赴任してきた某新聞社の記者・大川(木村功)とふとしたことから知り合い、うたかたの恋に発展するも、大川が東京本社に戻るとともに恋は終わりを告げる。それをメーンテーマに、八重を取り巻く人間模様も随所に描かれていました。
 小林珪樹、中村雁治郎、杉村春子、新珠三千代、加東大介など懐かしい往年のスターたちが、しっかり脇を固めたなかなかの名作でした。

 この映画は、過去にテレビでも何度か放映されており、私は2回ほど観ました。また当市が舞台の映画ですから、厚木市の出先機関である「郷土資料館」の視聴覚ライブラリーにビデオが置いてあり、3年ほど前借りて観たこともあります。
 かれこれ40余年住んでいる私は、厚木市はもう第二の故郷のような感じです。まだ高度経済成長に到る前の昭和30年代前半の、大山の麓の厚木ののどかな農村風景がドラマの展開の合間、合間にふんだんに描かれています。それがこの映画の詩情を一段と高める効果をもたらしており、何となく懐かしささえ感じたものでした。

 原作者の和田傅は、農民文学作家として、農民の土地への執着や農村の変化などを描き続けました。
 1900年(昭和33年)愛甲郡南毛利村(現厚木市南毛利)の恩名(おんな)の生まれ。旧制厚木中学(現厚木高校)を経て、早稲田大学仏文科入学、1923年(大正12年)同大学卒業。その年初めての作品『山の奥へ』を発表しました。
 1937年(昭和12年)『沃土』で第1回新潮文学賞を受賞し、一躍有名になりました。戦後の1954年(昭和29年)日本農民文学会の初代会長となり、翌年神奈川文化賞を受賞しました。1980年(昭和60年)厚木市初の名誉市民となるも、同年10月24日亡くなりました。享年85歳。
 代表作は、『沃土』『門と倉』『大日向村』『日本農人傅』『鰯雲』など。

 私は、生前の和田傅を一度だけお見かけしたことがあります。昭和45年過ぎ頃のことでした。当時は測量の仕事で当市内を回ることが多く、やはり同業務の折り、恩名地区の路上で偶然出会ったのです。
 お宅が近く、散歩の途中ででもあったのでしょうか。和田傅は裏道を悠然と歩いていました。痩せ型の長身で、和服のその姿は「鶴のような」という表現がぴったりのお姿でした。何やらとっくに解脱したような、枯淡で超然とした風貌にお見受けしました。

 (大場光太郎・記)

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『ヴィヨンの妻』など

 今年は作家の太宰治生誕100年だそうです。太宰は1909年(明治42年)6月19日生まれですから、なるほどちょうどそうなるわけです。
 ちなみに太宰治とまったく同じなのが、松本清張(同年12月21日生まれ)だそうです。しかし2人は個性も作風もまるで違う上、太宰の方は戦前作家、そして清張の方は戦後作家というイメージがあります。それもそのはずで、太宰が愛人山崎富栄とともに玉川に入水心中したのが昭和23年6月13日38歳のこと。その時清張はまだ作家活動はしておらず、ようやく処女作『西郷札』を書き始めたのがその翌年、清張40歳過ぎのことだったからです。

 ともかく節目の今年は、太宰治に関するイベントがけっこう多いようです。その一環として太宰の代表的な作品が、今年相次いで映画化されています。まず手始めは、6月頃に封切られた『斜陽』です。原作『斜陽』は、青森県五所川原市の生家が「斜陽館」(太宰治記念館)として残されているほどの、彼の代表作の一つです。
 高校2、3年の頃、学校の図書館で借りて一気に読み通し1日で読み終わりました。何事にも過敏感激症(裏を返せば過敏落込み症)だったあの頃の私は、心の底まで嬉しくなるような感動を覚えました。しかし漠然とながら作家を夢見ていた私は、同時期読んだ夏目漱石の『こころ』、島崎藤村の『破戒』、志賀直哉の『城の崎にて』、谷崎潤一郎の『春琴抄』などとともに、その完成度の高い作品に圧倒され打ちのめされもしたのでした。

 その時以来、『斜陽』は一度も読んでいません。確か戦後まもなくの頃の、没落華族令嬢がヒロインだったかな?くらいで、詳細なストーリーなどまるで思い出せません。『斜陽』だけではありませんが、あの頃あれほど感動した諸作品を、60歳過ぎた今読み返してみたらどんなだろう?と思うことがあります。案外面白い試みであるかもしれません。

 続いて今映画『ヴィヨンの妻』が公開されています。監督は根岸吉太郎で、主演は松たか子、浅野忠信です。この映画について、先日深夜の民放番組で予告編をやっていました。面白そうなので近いうち観てみようと思います。それに先立って、短編で読みやすいため原作をざっと1回読んでみました。
 そして同時に『パンドラの匣(はこ)』という作品も映画化されているようです。これは監督が冨永昌敬、主演は窪塚洋介。窪塚といえば、数年前横須賀の自宅マンション9階から謎の空中ダイブをし、一時は重体となりましたが、九死に一生を得てその後タレント復帰を果たしました。同事故をめぐっては、「あれは薬物以外考えらんねえぞ」という噂もありますが、さてどうなのでしょう。この映画は観るかどうか決めていません。その時の気分次第ということで。

 さらに来春には『人間失格』が封切られるようです。
 『人間失格』については些細な思い出があります。今から20年以上前のこと、私が本厚木駅目指して歩道を歩いていた人影まばらなある午後のこと。すると駅の方から一人の女性がやって来るのが見えました。見たところ20代後半くらい、やや大柄で太めな感じです。私がその女性に目がいったのは、何と本を読みながら歩いているからです。『今時、女二宮金次郎か?』。ついぞ出くわしたことのない光景に、すれ違いざま何の本なのか確かめたくなりました。読んでいるのは文庫本、そしてちらっとタイトルも分かりました。『人間失格』。
 彼女は知的に見えないこともないけれど、器量はイマイチ、はっきり言って不美人。おそらく電車の中でも読んでいて、止まらなくなったのでしょう。周りのことなどまるで眼中になく、本に釘付けのまま遠ざかっていきました。私は一度後ろを振り返って、『ありゃ、かぶれてるわ』。

 ことほどさように、太宰治の作品は読者をとりこにする魔力のようなものがあるようです。彼の独特な文体や、言葉の魔術師的技巧、思わず蕩(たら)されそうな機微をうがった描写などによるものなのでしょうか?それが証拠にこの『人間失格』は、新潮文庫中漱石の『こころ』と何十年も売上げ累計トップを争っているのだそうです。
 私はその何年も後40代前後の頃、はじめて『人間失格』を読みました。もちろん感受性は鈍磨し、人間世界の垢がずいぶんくっついた身。それなりの面白さは感じたものの、『斜陽』の時のような沸き立つような感動など望むべくもありませんでした。しかしそうは言っても、太宰最晩年の遺作とも自叙伝的とも目されている作品。この映画化は今から楽しみで、その前今度はもう少し丹念に読んでみようと思います。

 最後に『ヴィヨンの妻』を読んだ感想らしきものをー。
 『斜陽』と同時期の昭和22年の作品です。さすが太宰は小説の名手、『うまいなあ』の一言です。大谷というはちゃめちゃな売れない詩人の妻の視点から描かれた短編です。
 最近の文体の流れは、シャープで小気味よい短いセンテンスが主流であるのに、この短編は会話文でも地の文でも、話があっちに飛んでこっちに飛んで、いつ終わるかしれないほどやたら長い文章で、しかしこれも太宰は戦略的にそんな文体にしたのに違いなく、なるほど最後でぴたっと筋道がついて、大谷や大谷に戦前から飲み代を踏み倒されっぱなしで、しまいにはタンスの中の年越しの虎の子の五千円まで盗まれる飲み屋の夫婦のことも、語り手の妻のことも、彼らを取り巻く状況も戦後まもなくの逼迫した世相なども、何もかも判然としてくる仕掛け、この辺が太宰の真骨頂に違いありませんです。

 しかし読みながらタイトルにある「ヴィヨン」とは一体何者、それでタイトルの『ヴィヨンの妻』とは何を暗示しているのかしら、と疑問を感じながら読んでおりましたら、ありましたのです文の途中に、それは「フランソワーズ・ヴィヨン」という詩人として出ていましたので、これはまた太宰創作の架空の人物か、はたまた19世紀末フランスのボードレールのようには売れなかった退嬰的な詩人の名前を拝借したものかと推量し、しかし気になって調べてみましたら、意外なことに実在の人物で、何と15世紀中世フランスのけっこう有名な詩人、貧しい生まれながらパリ大学にも入ったはいいが、生来のアウトサイダー的、破滅型的性格から盗賊団や売春婦と付き合い、身を持ち崩しながらも後世に残るような瑞々しい詩を書き上げ、30歳過ぎた頃忽然と歴史から消え去ったという大変面白い人物で、無頼派の太宰は自分と響きあうヴィヨンを知って、その人物に託して大谷なるデカダンな人物像を作り上げたものなのでございましょう。

 と太宰の文体を少し模倣して述べてみました。作るにも読むにも骨が折れますね。ともあれ、映画『ヴィヨンの妻』は原作をどのように料理しているのか、大谷の妻を松たか子はどのように演じているのか、楽しみです。

 (大場光太郎・記) 

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「あなたは、あなたでいいのだ。」

  これでいいのだ。
  それは、赤塚不二夫さんが、
  漫画の中で幾度もくり返してきた言葉。

  現実はままならない。
  うまくいかないことばかり。
  毎日のほとんどは、
  これでよくないのだ、の連続だ。
  自分を責めて、誰かを責めて、何かを責めて。
  そして、やっぱり自分を責めて。

  だけど、ためしてみる価値はある。
  あなたが、もうこれ以上どうにもならないと
  感じているのなら、余計に。

  胸を張る必要はないし、
  立派になんて、別にならなくたっていい。
  あなた自身がそう思えば、
  世界は案外、笑いかけてくれる。

  人生は、うまくいかないことと、
  つらいことと、つまらないこと。
  そのあいだに、ゆかいなことやたのしいことが
  はさまるようにできているから。

  どうか。あなたの人生を大事に生きてほしい。
 
…… * …… * …… * …… * …… * ……
 以上の文は、10月20日付夕刊紙の17面下段の大きな広告欄に掲載されていた一文です。スポンサーはACジャパンです。同社は公共広告によって啓蒙活動を行っている特例社団法人で、時折りテレビでも同社の秀逸なCMを目にすることがあります。私は一般紙を購読していませんが、あるいは全国紙にもこの広告は載っていて、既に目にされた方もおられるかもしれません。
 何ともほのぼの心打たれる一文です。どこぞのコピーライターが作ったものなのでしょうが、『さすがはプロの文章 ! 』とうならされます。広告文である以上、著作権は発生しないはずと判断し、早速全文を引用させていただきました。
 
 「あなたは、あなたでいいのだ」。確かにそのとおり。「隣人愛」は人類の理想ではあるけれど。まずは自分自身を認め愛せなければ、とても他人を愛せるものではありません。それも自分の嫌いな部分も含めて、丸ごと。しかし実際は、意外と自分自身を愛せていない、自分のどこかを嫌っていることの方が多いものです。

 最近亡くなった人のことを引き合いに出して、申し訳ないながら。ミュージシャンの加藤和彦氏が自殺しました。享年62歳。私より2歳上、昭和43年一世を風靡した『帰ってきたヨッパライ』以降若くして音楽的才能を発揮し、私ら「団塊の世代」の旗手の一人でした。
かつてのブルーコメッツの井上忠夫氏の時もそうでした。今回の加藤氏の自殺によって、若かりし昭和40年代のあの頃の、私たちの思い出がまた一つ黒く染め上げられてしまったなという思いがします。

 「なぜ自殺なんかしたのだろうか?」。2番目の奥さんの安井かずみとの死別がこたえたとか。それに近年うつ病で通院しており、知人たちには「やりたいことがなくなった」「自分の思うことができない」と洩らしてもいたとか。そういうことが重なって人生に絶望したのかもしれません。しかし本当の原因は当人にしか分からないことです。
 それを承知で述べますと、「老いの自覚」がどこかにあったのではないだろうか?と思うのです。加藤和彦氏はバリバリのダンディな人だったと聞きます。若くして才能が開花したかつての輝かしい自分。今現在の才能そして肉体的衰え。その甚だしいギャップ。彼のダンディズムは、自身のそのような衰えを認めたくなかったのではないでしょうか?

 引用文の「あなたは、あなたでいいのだ」は、付け加えるとすれば「あなたは、今のままの、あなたでいいのだ」となるはずです。
 しかし加藤氏はそれが出来なかった。過去の栄光があまりにも大きすぎて、今現在の自分を否定しがちだったのではないでしょうか?それは加齢により才能その他諸々の衰えの自覚だとしても、それらも含めてありのまま認めてほしかった、「自殺」という究極的な自己否定などしてほしくなかった。これは同時代を共に生きた者の率直な感想です。
 今後『あの素晴らしい愛をもう一度』や『イムジン河』を、どのように聴けば、歌えばいいのでしょう?

 それに引き換え。漫画家・赤塚不二夫(昭和10年~平成20年)のすべてを笑い飛ばす「ギャグ精神」の見事さといったら ! 今回引用文の中には、赤塚の写真も載っています。それはあの天才バカボンの父親そっくりの、鼻の下に5本のヒゲ、額に2本のシワを墨で描いて、目を細めて微笑んでいる写真です。その姿からは、「人生何があっても、これでいいのだ」と笑い飛ばす、赤塚の面目躍如といった感じです。今となっては、何とも懐かしさを覚える赤塚不二夫の風貌です。

 赤塚不二夫は旧満州に生を享け、敗戦で軍人の父親はシベリア送り。残された家族は終戦の翌年、母の実家のある奈良県に引き上げてきました。幼少の頃から辛酸をなめ地獄も見てきたようです。悲惨な体験が根っこにあっての、「これでいいのだ」。人生丸ごと全肯定の楽天的姿勢。
 笑い事じゃない深刻な時ほど、「笑い」や「ギャグ」が余計必要なのかもしれません。

 「これでいいのだ」は、決して甘ったれた育ちから生まれた言葉ではない。それをよく噛みしめて、引用文をじっくり味わってみたいものです。

 (大場光太郎・記) 

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続・『カムイ外伝』を観て

 今回の映画は、「ビックコミック・スペシャル」の『カムイ外伝』3、4巻の「スガルの島」をベースにしているようです。2つの漁村が舞台になっています。こんなローカルなうち捨てられた漁村で、世にも奇っ怪な出来事が巻き起こるとは。武士あるいは史上名高い出来事にスポットライトを当てがちな時代劇にあって、大いに異色な視点だと思います。

 この映画は監督が崔洋一、脚本が宮藤官九郎と崔洋一の共同脚本。崔洋一は、1949年(昭和24年)生まれで韓国籍の映画監督、脚本家、俳優。主な監督作品は、『十階のモスキート』『月はどっちに出ている』『血と骨』など。『血と骨』では第28回日本アカデミー賞最優秀監督賞、優秀脚本賞に、『月はどっちに出ている』では第17回日本アカデミー賞優秀監督賞など、多数の受賞歴があります。

 主人公のカムイを演じたのは、松山ケンイチ。青森県むつ市出身の24歳。若手実力派俳優とのことですが、この映画を観るまで私は知りませんでした。『男たちの大和/YAMATO』で第30回日本アカデミー賞新人俳優賞、『デスノート 前編』で同賞優秀助演男優賞、『デトロイト・メタル・シティ』で第32回日本アカデミー賞優秀主演男優賞など多数の賞を受賞。なるほど「凄い」の一言です。
 今回のカムイは、ぴったりのはまり役だったなという感じがします。私のかすかな記憶のカムイ像もこんな感じだったと思うのです。松ケンは元々二枚目のイケメン系ですから、とにかく絵になります。それに非情の世界に生きる孤独なヒーローながら、時折り見せるやさしさ。女性ファンはイチコロでとりこになってしまうのではないでしょうか。

 脇役陣の演技も光っています。やはり抜忍の先輩格の元くの一(女忍)スガル役の小雪。彼女は『ラストサムライ』で一躍国際派女優との評価を得ましたが、私は今回のスガル役の方がより演技が光っていたと思います。もっとも皆が絶賛する『ラストサムライ』、私は「ハリウッド臭時代物」と、あまり評価していないのです。
 追忍に追われて「スガルの島」に漂着したスガルを、妻としている漁師半兵衛役の小林薫は今さら言うまでもないベテランです。貧しい漁村の一漁師の役柄でしたが、さすが味のある演技でした。

 2人の間に生まれたサヤカという娘役の大後寿々花。同島に同じように漂着したカムイにいつしか恋心を抱く娘の役どころを好演していたと思います。彼女はまだ16歳とのことですが、将来が楽しみな女優の卵のように思います。
 漁村民からサメ退治を依頼される、当初は正義の味方、しかし実はカムイを葬り去ろうとする渡衆(わたりしゅう)の頭目・不動役の伊藤英明。このような映画では、ヒーローをより引き立てるための、魅力的な「悪役(ヒール)」の存在が欠かせません。伊藤英明はその期待に十分応えていたのではないでしょうか。私は伊藤はどちらかというと善人役だけかなと思っていただけに、新たな側面を発見した思いです。
 その他備中(山陽道に面した昔の一国。今の岡山県西部)松山藩主軍兵衛役の佐藤浩市、その側女(そばめ)のアユ役の土屋アンナ。共に面妖な役どころがはまっていて面白かったと思います。

 映画のラストでカムイは、一艘の小舟に乗って荒れ狂う夜の海に漕ぎ出し、すべてが終わってしまった島を後にします。そのシーンにかぶさるように、「カムイはいつになったら本当の自由を手に入れることが出来るのだろうか?」というようなナレーションが入ります。いやいや。映画の中でカムイは、既に十分自由を手にしているではありませんか。
 己を追ってくる追忍たちが飛ばす短剣を、すんでのところでするりとかわしたり、高い木や崖上にいとも簡単に飛び移ったり、空中飛行が出来たり、檻の中に閉じ込められたまま海中に沈められても、間一髪危地を脱したり…。私たち平凡人からみれば、まるで「超人」です。超人とは真の自由人の異名に他ならないわけですから、カムイは今のままで十分自由人であるのです。

 カムイと追忍たちあるいは不動との息づまる攻防戦を、一層スピード感、臨場感溢れる迫力あるものにしているのは、何といってもCG技術の進歩の賜物です。それなしには、カムイの変移抜刀霞斬りや飯綱落しなどの必殺忍法は表現出来なかったはずです。
 ある人がテレビは「提霊微」だと言ったことがあります。これはテレビは、「微妙な霊的世界を映し出す装置」という意味合いかと思われます。現在起きている事物でも、場所を選ばず国内外どんな所でも中継出来ます。また過去も未来も自在に描き出せるわけです。霊界は3次元世界とは違って場所的制約はなく、また過去、現在、未来という直線的時間軸にもない世界なわけですから、この言葉は案外的を得ているのです。
 
 これはCGなどの映像技術の進歩によって、今や映画の世界にこそふさわしい言葉であるように思われます。最近の映画の映像世界は、本当に「夢の中の世界」「霊界(アストラル界)」にどんどん迫っていっているようなのです。
 おそらく現実の世界も、いずれその世界にどんどん近づいていくのでしょう。というよりも、今この時がそのプロセスなのかもしれません。映像世界というバーチャルリアリティの世界は、そのことを告げ知らせる予告編、あるいはこの現実がその世界に踏み込む上での、かっこうの予行演習としての役割があるのかもしれません。

 ともかく全体として、異色の大型娯楽時代劇。さすがは白土三平劇画の映画化。見ごたえ十分で、お奨めの作品です。

 (大場光太郎・記)

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『カムイ外伝』を観て

 17日(土)夕方久しぶりで映画を観てきました。観たのは『カムイ外伝』、今評判の映画のようです。上映館はいつもの、小田急線海老名駅近くのサティ2階の「ワーナー・マイカル・シネマズ海老名」です。
 同映画館では、喜ぶべきかどうなのか60歳以上はシニア扱いで、通常料金の半額で一映画が観られます。前回からそうなったようなのですが、言い忘れていました。格安料金なのですから度々来館してもよさそうなものですが、前回トム・ハンクス主演の『天使と悪魔』を観たのが6月上旬。あれから4ヵ月も立ってしまったわけです。なかなか時間が取れないものです。

 もう10月も下旬に間近いどんよりと曇った、どことなく侘しい感じのする秋の1日でした。2、3日前から土曜日夕方は映画でも観てこようと思っていたものの、どうもイマイチ気分が乗りません。しかしこの日を逃せばまたいつの日になることやら。それに観た感想を早速ブログ記事として載せたいし。
 窓口で「一般の方でよろしいんですよね?」と受付嬢。「いや60です」と私。それではと、私の顔をちらっと見ながら、しかし身分証の提示も求めず格安料金で。その上何と、本日はシニア優待日だそうで、ドリンク無料券が1枚ついてくるわで。その券で同じフロアーの売店でペプシをもらい、何となくトクした気分になりました。
 現金なもので、『よしっ。近いうち次は「ヴィヨンの妻」でも観に来るか』と思いながら、通路を通って『カムイ外伝』が上映される1番スクリーンに向かったのでした。

 同映画館では国内外の映画を常時15作品くらい上映しています。その中には『20世紀少年(最終章)ぼくらの旗』『さまよう刃』『私の中のあなた』『ATOM』などとある中で、何で『カムイ外伝』を観る気になったのでしょう。
 やはり私が若い頃発表されて大評判だった白土三平の原作劇画の印象が強かったせいだと思われます。といっても、先日の『つげ義春「ねじ式」』記事で少し触れましたが、漫画をあまり読まなかった私は、当時同劇画を読みふけっていたわけではありません。たまに近くに漫画雑誌があった時、読んだくらいなものです。
 私の記憶ではやはり『カムイ外伝』ですが、最初に1964年(昭和39年)から1971年(昭和46年)まで「月間漫画ガロ」に連載された時のタイトルは『カムイ伝』だったようです。

 「ガロ」という漫画雑誌を、今回『ねじ式』ではじめて知ったところをみると、私があの頃時折り目を通したのは、やはり「週刊少年サンデー」に不連続で掲載されたという『カムイ外伝』の方だったようです。
 元々の『カムイ伝』の方は、第2部を1988年(昭和63年)から2000年(平成12年)まで「ビックコミック」誌に連載。少しややこしくなりますが、その前1982年(昭和57年)から1987年(昭和62年)までは『カムイ外伝 第2部』を同誌が連載したようです。
 原作者の白土三平は「カムイ伝は第3部まである」と、同作品第2部の最後で読者に告げたそうです。しかし今日に至るも第3部は出されておらず、心待ちにしている「カムイファン」は多いようです。

 『カムイ伝』は、17世紀江戸時代の、さまざまな階級の人間の視点から重層的に紡ぎ上げられた物語。「カムイ」とは主人公である忍者の名前。旧来の漫画にはみられない武士、浪人、百姓、非人、商人などさまざまな群像が入り乱れる骨太のストーリーが特徴です。時代小説に比しても遜色ない時代漫画路線の礎を築いたものとして、高い評価を得ているようです。
 そして『カムイ外伝』の方は、『カムイ伝』から主人公の一人であるカムイのみを取り出して描かれた、言ってみれば「別伝」のような作品です。

 この世の最下層の非人部落に生を享けたカムイは、「自由を求めて生きたい」そのためには「強くなりたい」と、忍者の道に入ります。ところが『カムイ伝』で既に抜忍(忍者から抜けること)してしまい、追忍(抜忍を追う立場の忍者のこと)から執拗に追いかけられることになります。村々などで数々の事件に遭遇しますが、カムイは変移抜刀霞斬り(へんいばっとうかすみぎり)や飯綱落し(いずなおとし)といった必殺忍法などの技を使い、そのつど切り抜けながら終わりのない旅を続けていくというストーリーです。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(16)

 米沢移封をめぐって

 関が原の戦い(慶長5年旧9月15日-1600年)は、徳川家康(松方弘樹)率いる東軍の勝利で終わりました。石田三成(小栗旬)は敗れて逃走するも、捕らえられ処刑されました。個性的な演技が光った小栗三成が見られなくなるのは残念ですが、私としてはその後の展開にはことのほか興味があります。

 というのも、西軍側に味方した会津上杉藩が、いよいよ我が郷土の出羽の国・置賜(米沢)に移ってくることになるからです。昔は上杉藩領であった山形県東置賜郡出身の私としては、やっと子供の頃から知っていた上杉藩の物語が始まるんだな、という感じです。
 しかし私が郷里で過ごしたのは18歳の時まで。したがって上杉藩のほんの上辺を知っていたに過ぎません。今回の『天地人』の米沢移封をきっかけとして、改めて「米沢上杉藩物語」を学び直したいと思います。

 第40回は「上杉転落」第41回は「上杉の生きる道」で、米沢への移封、減封の次第が描かれていました。
 関が原で西軍に加わった各大名には、当然厳しい処分が待ち受けていたわけです。上杉とて同じこと、お家の取り潰しも覚悟しなければならない局面です。そんな厳しい状況の中で、上杉景勝(北村一輝)と直江兼続(妻夫木聡)の主従はどうその難局を乗り切っていったのか。その辺のところが、このドラマのテーマである「義と愛」に沿った美談仕立てで描かれていたように思います。

 美談のはじめは、兼続が徳川家康の参謀格の重臣・本多正信(松山政路)のもとを訪れ、本多家に直江家の家督を譲るということを切り出したことです。もちろんこれには名門直江家の息女である、妻お船(常盤貴子)は反対なわけです。そうなれば嫡男の竹松(加藤清史郎)が直江家を継ぐことは出来ず、あまりにも不憫であるという理由もありました。
 しかしそのことに誰よりも心を痛めているのは兼続自身。だが上杉家を存続させるためには、どうしてもそうしなければならないのだとお船を説得します。わが身、我が肉親、我が家系をまず犠牲にしてお家の存続を図るという、まさに「苦肉の策」といったところでしょうか。

 それを正信から聞いた家康も、「そうすれば直江家を通して、徳川が上杉をコントロール出来るというわけじゃの。悪くないのう。その話進めよ」となります。
 そのような兼続のお家存続の努力に加えて、「義と愛」に心動かされたか、東軍に味方した福島正則(石原良純)や関が原の最重要局面で東軍に寝返った小早川秀秋(上地雄輔)などが、上杉存続に尽力します。その結果淀殿(深田恭子)に呼び出された家康が、豊臣秀頼の一言でしぶしぶ上杉存続を認めさせられたという筋立てでした。

 しかし実際はどうだったのでしょう?確かに西軍についた各大名はことごとく所領没収などの憂き目にあいました。豊臣秀頼ですら、それまでの近畿200万石から摂津、河内、和泉3ヶ国65万石にまで減封されています。それからすれば上杉も、所領没収となってもおかしくはなかったわけです。
 しかし家康の上杉への処遇は当初から決まっていたようです。本多正信に対して家康は、「何しろ謙信公の上杉じゃ。無くすわけにはいかぬ」。もちろん老獪な家康の腹のうちは、軍神・謙信への尊敬だけではありません。「それにのう。上杉はなかなか強い。敵に回すよりは味方にして使うべし」。これが当初からの家康の本心だったようです。

 それだけ謙信以来の上杉家の武勇が天下に知れ渡っていたこと、豊臣政権下で景勝は家康と共に五大老の要職にあったこと、兼続という無類の軍師がついていること。いろいろ考慮すれば、ここで上杉への対応を間違えれば上杉軍は捨て身で戦い、それに呼応して徳川に不満を持つ諸国の武将たちが秀頼を旗印に第二、第三の関が原を起こしかねない。そうなれば、「天下統一」という徳川家康の野望は潰(つい)えかねません。
 領地没収、断絶に到らなかった上杉への処遇は、家康の度量の大きさを物語るものであると共に、その深謀遠慮が働いた結果であるとみるべきです。
 なおこの決定と同じようなケースが、同じく五大老で関が原では総大将だった毛利輝元(中尾彬)への処遇です。やはり120万石から周防、長門の2ヶ国(後の長州藩)の30万石に減封され、高齢の輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲っています。

 家康と交渉のため、景勝と兼続が上洛したのは、関が原合戦の翌年の慶長6年7月のことでした。大坂に入った兼続は本多正信と下交渉に入ります。時に正信60余歳、兼続40歳をわずかに過ぎた頃。
 その結果、「領地は置賜(おいたま)と陸奥信夫(むつしのぶ)、伊達(だて)である。それでよしとせよ」と正信に告げられます。置賜は(現山形県の)雪深い山国の盆地でしたが、それに(現福島県の県北地方の)信夫と伊達が含まれていたことは、上杉としてもありがたかったはずです。両地方は旧伊達家の領地で、阿武隈川が流れみちのくの奥大道、その上地味も豊かで、交通の要衝でもあったからです。

 上杉は本多正信が窓口で良かったとみるべきです。三河出身の正信は幼少から家康に仕え、事務方の筆頭にまで上った人物です。古参の武断派からは敵視されていたものの家康からは深く信任され、江戸では総奉行として辣腕をふるい、徳川幕府250年の基礎を固めた功労者の一人です。
 上杉家存続のため直江家の家督を差し出したというのは多分に美談と見るべきで、その交渉の過程で正信、兼続共に肝胆照らし合い、互いの人物にほれ込んでいった。したがって本多家から直江家への婿養子の話は、その後の交流の過程で自然と出た話ではなかったかと思われます。

 ともかく。上杉のそれまでの領地は、会津、置賜92万石、佐渡13万石、出羽庄内14万石の約120万石でした。それが置賜、信夫、伊達の30万石、一気に1/4にまで減封されることになったのです。お家断絶は免れたものの、上杉家始まって以来の厳しさであることに変わりはありません。
 この厳しい事態を受けて、さて直江兼続はどんな手を打っていったのか。それは既にドラマでも描かれていますが、また近いうち述べてみたいと思います。

 (大場光太郎・記)

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つげ義春『ねじ式』

 時として思いがけない人や物や出来事に出くわすことがあるものです。
 先日のある午後、私は街のコーヒーシップを利用しました。途中トイレで用を済ませ洗面所に立ちながら、ふとそこの際の下に置いてある、丸くて小さなゴミ箱に目がいきました。するとその中にはスポーツ紙らしきものと共に、少し厚めの文庫本が投げ込まれているのが目に止まりました。
 『んっ?』。いくら何でも、本などは滅多に捨ててあることはないはずです。元来本好きな私は『どんな本だろう?』と、誰かが読み終わって捨てたくらいだからどうせつまんない読み物なのに違いないと思いつつ、一応そこから取り出して手に取ってみたのです。

 見ると、それは「ちくま文庫」中の一冊で、題名が『ねじ式/夜を掴む』とあります。左上には「つげ義春コレクション」ともあります。つげ義春の『ねじ式』 !?ちくま書房では、マンガも文庫化しているわけ?ともかく有名なマンガですから、題名は知っています。いつか機会があれば読んでみたいとまでは思っていたかどうか…。
 何となく興味が湧いてきて、中のページをパラパラとめくってみました。ページの所々に、何やらエロチックな画も見られるではありませんか。私が本来的に持っている劣情も刺激されて(笑)、『よしっ。一通り読んでみるとしよう』。そう決めて同本を持って自分の席にて戻ってきたのでした。

 さあそれから予定変更で。早速それを読み始めました。マンガですから「見る」というべきか、いえこれに限っては「読む」といった方がよりふさわしいようです。最初はタイトルの『ねじ式』、次に『ゲンセンカン主人』『夢の散歩』と続き、いずれも短編、全部で10数編くらいありそうです。とりあえず最初の『ねじ式』から始めて、知らず知らずのうちに「つげ義春ワールド」に引き込まれ、あっという間に5編ほどを読み終わりました。
 いくらなんでも業務予定もある身、全部を読み終えるわけにもいかず。本当は一通り読んだら、また元のゴミ箱に返すつもりが、捨てるのが惜しくなってバッグにしまいこんでその店を後にしたのでした。

 家に戻って夕方続きを読み直し、結局全編読み終わりました。どこぞの「マンガ好きの(前)総理」と違って、私がマンガに没頭するなどずいぶん久しぶりです。私が大のマンガ好き少年だったのは小学校4年生頃まで。当時の人気漫画『赤胴鈴之助』『猿飛佐助』『まぼろし探偵』『月光仮面』『鉄腕アトム』などは夢中で読みました。
 しかしその頃「読書の楽しみ」を知ってしまった私は、いつしかマンガはほとんど読まなくなっていったのです。20代、30代の現実対応に大わらわで読書どころではなかった頃も、マンガはあまり読みませんでした。
 今回図らずも「つげ作品」に接して、『やっぱりマンガもバカにしたものではないな』と認識を新たにした次第です。

 つげ義春の代表作とも言われる『ねじ式』は特にそう思います。本の後の解説によると、つげがこの作品を最初に発表したのは、昭和43年のことだそうです。当時「ガロ」という有名な漫画雑誌があり、それまで全く売れなかったつげは、この雑誌の連載でようやく少しずつ読者を獲得していったようです。
 同年6月のガロ臨時増刊号が「つげ義春特集」で、原稿締切り迫る中何も書けずに困っていたつげが、ある時見た夢をモチーフに、「えぃやっ」とばかりに軽い気持ちで描いたものだそうです。

 それにしては、何とも純度の高い「芸術作品」というべきです。漫画というよりは、コクのある文学短編を読んだような、味わい深い作品だと思います。俗に小説などでも、「2度繰り返して読みたくなる作品は良い作品だ」と言われます。私はもちろんその後捨てることはせず、この『ねじ式』はもう10回近く読み返しました。
 これをお読みの方で興味を持たれ、近くの本屋さんで早速立ち読みでもしてみようと思われた人もいることでしょう。ですからストーリーには触れないでおきます。「夢」に題材を取っただけあって、シュールな展開そして絵。全編に流れるユーモアとペーソス…。

 つげ義春は、昭和12年東京葛飾区生まれで5歳で父と死別。以後母子家庭で苦労して育ち、間が悪いことに小学時代がちょうど戦時中。新潟に疎開するも集団生活になじめず、以来成人しても極度の赤面恐怖症に悩まされ続ける。学歴は小学校卒業のみ、メッキ工として就職するも対人恐怖症のため、一人でやっていける仕事として漫画家の道へ。
 漫画家で親交があったのは赤塚不二夫だけ。手塚治虫伝説で有名なトキワ荘にも短期間住んだことがある。全く売れずに錦糸町の下宿代を2年間滞納し、以後8年間便所を改造した一間に幽閉状態になっていたことも。昭和37年には自殺未遂を図り、病院に担ぎ込まれる。
 『ねじ式』など彼の作品には、そんな苦労人のつげの人生が投影されている作品が多いように思われます。

 ところでこの作品が発表された昭和43年といえば、私が山形の高校を卒業して現居住地にやってきた年です。世間知らずの田舎少年が突然火宅の首都圏に投げ込まれたような感じで、まるで生きた心地がしない時期でした。それで当時は、こんな作品が出たことなど全く知りませんでした。

 当時は70安保の学生運動が激しさを増しつつあった頃。ちょうどフォークソングがブームになりかけた頃で、巷ではフォーク・クルセダースの『帰ってきたヨッパライ』、ピンキーとキラーズの『恋の季節』、ザ・タイガースの『花の首飾り』、黛ジュンの『天使の誘惑』、小川知子の『夕べの秘密』などという歌が流行っていました。
 社会的には、2月に暴力団員2名を殺害して静岡県寸又峡温泉の旅館に一週間立てこもり続けた金嬉老の事件、10月の川端康成の日本人初のノーベル文学賞受賞の報、年の瀬の12月に府中市で起きた3億円強奪事件などがあった年でした。
 そんな中今の時代でも通用しそうな、シュールで社会の暗部を抉り取った不条理劇のような漫画作品があったなんて !

 この作品は私が知らなかっただけで、当時の「全共闘世代」の大学生や若者たちから支持され、世間に衝撃を与え、その後の日本漫画界に多大な影響を及ぼしたのだそうです。今回初めて読んでみて、『なるほどねえ』と納得させられるものがあります。当時はこのような手法で描かれた作品は皆無だったはずです。まさに革命的な作品だったのではないでしょうか?
 後の漫画家、例えば長谷邦夫の『バカ式』、赤瀬川原平の『おざ式』、蛭子能収の『さん式』、江口寿史の『わたせのねじ式』などさまざまにパロディ化もされていますし、また映画化もされているようです。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(23)

 この国は特権階級優遇社会 !?

 私としては(21)(22)記事を作成しながら、『このまま迷宮化しそうだった押尾事件、何とかまた動き出したぞ』と密かに喜んでいました。押尾学の再逮捕、現場に駆けつけたエイベックス元社員のマネージャーたちの逮捕、そしてその先のあっと驚くような新展開を思い描き、大いに期待もしていたのです。
 しかしその後何日経っても事態は一向に進展していません。先週数回事情聴取され、そのまま逮捕かとみられていた元マネージャーたちの逮捕もなく、押尾自身の再逮捕の動きもなく。今月23日の、押尾の麻薬取締法違反という軽微な罪を裁くだけの初公判を待つばかり。大いに落胆させられます。

 警視庁捜査一課の、最近のさもやる気まんまんの捜査は一体何だったのでしょう。やはり田中香織さんの遺族から民事訴訟を起こされそうで、そうなるとそれまでの怠慢捜査が浮き彫りになっては困る、そのためそれを思い止まらせるための単なるポーズ、偽装捜査だったのでしょうか。
 もしそうだとしたら、事件の真相解明を望む遺族や国民をなめ切った姿勢というべきです。事件発生当初から追い続けてきた私としては、何ともやり切れない虚しい思いがします。

 そこで素朴な疑問が沸いてきます。それは今の日本は、本当に「民主主義国家」といえるのだろうか?ということです。もちろん「民主主義とは何か?」という定義は大変難しい側面があります。しかし簡単に言えば、読んで字のごとく「国民主権主義」ということだろうと思います。それでなくても「主権在民」は現憲法が保障する基本的概念なのですから。
 この基本的なルールが今守られているのだろうか。政治、経済など各分野で詳細に検討するとなると、大論文になってしまいそうです。ですから今回は押尾事件だけに絞ってみてみたいと思います。

 押尾学が保釈されて間もなくのネットアンケートでは、「これで事件が解決したとは思わない」という人の数が、70%以上にも達していました。以前述べましたような諸事情により、新聞、テレビなどマスコミ各社のこの事件の報道には、かなりの情報操作、隠蔽があります。だから「押尾隠し」「総選挙隠し」のため連日酒井事件の方を過熱報道したマスコミは、この問題で世論調査などするはずがありません。あくまでもネットでの結果ながら、いずれにしても多くの国民がこの事件に疑問を持っているのは間違いないと思います。
 田中さんの遺族のみならず、「もっときちんと捜査して、事件の全容を解明してもらいたい」というのが「民意」なのではないでしょうか。
 主権在民というのに、これまでも民意は幾度となく無視され踏みにじられてきました。押尾事件でも同じように民意を無視して、単なるポーズだけの捜査で終わらせるというのでしょうか。

 当初から所轄の赤坂警察署などが捜査に二の足を踏んできたのは、これまで本シリーズで述べてきましたように、とてつもない「大きな闇」が暴かれることになるからです。その大きな闇を抱えているのは、一般大衆つまり国民でしょうか。
 さあ、そこが問題です。六本木ヒルズに“やり部屋”を幾部屋も開放し、売春まで斡旋し、自らが薬物を使用していた疑惑のある、ピーチ・ジョンの超資産家の野口美佳社長。そのやり部屋に出入り自由で、事件発生当時問題の一室にいた疑惑のある、森元総理の長男祐喜や北島康介など。それをもみ消すために捜査当局に圧力をかけた疑惑のある、森元総理…。

 押尾学という二流役者を身代わりに立てすべての罪を彼におっかぶせて、上に挙げた連中を守ろうというのが、今回の事件の基本的構図なのではないでしょうか。彼らは「一国民」でしょうか。確かにある側面ではそうだともいえます。しかし国民の多くは決してそうは見ないことでしょう。
 超資産家、オリンピックの金メダル級のアスリート、県会議員、国会議員、元総理。彼らは明らかに「特別な人たち」です。それが証拠に、一般ピープルが立ち入ることが難しい六本木ヒルズに、彼らは出入り自由なのですから。

 社会的に特別な立場の人たちは、例えどんな罪を犯しても守ってやらなければならないということなのでしょうか。いつからそんな法律が出来たのでしょう。
 すべての人間は「法の下に平等」のはずです。もしそうではなく、「いやぁ、あの人間をしょっぴくとなると社会的影響が大きくなるからねぇ…」では、それを基本理念の一つとする「法治国家」が根底から揺らぐことになります。
 それのみか、そんなことをすればするほど、国が根っこの所からどんどん腐っておかしくなっていってしまいます。

 むしろ社会的立場が上であればあるほど、己の身は何倍も厳しく律するべきなのです。もし仮にそういう立場の人間が法を犯した場合は、当局は取分け厳正に取り調べ裁くべきです。そうでなければ、法治国家を保っていくことは出来ません。「上乱れれば下乱れる」のが道理です。

 問題のやり部屋に、県会議員や国民栄誉賞を受賞しようかという人間が昼日中から入り浸っていて良いはずがないのです。そこで当然に薬を使用していたわけですから、それだけで立派な犯罪です。しかもこの度は、事件発生当時問題の部屋にいた疑惑がかけられているのです。『なのに何のお咎めもなしとは、アンタら何様だ。金正日の息子たちか』。
 二世議員。二世タレント…。硬直化し活力が失われていく一方の、格差社会、階級社会。この国はもはや民主主義など名ばかりの、特権階級が好き勝手にのさばる国になってしまったのでしょうか。
 そんな国が、北の将軍様の国を批判できるのでしょうか。

 警視庁捜査一課によるこの事件の真相解明を、改めて強く要望したいと思います。

 (大場光太郎・記)

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夜討ヶ窪と云ふ地名

   秋風や夜討ヶ窪と云ふ地名   (拙句)

 過日の台風18号は「非常に強い台風」ということで、さては数年前アメリカ南部各州を襲ったカテリーナクラスの超強力台風上陸かと覚悟していました。それに2年ぶりかで日本列島のどこかに上陸ということですから、不安は倍増されました。
 しかし実際は8日愛知県の知多半島かどこかに上陸後、確かに通過した都道府県に被害はもたらしたものの予想以上に深刻なものではなく、列島北上後北海道の太平洋上にまた抜けてくれました。
 
 それ以降は秋雨前線もどこかに退いてくれて、連日まあまあの秋晴れに恵まれています。ただ代わって西高東低の冬型の気圧配置が早々と現れ、連休中はうすら寒い日もありました。そんな日は秋風が分けても身に沁みるものです。
 しかし変わりやすきは秋の空。本日はすっきり大快晴で汗ばむほどの陽気でした。だからきょうは特別風を意識するほどのこともなかったものの、季節柄なぜか「秋風」が想われました。

 古来「秋風の歌」として有名なのは、かの万葉歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)の歌でしょうか。おっと、危うく以下に引用しそうになりましたが、この歌はいずれ『和歌・短歌鑑賞』でご紹介したいと思いますので、その時まで未公開とさせていただきます。
 代わってといっては何ですが、私の拙い句を冒頭に掲げました。これは今から7、8年前に作ったものです。秋風というそこはかとなく哀れをさそう季語の上、さらに夜討ヶ窪ですから。何か総毛立つようなおどろおどろしい句であるかもしれません。

 しかし「夜討ヶ窪」は、当厚木市に実際あった地名なのです。「実際あった」と過去形なのは、その後町名変更によりどうなっているか分からない、多分無くなった可能性の方が高いと思われるからです。
 もちろんそんな地名、厚木の旧市街ではありません。場所は当市の西外れに近い「飯山(いいやま)」という大字(おおあざ)地内の小字(こあざ)名だったのです。東京など関東にお住まいの方なら、飯山は「飯山温泉」や「飯山観音」でご存知かもしれません。しかし飯山はかなり広い地域で、夜討ヶ窪は飯山の南外れ、北側の飯山観音に隣接した飯山温泉の近くではありません。いや、かなり遠いです。
 どちらかといえば、これも有名な「七沢(ななさわ)温泉」の方が近いくらいです。もっといえば、以前厚木市に青山学院大学キャンパスがありましたが、同学園はさらに近いです。(ただし同大学キャンパスは、2003年相模原に移転したため閉鎖となりました。)

 多分古くからの地元の人しか知らないであろうそんな地名を、元々の地元の人間でもない私がなぜ知ったかといいますと、以前の職業柄でです。
 以前何度か述べましたが、私が当地に来て最初に就いた仕事は測量でした。町の小さな測量事務所ですから、広大な土地の測量はあまりなく、小規模宅地造成や個人が農地転用、宅地化して転売などに伴う分筆(ぶんぴつ)など、表示登記がらみの土地家屋調査士業務が主体でした。詳述は省きますが、それには横浜地方法務局厚木支局で閲覧した、「公図(こうず)」という各土地土地の古くからの地図が必要だったのです。(ただしその後法務省もコンピュータ化され、今では旧来の不正確な公図に代わり、かなり精度の高い「旧土地台帳附属地図」として、市民などからの請求があればコンピュータからすぐ取り出せるシステムになっています。)

 今から35年も前私がまだ20代の頃、業務上で飯山の同地区の公図を調べていた時、たまたまその字名(あざめい)を発見したのです。『へぇー。おもしれえ地名だなぁ』と思い、記憶のどこかに残っていたわけです。
 昔の地名というのは、何かしらその元になった謂われなり出来事などがあったものなのでしょう。ですからこの「夜討ヶ窪」でも、昔々江戸時代あたりその辺で、ばっさり夜討ちで斬った者と斬られた者がいたということなのではないでしょうか?もちろんその当時はまったく灯りなどなく、真っ暗闇の夜中にです。
 それが当時としては周辺どころか、瓦版級の殺人事件、ビックニュースとなって近隣近郷に噂が広まるほどだった。それが後々まで人々の記憶に残り、いつしかその土地は夜討ヶ窪という地名になっていった、というようなことではないでしょうか?

 その辺は公図から判断するに、少し距離は離れているものの、名門ゴルフコースの本厚木ゴルフ場と同じ高台の一角だったようです。その辺にたまたま窪んだ一角があったのでしょう。私が当地に来た昭和40年代は、その辺一帯は見渡す限りの田園風景が広がっていました。(もっともその手前は、市街から高台の入り口に名門厚木高校があり、緑ヶ丘という規格化されたネーミングの広い住宅地、さらには「尼寺原工業団地」というこれまたおかしな名前の工業団地がありましたが。注-今もあります。)
 しかし今ではその辺は新しい幹線道路も整備され、同路線沿いにはきらびやかな店舗が続いています。そしてその一帯は大住宅地です。今となっては、その辺を車で通ってみても、「さて、どこが夜討ヶ窪であるのやら」というほどの変わりようです。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(2)

              石田 波郷

   朝顔の紺(こん)の彼方の月日かな

 …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 石田波郷(いしだ・はきょう) 略歴は『夜もみどりなる(1)』記事参照のこと。

 略歴では触れられませんでしたが、石田波郷が本格的に俳句を始めるきっかけとなったのは旧制松山中学4年時、同級生からの勧めによるものだそうです。その同級生とは中冨正三、後の俳優・大友柳太朗(1912年~1985年)でした。と言っても今の若い人たちはピンとこないかもしれません。私たち団塊の世代より前の人たちしか知らないかもしれませんが、大友柳太朗は戦後の映画全盛の頃、嵐寛寿郎や片岡知恵蔵などと共に往年の大スターだったのです。
 愛媛県松山市といえば、近代俳句の創始者・正岡子規やその継承者・高浜虚子を生んだ土地柄です。当時地元の才能ある少年の多くが俳句を志したことでしょう。そのような切磋琢磨の中から、後に戦後昭和期を代表する俳人の石田波郷のような俊秀が育っていったものと思われます。

   朝顔の紺の彼方の月日かな
 若い頃の波郷句に共通してみられる叙情性がこの句にも漲っています。朝顔の句といえば今眼前する事象を叙述、叙景した句が圧倒的に多いようです。そんな中でこの句は、朝顔の「紺の彼方」に「月日」を透かし見ているのです。これこそが波郷による新発見であったわけです。
 波郷が眼前の朝顔の彼方に透視した「月日」とは、どんな月日だったのでしょう?来し方の「過去の月日」だったのか。それともまだ見ぬ「未来の月日」だったのか。それをうかがい知るには、この句が作られた頃の時代背景を探ってみる必要がありそうです。

 この句は昭和18年5月刊の句集『風切』に収録されています。ですからこの句が作られたのは前年の昭和17年の秋と考えてよいのでしょう。
 昭和17年6月波郷は結婚し、同句集が発刊された同月に長男が生まれています。波郷30歳頃のことですが、その頃が波郷にとって幸せのピークと言ってよい時期だったと思われます。だからこの句の「月日」は、やがて生まれてくるわが子と共に歩むであろう、遠い未来の月日と捉えられないこともありません。
 しかし当時の時代状況を考えてみますと、必ずしもそうとばかりは言い切れないように思います。既にお分かりかと思いますが、この時期は我が国の歴史始まって以来最大の戦争の真っ最中だったからです。「戦争」という重苦しいものが国民全体の上に覆いかぶさっていたのです。

 昭和16年12月8日真珠湾攻撃で始まった日米戦争は、開戦当初こそ日本軍が勝ち戦を重ねたものの、土台彼我の戦力、国力の差は歴然で、月日を重ねるごとに日本軍の旗色が悪くなる一方でした。
 ちょうど波郷が結婚した昭和17年6月の5日、日本軍の負け初めとなる大きな出来事がありました。ミッドウェー海戦です。同海戦の敗北以後、日本陸海軍は一度も態勢を盛り返せず、ガダルカナル、アッツ島、インパールなどの各戦線で敗退に次ぐ敗退を重ねていくことになるのです。

 何しろ言論統制下の戦時中です。大本営は国民に負け戦を隠し続けました。だからこの句を詠んだと思われる昭和17年秋、波郷が正確に戦局を認識していたかどうかは分かりません。そもそも波郷が戦争をどう捉えていたのか、私は寡聞にして知りません。
 しかしその後の波郷の歩みから推測するに、波郷は同戦争の積極的支持者だったとは考えにくいのです。むしろ、長引くだけでいまだ帰趨の見えない戦争に、どこか厭戦(えんせん)気分があったのではないでしょうか。

 少し回りくどくなりましたが。そんな時局であったことを考えると、この句の「紺の彼方の月日」は、将来展望としての未来の月日ではなく、回想としての「過去の月日」だったのではないだろうかと思われるのです。
 以前ご紹介した、1932年19歳で上京し「プラタナス夜(よ)もみどりなる夏は来ぬ」のみずみずしい句を作った頃の、東京の叙情的なとある路地に咲いていた朝顔。さらにはそれ以前の郷里の村や松山市に咲いていた朝顔…。重苦しい戦時下の彼方の、来し方の懐かしい追憶の月日。

 朝顔には赤や水色など数多(あまた)の色がある中で、「紺色」。その時代の色として、俳人は無意識的にこの色を選び取ったのでしょうか。
 まもなく波郷の身にも戦争の暗い影が襲いかかり、運命が暗転してしまうことになります。それはいずれまた別の句でお伝えできればと思います。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(22)

 田中香織さん死亡にまつわる事態で最重要事は、事件発生当時六本木ヒルズレジデンスB棟2307号(B棟の23階7号室)はどのような状況だったかということです。取分け問題になるのは、事件発生当時同室にいたのは田中さんと押尾学の2人だけだったのか、それとも他に誰か別の人物もいたのだろうかということです。
 警視庁は当初から今に到るまで、同室にいたのは田中さんと押尾の2人だけという基本姿勢を崩していないようです。「信用できない警察」は困りものですが、これはまるで信用できません。

 事件当初から複数の事情通から洩れ伝わってきていることには、事件発生当時同室には押尾以外に2、3人いたはずだと言われているのです。そしてしきりに名前が上がっているのが森祐喜(41)、森元総理の長男で現職の石川県会議員です。さらにあっと驚くような意外な人物が当初から噂に上っているようです。その人物とは、オリンピック水泳競技で幾つもの金メダルに輝いたあの北島康介(27)です。“さわやかイメージ”の北島は、麻生政権下で国民栄誉賞の候補者にもなりました。
 真相のほどは分かりませんが、北島も森祐喜などと共に事件前から押尾学とはお友だちだったようです。銀座のクラブで一緒に遊んだり、問題のヒルズの“やり部屋”には出入り自由だったとみられています。

 そして北島康介を押尾に引き合わせたのが、パチンコ機器卸会社「フィールズ」の会長であり、競走馬の馬主でもある山本英俊(やまもと・ひでとし-55)という人物だったようです。山本会長は押尾のタニマチでもあり、田中さんが生前勤めていた銀座のクラブ「ジュリア」に押尾を連れて行ったのも同会長であり、また押尾が保釈されて数日後銀座のゲイバーのVIPルームでドンチャン騒ぎさせたのも同会長だったのです。
 パチンコ業界は深いところで闇社会とつながっています。そういえば押尾の保釈金を用立てたのは、パチンコ業界のドンである熊取谷稔(いすたに・みのる-69)と言われています。そしてパチンコ利権に食い込んでいるのが、森元総理であり警察官僚出身議員の平沢勝栄であったのです。(熊取谷稔は、これまでも政財界の暗部に深く関わってきた来歴があるようですが、それはまた別の問題です。)

 しかしここにきて、パチンコ業界のドンたちは押尾事件から手を引き始めているようです。理由は幾つか考えられますが、最も大きな理由は「押尾以外は、厄介な人物まで捜査の手は及ばないだろう」と確信していることが上げられると思います。である以上、これ以上首を突っ込んでも何のメリットもないわけです。これは酒井法子失踪に関与した富永保雄などとも共通したスタンスです。
 そういうこともあって、保釈後40日以上が経過した今、押尾を取り巻く状況はさま変わりしつつあるようなのです。

 しかしこの事件を長く追及してきた(?)私の考えとしては、少なくともピーチ・ジョンの野口美佳社長(44)の責任問題、そして問題の部屋には事件発生時誰がいたのかだけは最低限明らかにしたもらいたいものだと思います。
 六本木ヒルズレジデンスには、問題の2307号室を含めて、野口社長はつごう6室も借りていたと言われています。それらの“やり部屋”には、押尾ら芸能人、政界ジュニア、有名アスリート、中央官僚、IT社長などが自由に出入りしていたと言われています。野口はそれらの部屋でクスリやセックスやり放題だったことは百も承知。それのみか野口社長自らが積極的に彼らの売春を斡旋していた疑惑が取りざたされているのです。

 しかし野口美佳は周囲に、「私は大丈夫。警察の偉い人や国会議員をいろいろ知っているから」と涼しい顔で言い放っているようです。実際警察、検察幹部も問題の乱交やり部屋のお客さんだったというのですから、あきれ果てた話です。
 それに以前少し触れましたが、野口社長の元夫・野口正二は稲川会系暴力団と関係があり、AV大手製作会社・桃太郎映像の実質的経営者です。(なおピーチ・ジョンという社名は、英語流の「桃太郎」の意味)。いざとなれば闇社会ルートもあるのです。またPJはワコールの子会社で、野口美佳はワコールの筆頭株主という超資産家です。その資金力にものをいわせて、うるさいマスコミ各社を黙らせることなど朝飯前のことでしょう。
 『こりゃ、追求はとてもムリだわ』という状況なのです。このような構図こそは、小泉-竹中主導による新自由主義の「弱肉強食・獣社会」の格好の見本のようなものです。

 ところで警察からの情報では、森祐喜に関することはまったく出てきていません。しかし先に述べたとおり、田中さん変死を早々と「事件性なし」として片付けようとした腐り切った組織です。まるで信用できません。森元総理→U官房副長官という圧力図式があったのかどうかも含めて、この際真実を満天下に明らかにしてもらいたいものです。
 レジデンス内の監視カメラも、当然のことながら警視庁は押収してその画像解析などとうに終えているはずです。同日事件発生前後の時間帯に一体誰と誰が出入りしていたのか。個人情報の問題があるとはいいながら、人が一人変死している重大事件なのですから、警察はその事実もはっきり公開すべきなのではないでしょうか?(ただし残念なことに、事件当日の当該時間帯だけ映像が消されているという情報もあります。その場合は、知られてはまずい誰かが証拠隠滅を図ったことになります。)

 押尾学の再聴取が開始されたことから、この事件における「政権交代効果」が見え始めました。しかしこんなことは序の口であるべきで、私は捜査のメスが野口美佳、森祐喜にまで及ばなければ本物とは認めません。
 もし今後野口美佳、森祐喜逮捕、森元総理政界引退などという驚愕の展開があるようであれば、その時はじめて「あヽ日本の警察もやっとまともな組織に生まれ変わっんだな」と評価したいと思います。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(21)

 押尾学被告の事件が新たな展開を見せ始めています。
 まず押尾被告自身が、警視庁に任意出頭して既に数回事情聴取を受けているもようです。7日には現在住んでいる東京府中市の父親のマンションから出てくる押尾の姿を、フジテレビ系が報道しました。同日正午過ぎのことで、押尾は黒いパーカーのフードを被り、マンション廊下をうつむき加減に歩いているようすが映し出されていました。押尾はそのまま警視庁に出向き聴取を受け、同日午後3時過ぎ帰宅したもようです。

 保釈までの拘留期間に調べは十分についているはずなのに、何で今さら?と釈然としないものがあります。しかし今回捜査を担当しているのは、あの泣く子も黙る警視庁捜査一課とのことです。もちろん聴取の焦点は、六本木ヒルズレジデンスの一室で全裸で変死した、元銀座ホステスの田中香織さんに関することです。何しろ8月2日午後、MDMA(合成麻薬)服用により田中さんが苦しみだしてから119番通報するまで、瀕死の田中さんを3時間も放置し死に到らせたのです。早々と「事件性なし」として、その後ろくに捜査をしてこなかったことがおかしかったのです。

 押尾保釈後の、田中さんの親からの「警察は何も知らせてくれない。娘の死をもっと調べてほしい」との訴えは警察批判として大きく報じられました。また業を煮やした遺族は、法廷の場で真実を明らかにすべく民事訴訟を検討中ともみられています。
 警視庁としても、それらの遺族感情や事件解明を望む国民世論を無視できなくなり、ようやく重い腰を上げて再捜査に踏み切ったものと思われます。

 今回の聴取によって警視庁は、変死した田中さんの保護責任者遺棄致死罪または過失致死罪で、押尾を立件するものとみられています。それについては、現場の状況から判断していずれの罪も立件は難しいのでは?とする司法関係者や、「単なる警察のポーズなのでは?」という見方もありました。
 しかし捜査一課は今回は本気モードのようです。というのも、押尾被告と共に、押尾の連絡を受けて現場に駆けつけた、エイベックスの元マネージャー2人に対しても事情聴取が行われているからです。そしてこの2人は、保護責任者遺棄致死容疑やレジデンス玄関前の植え込みに田中さんの携帯を隠した器物損壊、証拠隠滅容疑などで、近々逮捕されるともみられています。

 そうなると押尾の初公判前の再逮捕、立件も十分視野に入ってきます。しかしエイベックス社に関しては、元社員マネージャーを逮捕しただけで済む問題でしょうか?というのも、押尾に呼び出されて駆けつけた現場の状況は、一介のマネージャーが処理できる範囲を越えていたと推測されるからです。当然2人はエイベックスの上司に逐一状況を報告し、その指示の下で行動したと思われるのです。そうすると、エイベックスの組織全体として事件の隠蔽を図った可能性が出てくるのです。

 ということは、エイベックス社長・松浦勝人の責任まで問われかねない大問題です。しかし事情通の間では、この件でもトカゲの尻尾切りで終わるだろうとみられています。なぜか?このような非常事態発生の時の備えとして(?)、エイベックス社には元警視総監・井上幸彦が顧問としており、その他にも元検事総長・松尾邦弘や元東京地検検事・牛島信が天下って在籍しているからです。「官僚の天下りの弊害」が、この件でも端的に見られるのです。

 捜査一課は、田中さんが勤務していた銀座のクラブのママや同僚からも、当日の田中さんの足取りや押尾と田中さんの関係、誰が同クラブに押尾を連れてきたかなど背後関係についても、かなり詳しく調べているもようです。
 そんな中同クラブの経営者とみられる人物から、新たな証言が得られたようです。それによりますと、田中さんの大親友の女の子が2日夜に亡くなる直前の田中さんから電話をもらっていたというのです。

 それは「いま六本木ヒルズに押尾学といるんだけどやばい。助けてほしい。いますぐ来て」という内容。その親友が六本木に向かう途中、再び田中さんから電話があり、彼女は既にロレツが回らない状態で、苦しそうに次のように話したそうです。「押尾に(携帯)電話を隠されたの(それで今まで連絡できなかった)。『警察に電話するなよ。救急車も呼ぶなよ。絶対にバカなことはするなよ』と(押尾に)脅されて怖かった。でも(具合が悪くて)もうダメかもしれない」。
 もしこれが本当なら、保護責任者遺棄致死など通り越した鬼畜の所業というべきなのではないでしょうか?  

 (大場光太郎・記) 

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えっ。オバマにノーベル平和賞 !?

 9日夕方たまたま民間テレビ局の報道番組を見ていました。『薬物汚染(21)』をまとめようと、押尾学の新しい近況が何か報道されないだろうかと思ったからです。しかしその関連のニュースはこのところすっかり影をひそめ、この日も結局同関連情報は得られませんでした。
 ところが6時過ぎ、びっくりするような速報が飛び込んで来たではありませんか。

 「今年のノーベル平和賞に、アメリカのオバマ大統領の受賞が決まりました」というような内容です。私は一瞬『えっ。ウソだろ』と正直思いました。去年のノーベル賞で、物理学賞が小林誠・日本学術振興会理事、益川敏英・京都産業大学教授に、化学賞が下村脩・米ボストン大学名誉教授にと、3人の日本人学者に贈られた時もびっくりでしたが、今回のオバマ平和賞もその時と同じくらい驚きました。
 オバマ大統領がノーベル平和賞に不適格などとは決して思いません。しかし今年1月に大統領に就任してまだ10ヵ月しか経っていないのです。『受賞できた世界平和貢献っ何なの?』。思いつくのはやはり、今年4月のプラハでの「核廃絶演説」くらいです。しかしそれとてもただ世界に向けてそう演説したというだけで、肝心の米国をはじめ核保有国が核を実際に減らしたなどという話はまだ聞かないわけだし…。

 その後伝えられた報道では、ノーベル賞委員会の受賞理由は「本委員会は国際的な外交と諸国民の協力強化に向けたオバマ大統領の比類なき努力を理由に受賞を決めた。とりわけ“核のない世界”の構想とそれに向けた取組みを重視した(以下省略)」というものでした。
 つまりオバマ大統領の「比類ない外交努力」が受賞の最大の理由、それを示す顕著な功績として真っ先に「核兵器のない世界の構想」が挙げられるということでしょうか。

 いずれにしても、つい先日シカゴ五輪招致で勇んでコペンハーゲンに乗り込んでも、真っ先にシカゴが落選など、最近少し影が薄くなりかけたかな?と思われた矢先でした。
 五輪招致失敗はともかく。米国内では、医療保険制度改革の論議が本格化した7月から、就任当初のオバマ大統領の高支持率は下がり始め、最近は50%ほどまで下落していました。また混迷が深まるアフガニスタンへの増派をめぐっても、駐留米国司令官とバイデン副大統領の間で対立が表面化し、増派反対の世論は60%にも上るそうです。
 そんなオバマ大統領本人そして米国政府にとって、今回の受賞は願ってもない朗報となったことでしょう。

 今回のオバマ受賞の報に際しては、直接関係ないと思われる我が国でも、どういうわけか号外まで配られたようです。唯一の被爆国日本としての、オバマ大統領に寄せる世界平和推進への期待の表われなのでしょうか。
 核廃絶を掲げる日本政府や与野党からは、祝福と歓迎の声が相次いだようです。中韓外遊中の鳩山首相も、到着した北京市内で記者団に、「本当にうれしい。みんなで大統領を後押しして核のない世界にしていこうという期待感をこめて贈られたのではないか」とコメントしました。
 我が国のみならずハン・ギムン国連事務総長、イギリスのブラウン首相、フランスのサルコジ大統領など、各国首脳からも祝福のメッセージが続々と寄せられています。

 そんな中石原東京都知事は皮肉にも、「平和賞は政治的な思惑があるからねぇ…」と口を濁していました。“石原嫌い”の私は、『石原さん、いい加減にしなさいよ』と言いたいところですが。しかしこの石原発言は確かに一理あるのです。
 私は平和賞受賞で過去驚いて、ノーベル平和賞って一体何なの?と考え込んでしまったことがあります。それは他でもない、佐藤栄作元首相が我が国で唯一の平和賞受賞者(1974年)になった時です。確か「沖縄返還」などが受賞理由だったのでしょうか。でもそれは表向きの理由で、実際は長期政権下ただひたすらアメリカ様に忠勤を尽くした、そのご褒美なんじゃないの?と思ったのです。とにかくその前年の、訪問した国では後に必ず戦争が起こると言われたキッシンジャー米元大統領補佐官の受賞などとともに、ノーベル平和賞の権威の失墜を感じた最たるものでした。

 しかし今回のオバマ大統領への受賞は、私としてはそんなに政治的な意図は感じません。強いていえば、受賞理由の中に「中東平和外交の推進」があり、オバマのイスラエル寄りの姿勢も評価されたのかな?と思うくらいで。
 どこかの同ニュース見出しで、「平和賞、“実績”ではなく“理念”に受賞」とありましたが、やはりここは全世界の潮流が「平和」の方に向かっている、それをノーベル賞委員会は敏感にキャッチして決定したのだと素直に取りたいと思います。

 今回のオバマ受賞を、広島、長崎でも被爆者らが「核廃絶に大きな力」と歓迎のようです。来月訪日するオバマ大統領は、結局広島、長崎への訪問見送りの方向と伝えられています。しかし今回の受賞を受けて、大いに方針を変えて米国大統領として初の両市への訪問を是非実現していただきたいものです。そうすれば、12月10日のオスロでの授賞式に胸を張って臨めるのではないでしょうか?

 (追記) オバマ平和賞の陰に隠れてあまりニュースになりませんでしたが、ここ数年毎年のようにノミネートされている村上春樹の文学賞受賞は今回もなりませんでした。年初のエルサレム賞受賞時の「卵と壁」スピーチのイスラエル批判が響いたのでしょうか。何といっても、ノーベル賞の創始者・ノーベルはユダヤ人ですから。

 (大場光太郎・記) 

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薬物汚染の拡がりを憂う(20)

 押尾学、高相祐一、酒井法子の3被告が保釈されてから、一連の薬物事件の報道もすっかり下火になってしまいました。しかし今月下旬に行われる各自の初公判に向けて、水面下では動きもあるようです。そのようすなどを以下にお伝えしようと思います。

 今回は酒井法子関連についてです。
 保釈後の夜の謝罪会見の後酒井法子は、継母も入院している都内新宿区の東京医科大学病院に直行し、そのまま加療入院していました。しかし今月1日朝同病院を密かに退院したようです。
 保釈直後は、退院後は独身時代に住んでいた都内世田谷区深沢のマンションに身を寄せるものと思われていましたが、そこには現れず、都内のどこかのホテルに身を隠しているものと思われます。謝罪会見をセッティングした酒井の元所属事務所のサンミュージック側も、入院後から今後の善後策などを話し合うべく連絡しようにも連絡が取れない状態のようです。そうすると同社の相澤親子は、酒井の身元引受人ではなかったことになります。では一体誰だったのでしょう?

 保釈時酒井を乗せたワインレッドの車には、よく見るとアンちゃん風の男2人が同乗しており、取材陣の間でも『何者?』と見られていました。同車の手配も含めて、すべては例の「富永一族」が仕切っていて酒井をガードしているようです。さすがの取材陣や芸能リポーターにも居所を掴ませない富永一族による、“神隠し”ならぬ“のりピー隠し”の早業、さすがと思うと共に、よほど酒井を表に出しては困る事情でもあるのでは?とつい勘ぐってしまいたくなります。

 酒井、高相夫婦に関しては、9月20日未明夫婦が所有していた千葉県勝浦市部原の別荘で火事騒ぎがありました。それにより同別荘はほぼ焼失したわけですが、19日夕から夜にかけて隣接する鴨川市や君津市でも無人の別荘で火災が発生していることから、千葉県警勝浦署では連続不審火の疑いがあるとして捜査しているもようです。
 同別荘は外房の部原海岸の住宅地にある木造平屋建の一棟で、地元の人たちの間では以前から怪しげな家と噂され、俗に「ピンクハウス(のりピーハウス)」と呼ばれていたようです。そして今回の事件では、高相被告が同別荘での覚せい剤所持罪でも起訴されています。

 この焼失事件に関しては、酒井夫婦特に高相祐一の口封じを狙ったものではないのか?という情報も流れています。というのも、酒井法子はさすが筋金入りの極道の娘らしく、拘留中最後まで薬物の背後関係を明かさなかったと見られていますが、高相の方は「完オチ」し薬物人脈をべらべら供述したといわれています。また酒井は自身の携帯を壊して処分しましたが、押収された高相の携帯履歴の捜査から、暴力団関係者が何人も逮捕されたという事情もあるようです。
 そのため、「シャバに出たらこれ以上何もしゃべるなよ。もししゃべったらどうなるか分かるな」という、闇社会のある筋からの一種の脅し行動だったというのです。

 また酒井事件関連で気になるのは、“エリカ様”こと沢尻エリカ(23)が、所属事務所の「スターダスト・プロモーション」を突如解雇された出来事です。それによって沢尻の今後の芸能活動は大きな支障をきたし、現に進められていた木村拓哉主演映画『宇宙戦艦ヤマト』の沢尻のヒロイン役は没、代わって黒木メイサ(21)がその役を務めることになりました。
 解雇の理由は、わがままし放題の沢尻に事務所側もほとほと手を焼いたためとされています。とにかく事務所はおろか彼女のマネージャーですらその予定が掴めないことがしばしばだったという事情では、さもありなんとうなずけないでもありません。

 しかしそんな表向きの理由とは別に、8月下旬頃から「沢尻が酒井事件と絡んでいる」という裏情報が業界を駆け巡っていたことも事実のようです。それについては、「いや沢尻と夫の高城は酒井らの薬物とは無関係」とする見方もあります。だが「大いに疑わしい」とする見方が根強いこともまた事実です。
 そもそも沢尻エリカ解雇の引き金の一つになったのは、「奄美大島の皆既日食への夫婦旅行」だといわれています。通常人の感覚では分からないことながら、沢尻夫婦はそろって大の「皆既日食マニア」。ですから酒井夫婦以上に奄美にはどうしても行きたかったのです。この旅行にあたっても沢尻サイドは、事務所を完全に無視して旅行計画を進めたようです。その奄美での行動が、酒井夫婦の足取りとダブっているところがあるのです。

 ハイパーメディアクリエーターという訳の分からない肩書きを持つ、夫・高城剛(45)には以前から薬物疑惑があったようです。それに高城は前々から、酒井の夫の高相祐一とは知り合いだったというのです。だから高相が覚せい剤を入手したといわれている、奄美でのレイブイベントに沢尻夫婦も参加していて、共に覚せい剤を入手、使用したと考えてもおかしくはないのです。
 あくまで解雇の理由を沢尻の「一般的素行不良」で通したい事務所としては、沢尻の奄美での薬物使用を否定したいところですが、同島での彼女のスケジュールを把握出来ていない以上完全否定も出来ないわけなのです。

 奄美での沢尻エリカの行動に不審を抱いた事務所は、沢尻の事情聴取などで警察が動く前に先手を打って解雇を決定したという見方もあるようです。それに呼応するように、沢尻夫婦は解雇発表後海外(欧州)に渡ってしまいました。これを「さては高飛び?」と勘ぐる事情通もいるようです。
 そして、沢尻を事実上解雇した先月30日以降、スターダスト・プロモーションのホームページから沢尻に関するすべての情報が削除されたこと、さらにはその日からわずか2日後、所属タレント(常盤貴子や竹内結子など大物タレントが多数所属)への薬物検査の実施を発表したことも疑惑を強めたようです。「ウチで一番やばかった沢尻がいなくなったから、もう平気だ」と言っているようなものだというのです。

 いずれにしても芸能界薬物汚染は、今回の3被告を裁けばそれで万事解決などという底の浅いものでないことだけは確かなようです。

 (大場光太郎・記)

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続・乞食さんの思い出

                        (2)
 次はキツタロさと同じ頃の女乞食さんの話です。
 その女乞食の名前は、近所のおばさんたちの間では「カモダのカシャババ」と呼ばれていました。我が母子寮の前の通りを三十メートルほど東に行くと木橋があり、それを越えて山坂道をしばらく登って行くと蒲田山という山とそのたもとの部落があります。小学校高学年の頃、秋が深まった時分よくきのこ採りでその山に分け入ったものでした。要はその婆さんはその辺に住んでいるので「蒲田のカシャ婆」というわけです。
 とこう述べますとさも実在して山部落から下りてきて、当時の郷里の街中を歩き回っていた人のように聞こえます。しかし実際はおそらく誰もその姿を見たことがなかったと思うのです。
 
 私が小学校低学年の頃は、何か手に負えない悪さでもすると母や寮内のおばさんたちから、「ええがコタロ。そんなごとすっと、カモダのカシャババにさらわっちぇしまうなだぞ」というようなことを言われたものでした。幼い子供にはその一言が意外に効いたのです。
 しかしその「カモダのカシャババ」なる婆さんは、ついぞ一度も姿を現わしたことはないのでした。
 
 当時の周りの大人たちは乞食だと言ってはいたものの、本当のところはどうだったのかは分かりません。実際そんな婆さんがいたのかもしれず。またはかつていたのかも知れない誰かに尾ひれがついて広まった、都市伝説ならぬ「田舎伝説」の類(たぐい)だったのかもしれず。あるいは民俗学などで言う村落共同体の秩序を脅かす異人(いじん)的存在が投影された虚像だったのかもしれません。
 さらには山部落深く棲むということから、昔話の山姥(やまんば)のイメージが投影されていたのかもしれません。そうなると今では、カモダのカシャババの正式名称は、「蒲田の火車婆?」と思わないでもありません。
                        (3)
 実は乞食さんに類した人は、現居住地である厚木市にもいたのです。それもそう遠くない、つい数年前までの話です。
 
 今から十年余前私が現在の業務に従事するようになり、当市内を車で走っていると、時折りある乞食風の男性が通りをあるいているのに出くわすことがありました。やはり風采が明らかに一般人とは違うのです。その人はかなり年配で70前後くらいに見えました。割と背の高い痩せ型の老人で、白髪、白髯(はくぜん)のその風貌は、どことなく聖者風に見えないこともありませんでした。

 こういう人は一体どこをねぐらにしているものなのでしょう。近年社会問題になっているホームレスは当市でも見かけられます。例えばいつもご報告しております中津川堤の百メートル少し上流の橋の下には、何年か前までホームレスが寝泊りしていた痕跡がありました。(その後撤去)。さらにその数百メートル上流くらいの所は中州が盛り上がった平べったい台地状になっていて、その一部にはしっかりした小屋らしきものが造作されています。いつか散歩でそこの堤防道を歩いていた時などは、その小屋の側には犬小屋までありキャンキャン吠えているのを見たことがあります。
 またいつもの中津川堤を数百メートル下流に行くと大きな橋がありますが、そこいら辺には何人かで共同で生活しているようで、今でも時たま人の姿を見かけることがあります。

 その人は本厚木駅周辺でも見かけられたことから、あるいはもっと下流の相模川のどこかをねぐらにしていたものでしょうか。しかしその人はどうも今風のホームレスというよりは、もっと年季の入ったいわゆる乞食さんといった感じの風体でした。

 今から3、4年前の初冬のある夕方のこと。その人が本厚木駅のすぐ近くの道路際に腰かけているのが認められました。一方通行の道路とビルとの境の幾分高めの縁石の一角に、一人しょんぼり腰かけていたのです。通りをけっこう人が行き来していますが、その人のことなど誰も眼中にありません。
 その姿はどことなく所在なさげで、寂しげで、寒そうで。もちろんたまに車内から見かけたくらいで面識はありませんでした。しかし私は、どうもそのようすが気になって仕方なかったのです。そこで近くに車を停めて降りて、その人に近づいていきました。
 私がすぐ側に立っているのに気がついて、その人は一瞬ぎくっとした表情を見せました。私は「これで何か温かいものでも食べなよ」と千円札を一枚渡しました。その人は型どおりペこんと頭を下げて受取りました。

 しかしそれ以来、その人を見かけることはなくなったのです。その冬は越せなかったのでしょうか。   ー  完  ー

 (大場光太郎・記)

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乞食さんの思い出

 『差別用語・考』で述べましたように、乞食(こじき)とは一般的に、「周りの人たちに物乞いする人」のことをいいます。以下に語る人たちが果たしてそれに該当するものなのかどうか、私には判断がつきません。あるいはもっと別の分類をすべき人たちなのかもしれません。ともかくも私の人生につかの間現れ消えていった、今となっては懐かしい人たちです。
                        (1)
 昭和30年代前半は、我が国が高度経済成長に離陸する前の時代。世の中全体が、映画『ALWAYS 3丁目の夕日』のような貧しいけれどどこか温もりのある時代でした。
 貧しい中でもひときわ貧しい人もいました。どういうわけか住む家がなく、川原のどこかをねぐらにしているような人たちです。私の郷里の山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)にもそんな人がいたのです。
 当時私は小学生。再三述べましたように町の母子寮に母らとともにお世話になっていました。母子寮は町の東外れ、二、三十メートル行けば吉野川に出られます。私が幼少を過ごした太郎村の家のすぐ側を流れていた同川も、数キロ下流の町場を流れる頃には川幅も大きくなり、それなりの中小河川の風格も備わります。

 その川を数百メートル上流に行った辺りに、当時頻繁に出没していた人がしました。近所の人たちはその人を「キツタロさ」と呼んでいました。正式に書けば「吉太郎さん」とでもなるのでしょうか。
 その人が私が最初に目にした乞食さんなのです。ずんぐりむっくりした初老の男性でした。いつもうす汚いよれよれのどてらのような着物に腰紐をしめた姿。子供達は乞食とばかり思い込んでいましたが、実はキツタロさが物乞いして歩いている姿を見たことはただの一度もありません。それもそのはず、その人には一応れっきとした仕事があったからです。

 その仕事というのは、「廃物集め」今でいう廃品回収業です。キツタロさの姿が見かけられるのは、決まって吉野川原のその辺ででした。すぐ上の方に古い木橋が架けられていて、山の方に行けるようになっていました。だからキツタロさも、たいがいがそうであるようにその橋の下辺りをねぐらにしていたものなのでしょうか。
 
 当時の子供達特に母子寮暮らしの私には、日々の小遣い銭などめったに与えられるものではありません。しかし寮の道を挟んで対面に駄菓子屋さんがあり、そこに「一粒百メートル」などという殺し文句入りのグリコのキャラメル、小さな袋に入って当たるともう一袋ついてくる甘納豆、舐めていると色が赤や緑にころころ変わる変わり玉などといった、子供の目を幻惑し食欲をそそる品々がどっさり置いてあるのです。

 そこで小学校4、5年の頃小遣い銭欲しさに、学校が終わると近所の仲間と共に、川原辺りに行って空き缶やら鉄くずなどを集めたものでした。まあ「俄か子供廃品回収業」といったところでしょうか。それを袋か何かに詰め込んで、川の土手道をさかのぼってキツタロさの所に持っていくのです。
 今もそうでしょうが、当時も並みの鉄くずよりも「アカ」や「アルミ」の方が値打ちがありました。アカとは銅線のこと、アルミとはアルミニュームのことです。ですからその方が金になるのでアカやアルミ主体に方々を漁るのですが、これがなかなか見つからないのです。
 ともかくそうして集めた廃物を「キツタロさ、これ買ってけろ」と言うと、「ああ、いいよ」とばかりに引き取ってくれたのです。そして廃物を受け取って、磁石で鉄くずとアカやアルミをより分けたキツタロさは、私たちに報酬として30円とか50円とかをくれるわけなのです。
 さあ現金を受け取った私たちは、一目散に件(くだん)の駄菓子屋に走って行ったことはいうまでもありません。

 キツタロさはいたって気のいい人で、まず怒るということのない人でした。それに近所の噂では、頼まれれば自分の下半身を見せてくれるというのです。いたずら盛りの私たちはそれに興味を持って、ある時仲間内で本当かどうか確かめてみることにしました。
 その時は確か廃物は持っていかなかったと思いますが、3人位でキツタロさのいるいつもの川原にそっと近づきました。そしてキツタロさを取り囲みながら、誰かが「キツタロさ。キ○○マ見しぇでけろ」と切り出しました。
 するとキツタロさは私たちの要望に快く応じてくれ、無言で着物の下をベロッとめくってアレを出して見せてくれたのです。それは、キツタロさの背丈のようにずんぐり縮こまったどす黒いものでした。私たちは物珍しげにそれにしばし見入ったのでした。

 しかしキツタロさとはそれが縁の切れ目になりました。私たちには何か見てはいけないものを見てしまったという後ろめたいような気持ちがあり、それからは廃物集めをしなくなりキツタロさとは会わなくなったからです。
 それから2年ほどすると私は中学生になり、その川原の土手道が通学路になりました。しかし朝晩通るにしては、どうしたことかキツタロさの姿を見かけることがなくなりました。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

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中川元財務相を悼む

 4日衝撃的な訃報が飛び込んできました。中川昭一元財務相(56)が都内の自宅寝室で急死したというのです。その第一報に接して私は真っ先に、『さては自殺か?』と思いました。そう思わせられる根拠があったからです。
 しかしその後の続報では、警視庁の行政解剖により死因は循環器系疾患による病死とみられるとのことです。近くには睡眠剤が残っていたものの大量に飲んだ形跡はなく、遺書などもなく自殺の可能性は低いと見られています。(遺族は「急性心筋梗塞」と説明。)

 中川昭一氏で記憶に新しいのは何といっても、今年2月のG7後のローマでの「もうろう会見」です。そのようすは国内のみならず全世界に配信され、世界中の心ある人々の大顰蹙を買いました。それまでは自民党内の“若きプリンス”でしたが、この一件で中川氏の運命は急暗転。将来の総理、総裁候補の芽は消えました。
 直後に財務相を辞任。しかしそれでは済まず、先の総選挙では地盤である北海道11区から立候補するも選挙区落選。武部元幹事長、町村元官房長官らロートル議員が比例で復活当選するも、中川氏はそれも適わず衆議院議員の身分も失いました。

 どういうわけか子供の頃から大の“自民党嫌い”の私は、もうろう会見の折りは絶好の機会とばかりに、中川氏そして自民党を思い切ってこき下ろしました。またつい先日の森元総理記事では、「中川(酒)」という記者用語も紹介しました。今となっては、故人への誹謗中傷であり謹んでお詫び申し上げます。

 私は中川昭一氏に、個人的な怨恨などは何も持っていませんでした。すべて「自民党バッシング」の材料として使わせていただいただけです。そして中川氏は、そんなに嫌いな政治家ではありませんでした。むしろ“自民党嫌い”の私にしては珍しく、政策通の中川氏を内心では密かに評価してもいたのです。
 またもうろう会見は極端な形で表面化してしまいましたが、憎々しい他の自民党議員などと違って、どこか憎めない愛嬌のようなものも感じていました。(ただし、同氏の「核武装やむなし論」だけは今もってお断りです。)

 それより何より中川昭一氏は、かつて「北海のヒグマ」の異名を取った中川一郎氏の忘れ形見だったのですから。一時は自民党総裁選に名乗りを上げようと、あの闇将軍田中角栄と対等に掛け合ったという、豪放磊落な生前の父一郎氏を私は大いに買っていたのです。
 しかしその中川一郎氏も、昭和58年(1983年)1月9日札幌市内のパークホテル一室の浴室で変わり果てた姿で発見されたのでした。享年57歳。最初は病死とされたものの数日後自殺と判定。しかし遺体発見の状況に数々の謎が残されたことから、親しかった一部政治家の中には、外国の情報機関が関与した「謀殺説」を公然と唱えた者もいました。一郎氏の死は今に到るも、戦後政治史の大きな謎の一つとして現在も語り継がれているのです。

 思い返せば、中川一郎氏の逝去を受けてその後継者として、当時一郎氏の秘書だった鈴木宗男と長男の昭一が対立し、それまでの一郎氏の支持基盤が分裂する騒動にまで発展しました。分裂したまま迎えた‘83年総選挙には、昭一と宗男が共に譲らず立候補。当時の中選挙区制の下2人とも当選しました。
 時に中川昭一氏30歳。興銀マンから政界への転身でした。以来今回の選挙で落選するまで8期衆議院議員を務めたわけです。

 (議員の身分を失ったとはいえ)政治家としては若すぎる死だったと言わざるをえません。どうしても父一郎氏の死がダブって見えてしまいます。昭一氏の場合自殺ではないというものの、親子そろって「非業の死」だったなという想いがぬぐえないのです。

 遺体からは睡眠薬の他にアルコール成分も検出されたそうです。その他前々から腰痛の持病があり、その鎮痛剤の服用もあったといわれています。今回は鎮痛剤服用の痕跡は認められなかったようですが、少なくとも睡眠薬とアルコールが複合的に作用して死期を早めた可能性は否定出来ないと思います。
 昭一氏は最近家族に「あまり眠れないんだよ」とこぼしていたそうです。前々から同氏の飲酒問題は関係者の間では公然の秘密、その上睡眠剤の常用。昭一氏は元々ナイーヴな気質、その上今回は体調不良や心労が重なっていたとみられます。

 やはりこたえたのは、例のローマでの「もうろう会見」以降の運命の暗転でしょう。順調にエリートコースに乗っていた昭一氏にしてみれば、人生初にして最大の挫折、試練を想像以上に感じていたのかもしれません。
 しかしそれがどうしたというのでしょう。そんなに深刻に思い悩むことでしょうか?私ら一般ピーピルには、東大法学部に合格、卒業などはおろか、興銀(日本興業銀行)マンとして勤務すること、さらには衆議院議員となって主要閣僚を何度も歴任すること…、すべて夢のまた夢なのです。「夢のまた夢」ならば、あのもうろう会見も議員落選もまた、夢のまた夢だったのです。深刻に悩まず思いっきり笑い飛ばして、再起に向けた前向きなリアクションを起し続ければよかったのです。
 中川昭一氏にはそれが出来なかったのですね。エリートゆえの、(お友だちの安倍晋三元総理もそうでしたが)二世議員ゆえのひ弱さでしょうか?

 一時期「骨肉の争い」をした鈴木宗男の場合はどうだったでしょう。昭一氏と同じ年代の頃、(今となっては「国策捜査」の臭いもする)‘02年の一連の「宗男問題」で衆院予算委で集中砲火は浴びるは、自民党離党の上衆議院議員の身分は剥奪されるは、長い留置所生活は送るは、懲役2年の有罪判決は出されるは、その上自身の身にガンを患い手術を受けるは…。ありとあらゆる試練、逆境に遭いながらそれらを全部はじき返して、新党大地を立ち上げ衆議院議員としてカムバックしたのです。北海道の一ドン百姓の子せがれの、たたき上げの負けじ魂を見る思いではありませんか。
 その鈴木宗男は昭一氏の訃報に接し、「驚きと悲しみでいっぱいです。この政治の世界私自身の経験も含めて、つくづく厳しいものだと思う」と、涙をボロボロこぼしながら話していたのが印象的でした。

 中川昭一氏の長女中川真理子は、現在フジテレビ報道局の記者だそうです。かつて小渕恵三元総理の急死を受けて、TBS勤務で政治のズブの素人小渕優子が、父のジバン、カンバン、カバンを引き継ぎました。
 一部では早くも、昭一氏の跡目としてその真理子氏や、「ガンバレ ! 日本一 !」の掛け声で一躍有名になった郁子婦人の名前が取りざたされているようです。世襲論議が切実な当今、ご本人たちも後援会もそういう選択だけは止めてもらいたいものです。

 末尾ながら。謹んで中川昭一氏のご冥福をお祈り申し上げます。

 (大場光太郎・記) 

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十六夜(いざよい)

   十六夜の窓辺に寄りし人の影   (拙句)

 きのうの十五夜は既報のとおり雲が多い夜空となり、名月が見られるかどうかはらはらさせられました。雲間より十五夜月がその全貌を現し、そして黒雲の間に紛れ込んでしまった午後6時前頃。満月本来の溢れる光が全く遮られてしまうほど、空全体が漆黒の闇に覆い尽くされてしまい、もうこれきり今夜は無月になってしまうのだろうと思いました。

 しかし変わりやすきは秋の空、それは夜空とて同じこと。7時過ぎあまり期待もせずに夜空を仰いでみると、あれほど全天をすっぽり覆っていた雲が特に中空では切れ始めていて、名月は雲を透かして全貌が見えたり、雲間からすっかり姿を現したりしていました。その時分満月は、夕方の黄金色から冴え冴えとした白銀に面を変えています。
 それからずっと見続けるわけにもいかず、時折り見てみるに、依然雲間を出たり入ったりの観月ショーが夜通し見られたようです。

 きょう10月4日は、きのうとはうって変わってすっきりした秋晴れの一日となりました。日曜日でもあり、各地の行楽地は家族連れなどでさぞ賑わったことでしょう。我が国でこのようなレジャースタイルが始まったのは、意外に早く大正時代のことでした。都会から郊外に電車が開通したことによりまたその後の自動車の普及により、一般庶民にとっても都市から近郊へ、さらに遠い行楽地へというレジャーの流れが確立していったのです。

 ともかく夕方になっても雲一つないと形容してもいいような、すっきりした秋の夕暮れ。ある家の庭には他の植木に混じって柿の木が見られます。実が大きく黄色に熟して、たわわに生っています。
 またとある家の建物に隣接した所には、平屋の屋根と同じ高さの酔芙蓉が見られ、今を盛りと花を咲かせています。まるでプラタナスの葉を思わせるような大振りな葉が全体に繁り、その所々からそんな葉に不釣合いなピンクの見事な花が開いているのです。なるほど酔芙蓉は、日照の加減なのか気温の加減によるものなのか、ある時は白々とした色で、またある時は本当にほんのり酔った佳人の頬のようにピンクがかった芙蓉さながらのゴージャスな花です。
 また少し近郊に車を走らせますと、当地では既に稲刈りを済ませた田んぼも見られます。まだの田でも稲穂が黄色く色づき重そうに下に垂れています。
 街並みのようすも街の景観の添物として置かれた自然の種々(くさぐさ)も、皆々静かな秋の夕暮れの佇(たたず)まいです。

 今宵も十六夜(いざよい)の月を見ようと、中津川堤防道に向かいました。そこでは東の空が川向こうに大きく広がって見渡せます。午後5時20分、何と既に十六夜月は昇っていたのです。いつもの堤防中段では、十六夜月は川向こうの大きな工場の陰に隠れてしまいます。そこで少し上流側の中段にずれて座りました。
 その位置では月は工場の左側、そこの屋根より少し低い所に昇っています。満月といっていいほどの大きなまん丸月です。わずか何分か見ているさえ月の上昇は明らかで、月は工場の屋根と肩を並べ、そのうち屋根を抜き去ってぐんぐん昇っていきます。それとともに見始めの頃は薄ぼんやりした明るさだったのが、暮色の深まりとともにくっきり明るさを増していきました。

 川そのものも静かな秋の夕川原の趣きです。この時期最近のぐずつき気味の天候の割には、川の流れはやや少なく穏やかです。下流からの南風のせいか、水面(みなも)が川上側にわずかに波紋して広がっている感じです。
 下流の大堰のこちら側に、見れば十羽ほどの鴨の群れが気持ち良さ気にめんめめんめに泳いでいます。
 こちら岸の水辺の葦群れも向こう岸の葦原も、天辺に穂波が連なって白く見えています。ことによく見えるこちら岸の葦群れは時折り吹きつける下流からの川風に、緑の葉も枯れた葉もかさこそ音を立てながら、白い穂とともに上流側に身をなびかせます。

 葦原の手前に私の位置より少し上流側に、8月上旬頃雑草を総刈りして以降生えたものと思しき、背の低いコスモスが一株夕風に吹かれながら咲いています。数年前まで上の堤防道の両側には、この時期コスモスが連なって咲いていて見事でした。それがいつしか同じコスモス科のオレンジ色の外来種に乗っ取られ、本来のコスモスはどんどん姿を消しつつあります。
 だからそうしてぽつんと数輪咲いているコスモスは、言ってみれば上の道に連なって咲いていたその忘れ形見。募りゆく暮色の中で、可憐さの上どこか哀れさを感じさせます。

 川にあって鳴く虫は早や盛りをすぎたのでしょうか。一頃のようなあっちこっちからひっきりなしにリンリンとではなく、葦陰の遠い所からか細く聴こえるのみ。
 午後5時45分。周りはすっかり夕闇に包まれ、十六夜月はいよいよ輝きを増し加え、早やもう工場のだいぶ高い所まで昇っています。川を見れば、何十メートルかの川幅いっぱいに、月影が千切れ揺らめきながら一本の帯のように連なって映っています。
 その様を眺めやった帰り際。近代西洋のさる画家が、水面に映じた月影によほど魅せられたらしく、何枚もそれを画題とした絵を描いていたことをふと思い出しました。

 (大場光太郎・記) 

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東京、五輪招致に失敗

 東京など4都市が立候補した、2016年の第31回夏季オリンピック開催地を決める国際オリンピック総会(IOC)の第121回総会が、2日(日本時間3日午前零時すぎ)デンマークのコペンハーゲンで行われました。
 ‘64年東京オリンピック以来“再び東京で”と、石原東京都知事を先頭に3年前から招致運動を繰り広げて、今回の決定の日を迎えました。結果は第1回目投票でシカゴがいきなりビリになる波乱の幕開け。当初から「2回目に残れれば勝機あり」と読んでいた関係者にとって、望みどおりに2回目の投票に望みをつないだその結果、あえなく東京は落選してしまいました。

 そのため残りの2都市、ブラジルのリオディジャネイロとスペインのマドリードで3回目の決選投票が行われ、その結果本命のリオディジャネイロがマドリードを34票差で引き離し、‘16年の開催地に決定しました。
 南米大陸では初のオリンピック開催だそうです。五輪のマークは五大陸をシンボライズしたもの。最先進国都市のシカゴ、東京が真っ先にふるい落とされたのも時流かなと感じます。そして最終的に開発途上国のリオに決まって良かったのではないかとも思います。
 それにブラジルは、既に2014年のサッカーワールドカップの開催地にも決定しています。同国にとっては二重の喜びといったところですが、‘16年五輪ではW杯の施設をそのまま流用できるメリットもあるようです。

 ただリオ市街は狭くてホテルも少なく、交通渋滞もひどいようです。それらを解消するための都市インフラの整備が求められます。さらにその上900ヶ所ものファベーラ(スラム)があり、麻薬密売組織が暗躍し、勢力争いによる銃撃戦が絶えず発生しているようです。殺人発生率は東京の37倍にも上るといわれ、治安の安定化も強く望まれるところです。

 問題は招致に失敗した「我が東京」です。天邪鬼な私は、招致話が持ち上がった3年前から『できればやってほしくないな』と思っていました。しかしそう考えているのは私だけではなかったようで、都民からも国民の間からも「何が何でも再び東京で !」という大きな盛り上がりに乏しかったことも事実です。
 ただ一人盛り上がっていたのは石原東京都知事で、後の関係者はつられて盛り上がっただけ。今回は「石原の石原による石原のための招致運動」との感を深くします。石原都知事には当然招致を成功させ、歴史的名知事として名を残したいという政治的野望があったことでしょう。また新東京銀行の破綻問題、築地の移転問題のこじれなどその失政が明らかになる中、汚名挽回策という一面もあったことでしょう。
 それに以前少し触れましたが、加えて今回の招致の根っこにあったのは経済効率です。東京招致は極論すれば、経済界やゼネコンを喜ばすだけのものだったとも言えるのです。

 東京が落選するのは、当初から分かり切っていたという見方すらあります。アジアで夏季五輪が開かれたのは‘64年の東京‘88年のソウルそして‘08年の北京の3回です。同じ地区で20年に1回招致できれば御の字と言われているのです。その常識からすれば昨年北京で開催したばかりなのに、8年後にまたアジアでの開催などあり得ないことだったと言うのです。
 
 しかし石原都知事以下は強硬に招致をもくろみました。先ほど述べましたように、それは石原の政治的野望が発端です。そのために使われた税金は150億円。その中には招致活動と称して海外に行った際の1泊10万円以上の石原の高級ホテル代も含まれます。招致失敗によって都民の血税がムダに消えてしまったのです。
 東京都民はこの際大いに怒るべきなのではないでしょうか。そして石原都知事を相手どって、150億円返還のための損害賠償の訴えを起こしてもいいのではないでしょうか?

 それに解せないのは、最初から勝つ見込みのない招致なのに、鳩山首相がわざわざIOC総会に乗り込んで行ったことです。民主党は石原都知事に何か恩義でもあったのでしょうか。話は逆で、石原は政権交代前の民主党や鳩山氏をボロクソにけなしていたのです。
 そもそも鳩山首相は、9月16日の首相指名の際の衆院本会議の直前、あの森元総理から「IOCへの参加、何とか頼むよ」と耳打ちされ憮然としていたそうです。確か民主党としても招致には消極的だったはず。党の姿勢を示す意味でも、その時きっぱりと断ってしまえば良かったのです。

 なのに、先の好評だった国連演説の二番煎じを狙ったのか。国民に受け狙いのポピュリズム(大衆迎合主義)に走ったのか。小沢や菅や岡田だったら、まず出かけることはなかったでしょう。
 まだ基盤脆弱な新政権、それも発足して間もないのです。確かに「YUAI(友愛)」もいいけれど。それは世界向けのアピールにとどめ、国内的には不用意な友愛など禁物です。本来なら招致失敗で辞任必至だった石原都知事に、「時の首相が行ってダメだったんだから…」と、任期いっぱいまで居座る絶好の口実を与えてしまったではありませんか。またこれで、新東京銀行破綻問題での石原の責任追及は難しくなり、民主党が主張する築地市場移転中止もこじれるのではないでしょうか。
 今回のIOC総会出席が、新政権にとっての「躓(つまず)きの石」にならなければよいのですが。

 (大場光太郎・記) 

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ドキュメント・お月見

   空黒く名月行方不明なり  

   十五夜の路地に一つの夢こぼす   (以上拙句)

 本日10月3日は旧暦の9月15日すなわち「十五夜」です。秋雨前線停滞や太平洋上の台風などのせいか、9月末頃から雨がちのぐづついた天気が続いています。
 きょうは雨こそ降らなかったものの、朝から分厚い雲が全天を覆うあいにくの空模様でした。普段の日ならば、ちょいと外出するにも遠出するにしても「雨さえ降らなければОK」のはずですが、十五夜のこの日ばかりはそうはいきません。

 十五夜の満月がくっきりと見られる良夜であるためには、全天を覆い尽くすこの黒い雲がきれいさっぱりなくなること、しかし日中のこの雲の具合からしてそれが難しいのであれば、せめて空全体の何割かでも雲が切れて、そのあわいから十五夜月が望めれば良しとしなければなりません。
 『でもそれすらムリかもな』と半ばあきらめかけていた午後4時前後。東の方の空の雲が少しずつ切れ、水色の澄んだ空の色が見え始めたではありませんか。そして夕色が兆すとともに次第にその辺に占める秋空の割合が多くなり出したのです。

 それより上の中空、西の方の空は依然として薄黒い厚い雲で覆われています。特に西にでんと聳える大山の辺りは黒雲大いにわだかまり、昔からの「大山は雨降り山」の言い伝えどおり今夜の全天のお天気回復は望むべくもありません。だから余計「今月今夜のこの月」は、昇り初め頃を拝するしかないようです。

 と少し経った4時半過ぎ頃から、またまた雲行きが怪しくなってきました。頼みの東の低い空の切れ間がすっかり北の方にずれてしまったのです。月が昇りそうな真東から、おおよその月のルートをイメージするに、その辺は皆悉く分厚い雲に覆われていて。
 「女心と秋の空」とはよく言われてきたけれど、つれないものは十五夜の曇り行く空。そういえば「十五夜に晴れなし」という言い伝えもあるようで、特に関東以西はこの夜晴天に恵まれる確率は少ないとのこと。嗚呼 !

 夕方5時かっきり当市の「夕焼け小焼けチャイム」が鳴り響いた時には、家の中にいると取分け外は薄暗く感じられ、名月を待ち望む心にそのチャイムの音(ね)はもの寂しく聴かれたのでした。
 暮色募りゆく中やはり空模様が気になって、5時15分過ぎ家を出て近郊に車を走らせました。東の方の空が見渡せる辺りで車を停めました。

 やはり覆い始めた薄黒い雲は長々と横たわり、早や夕刻の今はわずかにのぞいている空の色はすっかり色あせて白雲と見まごうばかり。低空の雲の感じから月の出を見ることはとても適いそうになく、東の半ばから上の空にぽっかりと雲の切れ間が広がっており、せめてそこから今宵の名月が顔を出してくれることを待ち望んだ次第。
 ただ雲の移ろうさまは無常なる人間世界の移ろいにも似て、一寸先の予断つき難し。さてどうなるものかと、私は近くのスーパーに向かったのでした。

 スーパーの広い駐車場に着いてその一角に東向きに車を駐車させました。そして何気に東空を仰いでみると、何と斜め25度くらいの低空の雲の上から、お月様の天辺がほの見えているではありませんか。時に5時45分。満月というものは午後6時に昇るものと思い込んでいた私には、不意討ちの月でした。
 雲と月の動きは早く、名月は1/2、2/3、3/4と刻々と雲のへりをぬうように。せめて地上で月見を待ち望む者に、その姿を見せてあげようと意思するもののようで。
 私は全体の雲の具合からして、今を逃したら今夜はもう月見は出来ないと思い、せめて一瞬なりとも名月の全貌を見たいものと凝視し続けます。

 名月は再び雲間にもぐり込んだかとみると、遂に雲間を完全に脱してその全貌を現しました。本当に神々しい黄金色のお月様です。時に午後5時48分。
 私はしばしその煌たる大きな光体に見惚れていると、5時51分月の天辺が今度は上の雲に隠れてしまいました。そうなるとあっけないもので、またたく間に半分が隠れそして全体が雲の中にすっぽり隠れてしまいました。後には下の方の雲の縁(ふち)を薄明るく染めて、それがたった今まで名月がその辺に出ていたことのわずかな証明であるばかり。そうしている間にも、雲の薄明かりも徐々にさめていきます。

 『次にまた出てくれるだろうか?』。私は夜空を広く眺め渡しました。すると南の方に星一つ、うっすらと。『シリウスだろうか?』。それすらもあっという間に掻き消えてしまったのでした。
 再び月が出ていた辺りに目を転じてみると、もう黒一色の雲に閉ざされてしまっています。時に5時53分。『今夜はもうムリらしいな』。私はすっかりあきらめて、車から出てスーパー入り口に向かったのでした。

 (追記) ただし午後7時過ぎから中空の雲間が少しずつ切れ始め、その後雲間から出たり入ったりの名月ショーが夜通し繰り広げられました。

 (大場光太郎・記) 

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『天地人』について(15)

 「天地人 小栗三成良い」 「小栗三成 主役の方が良い」

 「天下分け目の関が原」に向けて、あるいは慶長5年旧9月15日(1600年10月21日)同合戦の真っ最中、そして関が原以後と、ここ3話ほどは、小栗旬演じる石田三成を中心にストーリーが展開しているような具合でした。
 もちろん第38話「二つの関が原」にありましたように、関が原の戦いと同時に奥州出羽の国でも、東軍の徳川方に異を唱える上杉軍と東軍方の最上勢との間でも「天下分け目の」合戦が繰り広げられていたわけです。

 しかし本来の主役である直江兼続(妻夫木聡)やその主君上杉景勝(北村一輝)の働きを食ってしまうほど、小栗三成の演技は群を抜いていたと思います。
 冒頭に掲げましたフレーズは、いずれも過去の当ブログ本シリーズにアクセスしてこられた最近の検索フレーズの代表的なものです。それも1人、2人ではありません。何人もの人がこのようなフレーズでアクセスしてこられたのです。いかに石田三成を演じた小栗旬の演技が光っていたか、印象深かったかを物語るものだと思います。

 私はだいぶ前の回で、元服前後の樋口与六(後の直江兼続)が織田信長に上杉藩を代表して会いに行くという、およそ考えられない設定に疑問を呈したことがありました。その時石田佐吉(後の石田三成)役の小栗旬も初登場したのでした。その時の彼のカツラや衣装などから『何だこりゃ。さまになってねぇ』と率直に思ったのでした。私が漠然とながら抱いていた石田三成像とは著しく隔たっていると感じたのです。
 しかし後で分かったことには、当時からそしてその後ずっとそれで通すことになる小栗三成のカツラと衣装は、実は小栗自身のアィデアを採用したものであることが分かりました。なるほどそういえば、回を追って小栗三成の登場場面が増えていくごとにその三成の姿がさまになっていき気にならなくなりました。

 前の記事でNHK総合の『トップランナー』に小栗旬がゲスト出演した時のもようをご紹介しました。小栗はこと演技の道を極めるためには貪欲であるようです。陰の苦労話などを漏れ聞くと、本当に見上げた役者根性だと思います。井上ひさし原作、蜷川幸雄監督の舞台『ムサシ』で共演した、同じ年(26歳)の藤原竜也とは、良きライバルとして互いに切磋琢磨し合っているようです。
 
 秀吉(笹野高史)亡き後の豊臣家を守るべく、豊臣恩顧の諸大名に触れを出し西軍を組織し、徳川家康(松方弘樹)の東軍と全面対決した石田三成。西軍約10万と数の上では、家康の東軍を上回っていたものの。そこは過去に武田信玄との三方が原の戦いなどで大惨敗を喫するなど、戦(いくさ)を知り抜いておりなおかつ人身掌握術に長けた老獪な徳川家康のこと。
 早朝歴史的大合戦の火蓋が切っておとされ、昼過ぎになっても勝敗の行方が分からない一進一退。後は自陣にでんと構えてなぜか動こうとしない小早川秀秋(上地雄輔)が撃って出てくれれば勝算はこちらのもの。そこで三成自身小早川の陣に赴き出撃を促すもやはり動かず。小早川に動いてもらわなければならないのは家康も同じこと。そこでかねて内通していた古今稀なる優柔不断の武将小早川のハラを決めさせるため、小早川陣に鉄砲を撃ち込ませる。ビビッた小早川は、あろうことか西軍の大谷刑部吉継や三成の陣めがけて突進してくる。

 古来多くの歴史家が指摘するように、これが関が原の勝敗の分岐点だったと思われます。その結果本来なら負けるはずのなかった西軍は総崩れ。わずか一日にして関が原合戦の帰趨は決し、その瞬間徳川家康が天下を掌握する舞台が整えられたのでした。
 小早川の裏切りの他にも、福島正則(石原良純)は当初から東軍につき、西軍の毛利輝元(中尾彬)も陣取った山上から様子見して動かなかったなど。歴史的人物としての石田三成は政務には明るくても、大軍を掌握しそれを組織化して手駒のように自在に動かす軍事的才能に欠けていた、そしてよく指摘されるように人望もまた欠けていたことも事実なのでしょう。

 結果石田三成は戦いに敗れ再起をかけて逃亡するも捕らえられ、京の六条河原で斬首の刑に。その関が原以後を描いた第39話「三成の遺言」は、私が思うに『天地人』でも屈指の出来で感動ものでした。捕らえられてから処刑に到るまでの、小栗旬の三成は鬼気迫る演技で。あの若さでこれだけの凄みを出せるとはと唸らされました。
 また以前の関が原物ではただ卑怯者、裏切り者として片付けられていた小早川秀秋の内面、そして東軍についた福島正則の葛藤も描かれていて、これは今までにない視点であり評価したい点です。

 今回は小栗三成のことが主となり、肝心の上杉藩そして直江兼続らのことには触れられませんでしたが。直江兼続の出した「直江状」が徳川家康の逆鱗に触れ、関が原の遠因になったというのはそのとおりかもしれません。直江状を読んだ家康は激怒して、自ら先頭に立ち会津討伐軍を繰り出し、今の栃木県小山市までやってきます。その虚を衝く形で、西軍を組織していた三成が「頃合は良し」とばかりに、北と南の両方から家康を挟み撃ちにしようとしたからです。
 最上義光軍との長谷堂城の戦いは我が出身県での戦いであり、もう少し詳細に触れるつもりでした。しかし残念ながら紙面が尽きてしまいました。いよいよ米沢減封に到る、家康の上杉藩の処罰の次第次回が楽しみです。

 (大場光太郎・記)

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秋の名句(1)

             富安 風生

   秋晴れの運動会をしてゐるよ

  …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 富安風生(とみやす・ふうせい) 明治18年、愛知県金沢村(現宝飯郡一宮町)生まれ。東京帝国大学法学部卒業。通信省に入り通信次官にまで到った。大正7年に俳句を始め、篠原温亭の「土上」に参加、東大俳句会を興し、高浜虚子の指導を受けた。歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成させる芸術を求めた俳人。句集に『草の花』『松籟』『村住』『晩涼』『古稀春風』『喜寿以後』『年の花』『齢愛し』などがある。昭和54年没。     (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 上記『現代の俳句』によりますと、この句の初出は昭和30年刊句集『晩涼』に収録されたもので、「北海道縦断、車窓」の前書きがあります。富安風生が老境に入ってからの北海道旅行で、車窓から見た秋の日の一光景だったものと思われます。
 もしかしたら車中の誰かが隣の席の者に、「おい、見ろよ。運動会をしているよ」とでも言ったのかもしれません。作者の風生もついつられて窓外を見てみると、なるほど線路に隣接した学校の校庭では運動会の真っ最中ではないか。そしてきょうはまた「秋晴れ」の絶好の運動会日和の良い天気で。
 そこで俳人の風生は、『その言葉いただき ! 』とばかりに、とっさにこの句を思いついて句帳に書き留めたのではないでしょうか。

 「運動会をしてをれり」というような型どおりではなく、話し言葉の平易な表現であるところが良いと思います。この平易な言葉から、運動会をしているのは多分小学生ではないだろうかという類推も自然に導かれます。
 「運動会をしてゐるよ」という日常会話的な文の前に、「秋晴れの」という季語を持ってくることによって、立派に一句として成立してしまうのです。また秋の明るい日差しの下、夢中でかけっこやら玉入れやら騎馬戦やらをしている児童たちの姿、その元気な声までもがイメージされてきます。

 過日少しふれましたが、多分この句以降のことだと思いますが、運動会は「秋の季語」と定まりました。私などの小学校時代の記憶では、運動会や遠足は共に春と秋の2回ありました。しかし理由は定かではありませんが、どうしてか運動会は秋の、そして遠足は春の季語と決まったのです。(いったんそう決まってしまうと、逆の季節の場合は、それぞれ「春の運動会」「秋の遠足」という表記になります。)

 「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ♪」ではないけれど。運動会は何といっても秋晴れに限ります。これが「秋霖(しゅうりん)の運動会をしてゐるよ」では、陰惨な絵になってしまいシャレになりません。
 もし本当に誰かが「運動会をしているよ」と声を挙げたのであれば、それは気分の良いすっきりした秋晴れの天気がそう言わせたともいえます。そしてそれを聞いた作者風生もそれに感応して、素早く一句をものに出来た。その時風生は、自身の子供時分の運動会の思い出も懐かしく蘇ってきたかもしれません。
 
 「秋晴れ」に触発された、見ず知らずの旅客同士の心と心の触れ合いもまた伝わってくるような秀句です。

 (大場光太郎・記) 

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九月尽(2)

   雨しとと家並み木立に九月尽(くがつじん)   (拙句)

 最近は秋雨前線が関東から中国地方まで、太平洋側列島に長く伸びて停滞しているとのこと。そのため前線の刺激により、当地でもきのうきょうは雨がちのぐずついた天気が続いています。
 一年間の月別雨量では例年ならば、二百十日を月初に迎え台風シーズンでもあり、9月は6月と並んで雨の多い月のようです。ところが今年に限っては関東地方の場合晴れの日が続き、おとといまでの9月雨量は例年の20%くらいだったそうです。きのうきょうの雨で例年雨量に少しは近づいたのでしょうか。それにしてはどちらかというと傘も要らないような小雨がちで、さして貢献しなかったかもしれません。

 ですから冒頭の拙句は「雨しとと」でありまして、「雨しとど」でも「雨しとしと」でもありません。「雨しとと」。これはひょっとして私の造語かもしれませんが、それによってそんなに本降りの雨ではないということを表現したかったのです。と俳句において本来こんな説明は不要ですし、してはいけないのかもしれませんが、何せそこは「素人俳人」のこととご寛恕賜りたいと存じます。
                         *
 さて9月も末日ですが、何といっても今月最大の政治的、社会的イベントは、政権交代による鳩山新政権が発足したということに尽きると思います。スタートしてまだ2週間ほどの新政権に早々と評価を下すのはいくら何でも早すぎます。
 それでも順調なすべり出し、スタートダッシュにはまずまず十分成功したと見ていいのではないでしょうか。
 新政権は官邸主導、政治的一元化を目指す目的で、国家戦略局という新しい部局を設置し、初代大臣に菅直人を据え、従前の官僚任せではない政治家主導の姿勢を内外に強くアピールしました。今は「室」であり今後どうしたいのかはまだ具体的には見えてきませんが、早く「局」に格上げして本来の機能を発揮して、「政治改革」「霞ヶ関改革」を進めていってもらいたいものです。

 鳩山新首相自らが、政権発足後1週間くらいで国連の場に乗り込み、気候変動首脳会議の演説で日本は「2020年まで温室効果ガス25%削減」を実施するとぶち上げ、世界中の度肝を抜きまた賞賛もされました。これは我が国にとって、重大な責任を伴う「世界公約」であると共に、環境問題という重要分野で世界各国の中で今後我が国がイニシアティヴを取れるということでもあります。
 思えば自民党政権下での時々の首相といえば、アメリカ様の顔色をひたすらうかがうばかり。「我が国としてどうしてもこれをしたいんだ」という、世界への強いメッセージ発信力は限りなくゼロに近いものでした。とにかくあの国連演説をした鳩山首相の姿に、本来あるべき「プライム・ミニスター(宰相)」を見る思いでした。

 その他藤井財務相、前原国交相、原口総務相、長妻厚労相、亀井金融相など、司つかさで改革のための新機軸を出し合って、脱官僚依存、政治主導の流れを作り出そうとしています。
 そんな中、かつて野党時代の「ミスター年金」長妻大臣に、厚労省官僚は恨み骨髄。それは自分たちの積年のデタラメ、ズサンさを棚上げした逆恨みもいいとこですが、就任時の1階総出迎えでは拍手一つしませんでした。他の官庁は一応は新政権の出方をとりあえずは様子見なのに、この官庁は最初から敵意丸出し、対決姿勢でした。自民党政権の尻拭いといっていい、消えた年金問題、後期高齢者医療や身障者自己負担費、派遣法改正などの見直し、撤廃問題等々。厚生、労働両分野で、手をつけるべき課題が非常に多い問題官庁ですが、とにかく報道されない官僚たちのいやがらせが凄まじく、さすがの長妻大臣も音を上げる寸前との話も洩れ伝わってきています。省益、保身だけの薄汚い厚労官僚なんかに負けるな、長妻大臣 !

 亀井金融相の中小企業の借入金の「3年間モラトリアム」。亀井自身と弱小国民新党をアピールするためのパフォーマンス的意味合いもあるのかもしれませんが、アイディアとしてはなかなか面白いと思います。我が国の9割以上を占める中小企業への目配り。「大企業目線」の自民党政権下では絶対打ち出せない政策です。閣内の藤井財務相はじめ金融機関、経済ジャーナリストなどからも、劇薬だけに副作用を懸念する慎重論が多いようです。
 しかし小泉格差増大政治によって、地方も中小企業も疲弊し切っていて何らかの有効な手立てが早急に必要です。亀井大臣、藤井大臣など省庁横断で十分協議して、最も有効な着地点を探ってもらいたいものです。

 前原国交相の「八ッ場ダム建設中止」も大いに評価できます。建設計画が持ち上がったのは、今から57年前の昭和27年のこと。時代は大きく変わって、途中でダムを作る必要性がまったくなくなったのです。にも関わらず、族議員、天下り役人、一部ゼネコン、おこぼれいただきの各県や周辺自治体のためだけに延々造り続けて、何千億円。詳細には述べられませんが施工上障害が多く、完成まで後どれほどの年数を要するか知れないシロモノです。上記関係者やマスコミがいくら騒ごうが、即刻中止した方がお国のためなのです。
 しかしこの問題の一連の騒動には、政治的転換がいかに難しいか痛感させられました。実際に中止に到るまでは紆余曲折、前途多難が予想されます。だからといって既得権益者たちの言いなりになって続行では、まさに亡国行為です。同ダムは「政官財癒着公共事業」の象徴のようなもといえます。これを中止する意味は測り知れません。全国各地の同様のムダ工事中止の生きた範例となるからです。
 ただダム建設のために翻弄され続けてきた、一番の被害者である地元住民の方々には、個別にきちんと対応し、手厚い保証をお願いしたいと思います。

 その他前麻生政権下での概算要求を白紙見直し、新政権として新規の予算編成をし直すこと。独立行政法人などへのお役人の「天下り禁止」を明確に打ち出したこと等々。政権が変わると、政治はこれほどドラマチックに動くものなのかと驚いてしまいます。
 だがこれらはすべて、霞ヶ関官僚との衝突が避けられない問題です。かのマッカーサーですら手がつけられなかったと言われる、我が国の「官僚機構改革」。初めは面従背服、やがて自分たちの省益が脅かされると分かると、リーク、資料隠し、さぼり、恫喝何でもありのしたたかな官僚たち。
 しかし、伏魔殿的霞ヶ関の深部にまで斬り込まなければ、「真の改革」はないわけです。国民もそれに期待していることを忘れず、今後とも一歩一歩具体的成果に向けて歩みを進めていってもらいたいものです。

 (大場光太郎・記) 

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