« 中川元財務相を悼む | トップページ | 続・乞食さんの思い出 »

乞食さんの思い出

 『差別用語・考』で述べましたように、乞食(こじき)とは一般的に、「周りの人たちに物乞いする人」のことをいいます。以下に語る人たちが果たしてそれに該当するものなのかどうか、私には判断がつきません。あるいはもっと別の分類をすべき人たちなのかもしれません。ともかくも私の人生につかの間現れ消えていった、今となっては懐かしい人たちです。
                        (1)
 昭和30年代前半は、我が国が高度経済成長に離陸する前の時代。世の中全体が、映画『ALWAYS 3丁目の夕日』のような貧しいけれどどこか温もりのある時代でした。
 貧しい中でもひときわ貧しい人もいました。どういうわけか住む家がなく、川原のどこかをねぐらにしているような人たちです。私の郷里の山形県東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)にもそんな人がいたのです。
 当時私は小学生。再三述べましたように町の母子寮に母らとともにお世話になっていました。母子寮は町の東外れ、二、三十メートル行けば吉野川に出られます。私が幼少を過ごした太郎村の家のすぐ側を流れていた同川も、数キロ下流の町場を流れる頃には川幅も大きくなり、それなりの中小河川の風格も備わります。

 その川を数百メートル上流に行った辺りに、当時頻繁に出没していた人がしました。近所の人たちはその人を「キツタロさ」と呼んでいました。正式に書けば「吉太郎さん」とでもなるのでしょうか。
 その人が私が最初に目にした乞食さんなのです。ずんぐりむっくりした初老の男性でした。いつもうす汚いよれよれのどてらのような着物に腰紐をしめた姿。子供達は乞食とばかり思い込んでいましたが、実はキツタロさが物乞いして歩いている姿を見たことはただの一度もありません。それもそのはず、その人には一応れっきとした仕事があったからです。

 その仕事というのは、「廃物集め」今でいう廃品回収業です。キツタロさの姿が見かけられるのは、決まって吉野川原のその辺ででした。すぐ上の方に古い木橋が架けられていて、山の方に行けるようになっていました。だからキツタロさも、たいがいがそうであるようにその橋の下辺りをねぐらにしていたものなのでしょうか。
 
 当時の子供達特に母子寮暮らしの私には、日々の小遣い銭などめったに与えられるものではありません。しかし寮の道を挟んで対面に駄菓子屋さんがあり、そこに「一粒百メートル」などという殺し文句入りのグリコのキャラメル、小さな袋に入って当たるともう一袋ついてくる甘納豆、舐めていると色が赤や緑にころころ変わる変わり玉などといった、子供の目を幻惑し食欲をそそる品々がどっさり置いてあるのです。

 そこで小学校4、5年の頃小遣い銭欲しさに、学校が終わると近所の仲間と共に、川原辺りに行って空き缶やら鉄くずなどを集めたものでした。まあ「俄か子供廃品回収業」といったところでしょうか。それを袋か何かに詰め込んで、川の土手道をさかのぼってキツタロさの所に持っていくのです。
 今もそうでしょうが、当時も並みの鉄くずよりも「アカ」や「アルミ」の方が値打ちがありました。アカとは銅線のこと、アルミとはアルミニュームのことです。ですからその方が金になるのでアカやアルミ主体に方々を漁るのですが、これがなかなか見つからないのです。
 ともかくそうして集めた廃物を「キツタロさ、これ買ってけろ」と言うと、「ああ、いいよ」とばかりに引き取ってくれたのです。そして廃物を受け取って、磁石で鉄くずとアカやアルミをより分けたキツタロさは、私たちに報酬として30円とか50円とかをくれるわけなのです。
 さあ現金を受け取った私たちは、一目散に件(くだん)の駄菓子屋に走って行ったことはいうまでもありません。

 キツタロさはいたって気のいい人で、まず怒るということのない人でした。それに近所の噂では、頼まれれば自分の下半身を見せてくれるというのです。いたずら盛りの私たちはそれに興味を持って、ある時仲間内で本当かどうか確かめてみることにしました。
 その時は確か廃物は持っていかなかったと思いますが、3人位でキツタロさのいるいつもの川原にそっと近づきました。そしてキツタロさを取り囲みながら、誰かが「キツタロさ。キ○○マ見しぇでけろ」と切り出しました。
 するとキツタロさは私たちの要望に快く応じてくれ、無言で着物の下をベロッとめくってアレを出して見せてくれたのです。それは、キツタロさの背丈のようにずんぐり縮こまったどす黒いものでした。私たちは物珍しげにそれにしばし見入ったのでした。

 しかしキツタロさとはそれが縁の切れ目になりました。私たちには何か見てはいけないものを見てしまったという後ろめたいような気持ちがあり、それからは廃物集めをしなくなりキツタロさとは会わなくなったからです。
 それから2年ほどすると私は中学生になり、その川原の土手道が通学路になりました。しかし朝晩通るにしては、どうしたことかキツタロさの姿を見かけることがなくなりました。  (以下「続」につづく)

 (大場光太郎・記)

|

« 中川元財務相を悼む | トップページ | 続・乞食さんの思い出 »

思い出」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。