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秋の名句(3)

                 村上 鬼城

   痩馬(やせうま)のあはれ機嫌や天高し

…… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 村上鬼城(むらかみ・きじょう) 1865年(慶応元年)東京生まれ。本名は村上荘太郎。元鳥取藩士の長男として軍人を志すも、18歳で重度の耳疾を病み断念。父の跡を継いで群馬県の高崎裁判所構内で司法代書人となる。
 正岡子規の教えをこい、やがてホトトギス同人となり「境涯の俳人」と呼ばれる。「古今独歩の俳人」(高浜虚子)「明治大正俳壇の第一人者」(大須賀乙字)「当代第一の作家」(飯田蛇笏)と三俳人から高い評価を受けた。『村上鬼城句集』『続村上鬼城句集』などの句集がある。1938年(昭和13年)没。73歳。

 10月下旬ともなると、大気が澄んで空が一段と高く感じられます。その感じを指す秋の季語が「天高し」です。秋の深まりとともに、真夏の地熱も収まり、地面は徐々に冷えてきます。そして大気の状態が安定し、さして強い風も吹かなくなります。また二百十日(9月初旬)前後の台風、その後の秋の長雨の後なので、ちりやごみが立ちにくくもなります。このため今頃の秋空は、一年のうちで一番澄んで高く見えると言われています。

 この句の「天高し」そしてやせ馬の「馬」から連想されるのは、「天高く馬肥ゆる秋」という昔からの成句です。これは我が国では、秋の爽快感や実りの秋の食欲旺盛になるさまを表す慣用句として定着しています。
 
 この慣用句のそもそもの語源は古代中国です。元の漢語は「秋高馬肥」。ただし肥えている馬は漢民族の馬ではなく、北方の匈奴(きょうど)の馬を指しています。『秋風辭』でも述べましたが、漢の武帝の時代領土は漢民族史上最大となりました。しかしそれでも北の辺境では、それ以北の匈奴からたびたび侵攻を受けていたのです。匈奴は北方騎馬民族で騎馬戦にはめっぽう強いのです。夏の間繁茂した牧草をたっぷりと食べさせ、馬が肥え太った秋に南侵してくることが多かったのです。
 司馬遷の史書『史記』の「匈奴列伝」にも、「秋、馬肥ゆ時期は漢民族にとっての大きな脅威の時」と記してあるそうです。

 つまり「秋高馬肥」は、前漢時代から北方の外敵に対する脅威を表わす成句であったわけです。それは後の唐の時代にも受け継がれ、唐の後の時代には脅威が現実のものとなります。すなわち北宋は北方民族の女真(じょしん)族の侵略により、黄河一帯から長江付近にまで押しやられ(南宋)、また次の時代には蒙古民族によって中国全土が侵略され、元(げん)という蒙古人国家が成立してしまったのです。
 また中国最後の王朝である清朝(しんちょう)は、これまた北方満州族の建国によるものです。清の時代北方脅威論は、当時列強国化していたロマノフ王朝のロシアに対して向けられることになり、秋高馬肥の成句を引用してその脅威を唱えた文章も著わされたようです。

 それはともかく。村上鬼城のこの句は、日本語として慣用句化された「天高く馬肥ゆる秋」を踏まえて作られたものと推察されます。
 鬼城は裁判所の訴状の司法代書人(後の司法書士)のかたわら、婦人とともに農作業にいそしむことも多かったようです。ですからこの句の「痩馬」は、農作業のある時目の当たりにした馬の姿の実写だと思われます。
 
 どこまでも抜けるように青い秋空の季節。とある地上の痩馬。上記の慣用句とのアンバランス。
 鬼城の観察眼では、そんな痩馬がなぜかご機嫌なようすに感じられたのです。そのことがかえって哀れを誘います。俳諧味と表裏にある深い哀しみ。といっても、作者にはどうしてやることも出来ず、ただそのようすをじっと見守るのみです。

 「あはれ機嫌や」に、鬼城の痩馬に対するシンパシー(共感)を感じます。それなしに、この句は生まれなかったと思います。いつかまたご紹介する機会があるかもしれませんが、村上鬼城の句には、この句のように「生きとし生けるもの」への暖かいまなざしが感じられる句が多いのです。

 (大場光太郎・記)

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