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『天地人』について(16)

 米沢移封をめぐって

 関が原の戦い(慶長5年旧9月15日-1600年)は、徳川家康(松方弘樹)率いる東軍の勝利で終わりました。石田三成(小栗旬)は敗れて逃走するも、捕らえられ処刑されました。個性的な演技が光った小栗三成が見られなくなるのは残念ですが、私としてはその後の展開にはことのほか興味があります。

 というのも、西軍側に味方した会津上杉藩が、いよいよ我が郷土の出羽の国・置賜(米沢)に移ってくることになるからです。昔は上杉藩領であった山形県東置賜郡出身の私としては、やっと子供の頃から知っていた上杉藩の物語が始まるんだな、という感じです。
 しかし私が郷里で過ごしたのは18歳の時まで。したがって上杉藩のほんの上辺を知っていたに過ぎません。今回の『天地人』の米沢移封をきっかけとして、改めて「米沢上杉藩物語」を学び直したいと思います。

 第40回は「上杉転落」第41回は「上杉の生きる道」で、米沢への移封、減封の次第が描かれていました。
 関が原で西軍に加わった各大名には、当然厳しい処分が待ち受けていたわけです。上杉とて同じこと、お家の取り潰しも覚悟しなければならない局面です。そんな厳しい状況の中で、上杉景勝(北村一輝)と直江兼続(妻夫木聡)の主従はどうその難局を乗り切っていったのか。その辺のところが、このドラマのテーマである「義と愛」に沿った美談仕立てで描かれていたように思います。

 美談のはじめは、兼続が徳川家康の参謀格の重臣・本多正信(松山政路)のもとを訪れ、本多家に直江家の家督を譲るということを切り出したことです。もちろんこれには名門直江家の息女である、妻お船(常盤貴子)は反対なわけです。そうなれば嫡男の竹松(加藤清史郎)が直江家を継ぐことは出来ず、あまりにも不憫であるという理由もありました。
 しかしそのことに誰よりも心を痛めているのは兼続自身。だが上杉家を存続させるためには、どうしてもそうしなければならないのだとお船を説得します。わが身、我が肉親、我が家系をまず犠牲にしてお家の存続を図るという、まさに「苦肉の策」といったところでしょうか。

 それを正信から聞いた家康も、「そうすれば直江家を通して、徳川が上杉をコントロール出来るというわけじゃの。悪くないのう。その話進めよ」となります。
 そのような兼続のお家存続の努力に加えて、「義と愛」に心動かされたか、東軍に味方した福島正則(石原良純)や関が原の最重要局面で東軍に寝返った小早川秀秋(上地雄輔)などが、上杉存続に尽力します。その結果淀殿(深田恭子)に呼び出された家康が、豊臣秀頼の一言でしぶしぶ上杉存続を認めさせられたという筋立てでした。

 しかし実際はどうだったのでしょう?確かに西軍についた各大名はことごとく所領没収などの憂き目にあいました。豊臣秀頼ですら、それまでの近畿200万石から摂津、河内、和泉3ヶ国65万石にまで減封されています。それからすれば上杉も、所領没収となってもおかしくはなかったわけです。
 しかし家康の上杉への処遇は当初から決まっていたようです。本多正信に対して家康は、「何しろ謙信公の上杉じゃ。無くすわけにはいかぬ」。もちろん老獪な家康の腹のうちは、軍神・謙信への尊敬だけではありません。「それにのう。上杉はなかなか強い。敵に回すよりは味方にして使うべし」。これが当初からの家康の本心だったようです。

 それだけ謙信以来の上杉家の武勇が天下に知れ渡っていたこと、豊臣政権下で景勝は家康と共に五大老の要職にあったこと、兼続という無類の軍師がついていること。いろいろ考慮すれば、ここで上杉への対応を間違えれば上杉軍は捨て身で戦い、それに呼応して徳川に不満を持つ諸国の武将たちが秀頼を旗印に第二、第三の関が原を起こしかねない。そうなれば、「天下統一」という徳川家康の野望は潰(つい)えかねません。
 領地没収、断絶に到らなかった上杉への処遇は、家康の度量の大きさを物語るものであると共に、その深謀遠慮が働いた結果であるとみるべきです。
 なおこの決定と同じようなケースが、同じく五大老で関が原では総大将だった毛利輝元(中尾彬)への処遇です。やはり120万石から周防、長門の2ヶ国(後の長州藩)の30万石に減封され、高齢の輝元は隠居し嫡男の秀就に家督を譲っています。

 家康と交渉のため、景勝と兼続が上洛したのは、関が原合戦の翌年の慶長6年7月のことでした。大坂に入った兼続は本多正信と下交渉に入ります。時に正信60余歳、兼続40歳をわずかに過ぎた頃。
 その結果、「領地は置賜(おいたま)と陸奥信夫(むつしのぶ)、伊達(だて)である。それでよしとせよ」と正信に告げられます。置賜は(現山形県の)雪深い山国の盆地でしたが、それに(現福島県の県北地方の)信夫と伊達が含まれていたことは、上杉としてもありがたかったはずです。両地方は旧伊達家の領地で、阿武隈川が流れみちのくの奥大道、その上地味も豊かで、交通の要衝でもあったからです。

 上杉は本多正信が窓口で良かったとみるべきです。三河出身の正信は幼少から家康に仕え、事務方の筆頭にまで上った人物です。古参の武断派からは敵視されていたものの家康からは深く信任され、江戸では総奉行として辣腕をふるい、徳川幕府250年の基礎を固めた功労者の一人です。
 上杉家存続のため直江家の家督を差し出したというのは多分に美談と見るべきで、その交渉の過程で正信、兼続共に肝胆照らし合い、互いの人物にほれ込んでいった。したがって本多家から直江家への婿養子の話は、その後の交流の過程で自然と出た話ではなかったかと思われます。

 ともかく。上杉のそれまでの領地は、会津、置賜92万石、佐渡13万石、出羽庄内14万石の約120万石でした。それが置賜、信夫、伊達の30万石、一気に1/4にまで減封されることになったのです。お家断絶は免れたものの、上杉家始まって以来の厳しさであることに変わりはありません。
 この厳しい事態を受けて、さて直江兼続はどんな手を打っていったのか。それは既にドラマでも描かれていますが、また近いうち述べてみたいと思います。

 (大場光太郎・記)

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