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秋の名句(1)

             富安 風生

   秋晴れの運動会をしてゐるよ

  …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 富安風生(とみやす・ふうせい) 明治18年、愛知県金沢村(現宝飯郡一宮町)生まれ。東京帝国大学法学部卒業。通信省に入り通信次官にまで到った。大正7年に俳句を始め、篠原温亭の「土上」に参加、東大俳句会を興し、高浜虚子の指導を受けた。歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成させる芸術を求めた俳人。句集に『草の花』『松籟』『村住』『晩涼』『古稀春風』『喜寿以後』『年の花』『齢愛し』などがある。昭和54年没。     (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 上記『現代の俳句』によりますと、この句の初出は昭和30年刊句集『晩涼』に収録されたもので、「北海道縦断、車窓」の前書きがあります。富安風生が老境に入ってからの北海道旅行で、車窓から見た秋の日の一光景だったものと思われます。
 もしかしたら車中の誰かが隣の席の者に、「おい、見ろよ。運動会をしているよ」とでも言ったのかもしれません。作者の風生もついつられて窓外を見てみると、なるほど線路に隣接した学校の校庭では運動会の真っ最中ではないか。そしてきょうはまた「秋晴れ」の絶好の運動会日和の良い天気で。
 そこで俳人の風生は、『その言葉いただき ! 』とばかりに、とっさにこの句を思いついて句帳に書き留めたのではないでしょうか。

 「運動会をしてをれり」というような型どおりではなく、話し言葉の平易な表現であるところが良いと思います。この平易な言葉から、運動会をしているのは多分小学生ではないだろうかという類推も自然に導かれます。
 「運動会をしてゐるよ」という日常会話的な文の前に、「秋晴れの」という季語を持ってくることによって、立派に一句として成立してしまうのです。また秋の明るい日差しの下、夢中でかけっこやら玉入れやら騎馬戦やらをしている児童たちの姿、その元気な声までもがイメージされてきます。

 過日少しふれましたが、多分この句以降のことだと思いますが、運動会は「秋の季語」と定まりました。私などの小学校時代の記憶では、運動会や遠足は共に春と秋の2回ありました。しかし理由は定かではありませんが、どうしてか運動会は秋の、そして遠足は春の季語と決まったのです。(いったんそう決まってしまうと、逆の季節の場合は、それぞれ「春の運動会」「秋の遠足」という表記になります。)

 「てるてる坊主てる坊主、あした天気にしておくれ♪」ではないけれど。運動会は何といっても秋晴れに限ります。これが「秋霖(しゅうりん)の運動会をしてゐるよ」では、陰惨な絵になってしまいシャレになりません。
 もし本当に誰かが「運動会をしているよ」と声を挙げたのであれば、それは気分の良いすっきりした秋晴れの天気がそう言わせたともいえます。そしてそれを聞いた作者風生もそれに感応して、素早く一句をものに出来た。その時風生は、自身の子供時分の運動会の思い出も懐かしく蘇ってきたかもしれません。
 
 「秋晴れ」に触発された、見ず知らずの旅客同士の心と心の触れ合いもまた伝わってくるような秀句です。

 (大場光太郎・記) 

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