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『天地人』について(17)

 その後NHK大河ドラマ『天地人』は進みに進んで、気がついてみたら15日(日)の「大坂城炎上」で第46話。次の22日はもう最終回だそうです。

 ここ何話かは、上杉景勝(北村一輝)直江兼続(妻夫木聡)の上杉主従が、関が原以後徳川家康(松方弘樹)の裁断により、会津から米沢に移封させられてからの物語でした。
 何もない地で一から藩政を新たに始めるための、兼続を筆頭とした上杉藩士らの苦闘。父惣右衛門(高嶋政伸)の死。またまたご登場の加藤史郎君の兼続の子竹松(後の直江景明)のこと。徳川寄りの政策を強力に進める兼続への風当たりの強さ。その不満を代表した弟大国実頼(小泉孝太郎)を高野山へ追放。景勝の正室菊姫(比嘉愛未)の死。家康の重臣本多正信(松山政路)の次男政重(後の勝吉-黄川田将也)と、兼続・お船(常盤貴子)の長女お松(逢沢りな)との婚礼。そのお松の死。そして主君景勝の母の仙桃院(高島礼子)の死などが描かれました。

 その間広く天下を見渡せば、関が原以後はすっかり家康の天下。遂に征夷大将軍にまで上りつめ、徳川家が将軍家となりました。対して豊臣秀頼(吉岡澪皇)は65万石の一大名に転落。秀頼の母・淀殿(深田恭子)は、織田信長の妹・お市の方の娘という貴種、家康の増長許しがたく、両者の対立、確執は年々深まるばかり。
 後の世まで徳川将軍家を磐石にせんものと、老狸家康の構想抜け目なく、慶長10年には嫡男秀忠(中川晃教)を2代将軍に。名実共に徳川の世としたところで、齢70歳に到った家康の最後の詰めは気がかりな豊臣秀頼を亡き者にすること。そのため慶長16年(1611年)方正寺鐘銘事件で難癖をつけ、「大坂冬の陣」を仕掛けたのでした。

 省みますれば14年前、六条河原で斬首さる石田三成(小栗旬)の無念、忘れたわけではござらぬが。上杉家存続のためやむを得ず、昔の主家の豊臣に弓矢向けんと、いざ遥々と大坂へ。道の奥なる米沢から馳せ参じたる三千騎。景勝60歳、兼続55歳の老主従。しょせん外様に過ぎぬ身は、敵陣深く斬り込みてただただ武勲挙げんのみ。「上杉の働きあっぱれ。もう退かれよ」との家康公のお言葉ながら、さりながら。ここは戦(いくさ)のただ中ぞ、武将は戦場にありては君命とても受けぬもの。他藩に譲りてなるものか。「者ども進め、進むのじゃ」。愛の兜も勇ましく、兼続なおも叱咤せり。(いささか講談調で)

 冬の陣を家康は収束させ、いったん豊臣方と和睦。しかし老獪な家康はとどめの戦の布石のため、大坂城の外堀をすべて埋めさせたのでした。城の土造りの出城から攻撃をしかけ、天下に真田幸村(城田優)の名を轟かせた、その出城“真田丸”は真っ先に取り壊されました。
 そして翌年慶長17年(1162年)「大坂夏の陣」で、両陣営は最後の激突。天下一の名城を誇った大坂城は遂に落城、炎上したのです。これにより淀殿、秀頼親子は自害して果てました。

 この両戦でその名を後世に残こしたのが、真田幸村です。どうしても幸村に触れたくなります。冬の陣後“真田丸”は取り壊され外堀が埋められてしまったため、籠城戦では勝ち目がないとみた幸村は、秀頼に大坂城外への出陣を要請します。城の外で徳川勢と決戦しようとしたのです。しかし淀殿の反対にあい、やむなく自身は茶臼山に陣を構えます。
 
 豊臣家の要請により、冬の陣に馳せ参じた時はまだ、父・昌幸、兄・信之の名声に隠れ評価は低かった幸村でした。家康は恐るべき真田家から、無名の次男の幸村が大坂に入ったと聞いてほっと安堵したと伝わっています。
 その頃幸村は既に齢49歳。歯は抜け落ち、白髪交じりで、腰も曲がっていたといいます。ドラマで城田優が演じたような、颯爽たる武者ぶりとはかけ離れたイメージです。そのため、大坂城の門番に山賊の頭目と勘違いされたほどだったと言います。

 しかしいざ実戦をさせてみると。あれよあれよという間に父を超えるような機略縦横、獅子奮迅の軍略の天才で。敵味方とも幸村株は急上昇。家康からは再三のヘットハンティングの誘いがありました。終いには「信濃の一国の主といたそう」とまで持ちかけています。しかしそれを蹴って、幸村は敢えて豊臣家と運命を共にすることにしたのです。
 幸村には最初から勝算などない戦いでした。「いかに見事な死に花を咲かすか」その一点を見据えた悲壮な戦い。

 ともあれ、夏の陣の最終局面。「もはやこれまで。狙うは家康の首一つ」と、捨身の戦法で家康の本陣深く何度も突入し、その鬼神のような攻撃に、一時家康は自害も覚悟したほどでした。しかし多勢に無勢はいかんともし難く、幸村は遂に徳川方の武将によって討ち取られてしまったのです。
 やはり若い頃の越後上杉家への人質時代、幸村も謙信公以来の「義の精神」を注入されていたものか。景勝、兼続にも劣らぬ「義」を貫いた武人の、壮烈な最期でした。

 ところで第44回の「天地人紀行」は、「兼続の功績」。その中で、何と私が幼少から高校卒業までを過ごした宮内町(現山形県南陽市宮内)と、母校の長井高校のあった長井市がセットで紹介されていたではありませんか !
 長井市はNHK教育で数年前、市上げてのエコロジーへの取組みが30分番組で取り上げられました。また3年ほど前は、NHK総合の『小さな旅』で、山形交通フラワー長井線(私が汽車通学していた頃はただの「長井線」)が取り上げられていました。
 しかし取り立てて何もない、我が郷里の町・宮内が全国放送で取り上げられるなんて ! そんなこと金輪際ないと思っていましたので、ただただ嬉しく思います。

 同紀行では、長井市では「總宮(そうみや)神社」が、そして宮内町では「熊野大社」が紹介されていました。總宮神社とその境内に兼続が植樹したと伝えられる「直江杉」のこと、そして番組の中で伊達政宗(松田龍平)と共に兼続が置賜の国見をしたという「赤崩山(あかくずれやま)」のことなどは、今年5月の『鷹桜同窓会報(2)』記事で。そして熊野大社のことは昨年11月の『菊祭りの思い出』で触れてあります。熊野大社には、当時社殿の修復に当たって、伊達政宗や直江兼続が寄贈したことを示す古文書が残っているそうです。

 なお『続・菊祭りの思い出』で触れました、宮内町の「双松(そうしょう)公園」は、元の城跡だったようです。同公園は、元は「宮沢城」「宮内館」「宮内城」「三桜城」などと呼ばれていたそうです。慶長3年(1598年)3月の越後から会津への国替えに伴い、信州飯山の尾崎三郎左ヱ門重誉(兼続の母方の実家)が配置され、その後米沢移封後は色部松丸(興三郎光長、兼続の妹婿)が城代となりました。かつてのおらが町も、けっこう兼続とはご縁が深かったわけです。
 同公園は現在きれいに整備され、6月はバラまつり、秋(10月~11月初旬)は菊まつりが開催されています。いやあ、小学校1年秋から高校卒業までを過ごしたのに、そんな歴史今まで知りませんでした。

 本当は今回は、米沢における「兼続の功績」をじっくり見てみるつもりでした。しかし残念ながら出来ません。『天地人』終了後にでも、改めて兼続の業績を含めそれ以降のことを『米沢上杉藩物語』というような数回シリーズとして、お伝え出来ればと思います。

 (大場光太郎・記) 

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