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身捨つるほどの祖国はありや

                             寺山 修司

  マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
 
…… * …… * …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 私など団塊の世代より、一つ前の世代の人たちにとっては懐かしい短歌なのではないでしょうか?すなわち60年安保で首都東京が騒乱状態になった、昭和35年前後20代だった人たちにとっては。
 同騒乱によって死亡した東大生樺美智子(かんば・みちこ)さん、当時学生運動家たちに好んで歌われたという西田佐知子の『アカシアの雨がやむとき』、「♪ 夜霧の彼方に 別れを告げ 雄々しきますらお出でてゆく …愛しの乙女よ 祖国の灯よ」の『ともしび』などを歌いあった街角の歌声喫茶、そしてこの短歌。
 
 寺山修司は昭和40年代、『書を捨てよ、街へ出よう』などの評論、あるいはアングラ的な実験演劇集団「天井桟敷」を主宰したり、映画『初恋・地獄篇』(‘68年-当時新宿の映画館で観た覚えあり)の脚本など、本来の詩人、歌人というより、当時は私たち若い世代をアジテート(扇動)する前衛活動家といった趣きでした。
 当時私は、山形から高卒で首都圏にやってきたばかり。当地での生活と仕事に慣れるのにおおわらわ、優雅に学生運動をエンジョイしている(?)諸君とは意識の上でかなりの温度差がありました。

 一般労働者たる私たちにとってこの短歌は、もはやさほど注目されるものでもなかったようです。私がこの短歌と出会ったのは、学生運動が挫折して(あるいは国家権力によって強制的に封じ込められて)世の中がすっかりおとなしくなった、昭和50年代前半の頃だったと思います。
 それも『寺山修司詩集』を読んでというような、しかるべき手続きを踏んでのことではありません。まったくの偶然の出会いによって、この短歌が目に飛び込んできたのです。

 私は当時車で外回りをしていました。ある日昼食のため、どこかの町のとある食堂に入ったのです。昼のかき入れ時、中は先客でいっぱいです。何かを注文して、出てくるまで時間がかかりそうです。そこで私は、時間つぶしに備え付けの漫画週刊誌を手に取って読み始めました。と、ある劇画風の漫画がありました。その中に、この短歌がバッチリ大きく書き込まれていたのです。

  「マッチ擦るつかの間海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」「寺山修司」
 昼食のとんだ予期せぬ添え物と言うべきです。『何てこの時代を突いた歌なんだ ! 』。私はそのカットから目が離せなくなりました。肝心のストーリーなどまるで忘れてしまっています。しかしいかにインパクトを与えたことか。食事を終えて食堂を出る頃には、もうすっかりこの短歌が頭に入っていたのです。

 立ちこめる夜霧とともに、この歌全体に流れる青春の叙情性。そして何より強烈なのが「身捨つるほどの祖国はありや」という問いの終わり方。いわく言いがたい、余韻と言おうか余情と言おうか。おそらくこの短歌を初めて読んだ誰しもが、寺山が投げかけたこの言葉にはズキンと心に響くものがあるのではないでしょうか?

 今改めて調べてみますと、この短歌は昭和33年刊の処女歌集『空には本』の中に収録してあります。当時のことは今、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』などで「古き良き」オールディーズ戦後として見直されています。
 しかし早稲田大学などとっくに中退していた若き寺山にとって、その時代既に「祖国喪失」をひしひしと感じていたわけです。この歌で寺山が言いたかったのは、「身を捨てるに値するような祖国?そんなもの、もうとっくの昔にありゃしねえんだよ」ということだったのではないでしょうか?

 なるほど今では、「国」を表わす言葉としては「国家」というのが一般的です。「祖国」などと口走ろうものなら、『こいつ右翼か?』と思われかねず。公の場でも私的な会話でもめったに使われることがなく死語と化してしまいました。ちなみに「国家」と「祖国」と、どう違うのでしょう?

 「国家」。①〔易経・繋辞篇下〕くに。②(state;nation)一定の領土とその住民を治める排他的な統治権をもつ政治社会。近代以降では通常、領土・国民・主権がその概念の三要素とされる。
 「祖国」。①祖先以来住んできた国。自分の生まれた国。「ーを捨てる」②国民の生まれた国。 (『広辞苑・第六版』より)
 なるほど「国家」は欧米式の近代法概念に基づく用語。対して「祖国」は読んで字のごとく、「祖(おや)の国」か。 

 独断的解釈では、「国家」からは一定の領土という平面的な空間、そしてそこに住む国民とその主権の主張し合い、せめぎ合い、そして他国とのマキュアベリ的外交戦術などしか感じられません。対して「祖国」からは、今日ただいまこうして身を置いている国の、悠古の祖先からの連続性、つまり三次元的空間に時間軸が一つ加わった四次元的かつスピリチュアルな広がりが感じられます。

 いやもし仮に、私たちの日々の営為を遥か高い所から鳥瞰している宇宙的存在がいるとするなら。連綿と続く血のつながりを断ち切り、エゴ的個体としてただやみくもにあっちにぶつかりこっちにぶつかりして生きている今の私たちの姿は、蟻と同じ二次元上の平面的生物にしか見えないのかもしれません。

 今から半世紀も前、若き寺山修司が感受した祖国喪失。私たちはその間ずっと、喪失状態のまま生きたきたわけです。ますます混迷を深め、凶悪犯罪が増加する一方の世の中。それは深いところで、「祖国喪失」とリンクしているのではないでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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コメント

 本文末尾でも触れましたが、寺山修司がこの短歌を発表してから半世紀以上。「祖国喪失」状況はますます深刻になってきています。
 現時点でそれをうかがい知る、格好の指標となるのは「ТP参加問題」でしょう。農業などこの国の根幹、諸々の安全保障を揺るがしかねないこの問題。都内などで国会議員、農業・医療関係者それに参加反対の市民が多数参加して、デモも行われたようです。しかしもはやこの短歌が発表されて間もなくの「60年安保闘争」のような、現政権に深刻なダメージを与えるほどの勢いはありません。
 祖国喪失の末期的なこの国は、やがて確実に訪れるのだろう「国の死」を、ただ静かに待っているばかりに思われてきます。

投稿: 時遊人 | 2011年11月14日 (月) 01時56分

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