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『雨月物語』など

   秋薔薇のピンクの夢の在り処(どころ)   (拙句)

 きょうから11月です。あらためて言うまでもないことながら、今年も後2ヶ月を残すのみです。12月に入ってから慌ててでは大変だから、年内にやっておくべきことは何事も早め早めにと毎年思えども。ついつい日々の雑事にかまけて、気がついたら師走もどん詰まりになっていて。『あーあ。結局何も出来なかったなぁ』となりがちです。今年ばかりはそうならないようにと思いつつも、さてどうなりますことやら。

 日中は家の中にいたので確かなことは分かりませんが、けっこう良い秋晴れの天気だったようです。東京は25℃以上の夏日となり、11月の夏日は11年ぶりのことだとか。
 3時頃本厚木駅方面に向かうべく外出した頃には、早や秋の日はかの大山の上の中空にまで到っていました。日は差し込んでいても、全天厚い雲に覆われだし何やら怪しい雲行きです。
 結局駅付近で用を済ませ、さるコーヒーショップに入りそこを出たのが夜7時頃。不安的中で外はもう雨になっていました。当然傘など持って来ていません。ルーフ付きのバス停で思案気に雨のようすを見るに、さほど大降りでもなさそう。心配は地元近くのバス停を降りてからですが、ままよとバスに乗り込みました。

 結局バス停で降りて実際雨に打たれながら歩くに、やはりさほどのこともない小降り程度で、それでも早足でいつもの帰路を歩きました。
 いつかご紹介しました桜落葉散り敷く遊歩道の手前に、これも去年ご紹介しました、とある家の庭先にひょろんと細い幹を3m以上伸ばした薔薇の幾つかがあります。この季節またピンクの見事な大輪の花を咲かせているのです。全部で十余輪ほど。花が咲いているのはすべて人間の背丈より上から天辺にかけてです。私にとってこの季節その薔薇は、帰路における私だけのほんのささやかなランドマーク的目印で、いつも見上げてはつかの間の鑑賞タイムを楽しみながら通り過ぎます。
 本日はもう7時を回って辺りは真っ暗です。それでも薔薇は、夜目にも鮮やかに浮き出て見えていました。

 10月30日は十三夜。「十五夜に晴れ無く、十三夜に曇り無し」とは古来からの言い伝え。そのとおり今年の十三夜も澄み渡った夜空で、月はひときわ光を放っていました。それからすればきょうは旧九月十五日で満月のはずですが、あいにくの雨月です。
 雨月と言えば。最近の『君待つと』記事で、上田秋成(うえだ・あきなり)の『雨月物語』に少し触れました。それで最近にわかに、同書の中の「白峯」や「吉備津の釜」などを読んでみたくなりました。
 最初に読んだのは高校時代。当時の私が、まともに原文で初めから終わりまで読んだ唯一の古典です。学校の図書館に並んでいた古典文学全集中から同書を選び、早速借りて夢中で読みました。今でも、通学途中の汽車の中で『雨月物語』を読んでいる我が姿をかすかに覚えています。ということは、そうとう熱中して読んでいたということなのでしょう。

 よほど印象深いものがあったのか。当地に来てからしばらくした20代終わりの頃、本厚木駅前の有隣堂書店に並んでいた、某古典全集中の『雨月物語』を買い求めました。その時は『すぐ読みたい』というほどの強いものではなく、『いつかそのうち』という軽い気持ちだったかと思います。ただ上記に挙げた幾つかの物語は、その時も読んだような記憶があります。
 それがどこにいったか、何年か前確か見かけたはずでおそらく処分はしなかったと思いますが、どこを捜しても見当たらないのです。本というものは、思い立った時に読まないとなかなか次のチャンスが来ないものです。今後もし捜せましたら、主な作品をきちんと読んで、読後感などを述べてみたいと思います。

 上田秋成(享保19年・1734年~文化6年・1809年)は、後世の泉鏡花、内田百閒、江戸川乱歩、夢野久作などの近代幻想作家、さらには京極夏彦、小川洋子といった現代幻想作家たちの先駆者的存在でした。そして後代の作家たちも及ばないような幻想世界を描き出したのが、名作『雨月物語』だったように思います。

 書きながら思い当たりましたが、高校時代はなぜか「怪奇幻想譚」に惹かれるところがありました。ありきたりの日常につまらなさを感じ、非日常の幻想世界に耽る傾向が多分にあったようです。その頃『黒猫』などエドガー・アラン・ポーの作品も読み耽りました。
 そんなことも、高度経済成長真っ只中の現実社会に否応もなく投げ込まれる前の、モラトリアム期の懐かしい思い出です。

 (大場光太郎・記)  

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コメント

すごい読まれてますね
いつも感心してしまいます。

投稿: 小川洋子っ子 | 2009年11月 3日 (火) 17時56分

小川洋子っ子様
 コメントありがとうございます。
 いえ、実は「すごく読んで」はいないのです。本文で名前を上げた作家のうち、きちんと読んだのは内田百閒、江戸川乱歩くらいまてで。夢野久作はパラパラ程度。京極夏彦、小川洋子に到っては、単に名前を知っているだけです。しょせん私が国内外の文学を一番読めたのは高校時代で、その後はお恥ずかしいくらいちょぼちょぼです。
 以前どこかで述べたことがありましたが、私はどこかで三島由紀夫の死をもって「文学は終わった」と考えているフシがあります。もちろんそのなことはなく、その後も小川洋子をはじめ村上春樹や吉本ばなななど優れた作家の、優れた作品が数多く発表されているわけです。
 それにまた年とともに、「小説を読むのに費やす時間がもったいない」という観念もどこかにあります。しかしこれも誤りというべきで、優れた文学作品では、常人がとうてい及びもつかないような視点やイマジネーションで、このありふれた日常を魔法のように異化してくれ、またその奥に潜む世界をも垣間見せてくれます。それらに接することが出来る時間こそ、まさに小説の醍醐味を味わえる「至福の時間」と言うべきなのかもしれません。
 「小川洋子っ子」様のコメントを契機に、小川洋子の『妊娠カレンダー』『博士の愛した数式』などを読んでみたくなりました。ありがとうございます。
 当ブログ、いつでも気軽にお越しください。また時折りのコメントもどうぞ。いろいろな事象を、共に考えていけましたら幸いです。

投稿: 大場光太郎 | 2009年11月 3日 (火) 20時46分

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