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2009年12月

行く年雑感

   行く年のものの一つに夕の月   (拙句)

 大晦日のきょうは終日の晴天でした。しかし一歩外に出てみますと、少しばかり強い風が吹き渡っています。風はどうやら北風ばかりではなく北西風、それも時折り西の方からどっとばかり回り込み巻き上げてくるような突風です。そのため余計寒さが身に沁みて感じられます。

 振り仰げば午後3時過ぎの冬の日は、早や西の方にだいぶ落ちて大山の左側(南側)の稜線の上辺りにあります。これが真夏ですと逆に大山の右側(北側)の丹沢連峰の方にずっと寄ります。大山というかっこうの目印があることによって、季節によって太陽が沈む方向はかくも違うものかと実感させられます。
 中空一面には抜けるような青空が広がっているものの、大山の尖がった頂上にはもくもくと灰色がかった大きな雲が覆いかぶさり、ともするとけっこうな早足でもっと上空へと動いていこうとしています。

 列島周辺はきょうの大晦日から新年3日頃まで、荒れ模様の気圧配置のようです。もちろん中国大陸には冬定番の高気圧がデンと居座り、北海道南部とほぼ同緯度くらいの日本海には前線を伴った強い低気圧があるのです。このため日本全体が強い冬型となり、地方によっては本31日から元旦にかけて“冬の嵐”となりそうなのです。
 さすがに万象がすがれたこの季節、草花という草花はみな色を失い、寂(せき)として声無しといった感じです。

 そんな寒風の中でも、子供たちは元気です。いつもは人寂しい例の水路道の手前の砂利道で、珍しく本日ばかりはとりどりのカラフルな装いの男の子、女の子が数人、元気な声を出して、キャッチボールをしたりサッカーボールを蹴ったりして遊んでいるのです。
 側でそのさまを、真っ赤なジャンパー姿のおじいさんがにこやかに見守っています。昨年記事にしました、水路道に接したお宅のご主人で、例の水路道に枝々を伸ばしていた、大きな八重桜の木を根元近くから伐っていた人です。もう70歳をとうに越えたと思われますが、どうしてどうとて真っ赤ないでたちといい、なかなか矍鑠(かくしゃく)としたごようすとお見受けしました。

 さて今年もいろいろな出来事がありました。その中でも一番の出来事は、今年の流行語大賞にもなった「政権交代」が我が国で現実のものになったということでしょう。早いもので鳩山首相による民主党中心の連立政権がスタートしてから、今月24日で100日を越えてしまいました。
 それまでは新政権と国民との間のハネムーン期間、「じっくり長い目で…」とは言うものの、諸事、万事非常時のような現在、いつまでも政権交代の美酒に酔ってばかりもいられません。

 「この国の形をどうしたいのか」「“国民中心の政治”をどうやって実現していくのか」「長引く景気低迷からどうやって脱出するのか」「脱・官僚は本当にできるのか」…。難問山積で、年明けからはいよいよ新政権の真価が厳しく問われていくことになりそうです。
 鳩山首相自身の偽装献金問題、普天間基地移転に見られるような問題先延ばし傾向、一つ一つの問題に各大臣がてんで勝手に言い分を述べるだけでそれを最善に収束させる司令塔の不在等々、鳩山首相の指導力不足が少しずつ露呈しかかった形です。それを反映するように、直前の各社の世論調査でも内閣支持率が50%前後と、それまでより大幅に下落してしまいました。
 年明けにこの数字を再び上昇に転じさせることができるのか、それともこのままどんどん下落していくのか。新政権の正念場となりそうです。

 おかげ様でこの1年間、つつがなく当ブログを続けることができました。記事もほぼ毎日のように更新してこられました。これはひとえに日々ご訪問くださる皆様方の賜物であり、改めまして深く感謝申し上げます。
 当ブログ最近では、ブックマーク(お気に入り)に入れていただく方がずいぶん増えました。特に『かなえの殺人レシピ』と最近の『薬物汚染の拡がりを憂う』によって、という方が多いようです。大いに嬉しいことですが、それらの方々は、ご訪問ついでに他の(当ブログ本来の)「自然観察文」「季節報告文」「名詩・名句鑑賞文」などの一般記事もお読みいただければ大変幸甚です。
 
 直前も『薬物汚染(41)』だったように、当ブログ最近はすっかり「事件記事」づいています。これは、第一に皆様の関心が圧倒的であることが上げられます。それに前にも述べましたが、私自身けっこうやじ馬、ミーハー気質があるようで、さほど苦にならずに各事件などの“ネタ漁り”などをしています(微苦笑)。
 それにこれも以前述べた事ながら、国民にとって関心の高い事件はやはり、今の社会を先鋭的に切り取って突きつけてくるようなところがあります。今の社会の深部、暗部がいやおうなしに見えてくるのです。その意味でこのジャンルも、決して無駄なものではないはずです。問題はえてして興味本位、三面記事的内容に走りやすい私自身の傾向を越えて、その記事の中で核心にいかに切り込んでいけるかだと思います。

 夕方7時前、外に出て空を眺めてみました。夕冴ゆる中、空には元日の空模様を早くも暗示するようにけっこう雲が多くなっていました。と、真東の斜め45度くらいの中空の雲間の縁(へり)が明るんでいて、大晦日の月の所在を示しています。
 少し推移を眺めていますと、やがて雲間から月がその姿を現しました。はじめは薄い雲間隠れに、そして遂にはその辺の雲がすっかり切れて真ん丸い白々とした冬月の全貌が…。『もしかして冬満月?』、早速家の中に入って調べてみましたが満月は昨夜の月、年越しのきょうの月は十六夜月だったようです。

 末尾ながら、皆様にとりまして来年が良い年でありますように。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(41)

 押尾学、年明けにも3度目の逮捕か

 28日は押尾学(31)の再拘置の期限の日だったはずなのに、何の動きもみられない、かといって保釈されたという報道もない、その後どうなってるんだ?と思っていました。しかしこれは各マスコミが伝えなかっただけで、同日東京地検は麻薬取締法違反(譲渡、譲り渡し)で東京地裁に押尾学を起訴したもようです。
 さらに警視庁捜査1課は、田中香織さん(当時30)が押尾から渡されたMDMAを服用後に異変を起こした際、適切な措置を怠ったとして、保護責任者遺棄容疑で年明けにも3度目の逮捕をする方針を固めたということです。

 また東京地検は同日、麻薬取締法違反罪で泉田勇介容疑者(31)を起訴しました。起訴状などによりますと、押尾被告は7月31日、六本木ヒルズレジデンスB棟2307号室で泉田被告からMDMA約10錠を譲り受け、8月2日同室で田中さんにその一部を譲り渡したとされています。
 同課によりますと、田中さんは押尾学と一緒にMDMAを服用した後、午後6時過ぎけいれんなどの異変を起こし、異変発生から約3時間後の午後9時過ぎ、現場に駆けつけた関係者が119番通報するまで田中さんを放置したということです。

 泉田被告が押尾被告へのMDMA譲渡を認めていることなどから、捜査1課は田中さんの死亡につながったMDMAを押尾被告が用意したことが裏づけられたと判断し、田中さんの保護責任を放置したとして、保護責任者遺棄容疑で立件する方針を固めたとみられるのです。
 一方東京地検は、田中さんの携帯電話を棄てた証拠隠滅罪で遠藤亮平容疑者(28)を略式起訴し、これを受けて東京簡裁は同日罰金20万円の略式命令を出しました。遠藤に対しては、さらに追及すれば押尾と同罪の保護責任者遺棄罪にまで持っていけるはずなのに、何という軽い裁きかと思ってしまいます。これ一つ取ってみても、関係各機関は押尾事件の間口をなるべく大きくしないで、早く終息させたがっていることがうががえるようです。

 ともあれ押尾学は起訴されましたが、逃亡のおそれも考えられるだけに保釈はとても無理で、このまま年末年始は東京湾岸署の拘置施設で過ごすことになりそうです。
 しかし問題は、この先この事件がどれだけ解明されるかです。押尾が田中さんにMDMAを渡した、それを田中さんが勝手に服用して勝手に死んだ。しかし押尾の罪は罪だから保護責任者遺棄罪までは問いましょう。それで万事解決、それから先は何も無し、などということにはしてもらいたくないものです。

 一部情報では、この事件に関して問題の森祐喜が年明けにも事情聴取か?とも囁かれています。これがもし事実となれば、捜査1課の「逃げ得は許さない」という決意が少しは本物であったと評価してよいと思われます。そして何より、これまでの「押尾学と田中香織という2人だけに起きた事件」ということから、新たな思わぬ関与者が加わることになり、事件そのものが大きく新展開することになります。
 ただこの事件については、これまでも「芸能界の大物逮捕か」あるいは「大物逮捕か」「大物政治家逮捕か」などと噂になっては、そのつど立ち消えになってきました。森祐喜の事情聴取が、単なる憶測でなければよいがなあと思います。

 どうやらこの事件に対する取り組み方では、警視庁内部でも大きく2つの勢力があるようです。一つは芸能界や地元闇社会との癒着が深く、これ以上この事件の真相を明らかにしたくない勢力。そしてもう一つは、そういう癒着がなく真相解明に意欲的な勢力です。それが互いに綱引きをしているようなのです。そのことが、この事件の捜査が遅々として進まない印象をもたれることにつながっているようです。
 しかし本来警察内部に、一部の黒い社会と癒着があることがそもそもおかしいわけです。そのような「暗黒警察」的な体質を根本から改めるためにも、この事件の全容解明が不可欠だと思われます。

 ところで一部専門家からは、押尾被告の処分として「保護責任者遺棄罪ではなく、事は悪質でもっと重い“傷害致死罪”あるいは“過失致死罪”が適用されてもおかしくないケースだ」という声も挙がっています。
 いずれにしても押尾被告は、このまま拘置され続け、さらに実刑が確定して長い年月の服役が続くかもしれません。そうなると唯一事件の真相を知る押尾学は、改めて『何でオレだけが…』と思うことでしょう。

 刑法の専門家は、「懲役8年くらいが妥当なのでは」と見ています。押尾は当分実社会には出てこられない可能性が大なのです。1、2年といった短期間の服役ならば、真相をぶちまけた場合シャバに出てから命を狙われる危険性があるとしても、それだけの長期服役ともなるとその心配もなくなります。押尾被告にはもうこの際、この事件の真相を何もかもぶちまけてもらいたいものです。何と言っても、それが事件解明への最も有効な突破口となるわけですから。
 そしてそれが、亡くなった田中さんへの贖罪であり、罪滅ぼしだと思うのです。

 (大場光太郎・記)

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時の話題(4)

 三国志の英雄・魏の曹操の遺骨発見 !?

 中国国営テレビによりますと、中国河南省文物局は今月27日、河南省安陽市安陽県で後漢末期の政治家で、三国時代の魏の基礎をつくり三国志中の英雄として知られている曹操(155年~220年)の陵墓を発見したと発表しました。
 陵墓からは60歳前後とみられる男性の遺骨が見つかり、専門家によると60代で死亡した曹操本人のものだということです。

 曹操の陵墓の所在地をめぐっては諸説あり、これまで特定されていませんでした。そういえば後代の元の基礎を築いたチンギス・ハーンの陵墓も分かっていません。これは死後陵墓が暴かれることをおそれ、容易に発見されない場所に埋葬させたためと言われています。中国では古来、帝王や王族の陵墓に対する副葬品目当ての「墓荒らし」が横行していたのです。

 曹操は晩年は魏王を名乗ったものの、後漢最後の皇帝・献帝の丞相(じょうしょう)という政治的最高権力者の立場にとどまりました。死後長子の曹丕(そうひ)が後漢を終わらせ皇帝となって魏を建国しますが、その際父曹操に「魏武帝」という名を贈り帝王の列に加えました。
 曹操は建安25年(220年)病で世を去りますが、遺言は「戦時であるから、喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れるべからず」だったとされます。帝位をうかがおうかという地位にありながら、自分の死を飾らない曹操の最後まで透徹した合理主義者としての一面を見る思いです。しかし曹操には、公に目立つ陵墓に葬られて荒らされたくないという思いもあったのではないだろうか、と推測されます。

 今回の発見で、「曹操に関する謎が解明されるのでは?」と期待されています。陵墓は面積740㎡。2つの墓室などがあり、短剣や水晶、石碑などの副葬品が200点以上出土しました。その意味では、「華美にするでない」という遺言にやや背いた形ですが、子の曹丕らとしては偉大な父を最大限弔いたいという発露からだったのではないでしょうか?
 とにかくその中には、おくり名である「魏武帝」と刻まれた銘文も含まれており、曹操の陵墓であることを示す根拠の一つとなったと言われています。

 ところで話は変わってー。我が国の「三国志ブーム」のきっかけとなったのは、吉川英治の『三国志』でした。吉川は確か長大な同書のあとがきで、「三国志演義という百年物語の主人公は“悠久の時間”である。しかしそんなことを言ってしまえば身もふたもないから、何千人にも上る登場人物の中から、あえて主役を挙げるとすれば曹操と諸葛孔明ということになるであろう」として、晋による三国統一を待たずに、孔明の五丈原(ごじょうげん)での陣没をもって吉川三国志を終わりにする理由としていました。
 三国時代のことが民間伝承や口伝といった形で民衆に語り告がれていく間に、やはり“判官びいき”はどこの国にもあるらしく、三国のうちでも最弱国で後漢の血を引きその再興を願っていた蜀(しょく)の劉備玄徳や、その死後無能なその子劉禅を必死で補佐し、五丈原で果てた諸葛孔明の比類ない忠義心に同情や支持が集まったものなのでしょうか。

 その過程で曹操は、すっかり敵役、悪役にされてしまった嫌いがあります。今春封切りが終わった映画『レッドクリフ』も、当然のようにそれを踏襲していました。しかし曹操こそは、実に「魅力的な悪役(ヒール)」と言うべきです。
 思えばもし仮に曹操無かりせば、後漢の大乱世はさらに長引き民衆の塗炭の苦しみが際限なく続いたことでしょう。曹操の大野望とは、「王道」ならずして「覇道」だったかもしれません。しかしそのため曹操は、早くから帷幕のうちに武官、文官の有能の士を広く天下から集め、意のままに使うことができました。孫子の兵法だったかに、「兵に将たるは易く、将に将たるは難し」とあったかと思いますが、まさに曹操は「将に将たる大器量人」だったものと思われます。

 確かに覇道遂行の過程では、例えばその父が殺された報復として徐州を攻め、無辜(むこ)の民衆を数万人あるいは十数万人虐殺したというような冷酷な一面がありました。しかし曹操は何より、優れた政治家であり軍略に優れた兵法家であり、なおかつ次男の曹植とともにその時代を代表する詩人でもあったのです。
 私には曹操は、我が国戦国時代の信長、秀吉、家康を全部足してもなお余りあるようなスケールの大きな人物だったような気がします。曹操という敵役あっての『三国志演義』とも思います。

 曹操の死に至るエピソードをご紹介したいと思います。
 曹操は最晩年脳の病に冒されて亡くなったと言われています。その快癒のために、中国史上の名医として名高い華陀(かだ)を魏に招きます。華陀は今でも華陀膏(かだこう)という薬があるくらいですから、当時も大評判で、一時は肩に毒矢を受けた荊州(蜀の一州)鎮護の関羽を治療したこともありました。
 曹操の病状を診た華陀は、「丞相、脳の外科手術を行いましょう。脳を切開するのです。さすれば丞相の御病たちまちに快癒致しましょう」と言います。ところがさすがの開明家の曹操も、これには驚き怒り「貴様、このワシを殺す気か」と華陀を投獄してしまいます。獄中で華陀は拷問を受け獄死。しかし華陀は、曹操の病が今風に言えば脳腫瘍であることを見抜いていたのです。ですから脳を切開して腫瘍摘出を勧めたわけです。もし曹操が素直に快諾していれば、中国はもとより人類史でも最初の脳外科手術となったことでしょう。しかし曹操はそれを拒否し、結局それが原因で亡くなったのでした。

 話はさらに少し前に遡ります。魏の首都・許昌のある宮殿造営か何かで、遠い村の樹齢数千年という鬱蒼たる巨木がどうしても必要になりました。都から木の切り出しに役人たちが遣わされます。役人たちは村の人々に木を切るよう依頼しますが、「とんでもない。この木は神霊が宿るおそるべき木で、これまで村中で大切に守ってきたのです。もし切るようなことがあれば、どんな祟りがあるか分かりません」と、誰も近づこうとはしません。
 そこで仕方なく役人たちが斧を持って、その木を切りにかかります。しかしどうしたことでしょう。まったく歯が立たないのです。何度やっても同じなので、役人たちは都に帰ってありのままを上に報告します。それを聞いた曹操は、元来進歩的な人でそんな迷信をハナから信じる性質(たち)ではありません。「ならばワシが参ろう」ということになりました。

 巨木に近づいて曹操は斧をエイヤッとばかりに振り下ろします。すると斧はグサッと木に食い込みました。と、樹液どころか人間の鮮血のような真っ赤なものが吹き出してきたのです。これにはさしもの曹操も驚き、早々と逃げるようにして都に帰ってきたと言います。
 曹操が俄かに重い病を得たのは、その晩からだったと伝わっています。

 (大場光太郎・記) 

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『坂の上の雲』第1部が終わって

 27日(日)夜8時から、NHKドラマスペシャル『坂の上の雲』第5回「留学生」が放送されました。これで第1部が完結し、新春の日曜夜8時台は通常の大河ドラマに戻り、福山雅治が坂本龍馬を演じる『龍馬伝』が放送されることになります。
 『坂の上の雲』第2部は、その『龍馬伝』が完結した後の放送だというのです。一年先とは、まただいぶ気の長い話です。外交官の小村寿太郎(竹中直人)ではないけれど、東洋の一小国たる我が日本が、例えば大英帝国とも対等な条約を結ぼうかという、物語はいよいよ佳境に入りかけたというのに。何かスパッと一年間の断層を置かれた感じがします。

 そのとおり(記事にしなかった)第3回以来、松山出身の3人の主人公の境遇はもとより、我が国を取り巻く国際情勢も大きく変わりつつありました。
 まず3人の主人公からいけばー。正岡子規(香川照之)は、大日本帝国憲法発布に沸き立つ世情の中、突然喀血してしまいます。当時不治の病とされた肺結核を患ってしまったのです。原作者の司馬遼太郎は、明治時代とその時代を生きた青春群像を、「楽観主義(オプティミズム)」と評しています。さだめし子規などはこの好例であることでしょう。喀血、肺結核罹患の事実に衝撃を受けたことは間違いないとしても、何とそんな病を逆手に取るかのように、この頃から後世に残る「子規」という俳号を使い始めるのです。子規とは、血を吐いてもなお鳴き止まないとされるホトトギスのことです。正岡子規には、己の難病をも客観視しどこか笑い飛ばす、諧謔精神溢れる究極のオプティミストだったように思われます。

 一方親友の秋山真之(本木雅弘)は、海軍士官学校を主席で卒業し、海軍少尉として遠洋航海に出ていた折り、洋上で父久敬(伊東四朗)の訃報に接します。また帰国したある時、日本の港を巡回する清国の北洋艦隊を見学し、敵艦偵察のため忍び込んだ清国旗艦の中で、後に真之の畏敬すべき上官となる東郷平八郎(渡哲也)と、北洋艦隊提督・丁汝昌(てい・じょしょう)にまみえることになります。
 兄の秋山好古(阿部寛)はフランスから帰国し、陸軍士官学校の馬術教官になります。そして上官である児玉源太郎(高橋英樹)の勧めで、以前下宿していた佐久間正節家の娘・多美(松たか子)と結婚します。

 そうしている間に我が国を取り巻く状況は緊迫の度を増していき、1884年(明治28年)春、時の内閣総理大臣・伊東博文(加藤剛)の戦争回避の努力も空しく、日清戦争が閣議決定されてしまいます。明治新政府となって初めての対外国戦争の勃発です。
 当然のように好古は騎兵大隊長として、弟の真之も巡洋艦「筑紫」に乗って同戦争に出征していくことになります。
 7月25日朝、日本艦隊と清国艦隊が朝鮮西岸で遭遇し、戦闘の火蓋が切られます。好古は乃木希典(柄本明)らと旅順攻略に参加し、真之は巡洋艦上で初めて実戦を目の当たりにしますが、自分の命で日頃目をかけていた部下を死なせ現実の惨状に強い衝撃を受けてしまいます。

 この戦争には、東京帝国大学を中退し陸羯南(くが・かつなん-佐野史郎)が主宰する新聞「日本」に入社していた子規も、従軍記者として戦場を訪れ、戦争と文明についての認識を新たにさせられることになります。
 しかし子規は帰船の折り大喀血し、病を悪化させてしまいます。そのまま神戸の病院そして須磨で療養、帰郷した松山で松山中学に赴任していた夏目漱石(小澤征悦)の下宿で療養することになりました。

 兵力や艦隊において優劣はつけがたかったものの、西欧列強の近代戦をじっくり時間をかけて取り入れてきた日本は終始優位に戦いを進め清国に勝利しました。翌年の4月17日下関で講和条約が成立し、我が国は遼東半島や台湾などの割譲を勝ち取ります。
 しかしその後ロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」により、清国に遼東半島を返還することになりました。その隙に乗じてロシアが満州さらには遼東半島に手を伸ばし、南シベリア鉄道の敷設や半島突端の旅順要塞の強化などを進めていきます。こうしていよいよ満州や朝鮮半島におけるロシアの脅威を痛感した日本の首脳陣は、最早日露戦争は不可避と判断し軍備費を増大させていくことになりました。

 そんな中海軍省では、特に優秀な海軍士官を先進国に留学させるプランが持ち上がります。選考の結果、秋山真之はアメリカへ、親友の広瀬武夫(藤本隆宏)は将来の日露の衝突を見越してロシアへと留学していきます。
 真之の留学先であるアメリカは、ドイツやイギリスといった西欧列強にようやく追いつこうかという新興国に過ぎませんでした。しかしその分発展に勢いがありました。真之は戦術家として名高い米国海軍予備役大佐アルフレッド・マハンを訪ね、直接教えを乞います。その影響もあってか、渡米中の真之は海軍戦術の研究に没頭します。日露戦争における日本海軍の戦術は、この時に生まれたといっても過言ではないと言われています。

 幸運なことに真之留学中、アメリカはスペインと中南米の島国・キューバの領有権を巡って「米西戦争」に突入します。観戦武官として、アメリカ艦隊がスペイン艦隊を軍港に閉じ込める世界最初の「閉塞作戦」をその目で見た真之は、敗れたスペイン艦隊の残骸を詳細に調べ、キューバにおける米西戦争を、日本海軍史上類を見ないと評価されている見事な観戦報告書を作成したのでした。

 一方の子規は、結核菌によって脊髄を冒される背髄カリエスも併発し、東京根岸の借家で床に伏せりがちな日々を送っていました。親友の真之がアメリカ次にはイギリスに雄飛しようかという中で、文字通り「病牀六尺」の闘病生活を余儀なくされていたのです。
 「大望ありて余命なし」、子規の心中たるやいかばかりだったか。演じているのは香川照之ですが、遺された写真を見ると香川は子規に風貌が似ているようです。のみならず、子規が乗り移ったかのような迫真の演技で、思わず涙がどっとこぼれてしまいます。

 しかし狭い庭があるばかりの借家には、高浜虚子、河東碧悟桐、伊藤左千夫、島崎藤村、長塚節など、後に近代文学史にその名を刻むことになる後輩たちがしばしば訪れて来て、いつしかこの借家は「子規庵」と呼ばれることになります。
 そして起居するにも難儀で、母八重(原田美枝子)や妹律(菅野美穂)の手助けを借りなければならないほどの大病の中、旧弊と戦い俳句・短歌の革新という近代文学史上画期的な偉業を成し遂げていくことになるのです。そうしてみると、根岸の子規庵は狭いながらも自然の事象を観察、写生するにはこと欠かない小天地、ドラマの中の子規が母八重に言ったように「小天国(リトルパラダイス)」だったのかもしれません。
 いずれにしても身はたとい病に蝕まれ、病牀六尺に横たわって呻吟してはいても、その精神は自由自在に天翔(あまが)けていたのに違いなく、その意味で子規もまた立派な「雄飛者」だったと思われるのです。

 (大場光太郎・記)

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米沢上杉藩物語(3)

 上杉藩米沢移封前夜

 豊臣秀吉の命により、長年住み慣れた越後から会津に移封してきた上杉景勝は、文武両道に秀でた第一の家臣・直江山城守兼続に、長井、伊達(だて)、信夫(しのぶ)30万石を任せ、米沢城を兼続の居城として与えました。慶長3年(1958年)正月10日、景勝44歳、兼続39歳でした。

 上杉家の会津移封は、豊臣家五大老の筆頭格として急速に台頭していた徳川家康を、その背後から牽制し、加えてこれまた強大化しつつあった伊達政宗も同時に牽制する目的がありました。さらに、五大老の一人の上杉景勝の越後も領民が上杉家になついている強大な軍事大国であり、秀吉はその力を恐れ勢力を削ぐ狙いもあったものと見られます。

 秀吉死後の関が原の戦いの折り、上杉軍は石田三成率いる西軍に味方し、徳川軍を背後から牽制する動きを見せました。そのため戦後天下を掌握し始めた家康によって、上杉家は家名廃絶の危機に立たされることになります。
 関が原の翌年の慶長6年(1601年)7月1日、徳川家康との交渉のため景勝と兼続の上杉主従は上洛します。大坂に入った直江兼続は、家康の重臣・本多正信と下交渉を行います。その席で本多は兼続に単刀直入に切り出します。
 「領地は置賜と陸奥信夫、伊達である。それでよしとせよ」。「ありがたきしあわせ」。兼続は一も二もなく平伏して答えます。

 山国かつ豪雪地帯である長井の庄(置賜)の他に、信夫と伊達が含まれていたことは、不幸中の幸いと言うべきでした。信夫、伊達は現在の福島県県北地方に当たります。いずれも旧伊達藩の領地で、阿武隈川が流れ、みちのく奥大道が通っています。地味も豊かで、交通の要衝の地でもあります。源頼朝が平泉の奥州藤原氏を攻めた時は、鎌倉の軍団がここを通ってまっしぐらに平泉を目指し北上していきました。
 会津時代の上杉の領地は、会津、置賜92万石、佐渡13万石、出羽庄内14万石という広大な領地を有する120万石の大大名でした。それがこのたびの家康の裁定により、かつては兼続に任されていた置賜、信夫、伊達の30万石に減封され、四分の一にまで削減されてしまったのです。
 しかし廃絶だけは免れ、家臣たちの生活が何とか可能な“思いやり”のある裁断と言うべきでした。

 しかしこれには家康の深謀遠慮があったのです。上杉上洛に当たって家康は本多正信に告げます。「謙信公の上杉じゃ。なくすわけにはいかぬ」。家康は続けます「それにのう、上杉の軍勢はなかなか強い。敵に回すよりは味方にして使うべし」。家康のこの一言で上杉の家名断絶は免れることになったのです。
 さすがは徳川250年の江戸幕府を開いた家康の大度量と言うべきです。しかし家康には老獪な読みもありました。家康が率いた東軍が勝利したとはいえ、大坂には65万石に減封された淀殿と秀頼親子が健在です。そんな折り「上杉断絶」を打ち出せば、上杉の軍勢は死に物狂いで歯向かってくる上、不満を持つ武将たちがそれに呼応すれば、第二、第三の関が原が起きることは必定です。「天下統一」という家康の大野望は潰(つい)えてしまうのです。

 ともあれ比較的穏便な沙汰が下され、領地に戻った兼続は同年11月中に家臣団を米沢と信夫、伊達に移しました。
 上杉家臣団を形成していた士族は6000名を数えました。そのうち1000騎が伊達、信夫に配置され、5000騎が米沢(置賜)に移りました。(なお米沢市に残る古文書には、移ってきたのは6005騎との記述もあるようです。)加えて越後以来の寺社や職人も移住し、その数は3万人にも達したと言われています。
 移住は冬季に当たり、昔から冬の難所である板谷(いたや)峠越えの苦労は筆舌に尽くしがたいものでした。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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『ココログ白書2009』について

 確か去年はなかったと思いますが、当ブログが所属しております@niftyココログが『ココログ白書2009』を発表しました。(以下『ココログ白書』と略)
 この記事をお読みの方は、ココログなど既にマイブログをお持ちの方、あるいは興味はあってもまだの方、今後とも持つ予定のない方、といろいろな方がおいでのことでしょう。今回は「ブログ」に関する記事ですから、以下は興味のある方のみお読みください。

 まず参考まで。いわゆる「白書(はくしょ)」とは、我が国の中央官庁の編集による刊行物のうち、政治経済社会の実態及び政府の施策について、国民に周知させることを主眼として刊行されるものを言います。政府の施策についての現状分析と事後報告を中心とした公表資料であり、統計、図表、法令などのデータ集は含まれません。
 我が国において初めて作成された白書は、昭和22年(1947年)7月4日発表の「経済実相報告書(経済白書)」です。以来各官庁がそれぞれに刊行していますが、主なものとしては「経済財務白書」「防災白書」「青少年白書」「国民生活白書」「警察白書」「原子力白書」などがあります。
 なお白書に対して、外務省が出している「外交青書」がありますが、これは我が国の外交の記録を綴ったもので、「青書(せいしょ)」と銘うってはいるものの白書の一種です。 (参考:フリー百科事典『ウィキペディア』)

 このように「白書」となると膨大なページ数の仰々しい報告書の類いを思い浮かべてしまいますが、『ココログ白書』に限っては決してそんなことはありません。以前ココログの全ブロガーを対象にアンケートした結果を、ココログスタッフが6項目に分類し、読みやすくまとめたものです。
 そういえば思い出しました。確かついこの前、【ココログからのお知らせ】でそんなアンケートの呼びかけがありましたっけ。私はその時アンケート内容にざっと目を通し、『そのうちに…』と、ほっぽっていたのでした。そうしたらいつの間にか集計は終了し、今回このような白書という形となってまとめられたわけです。

 『ココログ白書』は、「人となり編」「ブログ編」「ココログ編」「アクセスアップ編」「有名人編」「ココログ始めよう ! 編」の6編からなっています。
 現にこうしてささやかながら「ココログブログ」を開設している一員として、今回の白書はけっこう関心がありました。しかしとても仔細にはご紹介できませんので、以下では「人となり編」の集計結果を中心にご紹介してみたいと思います。

 「人となり編」。まず「あなたの年齢は?」という質問には、10代から50代以上までの5段階世代の割合が数字とグラフで示されています。10代が5%、そしてこの私も該当する50代以上が27%というのには驚きです。50代以上の中には、80歳以上の方もおられるようで脱帽です。30代以上が8割以上を占め、ブログは決して若者だけのものではない、けっこう年配者が自身の防忘録、コミュニケーションツール、意見発表の場としてブログを活用しているようすがうかがわれ、私も意を強くした次第です。
 ただし今回のアンケートはPCサイトの企画であり、ケータイサイトでもアンケートを受けていたら違った結果が出たかもしれないとは、ココログスタッフの感想です。

 「あなたの性別は?」の質問では、男性が59%、女性が41%という結果でした。ブログという分野でもとにかく女性進出がめざましく、私は漠然と『ほぼ同数なのでは?』と思っていただけに意外な感じです。
 また「どこに住んでいますか?」については、やはり東京が19%と最も多く、次いで我が神奈川の12%、以下大阪7%、埼玉6%、千葉6%でした。逆に鳥取と大分は0人だったようです。両県にお住まいでこれをお読みの方は、「それじゃあ、私が(オレが)やってみようじゃないの」と、早速ココログブログを始めてみてはいかがでしょうか?

 「ご職業は?」。会社員が最も多く38%、(私も該当する)専門職・自営業は20%、経営者・役員は4%、販売・サービス業も4%と、有職者が6割以上に上ります。厳しい時間的制約の中、皆さん日々のお勤めをきちんとこなしながらブログ記事の更新などをしておられることでしょう。同様な立場の者として、大いに励みになる数字です。
 
 「ブログを始めてどのくらいですか?」。これは1年未満から5年以上の5段階での質問ですが、何と驚くべきことに5年以上が30%と最も多いのです。ココログがブログサービスを開始してから6年だそうです。ということはこれらの方々は、それと同時くらいにブログをスタートされた方々なのでしょう。そして次に多いのが、4年未満の22%、両方合わせたベテランの方々で5割以上です。
 1年8ヵ月くらいの私など、まだまだ駆け出しの部類です。とてもえらそうなことは言えません。と言いつつも、『これは自分のブログなんだから』とばかりに、記事の中ではけっこう「エラソー」なことを述べております。

 まだまだ興味深いアンケート結果がありますが、紙面の都合でこの辺にさせていただきます。興味がおありの方は、『ココログ白書』に直接アクセスしてごらんください。

 (大場光太郎・記)

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時の話題(3)

 美人時計?

 先日たまたま民放のある報道番組を見ていましたら、「美人時計」という耳慣れないことを特集していました。何でも同ウェブサイトにアクセスすると、文字通り美人がその時々の時刻を知らせてくれるというもののようです。(アクセスは無料)
 同番組では撮影の一こまなども紹介していましたが、なるほどとりどりの若い美女が、街角で小さな黒板を手に持って立って、その黒板に時刻がチョークで手書きされているのです。
 
 私はそれまでまったく知りませんでしたが、今年年初から注目されているのだそうです。何でも、口コミで広まって今では月間アクセスが2億件を超えるほどの大ヒットだそうです。何しろ時刻を確かめついでに、美人の顔も見られるわけですから、世の男性諸氏とすれば一石二鳥いなそれ以上の付加価値があるものなのかもしれません。とにかく何分かおきに新たな美人と出会える楽しみがあり、「癒される」と評判で、職場のパソコンで使っているビジネスマンも多いとのことです。

 表示はさすがに秒単位とまではいかず、1分ごと。1人の美女が4分間を担当するようです。つまり1人4回分登場するわけですが、もちろん背景、ポーズなどは変えてあります。ざっと計算しますと、60(分)×24(時間)÷4 = 360人。この「美人時計」には、都合360人もの「美人」が登場することになります。
 すべてがストリートスナップの上、登場する「美人」は、いわゆるプロではなく女子大生やОLといった素人女性です。画面でもその素人の初々しさが出ていて、それがかえって「受ける秘訣」ともなっているようです。しかし中には、年のせいで美人についてのストライクゾーンが広い私でも、『えっ。この娘(こ)が美人?』という例もあるようです。

 最近は「美人流行(ばや)り」です。特にマスコミは、何かというと「美人」という形容をつけたがります。いわく、美人ホステス、美人代議士、美人ゴルファー、美人看護師…。例の結婚詐欺事件の木嶋佳苗も、本当は「美人詐欺師」とでも形容したかったところでしょう。ところがいまだに顔写真を公表していないものの、素顔を知っているテレビ局としては、どうしても「美人」とは銘うてなかった。それで視聴者の関心が急速に薄れてしまった、というような本当かウソか分からない話もあります。
 
 そういうご時世ですから、名前は忘れましたが何とか氏は、それにあやかってこのアイディアを思いついたということなのでしょうか?それにしても「美人」に「時計」という組み合わせは、思いつきそうでなかなか思いつかないことです。こういう意外なコラボレーションの中から、ヒット商品は生まれてくるというかっこうの見本のようなものです。
 美人時計の成功を受けて、今月25日からiPhone/iPod touch向け時計アプリ「パリ版・美人時計」の提供も開始したようです。同じように美人パリジェンヌがパリの街角で黒板を手に持って…。

 今は何でも「便乗の時代」です。美人時計のヒットにあやかって、類似コンテンツが続々登場しているようです。美人時計が男性向けとすれば、その女性版ともいえる「美男時計」やギャル版の「ギャル時計」。レースクイーンが登場する「サーキット時計」などが既に配信中だそうです。
 その上極めつけが「AV時計」だそうです。もちろん無料で、Fカップ美女から40代の美熟女まで、数人のAV女優が1分ごとに入れ替わり立ち代わり現われるようです。某ITジャーナリスト氏によると、同じ女優でも見るたびに露出度やポーズが変わるから飽きないそうです。

 美人時計からとんでもないものにまで話が脱線しました。いずれにしても、この長期化する不況の時代、同業者が苦しみあえいでいる中で稀にずば抜けた業績を挙げている会社もあるものです。やはり今回の美人時計ではないけれど、その差を生んでいるのは、ちょっとしたしかし意外に思いつかない「アイディア」の差なのかもしれません。
 私もこの年末年始は無い知恵を絞って、少し創意工夫をしてみるとしますか。

 (大場光太郎・記) 

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薬物汚染の拡がりを憂う(40)

 「オレのことはしゃべるなよ」。森親子絶体絶命か !?

 同時に逮捕された泉田勇介容疑者(31)が、「押尾にMDMAを譲渡した」と肝心なことを供述し始めたにも関わらず。観念して“完落ち”かと思われた押尾学容疑者(31)は、捜査員が泉田の自供内容をぶっつけても、のらりくらりと話す内容が二転、三転して思うように調書が取れないのだとか。「いろいろな犯罪者を取り調べてきたけど、押尾みたいなウソつきは初めて」と、捜査員も頭を抱える状況のようです。別の事件で拘留中の木嶋佳苗被告(35)といい勝負をしているようなのです。
 押尾学の再拘置期限は年末の28日までだったかと思いますが、それまで果たして保護責任者遺棄罪さらには同遺棄致死罪の立件にまで持ち込めるのかどうか、またまた怪しい雲行きになってきたようです。

 話は変わってー。毎度お伝えしているとおり、押尾事件は「闇、謎の深い」事件です。その中の重要な陰の主役である、森元総理(72)と長男森祐喜(41)が、同事件で変死した田中香織さん(当時30)と以前から親密な関係だったことをうかがわせる写真が、ネット上で出回っていることを『本シリーズ(36)』でお伝えしました。
 ところが今度は、それに輪をかけるような衝撃的な新情報が飛び込んできました。事件発覚直後、森祐喜は押尾に「絶対オレの名前を出すな。そうすれば出所後も食いっぱぐれないぞ」と恫喝し、押尾学の信頼筋に2億円を渡したというのです。

 もしこの情報が本当なら、森祐喜は何でそんな巨額の金を押尾サイドに渡さなければならなかったのか?よほど真相を知られたくない特殊事情があったのに違いない、という話になります。森祐喜の知人の「祐喜は事件当日現場には立ち寄らなかった」という話は、俄かに信じられなくなってきます。
 そもそも最初の逮捕時(8月3日)から、事情通の間で「押尾学は身代わりだ」という説がまことしやかに囁かれていました。誰の身代わりか?こうなるとやはり森祐喜しかいなくなります。そのことを踏まえて、事件発生時六本木ヒルズレジデンスB棟2307号室で何があったのか?以前も想像したことがありましたが、今回の新事実を加えて改めて想像し直してみたいと思います。

 これまで見てきましたとおり、押尾学と森祐喜や北島康介らは遊び仲間であり、特に西麻布の問題の薬物クラブ「エーライフ」の常連だったとも言われています。事件当日の8月2日午後押尾は、森祐喜のために田中香織さん(当時30)を2307号室に呼んだと思われます。
 それからのことはさまざまに考えられます。その一つとして、最初は押尾も一緒にいて田中さんに合成麻薬MDMA(別名「エクスタシー」)を飲ませて、森らと複数プレーを楽しんだ。その後頃合を見計らって押尾は、森祐喜と田中さんを残して同室を後にした。
 というのも最近分かったことには、押尾は当日初めから二部屋の鍵を持っていたようなのです。一つは事件現場となった2307号室(B棟23階7号室)と、事件後も逃げ込んだとされる同じB棟最上階にある4201号室(42階1号室)です。押尾はこの部屋に移ったものと思われます。

 ところで未確認ながら、遺体となった「田中さんの顔面はボコボコに腫れ上がっていた」という情報があります。また肋骨も折れていて、これは押尾が「人工呼吸をして折れた」と後に供述しました。
 実は、森祐喜の「DV癖」は以前から有名なのだそうです。持って生まれた性癖なのか、実母(つまり森元総理婦人)も息子のDVにはだいぶ悩まされていたと言います。また祐喜は、DVが原因で元妻と‘01年(平成13年)11月離婚しています。まさかSMプレーの延長としての「DVブレー?」などというのはないでしょうが、こうなると当日の田中さんの相手は森祐喜だった可能性が高まります。

 そして途中からか、○○(28)そして今回新たにその存在が出ることになる小○元総理の兄の息子がそれに加わった可能性があります。というのも以前ご紹介しましたとおり、司法解剖の結果田中さんの体内から「複数の男性の体液」が検出されたと言われ、一説には複数とは「3人」そしてその中の1人の体液は○○と特定されているというような情報もあるからです。
 いずれにしても、相当量のMDMAを服用した田中さんの容態が急変します。慌てて森祐喜らは最上階にいた押尾を呼び戻しました。そして“オロオロ協議”の結果、総選挙期間中でもあり森祐喜や小○兄の息子らの名前が出るのは絶対まずい。それに金メダリストで爽やかイメージ、一時は国民栄誉賞候補に名前が挙がった○○もまずい。そこで森らが無理やり一番無難な押尾学にすべての罪を押し付け、「絶対オレの名前を出すな…」という恫喝になったのではないでしょうか?(あくまでも仮説です。)

 事件を知った森元総理は、対立候補の田中美絵子から猛追を受けていた時期であるにも関わらず、急遽石川県から上京したと言われています。その時に巷間言われているような「事件もみ消し圧力」を指示したのでしょうか?
 
 なお問題の「2億円」の行方についてです。一部情報では、JRA(中央競馬会)の馬主でもある、パチンコ製造・卸会社「フィールズ」の山本英俊会長(54)によって、当たり馬券という形で支払われ、そのカネは押尾と離婚したはずの矢田亜希子(28)の口座にあるというのです。これまたびっくり仰天の話ですが、同情報では、2人の離婚は実は「偽装」であるとしています。余談ながら、森元総理の選挙区である石川2区は、パチンコ業界との結びつきが特に強いとの指摘もあります。
 
 警視庁捜査1課は、新春早々にも森祐喜に対して事情聴取する方針との情報も洩れ伝わってきています。

 (大場光太郎・記)

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続・2012年12月22日

 本記事は、1年前の『2012年12月22日』記事の続編です。前回記事では、2012年12月22日という日付が、世界中の心ある人たちの間で密かな関心を呼んでいますよ、というようなことを述べさせていただきました。(また本年記事の中でも、少しそれに関する情報を交えたものもありました。)
 以来早いもので1年が経過し、その日まで後3年を残すのみとなりました。昨年は世間的注目もさほど高くなかったものの、同記事には関心のお持ちの方が今でも時折りアクセスしてこられます。

 ところでちょうど今、映画『2012』が公開中です。私はまだ観ておりませんが、同映画は解説によりますとー、
 「マヤ暦による2012年終末説を題材に、『インディペンデンス・デイ』『紀元前1万年』のローランド・エメリッヒ(監督)が手掛けるディザスター・ムービー。地球滅亡を目の前になすすべもない人々が、巨大な自然災害から必死に逃げまどう姿を描く。偶然にも地球の危機を知ってしまうリムジン運転手に『ハイ・フィディリティ』のジョン・キューザックが扮し、大事な家族を守るために奔走する。大地震、火山噴火、津波など最新CG技術による迫力ある映像に注目。」 (『Yahoo映画』より)

 要するに2012年12月22日を、「地球滅亡の日」と把え、ハリウッド映画お得意の大パニック映画に仕立て上げた作品のようです。私も同映画の「オフィシャルサイト」のダイジェスト映像をのぞいてみましたが、確かに破壊映像の凄まじさは『インディペンデンス・デイ』を遥かに凌ぐものがありそうです。
 「2012年12月22日問題(以下は「2012年問題」と略)」を少しは真剣に把えている私としては、『ちょっと困った映画だなあ』という印象です。確かにこの映画が全世界で公開されることによって、「2012年問題」への関心が高まることは大いにけっこうなことです。しかしそれがかつてのノストラダムス予言の時のように、「地球滅亡」ということは当然に「人類滅亡」というように把えられてしまうのが困るのです。その日に対しての「恐怖」が“人類の集合的無意識”として刷り込まれることが。(単なる興味本位で把えられることもまた…)

 以前から関心を持ってこの問題を探ってきた私としても、この日付に「何が起きる」と断定はできません。当然「何も起きやしないさ」という見解の方もおられるでしょうが、私は真に想像を絶することが起きる可能性は高いと考えています。しかしこれが何も、「地球滅亡」「人類滅亡」である必要はありません。 
 「人類進化」上2012問題で、マヤ暦予言の大枠は変わらないものと考えます。しかしだからと言って、大破局的最悪の事態に遭遇しなければならないというものでは決してないと思うのです。つまり2012年問題にしても何事にしても、人類の集合的無意識のいかんが大きく作用するのであって、未来は多分に流動的要素があるからです。
 人類総体の意識レベルによっては、まこと麗しい「真・地球時代の幕明け」とすることもできれば、この映画のような大カタストロフィー(大破局)を招来させてしまうことにもなります。結局選ぶのは私たち一人一人です。

 「2012年12月22日」という日付は映画解説にもありましたが、「マヤ暦」から来ているものです。同暦は古代マヤ人が数千年前に残してくれた、グレゴリオ暦という「狂った暦」とは根本的に違う、本当の意味で自然や宇宙と同調できる暦です。(研究者の中には「マヤ人は太陽系外から飛来した宇宙人だった」と大真面目で論じている人もいます)。同暦の解読の結果、この日付で「すべてが終了する」と言われているのです。
 しかしこれは繰り返しますが、人類滅亡を意味するものではありません。むしろ「現歴史が終了する」と把えた方がいいようです。現歴史において未来永劫存続するものと考えられてきた、資本主義システム、貨幣経済システム、世界システム、社会システム…、これら宇宙のリズムに逆らって、必然的に自然破壊を加速するだけの欠陥システムが崩壊するということです。リーマンショックなど現下の経済の危機的状況は、むしろ必然の過程とみるべきなのです。

 そしてなお、事はそれらの外的な崩壊のみにとどまらず、変化、変容は私たち各個々人の深部にまで及ぶということです。むしろこれこそが本質と言って過言ではないのです。その日に向けて、地球全体が「アセンション(次元上昇)」の真っ只中とみられることから当然そうなるわけです。
 今回の「ガイアアセンション」に、唯一の例外を除いたすべての動植物が、その変化に素直に従っています。それに逆らっている唯一の例外こそが、「ホモ・サピエンス(知恵ある生物)」と自画自賛してきた、私たち人類なのです。これには、最肝要であるべき「2012年問題の真の意義」を決して報道しようとしない、「闇の勢力」のコントロール下にある世界中の主要メディアの責任が大きいのです。しかしそうばかりも言っておられません。というのも比較的エゴの少ない人たちには、とっくの昔に何らかの方法で「アセンション情報」は伝えられているからです。

 「アセンションは一日ごとに、一つの思いごとに起こっています」 (ある高次元存在からのメッセージより)
 それらの方々は、その間「準備期間」を与えられてきたわけです。何の備えもなしにその日を迎えるとしたら…。私ならぞっとします。ともかく私たちに残された準備期間は、わずかに「あと3年」です。しかし考えようによっては、「まだ十分間に合う」とも言えると思います。「2012年12月22日」を見据えて、心静かに急ぎたいものです。

 (注記) かく言う私自身、あまり「(心的な)備え」をしていません。ただこの面についての多少の知識ならあります。あまりよくまとまっていませんが、来年から不定期で『アセンション情報』というようなタイトルで、皆様にシェアしていければと存じます。アクセスは期待できないかもしれませんが、当ブログの中で最重要記事となることでしょう。

 (大場光太郎・記)

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冬至あれこれ

   冬至日の小川に鴨の遊びをり   (拙句)

 本日12月22日は冬至です。この日北半球では太陽の南中高度が最も低くなり、一年のうちで昼が一番短く夜が最も長くなる日です。「陰(いん)が極まった日」とでも言えるでしょうか。しかし、
   冬来たりなば春遠からじ    シェリー
 また「陰極まれば陽(よう)となる」とは、古代中国以来言い習わしてきた言葉です。亡母が「冬至を過ぎっと、畳の目一つ分ずつ日が伸びでいぐなだど」と、よく言っていました。世の中も季節も厳しいものがありますが、「一陽来復」を信じてやがてくる春を待ちたいものです。

 「冬至」は民族の違いを越えて、古代から一年のうちで最も神聖な日とされてきました。例えば12月25日にイエスキリストが生まれたというのも、イエスが生まれた月日は正確には分かっておらず、古代エジプトなどの「冬至=復活」という考えを習合的に取り入れて、冬至に近いこの日を、メシア(ギリシャ語、「救世主」「キリスト」の意)としてのイエスの誕生日としたというような説もあるようです。
 また正確な記憶ではありませんが、世界各地の神殿や仏殿の中には、冬至の太陽が御神体や御仏に直接射し込む方向で造営されたものもあるようです。

 私などはとても真似できませんが、世界中の心がけの良い人たちは、今でも冬至や夏至の太陽が昇った時刻、そして月が昇った時刻に互いに集い合い、祈りや瞑想を捧げることを習慣にしている例もあるそうです。
 おそらく、そういう努力によってはじめて「宇宙的な潮流」とシンクロ出来ると思うのです。誇り高き“現代人”たる私たちは、このような自然的時間の推移や節目を深く思いみることも、ましてや同期、同調しようなどとは夢考えもしません。本当にそれでいいのだろうか?一方で人知れずそのようなご努力をされている方々のことを思うにつけ考えさせられます。
                        *
 きょうの冬至当地ではすっきりした冬晴れの一日となりました。ここ数日列島各地は、この冬一番の寒波の襲来で、各地に大雪を降らせ思わぬ被害に見舞われた地方や人々も出たようです。心よりご同情申し上げます。
 当地(厚木市)は雪こそ降らなかったものの、連日冷たい北風が吹きつけ、寒い冬を体感させられました。

 たださしも居座り続けた大寒気団も、きょうくらいから少しずつ緩みはじめたようです。確かにきょうはだいぶ寒さが和らぎ、“小春日和”と形容してもいいような一日でした。そういえばいつも通る中津川沿いの道を夕方通った時、対岸の工場の二本の大きな煙突からもくもくと白い煙が出ていましたが、煙は横に倒れて北へ北へと流れているのです。つまりきのうまでの北風ではなく、きょうに限っては春先のような南風だったわけです。

 昼過ぎ所用でお隣の伊勢原市に向かいました。途中からいつものとおり、小田原厚木道路側道を右折して伊勢原市街地への道を走りました。何度か述べましたが、小田急線の線路までの手前数百メートルくらいは、昔ながらののどかな田園風景が一帯に広がっています。
 晩春には早苗、盛夏の候は一面に青々と波打つ青田。しかし冬の今は、一面の枯れ切った冬田が見渡せるだけです。

 冬至の陽光に照らされて、道端の古ぼけた墓石くらいの“庚申塚(こうしんづか)”が輝いて見えています。道路の左側に沿って、土手幅数メートル未満の小川が平行して流れています。早春にはこの小川は、土手といわず川中の土の部分といわず、菜の花のまぶしい黄色がいっぱいに咲いていますが、今では蕭々たる枯れ葦が見られるばかり。
 川の細った流れが陽にキラキラ光って流れています。と、流れの先に3、4羽ほどの鴨がうずくまっている黒い影がチラッと認められました。

 目を真西に向かう道の正面に戻して仰ぎ見ますと、大山の姿が大きく飛び込んできます。夕方になるとキリッと引き締まって凛とした威容で見えますが、小春の昼日なかでは、心持ち霞がかって少し眠た気な感じに見えました。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(39)

 泉田勇介が自供を始めた?

 まず前回(38)記事の補足をー。押尾学ら3容疑者は、やはり拘置期限を10日間延長されたもようです。そして当初は3人とも容疑を否認していて、一時はこのまま不起訴かと危ぶまれたました。しかしここにきて事態は一変、今回の件で鍵を握ると見られていた泉田勇介容疑者が少しずつ自供を始めているというのです。

 泉田は逮捕前『週刊文春』の取材で、自身の薬物疑惑については否定しながらも「俺は今まで押尾をかばってきたのに、押尾に裏切られた」と恨み言を述べていたと言います。ただ泉田はその際、「押尾は田中さんからクスリをもらったと言っていた」と押尾をかばってもいたのです。
 対して押尾からは連絡がなく、それどころか「泉田にはめられた」と共通の知人に言って回っていたといいます。これで泉田は『押尾に裏切られた』という気持ちになり、今回の自供につながったのでしょうか?また事実を認めて話せば、20日間の拘置期限の年末ぎりぎりでシャバに出られるという計算も働いたのかもしれません。
 情報通によると泉田は、自分が押尾にMDMAを渡し、さらにそれを誰に譲って“ドラックセックス”したか知る限りを自供し、さらに田中香織さんが変死した後の押尾の言動についても供述しているもようです。これにはさすがの押尾学も観念したようすだということです。

 PJの野口美佳、毎日新聞社を提訴

 話は変わって、ピーチ・ジョンの社長野口美佳の近況についてです。
 野口美佳(44)は、「押尾学に加担したかのように報じられた」として、毎日新聞社と記事執筆者を提訴したとのことです。「1100万円の損害賠償」と「紙面での謝罪広告掲載」を求める民事訴訟です。
 既報のとおり野口は、今月2日のブログ再開と共に、「良くない噂」を流したマスコミと争う姿勢を見せていました。ついにその口火が切られたかっこうです。

 提訴は、押尾事件を報じた『サンデー毎日』10月11日号の記事に対してのようです。訴状によれば、同記事で押尾学と一緒にいて田中香織さんが変死した六本木ヒルズのマンションの部屋を「野口社長が自由に使わせていた」と報じましたが、野口側はこの内容を虚偽として「事件に加担したかのような印象を与える内容で、社会的評価の低下は明らかだ」と主張しています。これに対してサンデー毎日の山田道子編集長は、「請求は棄却されるものと考えている」と、法廷闘争に向けて自信のほどをのぞかせています。

 以前も述べましたとおり、野口美佳vs毎日新聞、徹底的に争えばいいと思います。本当は、この法廷闘争劇をテレビなどが大々的に取り上げてくれれば俄然関心が高まるのですが。何せPJからの黒いカネの毒が回っているテレビ各局がどれだけこの件をニュースとして扱うのか、あるいは無視するのか?それも注視していきたいものです。
 なおこれを扱ったあるサイトには、36件ものコメントが寄せられました。1、2カ月に1件くらいの寂しいコメントの当ブログなどは羨ましい限りです。それはともかく、中にはずいぶん核心を衝いたコメントも多くありました。36件のうち、野口美佳擁護コメントは1件もありません。
 無断ながら、その一部を順不同で、可能な限りご紹介してみたいと思います。なお段落を適宜詰めたり、一部省略したりしています。

<某サイトのコメントから>
(無題) PJ早くなくなれば良いのに。ワコールも早くPJ追い出してください。みんなもPJ買わない方が良いよ。売上げで何してるか分からないよ。
売春を操作しているのかは分からないけど、自分のマンションで女性が亡くなった事に対して逃亡w女性の味方ですか?むしろ敵でしょ。 「女の恥」さん

(無題) 「心からの応援と共に貸したつもりの場所」 なぜ応援にヒルズのマンションが必要なんだ?自宅以外の部屋を持たせる事が、どうしてどう仕事の応援になるんだ。苦し紛れにもほどがある。  「名前不明」さん

(逆ギレか?) 自由に部屋を使わせていたんじゃないのなら、かってにお塩が部屋にあがりこんだっていうのか?誰もそんなの信じないし、報道される前から、野口が貸してた複数の人が、ヤリ部屋として使ってたと皆知ってるよ !  「ひろひろ」さん

(無題) 妻子もちの男にどーして部屋を与えるんだこのババア  「モツ」さん

(無題) 勝てると思ってるのかな。絶対無理でしょ。自分の愚かさを露呈しているようなもんだよ。自業自得。(以下略)  「名前不明」さん

(無題) 神は裁きを下す 野口美佳逃げんなよ  「一般人の逆襲」さん

(なにをやっても) もう二度とPJの商品は買わないな。カタログ見てもテンション上がらないでしょう。ショップの袋も恥ずかしくて持ち歩けないし。  「うーん」さん

(醜い) 全部消せるつもりでいるのか、こいつは?ネット社会をわかってないですな。  「天宮アイル/山口セロニアス」さん

(無題) …思いのほか世間が忘れてくれないから行動を起こしたんでしょうね。世間に分かってもらう前に説明責任があると思う。裏で噂が駆け巡るばかりで、テレビでまったく報道されない不自然さ。信じられるわけがない。  「世間はばかじゃない」さん

(野口さん) 今度は、ゆすり?被害者面して、何なんだ?悪いことを、悪いと認めないで、社長を続けていくつもりなのでしょうか… 誰もが、冷めた目で、見ています。早く捕まって、罪を償ってください。 下着も、色褪せて、汚れたものに見えます。  「らら」さん

(押尾を訴えるのが筋) 押尾に損害賠償するのが先だろ。(下略)  「かめ」さん

(無題) 野口はサイテーだな。こいつのせいで今回の事件は起きたんだよ。(中略)野口がいなければこのような事件も起こらなかった。  「品川商事」さん      (残念ながら、以下割愛します。)

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(38)

 麻薬取締法違反(譲渡)容疑で7日再逮捕された押尾学容疑者(31)、同時に逮捕された遠藤亮平(28)、泉田勇介(31)両容疑者らの拘置期限は、確か今月の18日までだったかと思います。一応の期限は過ぎてしまったものとみられますが、釈放されたという話を聞かないところを見ると、拘置を延長して取調べ続行中ということなのでしょうか?

 逮捕直後は、3人とも肝心の容疑事実については否認しているとのことでした。その後依然として否認し続けているのか、それとも少しずつ容疑事実を認め始めているのか?捜査に進展はあるのかないのか?ここのところ彼らに関する新しい情報がさっぱり入ってきません。これは警視庁、東京地検、東京地裁など関係機関による、厳しい「情報戒厳令」の一つなのでしょうか。小沢一郎現民主党幹事長関連政治団体の西松建設献金疑惑に対しては、1年近くにもわたってネチネチと執拗に、時にはとっくに時効を過ぎた古い事実を蒸し返してリークしているのとはえらい違いです。

 それに再逮捕以来、テレビなど各マスコミも押尾関連を取り上げません。これには理由があるようです。ズバリ「押尾では視聴率が取れない」からだと言うのです。再逮捕時各局とも大騒ぎで取材に駆けつけ報道したものの、軒並み視聴率を落としたらしいのです。そこで各局とも押尾事件からは手を引きはじめているというのです。
 国民視聴者からすれば、「押尾学というダーティイメージの三流役者の件など、もうけっこう」という気分があるのかもしれません。

 しかし「ちょっと待ってくださいよ」ではないでしょうか?同事件発生時から、テレビ各局などは完全に腰が引けた報道に終始してきました。以前お伝えしましたとおり、「この事件には複雑な問題があるから、報道は手控えるように」と上層部から通達されたテレビ局もあったよし。他局とて似たり寄ったりでしょう。そしてほどなく起きた、「押尾事件隠し」としての“のりピー失踪”を、これ幸いとばかりに一斉にそっちの方にシフトしていったのです。
 とにかく押尾事件は、単に薬物事件というよりも、政界、官界、財界、芸能界、スポーツ界、闇社会など、今の社会の腐敗を暴きこの国を再生させるための「一丁目一番地」のような重大事件です。この事件の背後には、とれほど巨大な闇があるか各マスコミは当初から分かっていたはずです。
 
 マスコミ界は、最初から「事件性なし」として早期決着を図ろうとした麻布警察署と同じ穴のムジナというべきです。各方面とのまずい癒着があるから、いざという時「正義の言論」「真実の報道」ができなくなってしまうのです。
 だから新聞、テレビでは、今もって事件が発生した部屋の所有者(借り主)のピーチ・ジョン社長野口美佳の名前も、そこに入り浸っていた森祐喜や北島康介なども一切名前が出てきません。ましてや押尾事件の「もみ消し圧力」に動いたと思われる森元総理などや、押尾学の背後にいるフィクサーたちの名前など知られるはずがありません。彼らの「やり得」「言い得」を許しているマスコミ界は、政権交代以前の旧自民党的悪しき体質からまったく脱け出せていないと言わざるを得ません。

 新聞、テレビなどが真実を報道しない以上、事件発生時六本木ヒルズの密室にいたのは押尾学と変死した田中香織さんだけ、事件は2人の間だけで起き、その後押尾の連絡を受けて遠藤や泉田らが駆けつけたくらいの認識しかないのではないでしょうか?だから「これ以上押尾関連を報道されてもつまらない、もういい加減イヤになる」ということになるのです。
 これが最初から押尾事件の真実をきっちり伝えていれば、視聴者もいかにこの事件の闇が深いものであるかが分かり、物情騒然、話題沸騰、捜査当局への真相解明圧力は信じられないほど大きなうねりとなっていたことでしょう。

 それにいざ再逮捕はしたものの、警視庁捜査1課は「本当に大丈夫なの?」と心配になってきます。当初は「逃げ得は許さない」と息巻いていたものの、遅々として進まない捜査状況に不安を覚えます。保護責任者遺棄、同遺棄致死罪での立件など遠のいた感じです。年の瀬もいよいよ押し詰まった頃、「嫌疑不十分で3人とも釈放」「今年のことは今年のうちに。はい、これで幕引き」などとならないことを切に祈るばかりです。

 (大場光太郎・記)

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米沢上杉藩物語(2)

 上杉藩米沢移封までの置賜地方の歴史

 和銅5年(712年)置賜地方は、それまでの陸奥国(むつのくに)から出羽国(でわのくに)と変更された国の一地方となりました。また平安末期には奥州藤原氏の支配下に入りました。
 
 ついでですから脱線しますが、奥州藤原氏のことを少しー。奥州藤原氏の遠祖は藤原頼遠(よりとお)とされ、平忠常の乱(長元元年-1028年)において平忠常側についた頼遠が、陸奥国多賀郡(現在の岩手県)の官吏に左遷されたものと推測されています。頼遠の子藤原経清(つねきよ)の時代、陸奥国内に荘園を経営するなどして勢力を拡大していきました。なお奥州藤原氏は、当時の藤原摂関家から係累を認められる家系ではあったようです。
 さて11世紀半ば、陸奥国には安陪氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していました。安陪氏、清原氏とも東北地方の先住民系豪族だったようです。

 このうちの安陪氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年にわたって戦われたのが「前九年の役」でした。同役では安陪氏が終始優勢に戦いを進めていたものの、最終局面で清原氏を見方につけた源頼義が安陪氏を滅ぼしました。安陪氏側についた藤原経清も斬首されました。
 しかしこれで、安陪氏、藤原氏の血筋が絶えたわけではありませんでした。殺された安陪頼時の娘の一人が藤原経清に嫁しており、経清死後清原武則の長男・武貞に再嫁することになりますが、この時経清の息子も武貞の養子になったからです。(安陪頼時の外孫でもある)経清の子は長じて、清原清衡(きよはらのきよひら)を名乗りました。

 永保3年(1083年)清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生します。この内紛にまたまた源頼義の子の源頼家が介入してきました。内紛は真衡の死をもっていったんは終息しましたが、源義家の裁定によって清衡、家衡に3郡ずつ分割継承されることを家衡が不服とし、清衡と家衡との間に戦端が開かれることになりました。
 源頼家はこれにも介入し、清衡側について家衡を討ち取ります。この一連の戦いが「後三年の役」と呼ばれるものです。

 こうして清原氏の所領は清衡が継承することになったのです。清衡は実父の姓を再び名乗り、藤原清衡(ふじわらのきよひら)となりました。これが奥州藤原氏の始まりとなります。
 後に藤原氏は清衡の子基衡(もとひら)から秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代100年にわたって繁栄を極めることになりました。都を平泉に置き平泉文化を開花させ、平安京に次ぐ日本第二の都市と讃えられました。
 平家を滅亡した源頼朝の敵視政策により、源義経を匿(かくま)ったなどの咎(とが)により鎌倉勢の討伐を受け、文治5年(1189年)7月藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅亡しました。

 その後鎌倉幕府の智将・大江広元(おおえ・ひろもと)が置賜地方を支配し、広元の子の時広(ときひろ)が頼朝の命により地頭(じとう)となり、後に時広は長井姓を名乗ることとなりました。この頃から置賜地方は「長井の庄」と呼ばれ、近世には「長井郡」とも呼ばれるようになったのです。
 長井時広から8代143年の間、その拠点であった米沢城は長井氏支配の中心地になっていきました。

 その後天授6年(1381年)伊達氏8代宗遠(むねとお)が長井領を侵犯し、時の領主の長井宗広は追放されてしまいました。
 新しい領主となった伊達氏は、主に高畠(たかはた)地方を根拠地として人心を掌握し、高畠城、米沢城をはじめとして、伊達、信夫(しのぶ)、柴田、伊具(いぐ)の諸地方にわたって各地に居城を構え、戦略上転々と本拠を移し、15代晴宗の時になって米沢城を根拠地にしました。ちなみに後に“独眼龍”と呼ばれることになる、伊達政宗は米沢城で呱々の声を上げたのでした。
 しかし恭順した豊臣秀吉の命によって、政宗は天正19年(1592年)25歳で米沢に名残を惜しみつつ、岩出山(現宮城県大崎市)に移って行きました。天正15年米沢城の西、館山の地に築いた外郭の跡は、今も政宗の雄大な計画の名残りをとどめていると言われます。
 政宗まで伊達氏が置賜を領すること、実に10代212年にも及んだのでした。

 次いで秀吉は、奥州の鎮護を考慮して、知勇兼備の名将・蒲生氏郷(がもう・うじさと)を会津に配し、会津に加えて伊達、信夫、長井三郡を与え、75万石の領主としました。氏郷はその将蒲生郷安(さとやす)を米沢城に配置し、3万8千石の領主としました。郷安は近江国(おうみのくに)松ヶ崎の人なので、米沢城を松ヶ崎と言ったとも伝えられています。
 蒲生氏郷は京都で40歳で世を去り、世継ぎの鶴千代がその後を継承しました。しかし彼が統率の才に乏しいのを見た秀吉は、蒲生氏を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を会津に移して120万石を与え、奥州鎮撫の大任を課したのでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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師走だより(2)

   真夜更けのかの天狼(シリウス)の光濃し   (拙句)

 先日の『日々雑感(8)』記事などで取り上げましたとおり、今冬は例年のような西高東低の冬型の気圧配置にはなかなかなりにくい、したがってしばらくは暖冬傾向が続くことでしょう、などと悠長なことを述べました。
 まさかその記事が「冬帝(とうてい)」の目に止まったわけでもないでしょうが(笑)、「ならば、これでどうじゃ !」と言わんばかりに、ここ2、3日にわかに日本列島全体に大寒波が襲いかかってきています。

 北海道や東北はもとより、北陸、山陰など日本海側は言うに及ばず、広島県芸北地方など太平洋側、四国山地沿いなど四国西部地方、さらには九州北部から佐賀県にかけてまで、かなりの積雪に見舞われたもようです。
 いったい急にどうしたことなのでしょう?私など素人にはよく分かりませんが、さすが気象予報士の中には先週末既に、今週後半から週末にかけてのこの寒波襲来をきっちり予報していた人もいたようです。とにかく今現在の列島周辺の気象図を見ますと、いつの間にか中国大陸には高気圧がデンと居座り、方や太平洋上には低気圧がこれまたデンと構えています。東西横綱級の両気圧に挟まれた格好の我が日本列島は、なるほど密に何本もの等圧線が南北に走っている典型的な冬型の様相です。これでは北極、シベリア圏からの大寒気団が列島に思うさま吹きつけられもするわけです。

 某テレビ局の報道番組によりますと、17日早朝の北海道のある地域では、何と氷点下25℃にまで気温が下がったそうです。それがどれだけの寒さかと言いますと、リポーターが雪で覆われた外で防寒服を重ね着してリポートしていましたが、それでもなお立っているだけで震えがくる、体中が痛くなるほどの寒さだと言うのです。ためしにシャボン玉を膨らませてみますと、シャボン玉はあっという間にカチカチに凍りついてしまいます。また外で生卵を割ろうとするも、カチンカチンに凍っていて殻をむくことさえできません。屋外全体が天然の“冷凍庫”状態だと言うのです。
 「寒い」とは言ってもたかが知れている関東地方在住の私などには、およそ想像すら出来ない“極寒地獄”のような感じなのではないでしょうか?

 そう言えば思い出しました。私も18歳までの子供時代を、山形県南部の内陸部・置賜地方で過ごした経験があります。今年初めの『雪に埋もれし我が故郷』シリーズでご紹介しましたとおりの豪雪地帯です。一段と冷え込んでくる真冬の夕方など急に寒さが襲ってきて、外で遊んだりしていますと、むき出しの両耳がちぎれるほど痛くなります。まさか-25℃とまではいかなくても、とにかく氷点下であったことは間違いないと思われます。
 そのため羨ましいことにお金持ちの子供などは、予め狐のふさふさした毛皮で作られたような市販の耳隠し(郷里では別の呼び方があったかと思いますが、忘れてしまいました)をしっかりつけていました。もっとも小学校時分に、顔の前面だけ出るようにして、頭から両耳、両頬がすっぽり隠れ、あごの下で両方から紐で結ぶ黒い色の“冬帽子(?)”を被って登校した記憶もあります。

 山形といえば、夜某テレビ局で鶴岡市大網七五三掛地区内の積雪のようすを中継していました。同地区は今年2月頃から部落全域にわたって地すべりが起こっており、ひどい所では2~2.5mもの段差が生じ、とても住める状況ではなく集落全体が自主非難している地区だそうです。えてして災害は限界集落に集中しやすく、同地区も例外ではなかったようです。
 そこにもってきてこの大雪です。50代の男性は、「今の雪質は湿ってっから、とても雪下ろしなど出来ね。今上さ登っと、つるんとすべっから」と、経験に則って話していました。事実同市内の70代の男性が屋根から転落して死亡したことを、同局では直前に伝えていました。
 県では地すべりの原因を、地下25mの地層にある地下水が流れ込んだために起こったものとしています。とにかく地すべりと大雪のダブルパンチです。とんだ難儀なことと心よりご同情申し上げます。

 また本日昼頃には、別のテレビ局が北陸富山湾岸での寒ぶり漁のもようを中継していました。日本海に面した富山湾沿岸一帯は、11月下旬から12月中旬にかけてぶりが湾内に回遊してくるので、“寒ぶり”のかき入れ時だというのです。そしてぶりの到来を知らせるように、同時に陸風が陸上から吹き込む強い南風となって、複雑な気候をもたらし、雷を伴った荒れ模様の天気となるのだそうです。
 「冬の雷」とはこれまた面妖ですが、これが鳴るとぶりがよく獲れることから同地方では昔から、この時期の雷のことを「ぶりおこし(鰤起こし)」と呼び習わしているようです。そう言えば先月読んだ松本清張の『ゼロの焦点』にも、同小説は冬の北陸が舞台とあってぶりおこしのこともさり気なく描かれていました。
 同地方ではまた新婚家庭の場合、新婦の実家から新郎の実家に獲れたての生きのいいぶりを贈る風習があるようです。一つには新郎の無事息災のためと、もう一つはぶりという“出世魚”にあやかって、新郎が仕事で活躍できるようにという願いを込めたものだそうです。

 本18日当地(厚木市)は、雲は四辺の低い空にわずかに認められるばかり。抜けるような青空が広がる冬晴れの一日となりました。空がそんな具合ならば、街のようすもいつになくすっきり、くっきりと見えています。そのさまは、冬帝(冬将軍)に遣わされた無数の見えざる寒兵たちによって、邪気という邪気がきれいさっぱり祓われてしまったかのようです。しかしその分外に出ますと、ピューピュー吹きつける北風が余計身に沁みます。
 関東南部はさすがに雪こそ降らないものの、列島の脊梁山脈を越えてきたカラカラに乾燥した冷たい空っ風(からっかぜ)が吹きつけて来るのです。
 週間天気予報によりますと、この超冬型の気圧配置はあした土曜日くらいがピークかと。それでも来週火曜日の朝頃まではこの冬型が居座り、それ以降は徐々に寒さも緩んでいくでしょう、ということのようです。

 本夕方日が沈んで少し後の大山の姿を見ました。西空の青い色が残る冴えた夕空を背景に、黒か紫かと見まごう常にも増して引き締まったその秀峰を仰ぎ見ることができました。大山の稜線がなだらかに降りていく左側の低い空には、佳人の美しい眉のような眉月(びづき)も認められました。

 (大場光太郎・記)

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松本清張『ゼロの焦点』

 映画『ゼロの焦点』のあまりの強い印象に、松本清張の原作が読みたくなりました。私にとって逆はあっても、映画を観てから原作をというのは珍しいパターンです。
 映画を観終わって2、3日後から、新潮文庫版『ゼロの焦点』を読み始めました。470ページ以上はあるものの、活字が大きく私のような年配の者には助かります。松本清張の筆力のなせるわざなのか、ぐいぐい物語りに引き込まれ、一気に読み終えました。

 映画を観た後なので、どうしても映画と比べながら読み進めることになりました。『あゝこの箇所は同じだったな。ここは映画ではこう変えたんだな』などと。原作は物語のプロローグから綿密に出来事や状況を積み上げていき、丹念な細部のプロットのすべてが響きあって、驚くべき感動的なラストへと収斂(しゅうれん)されていくような構成です。
 そこには齟齬や破綻がほとんど見当たらず、全編の隅々に及ぶピーンと張りつめたような精緻な構想力を感じます。清張自身「代表作の一つ」と言っていただけあって、清張という作家の創作的エネルギーがピークだったからこそ可能となった作品であるように思われます。

 映画は、原作とは事件の状況そのものすら大きく変えているところがあります。それに映画『ゼロの焦点』記事で述べましたとおり、映画の方は何やら“現代版シェークスピア劇”を観ているような荘重かつ大きなスケールの構成となっており、息詰まるサスペンスで終末の大悲劇、大破局へと向かっていきました。改めて原作を読んでみますと、『こんなに変えちゃっていいの?』と、泉下の清張が苦笑しているのではないかと思われるほど変えているところもあります。
 私のような素人にはよく分かりませんが、映画の場合それが観客を「魅せるための」演出であり、脚本であるということなのでしょうか?

 原作は推理小説でありながら珍しいことに、事件の謎を見事に解明するエルキュール・ポアロや明智小五郎といった名探偵役が登場しません。しかしそれでも最後には、犯人や鵜原憲一の失踪の理由、事件が起こった背景などがちっきり解明されていきます。
 『ゼロの焦点』では、書き出しから登場する鵜原禎子(映画では広末涼子)に名探偵としての役割を与えています。そのため鵜原禎子には、英語が堪能などストーリー上必要なインテリジェスを前もって賦与している上、なおかつ彼女を金沢や能登の断崖絶壁など、北陸各地の事件との関わりが深い場所に向かわせています。
 26歳の新妻の視点から描かれた事件解明のプロセスといった趣向で、これは当時も今も斬新な手法なのではないだろうかと思われます。

 原作は推理小説としての面白さに加えて、当時の世相や一つ一つの場面描写が的確で細密です。それがただ単に表層をなぞるだけではなく、時に深部に食い込んで核心を抉り取るような描き方です。現代推理作家にここまで迫れる者は少ないに違いなく、さすがは「社会派作家」という称号を与えられた清張だけのことはあります。
 またヒロイン鵜原禎子の心の動きも実によく描けていると感心します。苦労人清張の、女性心理の襞にまで及ぶ人間観察の鋭さには脱帽です。

 また映画『ゼロの焦点』記事で触れましたが、「ゼロの焦点」の「ゼロ」とは、戦争、敗戦のことを指しているもののようです。清張自身この作品の中で、タイトル解題をしているわけではありませんから、読み方によっては別の捉え方も出来るかとは思いますが…。私にはプロローグの「ある夫」から最終章の「ゼロの焦点」まで、ひたすら戦争という「ゼロへの告発」を目指して疾駆しているような印象を持ちました。

 「敗戦」という我が国近代史上かつてない深刻な事態が、田沼久子(木村多江)と宝田佐知子(中谷美紀)という2人の女のその後の人生を大きく狂わせてしまった。彼女たちは極端な例かも知れないとしても、昭和30年代前半はまだ、戦争の傷跡を引きずっていた人たちが多くいたのに違いない。そのことを見据えて、清張は犯人を裁いたり責めたりしていません。むしろ書きながら、犯人に憐れみや共感すら感じていたのではないだろうか?そうも思えてきます。
 
 この小説は、定型的な評価ですと「社会派推理小説」と言われています。そしてこの分野は松本清張によって確立され、その後一ジャンルとなっていったわけです。しかし私はこの小説は推理小説という枠を超えて、日本近代文学史に刻まれるべき記念碑的作品の一つなのではないだろうかと考えます。

 (大場光太郎・記)

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米沢上杉藩物語(1)

 はじめに

 今年のNHK大河ドラマ『天地人』は11月22日で終了しました。どなたもご存知のとおり同ドラマの主役は上杉藩の重臣・直江山城守兼続でした。ドラマは兼続の生涯を描きながら、本能寺の変、朝鮮出兵、関が原の戦いなど激動の戦国絵巻を織り交ぜて展開されていきました。
 直江兼続は、終生仕えた主君の上杉景勝と共に、戦国激動のあおりをくって故郷の越後から会津、会津から置賜(米沢)へと転封されていきました。

 私は、最終的に我が郷土置賜地方が舞台となるドラマとあって、珍しいことに『天地人』を第1話から最終回まで欠かさず見続けました。そして時折り辛らつな批判交じりの感想などをシリーズとして記事にもしてきました。
 振り返ってみますと、私が郷里の東置賜郡宮内町(現南陽市宮内)で過ごしたのは18歳までです。そのため肝心の「米沢上杉藩」のことも、直江兼続のこともよく知りませんでした。特に直江兼続については、大変お恥ずかしいことに昨年8月記事『万物備乎我(6)』で、ある人と交わしたコメントによってはじめて知ったくらいのものでした。小、中、高校を通して、上杉藩のことや郷土史などを教わった記憶がほとんどないのです。

 『天地人』終了と共に、大河ドラマファンの関心は早や、今放送中の『坂の上の雲』あるいは来年の大河ドラマ『龍馬伝』の方に移ってしまっていることでしょう。少し時期を逸した感は否めませんが、10代までを郷里で過ごしかつ『天地人』をシリーズで記事にした者として、「米沢上杉藩」をご紹介する義務のようなものを感じます。
 それによって、これまであまりよく知らなかった郷土の歴史や上杉藩のことを、私自身学び直し、再認識していければと思います。

 本シリーズ何回になるか分かりません。多分飛び飛びになろうかと思いますが、ご関心がおありの方ご一読くだされば幸いです。

 置賜地方の地理など

 置賜地方は、山形県内陸南部に位置する一地方です。「おきたま」「おいたま」どちらの読み方でもオーケーです。ただ「おきたま」の方が古い呼び方のようです。
 現在でいえば置賜地方は南東部の米沢市を中心とした「米沢都市圏」、それに北接する南陽市を中心とした「南陽都市圏」、そしてこの両者の西に接する長井市を中心とした「長井都市圏」の三つの地方都市圏に分類されます。「都市圏」とは言ってもしょせん山形県の一地方のこと、人口で見ても米沢都市圏は14万人、長井都市圏は6万人、南陽都市圏は4万人、合計でも24万人に過ぎません。(ちなみに、現在居住しております厚木市は一市だけで22万人以上、お隣の平塚市に至っては26万人以上です。)

 同地方は現在、米沢市、南陽市、長井市、高畠(たかはた)町、川西町、小国(おぐに)町、白鷹(しらたか)町、飯豊(いいで)町の3市5町を含む地域となります。
 かつてその一隅に住んでいた者としては、『けっこう広い地域だったんだなあ』というのが実感です。この広大な一帯をそっくりそのまま、江戸時代を通して上杉藩が領地としていたわけです。

 また置賜地方は四方を奥羽山脈や吾妻山地、飯豊山地などの山並みに囲まれています。別の分類では、山形県庄内地方に河口を持つ最上川の上流部にあたる米沢盆地と、新潟県下越地方に河口を持つ荒川の上流部にあたる小国盆地(小国町)の二つの流域があり、両者は出羽山地の分水嶺で分けられます。
 米沢市、長井市、南陽市の中心部は、内陸盆地の地勢で見通し良く開けた感じがあるものの、同時に(私が小学校1年の秋までを過ごした旧吉野村太郎のような)山間僻地もまた多く、山形県と福島県を隔てる県境の飯豊連峰、吾妻連峰から山形県側の同地方は、途端に豪雪地帯となります。現在では高地を利用した放牧畜産が盛んで、分けても“米沢牛”は名産として知られています。
 とにかく関が原以後、米沢に移封して置賜地方を領地とし、全域の開墾と藩経営に乗り出した、兼続をはじめとする上杉藩士たちのご苦労が偲ばれます。
 
 県庁所在地である山形市を中心とする村山地方は、県政、県経済両面で山形県の中枢部となっていますが、村山地方から東京への陸上交通には、置賜地方を通って福島県に至る山形新幹線と国道13号があります。
 ただ高速道路は村山地方から宮城県に直接入って東北自動車道と繋がる山形自動車道のみであり、置賜地方を通過しないことになります。現在置賜地方を通って福島市で東北自動車道と繋がる東北中央自動車道が建設中です。
 また南側の福島県会津地方との間は、国道121号、西側の新潟県下越地方との間は、米坂線(鉄道)と国道113号で繋がれてします。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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「大物逮捕」はなかった

 本15日は、以前の『薬物汚染の拡がりを憂う(33)』で触れました「大物政治家逮捕の“Xデー”」のはずでした。ところがこの日一日、とうとうそういう事態は起こりませんでした。

 同記事でも紹介しましたが、そもそもの出所はジャーナリストの勝谷誠彦(かつや・まさひこ-49)が、そのような意味のことを関西の某テレビ番組で述べたことにあるようです。それが一部ネットで取り上げられ、あっという間にネット上を駆け巡ってちょっとした騒ぎになったわけです。
 勝谷氏といえば、テレビ朝日の『朝まで生テレビ』にパネリストとして参加するなど、なかなかの論客として鳴らした人物です。そんな同氏が根も葉もない“デマ”の類いを、テレビという公器を使って流したとも考えられません。捜査関係者などから何らかの情報を得て、長年のジャーナリストとしての勘からかなりの確信をもってそれを述べたものと考えられます。

 まるっきりのデマ情報だったとは考えにくく、あるいは捜査当局によって、本15日を目指した「大物逮捕」の動きが実際あったのかもしれません。ところが何らかの事情によって、逮捕が何日か後にずれ込んだとも考えられます。
 しかし早や年末です。年末年始を迎え拘置期限のことを考慮すると、ぎりぎり今週末くらいがリミット。それを過ぎても動きが見られなければ、もう年内の“大物逮捕”はないとみるべきでしょう。

 しかし待てよ。永田寿康民主党元議員(故人)が引っかかった、‘06年国会での「堀江偽メール問題」という例もあるぞ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)するこの世の中、さしもの勝谷氏もある筋からとんだガセネタを掴まされて、まんまと騙されたということも考えられるぞ。
 『一体どこの誰が何の目的で?』ということはありますが、そういう可能性もないではありません。しかし私の場合勝谷氏に直接コンタクトを取って確かめることも、現場に直接行って取材して裏を取る態勢にもありません。あくまでも、二次情報、三次情報を拾ってきては、当ブログ記事として公開しているに過ぎませんから。
 いずれにしてもそういう話になりますと、この件はそこでお終いになってしまいます。そこで一応それはない(ガセネタではない)ことにしたいと思います。

 さて勝谷氏の話として、「“大物を入れる”ため、東京拘置所に刑務官が全国から集められている。こういうことが以前“田中角栄逮捕”の時にあった」という情報も流されました。かつてのオウム真理教の麻原彰晃の時も、ライブドアのホリエモンこと堀江貴文逮捕の時も、このようなものものしい態勢は取られなかったというのです。
 これから推定すれば、「大物」とはやはり田中角栄のような総理経験者クラスの大物政治家しか該当しなくなります。「東京拘置所に全国から刑務官が集められている」というのが本当かどうなのか確かめようもありませんが、いろいろな情報を当たりますと、「大物政治家」だけではなくもっと広く「大物」と捉えた方がよさそうです。

 これはあくまで推測、憶測でしかありませんが、もしこの時期「大物逮捕」という事態があるとすれば、それはやはりどう考えても「押尾事件関連」しか思い当たりません。そうすると対象者はおのずと絞られてきます。
 時が時だけに具体的な名前を挙げることははばかられますが、もし「大物政治家」ではなく「大物」だったとしても。当ブログの『薬物汚染シリーズ』をお読みの方々にとってはさほどの驚きでもないことでしょうが、しかし同事件の裏側をご存知ない方々にとっては、酒井法子の時以上の大きな衝撃が走ることでしょう。捜査当局はそれで慎重になっているのでしょうか?

 「逮捕関連」で言いますとー。
 『かなえの殺人レシピ(10)』で述べましたように、11月19日付け読売新聞で、埼玉県警は木嶋佳苗被告(35)を今月中にも「殺人罪で立件」の方針とのことでした。そういう方針であるからには、木嶋事件の方もかなり詰めの捜査が進展しているはずです。ところがその後ピタッと動きがありません。埼玉地検による「情報戒厳令」がよほど厳しいらしく、佳苗自身の近況などもさっぱり漏れてきません。
 こちらの事件も年末年始を控えて、そんなに悠長には構えていられないでしょうに。早くしないと、こちらも年明けまで立件持ち越しとなりそうです。いや年明けでも何でも立件できばOKでしょうが、まさか「結局立件できず」などということはないでしょうね?

 新聞各紙やテレビ各局がこの事件に触れる場合、依然「豊島区の35歳の女による結婚詐欺事件」などと、今もって氏名や顔写真も伏せられたままです。(なお木嶋佳苗は11月27日で満35歳になりました)。被害者男性の氏名や顔写真などが公表されていることから見て、大いにギャップや矛盾を感じます。
 加害者なのになんでかと言いますと、同事件で万一木嶋佳苗が殺人罪で立件されない場合、実名や顔写真を公表して「安藤建三さんや大出嘉之さんらを殺害した疑いをもたれています」などと報道してしまえば、木嶋側から名誉毀損で訴えられる可能性があるからなのだそうです。
 
 当ブログではそんなこと露知らず、とうの昔に名前をバンバン公表しています。まさかとは思いますが立件されず、木嶋佳苗から『当ブログを訴えられたらどうしよう』と考えますと、夜もおちおち眠られません(笑)。

 (大場光太郎・記) 

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薬物汚染の拡がりを憂う(37)

 押尾学の華麗なる女性遍歴

 麻薬取締法違反(譲渡)の容疑で、7日夕方警視庁に再逮捕された押尾学容疑者の、逮捕時のようすが少し明らかになってきました。押尾は横浜市神奈川区内の“みなとみらい”にある高級マンションで身柄を確保され、そこから麻布警察署へと連行されていきました。同マンションの最上階には、人気モデルが居住しており、押尾はそこに身を潜めていたものとみられています。

 同マンションに居住している人気モデルとは?名前は明かされていませんが、「nanami」ではないかと囁かれています。私は知りませんでしたが、nanamiは23歳、172cmという長身のスレンダー美女だそうです。かつては、TBSの人気ドラマ『三年B組金八先生』にも出演したこともあり、第1回ミス東京ガールズコレクションで見事グランプリを獲得した経歴の持ち主だそうです。
 売れっ子モデルともなると住んでいる所からして違います。同マンションは中古でも1億で売買される超高級マンションだそうで、押尾の逮捕現場となったモデル居住の31階は最上階で別エレベーターがあり、特別なセキュリティが入っているVIPフロアだそうです。

 それにしても、既に逮捕状が出ている押尾を住まわせ匿(かくま)っていたとは。押尾の“オスとしての吸引力”のなせる業なのか、ただただ驚くばかりです。ただ彼女は、田中香織さん(当時30)変死直前の7月下旬、押尾から渡されてMADAを飲んだとされるモデルなど複数の女性の1人ではないようです。
 今回改めて驚愕させられるのは、押尾学という男の「女人脈」の広さです。事件発覚時押尾は、矢田亜希子(30)を妻に持つ妻帯者でした。にも関わらず押尾はその当時も何人もの女性と交流、交際があったとみられています。私などは『矢田亜希子という美人妻がありながら何で?』と思ってしまいますが、俗に言う“不倫関係”にまで到ったのかどうかは別として、とにかく「超モテ男」ぶりです。

 振り返ってみれば押尾は、矢田との結婚前から派手な女性関係は有名だったようです。その一端を見てみればー。
 まず元「モーニング娘」たちは軒並みだったようです。特に安倍なつみは、押尾のマンションに通う姿が写真週刊誌に撮られたことがありました。安倍はモー娘の市井沙耶香や矢口真理と押尾を取り合ったといいます。またタレントの平山あやは、深夜に平山のマンションから2人が出てきた後、何があったのか押尾が土下座している姿をキャッチされています。
 魔性女優奥菜恵とは、‘01年奥菜との“ハレンチ写真”の流出で騒がれました。さらには矢田との結婚直前、グラドル長崎莉奈とイタリア料理店で食事をし、六本木ヒルズ周辺でフェラーリを乗り回しているのを週刊誌にキャッチされ顰蹙を買いました。
 その他噂ながら、伊東美咲、優香、財前直見、菅野美穂、横山めぐみ、片瀬那奈らの名前も挙がっています。

 まあ押尾学の“美女喰いまくり”ぶりには、ただただ驚嘆、賛嘆するばかりです。キレイな表現をすれば「現代版光源氏」、エゲツナイ表現をすれば17世紀スペインの伝説的放蕩児ドン・ファンも真っ青の「歩く種馬」と言ったところでしょうか。
 芸能界は一種アウトロー的な世界、一般庶民の規範が通用しない世界です。役者としては二流、三流というのが押尾評ですが、「女遊びは芸の肥やし」と見れば許容範囲なのかもしれません。もし事件がなければ、押尾もそのうち“芸能界性豪列伝”にその名を刻んでいたのかもしれません。
 
 しかしそれに、「薬物使用」という犯罪行為を絡ませてはいけません。上に名前が挙がった女性タレントの中には、押尾をはじめ森祐喜、北島康介、泉田勇介、酒井法子夫妻らが出入りしていた、西麻布の有名な“薬物クラブ”出入りの噂が絶えない者も含まれています。また今回の件で、押尾からMADAを勧められ飲んだのが佐々木希でなければ、次に怪しいのは「あの女?」と言われている者もいます。
 いずれにしても、押尾の華やかなりし栄光ももはや過去のもの。現在では東京湾岸署内の拘置施設で、他の拘置者から罵声を浴びせられることもあるそうです。

 ところで今回の押尾の再逮捕に、芸能界は戦々恐々だそうです。今回は押尾本人だけではなく、元マネージャーの遠藤亮平(28)や麻薬売人の泉田勇介(31)も同時に逮捕されていますが、彼らの口からどんな名前が飛び出すか分からないからです。そのため撮影所などでも、「次は誰が捕まるのか?」という話で持ちきりだとか。中でも、所属事務所を近々解雇される人気モデルの逮捕が近いと、もっばらだそうです。

 既報のとおり、押尾と関係のあった複数の女性が捜査当局から事情聴取を受けています。そのうち人気モデルや銀座のクラブ関係者など数人は、押尾からMDMAを譲り渡されて服用したことを認めています。その際押尾は「すぐ飲む?」とどこかの法廷で聞いたようなメールを複数回送っていたと言います。中には服用して意識を失い、「もしかして死んでいたのは私だったかも」と言っている女性もいます。
 押尾がいくら否認してももう既に、押尾が“薬物セックス常習者”だったことの裏は取れているのです。

 (大場光太郎・記)

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日々雑感(8)

   曇天に暴発しさうな冬の柿   (拙句)

 おとといは冷たい冬の雨降る一日、かと思ったらきのうは小春日和の暖かな晴れの一日、そしてきょう13日(日)はまたまた鉛色の分厚い雲が垂れ込める肌寒い一日で。まあ師走半ばの空模様はここのところ日替わりでくるくる変わっています。

 既にご存知のように、冬の気圧配置は一般的に「西高東低」と言われます。これを簡単におさらいしてみますとー。
 冬になると西の日本海上や中国大陸辺りに高気圧が、そして東の太平洋上に低気圧が居座る気圧配置のことを指しています。その東西の気圧に挟まれた日本列島に、等圧線が何本も密に南北に走っている特徴的な配置図になるのです。その結果北方のシベリア寒気団(シベリア高気圧)から寒気が吹き込みやすくなり、列島各地に寒さをもたらす北からの風(北風、北西風)が吹きつけることになります。
 そうして北海道や日本海側では大雪となり、関東地方など太平洋側は乾燥した冷たい空っ風が吹きつけることになります。

 ところで今年の気圧配置は今のところ、このお決まりの西高東低の型がびしっと定まっていないようです。出来ても「西高東低くずれ」といった按配で、あっという間に型が崩れてしまうのです。そのため今冬は例年にもまして雪が少なく、そろそろシーズン本番でかき入れ時のはずの苗場、草津、妙高といった各スキー場でも降雪がみられず、仕方なく滑降コースにだけ人口雪をあてがい、その周辺は土の地肌丸見えという状況のようです。(ただしこれは3日ほど前のお天気情報で、今もそうかは分かりません。)
 反面世界に目を転ずると、米合衆国では比較的南部の中西部に位置するコロラド州でしっかり降雪があると言います。このような気象のアンバランスは、赤道ベルトの海温がこの冬例年以上に高く、北極圏からの寒気団が日本列島などに南下出来ないことに大きな原因がありそうです。

 国連気候変動締結国会議(COP15)も良いけれど。先進国と発展途上国とがそれぞれの利害をにじませた議論を重ねるだけで、地球環境にとって真に有効な打開策が見出せないもどかしさを感じます。そうしているうちにも、笑い事では済まされないほどの気候変動がどんどん進行していくわけですから。

 いくら暖冬傾向とは言え、やはり外を歩くと体感では十分寒く感じられます。我が街でも季節は確実に冬本番、落葉樹はもうすっかり木の葉を落とし尽くし、冬枯れた裸木となって茫然と立ち尽くしているかのようです。
 そこで当ブログも『いつまでも落葉模様もないだろう』とばかりに、きょう未明ブログ背景を替えてみました。昨年から引き続きご訪問の方々にはおなじみかと存じますが、『本を開きて』。私自身落ち着いたエレガントな感じが気に入っている上、やはり冬は暖かい系に限ります。

 トップ面の「最近の記事」を見てもお分かりのとおり、ここのところ『薬物汚染の拡がりを憂う』記事が連続しています。これは今月7日の押尾学再逮捕という新しい展開を踏まえたものです。世の中の関心が依然高く、同シリーズを載せますと訪問者が断然伸びるため、私もついついその気になって続けて取り上げてしまいます。
 事件記事は、当ブログ開設当初はおよそ考えもしていませんでした。しかしこれも立派な一つのジャンルと言うべきです。押尾事件も木嶋佳苗事件も、今の社会の「相応の理(り)」として起きている面があります。いずれまた掘り下げる機会があるかもしれませんが、他の事件共々小泉政権以降の自公政権末期に起きたものである、これは大きな問題をはらんでいると思われます。
 事件物ですから、興味本位な内容になるのはある程度致し方ありません。しかしただ単にそれのみで終わるのではなく、そこに隠された本質的な部分にまでいかに踏み込めるか。大変荷の重い難しい課題です。

 押尾事件はとにかく「奥が深い」というか「謎、闇が深い」事件です。次々に新事実や新しい事件の関与者が出てきたりします。押尾からMADAを勧められ「次の逮捕者か?」とも噂される“人気モデル”とは一体誰なのか?当ブログで既に名前を出した女性なのだろうか?近いうちの逮捕は本当にあるのだろうか?
 またジャーナリストの勝谷誠彦氏が関西の某番組で漏らしたという「15日を“Xデー”として大物政治家の逮捕がある」というのは、本当の話だろうか?一説には「大物政治家」ではなく単に「大物」だという話もあるけれど。いずれにしても、間近に迫っているのにそんな気配は微塵も感じられないし…。

 押尾学自身にその自覚はなかったのでしょうが、同事件発覚によって今の社会の「ブラックボックス」さらに言えば「現代のパンドラの匣」を開けてしまった感があります。どうやらこの匣には、政界、官界、財界、芸能界、スポーツ界などのあらゆる災いが潜んでいて、それが現に飛び出していますし、これからもなお飛び出してくる可能性があります。
 この際中途半端に蓋をしてはいけません。この事件に関わる真実(膿)は悉く出し切るべきです。その結果あらゆる災いが飛び出して、同事件で最後に残るのは「希望」だけになるでしょうから。

 (大場光太郎・記)

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『坂の上の雲・第2回』を観て

 6日(日)夜8時(90分間)放送の第2回『坂の上の雲』は「青雲」でした。明治17年(1884年)秋山真之(本木雅弘)が伊予松山から上京して1年目の、故郷とは別世界のような東京での生活から始まりました。
 9月真之と正岡子規(香川照之)は揃って大学予備門に合格。2人から報告を受けた真之の兄の好古(阿部寛)は、座右の銘である福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」を引用し、「今後とも自分を甘やかさず勉学に精進せよ」と諭します。

 それにしても「青雲(せいうん)」、久しぶりで目にする懐かしい言葉です。今ではどこぞのお線香の名前としてしか知られていないと思いますが(笑)、私が高校時代を過ごした昭和40年代初頭くらいまでは、まあ何とか社会の一部では通用する言葉だったと思います。「青雲の志し」ーそこには大きな望みを抱くと共に、安直に経済的栄華のみは求めないという、「精神性」をはっきりと「物質性」の上位に置く、どこか硬派な心意気が込められていたように思います。
 まさに当時の明治の新生日本という国も、そして「太政大臣(今の総理大臣)になって帰ってくるぞ」と言って松山を飛び出した子規も、「太政大臣は升(のぼ)さんに譲るけん」と言って後に続いた真之も。自分たちの未来や国の将来に、そんな大きな夢を抱けたわけです。当時といえども多くの難題はあったことでしょう。しかし「幻(まぼろし-ヴィジョンの意)無き国民(くにたみ)は滅びる」(旧約聖書)。国民誰もが将来にヴィジョンが描ける世の中は、幸せな世の中です。

 「一身独立」。これまた良い言葉です。60歳にもなった者が言うのも何ですが、しかし「六十の手習い」という言葉もありますから言いますが、改めて「座右の銘」の一つにしたいくらいです。孔孟の教えの「修身斉家治国平天下」が想起されます。天下を治めようとする者は、先ずもって自分自身の身を修めなければならない。これを述べた福沢には当然その言葉が念頭にあったことでしょう。
 福沢諭吉は若くして緒方洪庵に師事し、師の適塾で“洋学”の重要性に目を開かれました。しかしその素養の中には当然、儒学や論語的なものも備わっていたものと思われます。(なお『福翁自伝』は自伝文学中の白眉です。)

 ドラマからは離れますが。思えば司馬遼太郎の原作がサラリーマンを中心によく読まれたのは、高度経済成長の真っ只中のことでした。日露戦争に到る明治期と戦後の高度経済成長期は、どこか相似形でシンクロしているようなところがあります。方や明治維新の開国によって方や敗戦下の米国統治によって、国の形の根本からの問い直しに迫られます。そして一方は富国強兵というスローガンの下、西欧列強に「追いつき追い越せ」。他方は経済成長をスローガンに欧米先進諸国に「追いつき追い越せ」。原作が大ベストセラーになったのは、そういう時代的共通性が大きかったのではないだろうかと考えられます。
 その意味で司馬遼太郎の原作は、良くも悪しくも当時の高度経済成長政策を追認し、免罪符を与えた側面があります。

 昭和50年代前半の頃、当時の会社の上司でなかなかの読書家がいました。司馬遼物もけっこう読破していたよし。ある時私は聞きました。「“竜馬がゆく”と“坂の上の雲”、読むとしたらどっちがいいですかねぇ」「そりゃぁ“坂の上の雲”だよ」。その先輩は即答しました。
 それが心の片隅に残っていたのかどうか。私は40代前後「バブル崩壊」の頃、つまり司馬遼ブームはとうに過ぎた頃『坂の上の雲』を読んだのです。文春文庫で7、8冊、一冊がまた分厚くてなかなか読み応えがありました。しかし一旦読み出すと、これが手に汗握る面白さで、苦もなく短期間で読み終えました。重要な箇所には赤線を引きながら。
 しかしその後はついぞ読み返すことなく、何年か後に全部処分してしまいました。ドラマ化された今となっては残念至極ながら、その時の私は「もう用済み」と判断したもののようです。

 話を戻して。この回は「明治の青春」が実によく描かれていたと思います。その格好のサンプルが、我が国で初めてと言っていいくらい早期に「野球」に熱中した正岡子規であり、大学予備門から子規の親友となった塩原金之助(後の夏目漱石)であり、秋山真之であったわけです。後のエゲレス(英国)留学でノイローゼになって帰国する漱石も、この頃は青春を謳歌していたようです。
 バンカラで自由闊達な彼らは、寄席や江ノ島への無銭旅行も敢行します。予備門から東京帝国大学へと進んだ子規と真之は、一時期下宿を共にし切磋琢磨して勉学に励みます。

 しかしそんな中で互いの進路はおのずと決まって行き、それぞれが「一身独立の道」を歩み始めることになります。子規はやがて、太政大臣コースから大きく逸れた「俳句に新風を吹き込むこと」に己(おのれ)の活路を見出します。真之は学者になっても二流にしかなれない自分の限界を悟り、すぱっと東京帝大を中途退学し海軍士官学校へ。そして東京を離れ広島の海軍港江田島へと赴任して行きます。
 秋山好古は、旧松山藩主がフランス留学するに当たって共に行ってくれるよう頼まれ、引き受けます。当時軍事はプロイセン(ドイツ)式が主流でしたから、プロイセンに敗れたフランスに行くことは出世コースから外れることを意味していました。しかし「万事塞翁が馬」というもの、何が幸いするか分かりません。何とフランス騎馬隊はプロイセン騎馬隊を凌いで、世界トップレベルだったのです。それを吸収した好古が組織した日本騎馬隊が後に、当時世界一と言われたロシア騎馬隊を死闘の末撃破することになるのです。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(36)

 森元総理、森祐喜親子の仰天画像、ネットで話題

 森喜朗(72)元総理と、長男の森祐喜(41)の森親子も遂に年貢の納め時か !?ここのところそう思われるような、仰天画像がネット上に流され騒然となっています。これを見ると『なるほど森元総理が隠したかったのはこういうことだったのか』と思えてきます。
 どうやら発信元は「論壇同友会」という右翼関係の団体のようです。とにかく今このようなものが表に出だしたこと自体、ここ10年間ほど並ぶ者なき権勢を誇ってきた森元総理の地盤沈下を示すものです。先の総選挙で自民党は大敗、自身もやっとこさの選挙区当選、派閥(清和会)は弱小化…。さしもの森元総理のご威光も薄れ、もう押さえが利かなくなっているということなのでしょうか。

 画像そのものが100%真実であるかどうかの保証はできません。ただ写真自体加工された形跡はないようです。複数の写真を寄せ集め、それに文字を書き加えて載せただけの単純加工で、少なくとも写真に関しての合成は無いとみて差し支えないようです。
 問題の画像 http://black.ap.teacup.com/paradise2008/img/1260276347.jpg

 さて問題の写真です。まず左側の3カットの連続のものは、同じ部屋で撮られたものと思われます。森親子は以前六本木ヒルズに居住していたことがあったそうです。これらの写真の背景となった部屋は、まさか問題の2307号室ではないでしょうが、とにかく六本木ヒルズ内の一室と見てよいようです。
 上段には森元総理を囲んで3人の女性、中段は元総理の長男の森祐喜と上の写真にも写っていた女性、そして下段写真は森元総理と同じ女性のツーショット。問題はそのうち、上段写真の3女性の真ん中に写っている女性、森元総理の頭部に隠れて鼻から上しか写っていない女性です。よく見ると森元総理の肩に両手をかけているのが分かります。
 右側の真ん中がその部分を拡大した画像です。この女性こそ、8月2日六本木ヒルズ2307号室で死亡した田中香織さん(当時30)だと見られるのです。右上と右下の画像は田中さんの別の写真です。確かに言われてみれば、眉の具合、両目の間隔、鼻筋など田中さんと同一人物である可能性が高そうです。

 風評によれば、森祐喜は、8月2日の事件発生当時現場に居合わせたのではないか?と疑惑の目を向けられています。PJ野口美佳(44)が提供していたヒルズ内の“やり部屋”の常連で、事件発生当時は総選挙の真っ只中だったこともあり、自分と自民党にとって大打撃になることを恐れた森元総理が、麻生前内閣の漆間巌官房副長官に指令して警察当局にもみ消し圧力をかけたのではないか?との疑惑もまた囁かれました。
 それについては、「森祐喜は問題の部屋を利用していたことは間違いないが、事件当日は現場にはいなかった」という関係者の話もあります。

 しかし変死した田中香織さんが、森元総理と一緒に写真に納まっていた。これは今から3~4年前のものと推定されています。2人はそんな以前から“お知り合い”だったことになります。事件そのものに直接的な関与はないとしても周辺人脈というだけで、総選挙の最中の森元総理としてはそんな関係が表ざたになると非常にまずいわけです。致命的な大スキャンダルにもなりかねません。それを恐れた森喜朗は、愚息祐喜の件でではなく、あくまで自分自身のために圧力をかけさせた可能性も出てきます。

 なお左下の、誰かの書き込みについて若干解説しますとー。
 「森喜朗は大学時代、買春で逮捕されています。早稲田大学在学中の昭和33年に売春等取締条例 S33・2・17 警視庁 売春防止法違反 2・25 地検 起訴猶予」
 これは何も今急に降ってわいたような疑惑ではありません。森喜朗が総理在任中既に浮上していた疑惑です。ただ当時は現職総理のご威光もあってか、いつの間にかうやむやにされてしまったのです。
 なお森元総理については、押尾事件とは関係ないものの、平成17年石川県で発生した、自身も同乗していた「ひき逃げもみ消し疑惑」もくすぶっています。
 
 また右下の森祐喜に関する書き込みについてはー。
 「元愛人が語る“森祐喜を私に紹介したのは、ピーチ・ジョンの社長野口美佳”」。この元愛人は、森祐喜が「以前から覚せい剤とコカインを使用していた」とも暴露しています。森祐喜はいやしくも、現職の石川県会議員ですよ。それが公務などほっぽり出してことあるごとに東京にやってきては、麻薬と女漁り。石川県民の方々はこんなクズ県議はさっさとリコールすべきだと思いますが、いかがでしょうか?

 なお森祐喜は、押尾学とは当然のこと、今回押尾と共に逮捕された泉田勇介(31)とも顔見知りだったようです。いな“顔見知り”などという生ぬるいものではなく、ズバリ「麻薬仲間」だったのです。

 今回ネットに流れた、この画像がどれだけの波紋を広げることになるのか。成り行きが注目されます。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(34)

 押尾学ら3容疑者の近況など

 7日夕方横浜市内で逮捕された押尾学容疑者(31)は、8日未明身柄を麻布警察署から東京湾岸署に移されました。東京湾岸署といえばかつて酒井法子が拘置されていた署です。7日同時に逮捕された、押尾に事件2日前の7月31日MADAを渡した容疑の泉田勇介容疑者(31)と、変死した田中香織さん(当時30)の携帯電話を六本木ヒルズの植込みに隠した証拠隠滅の疑いの遠藤亮平容疑者(28)も、それぞれ別の署に移されました。

 繰り返しますが、警視庁捜査1課が捜査する事件は「殺人、傷害致死、強盗、強姦」といったいわゆる“凶悪犯”を専門とする部署です。通常の薬物事犯であれば、前回の押尾がそうであったように組対(組織犯罪対策)5課で十分なわけです。それをわざわざ捜査1課が引き継いだところに、今回何としても押尾学を「保護責任者遺棄罪」さらには「保護責任者遺棄致死罪」に持っていこうとする、警視庁の並々ならぬ意欲が感じられます。

 そのため変死した田中さんに、体に害になるものを与えた張本人が押尾容疑者であることを立件するために、事件後密室にいた3人の同時逮捕としたのでした。この事件は物的証拠というよりも、MADAを「渡した」「渡された」という証言、供述などの「人的証拠」が非常に重要となります。
 そのため逮捕状は通常有効期限が1週間ですが、それを4日に準備しておいて当時行方不明であった泉田勇介の居場所を突き止め次第同時逮捕という、3人の「役者」が揃うタイミングを見定めていたと見られます。3人一緒に取調べを開始する必要があったのです。

 3人ともそれぞれの容疑を否認しているもようです。元エイベックス社員の遠藤亮平は携帯を捨てた実行行為は認めているものの、証拠隠滅の意図については否認しています。特に重要なのは押尾と泉田の供述ですが、両者が否認し続ける中捜査関係者によると、押尾と泉田との2人の間には、薬物の譲渡をうかがわせるようなメールのやり取りがあったといいます。また事件のあった8月2日、六本木ヒルズレジデンスに両容疑者が入っていく姿が、同マンションの防犯カメラに映し出されていたといいます。さらにここにきて、事件以前複数の男女が押尾からMADAの服用を勧められ、体に変調をきたした女性もいたことが明らかになりました。ということは、押尾は以前からMADAを常用しており、その危険性を十分認識していたことになります。
 捜査1課は9日、押尾ら3人をそれぞれの容疑について東京地検に送検し、また東京地裁は3人の拘置期間を18日までの10日間と決定しました。

 ところで捜査1課が押尾学を「保護責任者遺棄」で立件する場合、押尾が田中さんにMADAを渡したことになると、同容疑者の田中さんに対して保護すべき義務の度合いが高まることになります。これを「先行行為者の作為義務」と言い、同容疑者は田中さんを積極的に助けなければならなかったということになります。
 前回の麻薬取締法違反(使用)罪での押尾に対する判決は、「懲役1年6月、執行猶予5年」でした。それでは保護責任者遺棄まで視野に入れた今回の場合はどうなるのでしょう?板倉宏日大名誉教授は以下のような見解を述べています。
 「麻薬譲渡でも保護責任者遺棄でも、立件された場合には、前回確定した麻薬取締法違反(使用)罪と合わせて“併合罪”となる。保護責任者遺棄ならば実刑4年くらい、保護責任者遺棄致死まで行けば実刑8年ほどになるでしょう。“致死”まで行けないとも思いません。そこまで行ける可能性は60%ほどでしょう。」

 押尾は田中さんの容態急変直後、6人の知人に「ヤバイことになった」と電話していたといいます。そのうちの複数人から「救急車を呼べ」と忠告されていたことが8日分かりました。結局押尾は自分では通報せず、約3時間後の午後9時頃119番したのは現場に駆けつけた知人でした。
 そもそも田中さんが当日、現場となった2307号室を訪ねるまでの間、押尾、泉田両容疑者はそばなどを食べ同室にいたといいます。(その後泉田は同室を離れたのか?)田中さんに異変が生じた午後6時過ぎ、泉田は再び同室に駆けつけたものとみられます。押尾は(泉田も一緒か?)田中さん異変後、B棟最上階の野口美佳が借りている4201号室に移動しました。

 そして(ヒルズ外の?)別の場所に移動し、さらにタクシーを使って数ヶ所に立ち寄ったものとみられています。その間警察から押尾の携帯に電話が入りましたがすぐには応答せず、翌3日午後1時前警視庁麻布署に一人で出頭したのでした。
 押尾が移動した場所の一つは錦糸町のラブホテルで、この時泉田も一緒でした。そこで押尾から「クスリを抜く方法はないか?」と尋ねられた泉田は、友人の元チーマー(元不良)に生理食塩水、解毒剤、ブドウ糖などが含まれている点滴セットを同ホテルに持ってくるよう依頼。やって来た元チーマー(と泉田本人か『週刊文春』や『FLASH』の取材でそう言っている)が押尾に点滴を施したとされています。なお『FLASH』(12月22日号)によれば、その時押尾は「田中さんに自分がMDMAを飲ませた」と重大なことを語ったそうです。

 今回重要な鍵を握る泉田勇介ですが、その素性は全く知られていませんでした。現時点で分かっていることはー。
 泉田は輸入衣料品のネット通信販売会社を経営していると称していますが、実際は非合法薬物を合法薬物として販売してきた<薬物売人>という見方が強いようです。何でもかつて泉田は有名バーのカリスマ店員で、デビュー前の(ということは“整形前”の)佐々木希の“元カレ”だったという噂もあるようです。佐々木希は前回記事で、押尾からMDMAを渡された「有名モデル」では?とネットの話題になっていることを紹介しました。
 押尾に泉田を紹介したのは元暴走族のヘットで、現在芸能プロを経営しているNという人物のようです。泉田の実質的稼ぎは“薬物”であり、押尾と手を組むことによって泉田は更なる利益を得ようとしたのかもしれません。そしてどうやら売人・泉田は単独でというより、組織ぐるみで動いていたのでは?ともみられています。
 今回の捜査によって、泉田の背後関係にどれだけ迫れるかにも注視していく必要がありそうです。

 (大場光太郎・記) 

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冬の名句(1)

                   加藤 秋邨

   木(こ)の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 加藤秋邨(かとう・しゅうそん) 明治38年東京生まれ。本名加藤健雄。昭和6年誘われて秋桜子の「馬酔木(あしび)」に投句。昭和14年第1句集『寒雷』を刊行。昭和15年俳誌「寒雷」を創刊、主宰となる。第9句集『まぼろしの鹿』で第12回蛇笏賞、第11句集『怒涛』で第2回詩歌文学館賞を受賞。ほかに第1回現代俳句大賞、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、朝日賞受賞。『加藤秋邨全集(全14巻)』ほか、芭蕉の研究など。芸術院会員。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 この句における{木の葉」は冬の季語で、「落ちてしまった葉、あるいは樹上にとどまってまさに落ちんとする枯葉」のことです。この句は平明な句で、説明など必要としないだろうと思います。初冬、木の葉がはらはら降り止まないのです。そのさまを眺めながら加藤秋邨は『いそぐなよいそぐなよ』と思って見ているわけです。「急ぐなよ急ぐなよ」ではない、ひらがな言葉の呼びかけが、実によく秋邨の想いを伝えていると思います。

 О・ヘンリーの感動的な名短編に『最後の一葉』というのがありました。明日をも知れぬ重病の少女・ジョンジーが床に臥せりながら、隣の壁の蔦の枯葉に自分の命を同化させて残り葉を数えます。「あと6枚、5枚、4枚…。最後の一枚が落ちてしまうと、私も逝くんだわ」。しかし何という奇跡か。夜通しの雨嵐にも関わらず最後の一枚だけが落ちずに残っていた。それに勇気づけられたジョンジーは、見る見る元気を回復し死地を脱する…。
 やはり樹木から切り離されるようにして落ちていく木の葉には、「生命」との断絶というようなことを感じさせます。私たちが死ぬということは、肉体から「魂(たま)の緒」(シルバーコード)が切られ、魂(たましい)が静かに離れていくことであるように。

 ところで。私は先月下旬の晴れたある夕方、「木の葉ふりやまず」の情景に立会いました。所用で隣町のI市に行った時のことです。ある社の用事が済んでの帰り、とある住宅地内の道路を通ったのです。すると道路の両側に落葉がいっぱい吹き溜まっています。
 道路に接した小さな児童公園の木々が降らせた木の葉です。その公園はひっそり閑(かん)として人一人いません。時刻は午後4時少し前。眺めれば座れるベンチもありそうなので、私は車を停めて公園の中に入って一服することにしました。

 児童公園は普段あまり人が来ない上に、自治会の掃除も行き届いていないようです。というのも、公園の地面には落葉が一面に積もり放題なのです。周りには5階建てくらいの大きなマンションやら、住宅がびっしり建て混んでいるのにです。
 しかし私のような風変わりな者には、それが幸いしたというべきです。幅15m、奥行き10m強くらいの小公園はさながら、晩秋のすがれた廃園といった趣きなのです。何とはなしに郷愁を感じさせられる森閑としたたたずまいです。園内には桜の木が10本ほど、公孫樹(いちょう)の木が数本ほど一定間隔で植えられています。両木ともまだ十分落ち尽くしていない枝々からは、1枚、2枚、3枚…、ひらひらはらはらと静かに地面に落ちていくのです。誰も手入れをしないものだから、木の周りは桜落葉の赤い色、そして公孫樹落葉の真っ黄色い色が、互いに色分けされて地面を覆い尽くさんばかりです。私が腰掛けた白い色のベンチにも、桜落葉が10枚ほど乗っかっています。

 木が植わっていない公園の真ん中辺りには四角い砂場。その周りをライオン、ラクダ、アザラシ、ウシといった遊具の動物が取り囲んでいます。子供たちがちっとも遊びに来てくれなので、表情はどことなく寂しげで、所在無げにぽつねんとうずくまっている感じです。
 そして公園の東、西、北の際の方に、滑り台、シーソー、ブランコというお決まりの児童公園3点セット。私が座っているベンチにほど近いブランコは、小さいのが四つ並んでいます。なぜかその中の一つだけが、風に少しばかりゆらゆらと。
 木々の見えない所で、時折り小鳥たちが甲高い声でさえずったりしています。座って眺めやる北の方角の青空には、木々の少し上に夕の浮雲が見られました。

 そうしている間にも、木の葉はひらひらはらはらと…。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(33)

 押尾学、麻薬取締法違反(譲渡)容疑で再逮捕

 今月4日麻薬取締法違反(譲渡)容疑で逮捕状が出されていた押尾学容疑者(31)が、4日目の7日午後5時過ぎ逮捕されました。8月3日に同罪(使用)で逮捕されたのについで2度目の逮捕となります。

 押尾学と共に今回は、元エイベツクス社員で押尾のマネージャーだった遠藤亮平容疑者(28)と、押尾の知人でネット販売業をしている泉田勇介容疑者(31)も同時に逮捕されました。
 遠藤亮平は、六本木ヒルズレジデンス2307号で田中香織さん(当時30)の「容態が急変している」との押尾からの連絡により、現場に駆けつけたものの、適切な救命措置を取らなかった上「スキャンダルになることを恐れた」と、田中さんの携帯電話をヒルズ玄関前に遺棄した証拠隠滅の疑いです。また泉田勇介の場合は、事件の起きた8月2日の数日前の7月30日に、押尾学にMADAを譲り渡した疑いです。警視庁捜査1課は、この時入手したMADAを事件当日田中さんに渡したものとして押尾を追及していく構えです。

 逮捕状が出てから4日も経っての逮捕は、3人同時逮捕で互いの供述の裏を取りたい警察としては、泉田容疑者の所在がつかめず長引いたためのようです。
 逮捕時横浜にいた押尾学は、所轄の麻布警察署に身柄を移されました。逮捕時の押尾は、例によってふてぶてしい顔で車に乗り込みました。しかし押尾も人の子、人知れず心労があったのか髪にはかなり白いものが目立ちました。今のところ容疑を否認しおり、また泉田勇介も同じく否認しているもようです。
 ただ元マネージャーの遠藤亮平は、「押尾さんをかばいたかった」と、携帯を隠した事実を認めているといいます。これは当時エイベックスの一社員の立場だった以上、果たして遠藤自らの判断でそうしたのか、会社の上司からの指示でそうしたのではないのか?場合によっては、エイベツクス現経営陣の責任も問われかねない問題です。

 テレビなどでも紹介されていますが、一般的な法解釈として、通行人が急性アルコール中毒で倒れている人に救命措置を施さなくても罪に問われませんが、酒を勧めた人が同様の行為をした場合は保護責任が生じることになります。これを今回の事件に当てはめると、押尾容疑者がMDMAを自ら田中さんに渡していたことが立証できれば、「保護責任者」の度合いが強まることになるわけです。
 「殺人担当課」である捜査1課は、押尾が泉田を通してMADAを入手していたことを証明し、従前までの「田中さんからもらった」という押尾の主張を突き崩し、急変後現場から立ち去ったことをもって「保護責任者遺棄」の立件に持っていく方針と見られます。そのためには、泉田、遠藤両容疑者、特に現在否認している泉田容疑者の供述が鍵を握るものと思われます。

 押尾学の再逮捕を受けて、田中さんの遺族は「やっと希望の光が見えてきた。これを第一歩として娘の身に何があったのか真実を解明してほしい」「たとえ助からなかったにしても、救急車を呼んでほしかった」と、遺族感情としては至極当然のコメントを出しました。
 ここに来るまで事件発生後4ヶ月。この異常な長さは「事件もみ消し圧力」があったことの証明のように思われます。その辺の裏事情も是非明らかにしてもらいたいものです。
 ともかくご遺族の言葉を待つまでもなく、今回の逮捕によって、これまで五里霧中だった事件が一気に解明されそうな勢いです。さらに多くの芸能人や関係者の関与が明らかになりそうなのです。今後の展開はどうなるのでしょうか?

 捜査1課は「押尾が(事件が起きた六本木ヒルズの)マンションに入ってから田中さんが亡くなるまでの間に何があったのか、全容を解明する」と意気込んでいるそうです。押尾が泡を食って電話したのは誰で(「数人に電話した」と押尾は言っています)、誰が駆けつけ何をしたのか?
 一連の事件では、当ブログで再三名前を出したとおり、政界関係者や有名アスリートの名前が浮上しています。ただ彼らと親しい関係者は、「普段はヒルズの部屋を使っていたが、当日は使っていなかった」と話しています。ですから今後彼らの名前を出す際は慎重にすべきですが、いずれにしても取調べの過程でその辺の事実関係も明らかになっていくものと見られます。

 またこれまでの捜査の過程で、押尾は事件前「数人の女性」にMADAを渡していたことが明らかになったと言われています。何人かのモデル、田中さん以外の銀座ホステスの名前が取りざたされています。中でも、長身でファッション誌やCMで人気の「モデルとは誰か?」が今ネット関係者の間で話題になっています。何人か名前が上がっている中で、一番人気(?)は佐々木希(ささき・のぞみ)のようです。
 押尾学そして酒井法子の芸能界人脈の追及により、芸能スキャンダルの第2幕が開くことになるのかもしれません。

 また押尾は田中さん急変後数人の知人に連絡後、問題の2307号室から、同じ六本木ヒルズレジデンスB棟の4201号室(最上階1号室)に逃げ込んだと言われています。そうなると、その部屋の鍵を誰が持っていて誰が開けたのか?という問題になります。

 最後に不確かながら、びっくり仰天の情報をー。
 いつの話か不明ですが、テレビの情報番組などでおなじみのジャーナリストの勝谷誠彦が、関西の某テレビ番組で「今月15日を“Xデー”として大物政治家が逮捕される」と予想したというのです。そのため現在東京拘置所に刑務官が全国から集められており、「近々大物が入る」準備をしているとか。同じようなことが「田中角栄逮捕」の時もあったそうです。
 そういう事態になったとしたら、中にぶち込まれるのは誰なのか?押尾事件との関連でか、あるいは全く別の事件でなのか?名前も出ていますが、私には全く裏づけがありませんので、これは単なる「お話」ということにしておきたいと思います。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(31)

 押尾学、再逮捕へ(2)

 押尾学の麻薬取締法違反(譲渡)による再逮捕の動きに、4日午後10時過ぎ、東京六本木の麻布警察署前には続々と報道陣が集まり始めました。同時に師走の金曜日の夜とあって、宴会後のサラリーマンや通りがかりのやじ馬でごった返したようです。署員は拡声器で立ち止まらないよう呼びかけました。また見物人には「警察署前に見学場所を設けましたので、そちらへお願いします」と、異例の案内まで行いました。
 前回逮捕された8月3日と同じような光景が繰り広げられたようです。

 ところで警視庁捜査1課は押尾学の逮捕状を取り付けたものの、丸1日以上経った現在も押尾は逮捕されていません。これは、押尾の他に関係者3名も同時に逮捕するとのことですが、そのうちの1人の行方が分からず、それが分かり次第4人まとめて逮捕ということのようです。
 しかしこれは警察による表向きの発表で、何と押尾自身の行方が分からずに逮捕できないのでは?と言われているのです。確かに“ホンボシ”は押尾学なのですから、押尾の身柄を真っ先に確保するのが最優先のはずです。それに押尾は執行猶予とはいえ、有罪が確定している身です。行動は著しく制限されていてしかるべきです。なのに「行方不明」 ?警察内部の誰かが、逮捕情報を事前に流したのでは?とも囁かれています。いやはや、何とも滅茶苦茶な話です。
 
 ともかく。関係者によると最近の押尾は、ある芸能事務所の女性社長を頼りながら、首都圏を自分の運転する車で転々とする日々だとか。都内の同社長宅や友人宅、八王子市内でもたびたび目撃されたことがあったそうです。多摩市内の実父のマンションには、判決後は数回訪れただけだそうです。

 押尾学は判決後、警視庁の任意の事情聴取に一度しか応じていないといいます。その後の事情聴取を拒む姿勢を見せたため、捜査の進展には逮捕が必要と判断したもののようです。押尾はどうも「先の判決で一件落着。その先の逮捕や立件はない」と思い込んでいたフシがあります。なのに「逮捕状」。さぞ泡食っていることでしょう。
 ある情報筋によりますと、今回の再逮捕への動きを促したのは東京地検だといわれています。捜査、立件に今ひとつ消極的な警視庁に対してハッパをかけたと見られています。どういうわけか「地検は本気」で、警視庁捜査1課もそれにあおられた形だというのです。

 また押尾学だけではなく、押尾からの通報で現場となったヒルズレジデンス2307号室に駆けつけた、元エイベックス社員で押尾の元マネージャー2人と、押尾の知人に対しても逮捕状を取っているものと見られます。田中香織さんの異変後、直ちに119番通報せず放置し、さらには田中さんの携帯を遺棄するなど証拠隠滅を図った疑いによるものです。
 既報のとおり、警視庁、検察庁の元お偉方が天下っているエイベックスもまた、たかをくくっていたフシがあります。同社もまた大慌てでしょう。これはやはり「政権交代」によって、従前の常識が少しずつ変わり始めていることの現われとみるべきなのでしょうか?

 いずれにしても前回の逮捕は、警視庁組対(組織犯罪対策)5課でした。それが途中から、「殺人専門」の捜査1課が引き継いだのです。同課は判決後も、田中香織さん(当時30)の死亡に到る経緯と押尾の行動に因果関係があったかどうか、保護責任者遺棄致死の疑いを視野に捜査を進めてきました。
 同課では、押尾学が田中さんの容態急変後救急車を呼ぶなど、適切な延命措置を怠ったことが田中さんの死につながったと判断。また異変発生後田中さんは1時間近く生存していたにも関わらず、押尾は途中で田中さんを放置して逃げ出したことも重視しています。ズバリ捜査1課の狙いは、押尾学の「保護責任者遺棄致死罪」での立件なのです。

 また一方では、仮に早い段階で救急治療を受けていても、高い確率で救命できたかどうかの立証は困難との見方もありました。
 しかしある専門家の見方では、押尾から田中さんへ「MADAが譲り渡された」となると、一段と保護責任者遺棄を問える可能性が高まったとしています。というのも、MADAの流れが従来から押尾が主張してきたように「田中さん→押尾」ではなく、「押尾→田中さん」であった場合、当然女性の死因(薬物中毒死)となったMADA摂取の原因は押尾学にあるということになります。ただそれを裏付けるためには、押尾にMADAを渡した第三者がいることが重要ですが、今回逮捕状を取ったからには、捜査当局は既に何らかの有力な証拠なり情報なりを入手しているのかもしれません。
 こうして「麻薬譲渡罪」が確定すれば、次の段階として「保護責任者遺棄致死罪」の立件に持ち込めるはずです。

 いずれにしても押尾事件は、同時期の酒井法子、高相祐一の薬物事件とは根本的に違います。酒井、高相の場合は夫婦間の覚せい剤使用、所持だけの問題ですから、既判決でほぼ決したと見てよいと思います。
 しかし押尾事件の方は、ともかく人が変死した重大事実があります。それが現在のところ何も裁かれていません。その上その全容を知られると困る各方面から、事件もみ消しのためのさまざまな圧力がかけられた疑惑が濃厚です。押尾の麻薬使用、譲渡罪だけで「ハイ、おしまい」では困るのです。というより、それでは法治国家とは名ばかりの「暗黒国家」となって、この国の将来はお先真っ暗です。「この事件の真相解明にこの国の命運がかかっている」くらいの自覚をもって、捜査に当たっていただきたいものです。  (以下次回につづく)

 (注記) 本記事は12月5日付け『日刊スポーツ』などを参考にまとめました。

 (大場光太郎・記)

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薬物汚染の拡がりを憂う(30)

 押尾学、再逮捕へ !

 一連の薬物事件の核心である「押尾事件」、先月の判決公判後ぴたっと情報が途絶え、肝心の「保護責任者遺棄致死罪」での立件はもうないのか、と半ば絶望的な気分になっていました。そんな折り、4日警視庁は押尾学(31)を田中香織さんにMDMAを渡した「麻薬取締法違反(譲渡)」容疑で逮捕状を取りました。

 押尾学は今年8月2日、港区六本木6丁目六本木ヒルズレジデンスB棟2307号室で、MDMAの錠剤を若干量飲んだとして起訴され、11月2日「懲役1年6ヵ月、執行猶予5年」の有罪判決を受けて確定していました。
 警視庁捜査1課の今回の逮捕状は、それに加えて押尾学は同室で変死した田中さんにMADAを渡したというものです。押尾学は同日午後2時半頃から、田中さんと「2人で」室内にいましたが、司法解剖の結果田中さんの血液から相当量のMADA成分が検出され、捜査1課は田中さんの死因を「薬物中毒死」と見ています。

 押尾はこれまでの同庁の調べや公判で、「MADAは田中さんからもらった」として譲りませんでした。事件発生直前押尾が田中さんに送った「来たらすぐいる?」というメールをめぐる、公判における検事との際どいやり取りは『本シリーズ(28)』で既に述べたところです。しかし判決の際、裁判官からは「MADA使用がどのような経緯で行われたのかについての被告の説明は不自然で信用しがたい」と指摘されていました。
 警視庁ではその後の捜査の結果、押尾学は以前から数人の女性に「MADAを渡していた」事実を突き止め、今回の再逮捕となったもようです。

 同時に警視庁は、押尾からの連絡を受け現場に駆けつけた、元エイベックス社員で押尾のマネージャーについても、田中さんの携帯を同マンション玄関前の植込みに遺棄した容疑で逮捕状を取るなど、田中さん変死の前後現場に駆けつけた関係者数人についても取り調べを行うものとみられます。
 よく考えてみれば「警視庁捜査1課」は、専門は「殺人の捜査」です。薬物事犯だけなら、何も麻布警察署に代わってその捜査1課がわざわざ出張ることもないわけです。これは当然その先の、田中香織さんへの「保護責任者遺棄致死罪」での立件を視野に入れているのでなければおかしいのです。それについては、「年内にも立件か」ともみられています。

 今回の件を受けて岐阜の実家の父親が、「とにかく娘の死の真相を明らかにしてほしい」と再度訴えていました。遺族感情としてはすべてこれに尽きるでしょうし、同事件に関心を持つ多くの国民の気持ちも同じです。
 捜査1課は「逃げ得は許さない」と、威勢のいいことを言っているようです。もちろん押尾学の罪状は、とことん暴かれてしかるべきです。しかし先に述べましたように、捜査当局は2307号室には、「田中さんと押尾学の2人がいた」としていることが引っかかります。逆に事件発生当初、同密室には「2人しかいなかった」と断定しているようにも思われるのです。あくまでも「押尾単独の犯行」に限定して捜査し、それ以上は深入りしない方針のようなのです。

 しかし当ブログでも何度も述べてきましたとおり、事件当初押尾以外にかなりの確率で、森元総理の長男の森祐喜や金メダリストの北島康介がいたのではないか?と疑惑の目を向けられているのです。それに田中さんの遺体からは、押尾を含めた「複数の男性の体液」が検出されたというではないですか。
 「逃げ得は許さない」というのなら、なぜ森や北島へ捜査の目を向けないのでしょう?またヒルズ内に複数の“やり部屋”を提供していた、野口美佳の責任はどうなるのでしょう?
 彼らの「逃げ得を許す」ということは、やはり背後に大きな圧力を感ぜずにはおられないのです。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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師走だより(1)

   裏道は風の道なり落葉焚(た)き   (拙句)

 きょう4日はきのうの雨とうって変わって、すっきりした晴れの一日となりました。青い空に時たま白い雲が浮いているだけの快晴といってよい天気です。西の大山の秀麗な姿もくっきりと見てとれます。
   烏啼(からす・な)きて 木に高く
   人は畑(はた)で 麦を踏む
   げに小春日の のどけしや
   かえり咲(ざき)の 花も見ゆ   (文部省唱歌『冬景色』2番)
 昔懐かしい歌が蘇ってきそうですが、「小春日」というには少し風が冷たいようです。この風は、太平洋の遥か北方洋上に発生した低気圧の影響で、そのため北海道から関東地方にまで冷たい風、つまり“北風”が吹きつけてきているためなのだそうです。

 最近は気象衛星からのデータ送信により、日本列島のみならず北極を中心としたユーラシア大陸、北米大陸など北半球全体の冬の予報天気図が示されることがあります。それによりますと現時点で日本列島は、寒気の帯から外れているようです。大寒気団は北極圏からシベリアや中国北部の大陸にずれて伸びているのです。
 それに今度は太平洋の南海上に、この季節には珍しい台風の名残りのような温帯低気圧もあり、それが日本列島への北の寒気団の侵入を阻止している按配のようです。そのため少なくとも年内またはここ何週間は、そう極端な寒さにはならないだろうとみられています。

 もう「木枯らし1号」は吹いたのでしょうか?今年は明らかに木枯らしを思わせるような強風は吹かずじまいだったように思うのですが…。
 ただ12月ともなると、桜並木などはおおむね葉を落とし黒々とした枝の向こうに、きょうの青い空が透けて見えるばかりです。そうして道の端などに吹き溜まった落葉が、風にあおられて舞い上がるさまは、何やら「滅び」の哀れを感じさせます。

 そういえば先月下旬、郷里の2軒の親戚から、ラ・フランスとリンゴがそれぞれ送られて来ました。年末恒例です。リンゴはともかく、ラ・フランスは意外とお思いかもしれませんが、共におらが郷里山形県南陽市の産なのです。
 もっとも私が子供時分は、ラ・フランスなどというシャレたものではなく「洋梨」でした。何となく“子だるま”のような少しユーモラスな形をした梨でした。しかし味は、ラ・フランスと少しも変わりなかったように我が舌は記憶しています。
 ちなみにうちの郷里は、ミカンやバナナやといった南方系の果物こそないものの、桜桃(さくらんぼ)、ブドウ、スイカなど果物類は豊富にありました。他に何も誇るものはありませんが、それら自然の恵みだけは他の地方に負けていなかったと思います。
 郷里では11月初旬文化の日を過ぎたあたり、一度雪が降ったそうです。今はもちろん消えていますが、例年よりも早い初雪で…。電話でそんな故郷の話を聞くことも、年末の贈答の楽しみです。

 午後3時前いつもの中津川堤に降りてみました。近頃居住地近くに246号に接続する道路が開通したため、最近では本厚木方面に行くのにその道を利用し、中津川沿いの裏道はすっかり通らなくなっていました。
 久しぶりで来てみると、中津川はもうすっかり冬ざれた景色です。10月初旬には少し下流の大堰の水門が開けられ、川は幅が10m以下に狭まり細く白々と流れています。東の中空の白い雲の塊りが水面(みなも)に冷え冷えと映っています。川から向こうは、干上がった中州が陸地のように広々と続いています。その砂地の部分に季節外れの青々とした草が生えて広がっていました。

 上流から流れ着いて中州の真ん中辺りで止まって、去年は緑の葉を繁らせていた流木も、今ではすっかり枯れ切っています。水に浸かっていない今は、西日を浴びて何やら悲しげな白い骸(むくろ)のような幹となって横たわっています。
 こちら岸にも中州の上流側にも向こう岸にも、もうすっかり枯れ果てた葦が連なっています。時折り吹きつのる北風にカサコソと音を立てながら揺れるばかり。天辺の穂波がことのほか大きく揺れています。
 時折り川向こうで、カラスの野太い鳴き声が聴かれるかと思えば、どこか知れない所から微かな小鳥のさえずりが聴かれることもあります。

 冒頭の句は、もう7、8年も前に作ったものです。中津川方面に向かう裏道の、今頃の風物を詠みました。ある曇りの午後、その道に車でさしかかると、その道を伝って上手(北)から煙がもくもく流れてきたのです。その辺は昔ながらの旧農家が立ち並んでいます。各屋敷内には樹木がいっぱい繁っており、この季節落葉の手入れも大変なことでしょう。
 だから私はその煙から咄嗟に「落葉焚き」を連想し、あまり苦労なく出来た一句です。これが数年前の「俳句の国三重“風の一句”」で佳作入選したのです。都合20句ほど応募し、私のお気に入りは実は別の句でした。しかし分からないもので、この句が選ばれたわけです。審査員にしてみると、「裏道を伝って流れる“落葉焚き”の煙がよく見える句だ」ということだったのでしょうか。
 なお毎年の「風」「水」「山」「音」「遊」などのテーマごと、角川学芸出版社から一冊の本として発行され、最優秀賞から佳作までの作品が収録されています。当ブログが忙しくなって、去年から応募できずにいます。

 (大場光太郎・記)

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かなえの殺人レシピ(15)

 父親が突然の謎の死

 木嶋佳苗がオークション詐欺で逮捕されたのは‘03年3月、佳苗が28歳の時のことでした。その2年後今度は身内に不幸な事態が起こります。佳苗の父親が交通事故を起こして突然亡くなったのです。佳苗のみならず、一家全体の運命が大きく暗転していくきっかけのような出来事でした。

 父親が亡くなったのは‘05年8月。享年60歳。それはいささかミステリアスな死でした。
 地元住民の話によると、父親はある日突然行方不明になったというのです。そして数日後、標津(しべつ)町から羅臼(らうす)町に向かう国道335号から、崖下に転落している車の中で、遺体となって発見されたのです。現場は国後(くなしり)島が望める見通しのいい直線で、父親の乗っていた乗用車はガードレールを突き破り大破していたといいます。
 父親の知人は「出張で羅臼に行ってから連絡が取れなくなったと思ったら、“海岸沿いの道路わきから転落している主人の車が発見された”と奥さんが言っていた」と当時を振り返ります。遺書などはなく、現場の状況から警察は事故死として処理しました。

 しかし地元では違った見方をしていました。生前親交のあった人物は「慎重でまじめな性格だった。事故を起こすような無謀な運転をするとは思えない。ただ、亡くなる前いくつかの理由が重なって軽い“うつ状態”だった。自殺か事故かはっきりしていないが、それが関係しているのは間違いない」とはっきり「自殺」という言葉を出しています。
 自殺との見方が取りざたされたのには、ワケがありました。佳苗の父親は別海町でただ1人の行政書士でしたが、その父(佳苗の父方の祖父)は既に見てきたとおり、現在でも司法書士事務所を経営しかつて別海町議会議長を3期も務めたほどの名士です。先代から地元で名の通った人物だったにも関わらず、「葬儀の後で新聞に載ったのです。これは異例のことで、こちらでは死後すぐに“葬儀はいつ、どこで営まれる”との広告が出るのが通例ですからね。父親の葬式は生地である中標津の寺で営まれましたが、会葬者は70人ほど。あまり多くの人を集めたくない理由でもあったんじゃないかと勘ぐられ、そのため自殺説が広まったんです」(関係者)

 父親の死に、佳苗の詐欺事件が影響していたのでしょうか?「それもあったかもしれない」とある地元の人は言い、次のように続けます。「父親はしつけに厳しく、佳苗をよく大声で怒鳴りつけていたほどの人でした。いかに執行猶予で済んだとはいえ、佳苗が犯罪に手を染めたなどとなったら死を選んでも不思議ではない」。
 しかし中には別の見方をする人もいます。「子供たちが親元を離れて全員関東地方に出て以降、夫婦仲は疎遠になっていた。奥さんはご主人が亡くなる3年ほど前に家を出て、コンビニでバイトを始めています。ご主人は年老いた実父の事務所を手伝いながら司法書士の勉強をしていましたが、“なかなか資格を取れないので、親を楽にさせてやれない”と独りで悩んでいました。私はやはり、あれが事故死だったとは思えない」。

 父親の同業者の立場から言わせていただければ。父親には「司法書士事務所を引継がなければならない」という至上命題があったわけで、対世間的なことからも司法書士資格が取れなかったことの方がより深刻な悩みだったはずです。もし仮に“自殺”だったとしたら、佳苗の詐欺事件への悩みがあったにしても、私はそちらの理由だった可能性が高いように思われます。
 ただ大出嘉之さん中毒死以後、佳苗の徹底的「行動確認」を開始した埼玉県警では、捜査員がはるばる現場となった北海道羅臼町にまで足を運ばせています。「父親の死も木嶋周辺の不審死の一つなのか、その可能性を念のため調べたが、関連性は確認できなかった」とは捜査関係者の話です。

 ところで父親の死後、木嶋家の墓を東京に移しています。親戚筋の人は「子供たち4人全員東京に来ていたし、奥さんとは別居中だったこともあり、お墓を北海道から東京に移した」のだと言うのです。
 同家の墓は、台東区浅草の名刹・東本願寺境内にあります。父親の遺骨はこの墓に埋葬されたのです。墓所は0.3㎡、永代使用料は245万円。その他墓石代や納骨棺などを含めればざっと400万円は下らないと見られています。
 この墓の建立者の名義は佳苗の弟(長男)になっていますが、実際の購入者は佳苗だというのです。

 佳苗の友人は、「彼岸や命日にしょっちゅうお参りに行っているようでした」と話しています。また自宅の仏壇の父の位牌にも毎日手を合わせていたといいます。ある地元関係者は、「長女(佳苗)は性格や外見はかっぷくの良い父親に似ていた。お父さんの頭の良いところを継いだとは思うが、妹たちの方が母親似で体も細く外見的には可愛らしかった」と話しています。生前の父親は「パイプをくわえたダンディな風貌だった」と語る住民もいます。
 ただ一人父親似の佳苗は、取分け「父親っ子」もっと言えば「エレクトラコンプレックス(ファザーコンプレックス)」のようなものを心の奥深くに持っていたのかもしれません。中学時代からずっと年上の男性が好みで、援交相手ももっぱら中年男だったことを考えると、それは「秘められた父親愛」の代償行為だったと考えられなくもありません。

 ともかく。問題は佳苗がそんな大金をどうやって工面したのか?ということです。これはもう言わずと知れたこと。「詐欺」によって得た金の一部を充てたとしか考えようがないわけです。多分時期から見て、千葉県松戸市の福山定男さんに騙(かた)りまくって詐取した大金の一部だったものと思われます。
 そんな汚れた金で購入した立派な墓に埋葬してもらっても…。果たして父親はどんな心地でその下に眠っているのでしょうか?  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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「流行語大賞」に思うこと

 こういう話題を目にし耳にすると、『あヽもう師走か。今年も後わずかで終わりなんだな』と実感させられます。『09ユーキャン話題・流行語大賞』の表彰式が1日都内で行われたというのです。最終的にトップテン入りした中から、今年の流行語大賞に選ばれたのは「政権交代」。
 8月30日の総選挙で、民主党だけでも単独過半数を遥かに超える308議席という大勝利を収め、自公政権から民主党中心の鳩山連立政権へ。政権交代が現実のものとなりました。国民の圧倒的な支持を受けて誕生した新政権だけに、この「政権交代」が流行語大賞になるのは十分予測できました。

 そういえば選挙期間中は、我が街の到る所でも、「政権交代」という4文字を大書したポスターが掲げてあるのが目につきました。それにしても4年前は「郵政民営化、イエスかノーか」そして今回は「政権交代」。“ワンフレーズポリティックス”と揶揄(やゆ)気味に論評されたように、近年はこのような短くて分かりやすい政治用語が「国民受け」する傾向にあるようです。

 そもそも「ワンフレーズポリティックス」を最初に言い出したのは、誰だかご存知でしょうか?他ならぬあのアドルフ・ヒットラーなのです。確かヒットラーの自著『我が闘争』の中でだったかと思いますが、「大衆は難しい理論を訴えても分かりはしない。そこで、耳になじむ簡単な言葉を繰り返し呪文のように訴え続けることが必要なのだ」と説いています。
 それを文字通り実践したのが、ナチスの宣伝相だったヨーゼフ・ゲッペルスです。ゲッペルス演出のヒットラー演説に当時のドイツ民衆がどれだけ熱狂したか、そしてその後どうなっていったかは歴史の示すとおりです。

 小泉元総理の懐刀といわれた飯島勲総理秘書官あたりが、小泉政権を長期化するため『我が闘争』を参考にした形跡があります。その直接的成果が「郵政民営化、イエスかノーか」であり、「政権交代」もその間接的影響下にあったとすれば…。
 私たちは時々の権力者から「愚民」「愚衆」と侮られないためにも、ワンフレーズなコトバの繰り返しは今後とも「要警戒」と考えた方がよさそうです。

 今年の流行語大賞を受賞しましたが、政権交代がなって3ヶ月余経過した今、肝心の鳩山内閣は四苦八苦です。まず鳩山首相自身の偽装献金問題では、次々に新たな疑惑が明るみに出され弁明に大わらわです。野党に転落した自民党はこの時とばかりに、実母から5年間で9億円にも上る資金提供がなされた件を突いて、「まるで偽装こども手当てだ」と攻め立てています。
 それに対して、今や鳩山内閣中最大の名物大臣・亀井静香金融担当相は、「首相は政治献金の問題で辞めることは絶対ない。もしあるとすれば、景気対策を間違えた時だ」と妙な確信をもって断言しました。(ちなみに、早くも一部観測筋からは「鳩山の次は亀井だ」というような話も漏れ伝わってきています。)

 やはり何といっても、現政権にとって焦眉の急なのが「景気対策」です。他にも難問山積ですが、これ一つ取ってみても、ここに来て降って沸いたような「ドバイショック」がまたも全世界を駆け巡り、我が国も80円台前半という超円高、そして株価は1万円台を割り込んでしまって。その上またぞろデフレスパイラルに陥りそうだというし…。
 国民消費者の多くが、「近々二番底が来るんじゃないの?」と不安に怯えて消費を手控えています。新政権発足間もないので致し方ありませんが、(他の分野でもそうですが)とにかく「対応が遅い」気がします。特に景気対策の分野では、スピーディに有効な手を打っていかないと大変な事態も招きかねません。景気の不透明感によって国民消費が落ち込む、景気がますます悪化するという悪循環では困ります。

 時に「内閣不一致」と非難されるほど、各閣僚が自由に発言しています。それはいいとして、それをまとめ意見集約する「司令塔」となる人物が不在のようです。それが内閣としての意思決定が定まらず、もたついた印象を与える大きな要因のように思います。結局は鳩山首相のリーダーシップに帰着することながら…。

 その他流行語のトップテンには「こども店長」「事業仕分け」「新型インフルエンザ」「草食男子」「脱官僚」「派遣切り」「ファストファッション」「ぼやき」「歴女」が選ばれました。
 「こども店長」は、当ブログ記事『天地人シリーズ』でも度々取り上げましたが、直江兼続の幼少時代の与六を演じた加藤清史郎君。「こんな所来とうなかった !」の名ぜりふは全国のお茶の間の喝采と涙を誘い文句なしです。またそれに関連して「歴女」。しかしだからといって、「レキジョ(歴史大好きОL)」におもねって、大河ドラマにイケメン俳優ばかりをずらっと並べてはいけません。ドラマが壊れてしまいます。

 「草食男子」。若い頃から気弱な草食男子系だった私としては、「肉食女子」の恐るべきパワーと逞しさ、骨身にしみて分かっておりますです、ハイ。「脱官僚」。これこそがまさに政権交代の意義の一つでした。「官僚支配」では、世の中どうにも立ち行かなくなっていることはもう自明の理です。しかし政治家vs官僚のバトル、せめぎあいは当分続いていくのでしょう。「ぼやき」。野村克也ファンの私は、元監督の試合後の“名ぼやき”たっぷり聞かせてもらいました。残念なのは私が予想した、野村楽天vs落合中日の日本シリーズがとうとう見られなかったことです。原巨人と梨田日ハムという逆目になってしまって。結果読売巨人軍の7年ぶりの日本一だそうで、一応「おめでとうございます」。しかし漏れ聞くところでは、読売総帥の渡辺恒雄が何かの会で「巨人は“V10”する」とぶち上げたとか。これには「ぼやき」を通り越して「怒り」を覚えます。

 また結果としてトップテン入りはしませんでしたが。年初から『薬物汚染シリーズ』など事件モノを扱ってきた私としては、その関連のコトバも入れてほしかったなと思います。
 例えば「MADA」「事件性なし」「のりピー失踪」「結婚詐欺」「婚活サイト」「睡眠導入剤」「練炭」「市橋ギャル」等々。しかしそれでなくても暗い世相、これ以上暗くなるようなコトバを取り上げるのはマズイ、という高度な判断が働いた結果外されたものなのでしょうか?

 (大場光太郎・記)

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かなえの殺人レシピ(14)

 佳苗は28歳の時「オークション詐欺」で逮捕されていた

 上京して主に都内目黒区で転居を繰り返した後、木嶋佳苗が次に借りたのが板橋区徳丸のマンションでした。マンションは55㎡の2LDK。
 同マンションの不動産関係者は語ります。「‘02年に入居した時は“ピアノ講師”だと話していた。大学生の妹さん(首都圏の音大に通っていた三女)と2人で一緒に暮らすということで、シーズー犬も一匹連れていました」。
 当時佳苗は27歳。しかし服装は地味で若々しさはなく、パッと見は40代の中年女性に見えたそうです。当時の佳苗をよく見かけたというマンション住人は、「どことなく陰気な感じがした」と話しています。

 不動産関係者は続けます。「(入居後)半年くらい経ってから、月13万5千円の家賃を滞納気味になった。最大で4ヵ月溜まったこともある。催促するとお詫びの手紙がポストに入っていたことが何度かあり、文章はしっかりしているものの、会うと目を合わせず逃げるような人だった。一度は保証人の父親に電話をして振り込んでもらった」。
 高校の卒業文集に「嫌いな人 不潔、貧乏、バカ」と書いた佳苗でしたが、定職にも就かない東京での“漂流生活”から、佳苗自身が「貧乏」に追い込まれていくことになります。「貧すれば貪す」とは言うけれど、佳苗の場合は「貧すれば“詐欺”す」になってしまいます。

 そんな中佳苗はネットオークションで詐欺をはたらき、その事実が発覚して逮捕されたのです。その「オークション詐欺」の次第は以下のとおりです。
 佳苗は早くからネットを活用していたとみられます。‘01年1月ネットのオークションサイトで「パソコン売ります」と告知をして、八丈島に住む男性に偽名の口座に10万円を振り込ませ、結局パソコンは送らなかったというものです。佳苗は似たような手口で、短期間に都合120万円を荒稼ぎしていたのです。

 その事実が発覚して、‘03年3月佳苗は警視庁に逮捕され、「懲役2年6ヵ月、執行猶予5年」の有罪判決を受けています。当時佳苗は28歳でした。
 上記関係者は続けます。「明るくて対照的な妹さんから、“姉が出てくるまで住まわせてください”と言われ、契約解除はしませんでした。彼女が執行猶予をもらって出てくると、手紙をよこしたんです。“疑いが晴れました。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした”などと丁寧な字で書かれてありました」。「しかしその後も家賃の滞納が続いたため、“退去してほしい”とお願いすると、‘06年10月に転居しました。“実家に帰ります”と言うことでした」。

 以下はマンション住人の話です。「ピアノ講師として入居してきたようです。講師らしく落ち着いた感じでした。入居当初は普通の体形でしたよ」。それが時の経過とともに、佳苗はどんどん太っていくことになります。その変わりようは分かりやすかったようです。ネットオークションの履歴を見ますと、‘01年にはMの服、‘02にはLの服、‘03年にはLLの服。詐欺を常習とするようになってから“実入り”がよくなり、家賃の支払いには当てずにもっぱらグルメ三昧に走っていったということでしょうか?
 住民はまた、「ネット詐欺で逮捕された時は太っていました。ネットでパソコンや服を売買していたようで、ゴミ捨て場にダンボールを捨てていた。置いちゃいけない日なのにダンボールをドッサリ捨てるものだから、近所でトラブルになった。話し合いにも応じなかった」と、徐々に反社会的傾向を強めていった佳苗の当時のようすを語っています。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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かなえの殺人レシピ(13)

 まるで漂流のような“憧れ”の東京生活 

 木嶋佳苗は、1993年(平成5年)3月地元の北海道立別海高校を卒業と同時に、憧れの「東京人」になるべく上京してきました。いくら「TOKYOは、いつもドキドキし続ける街」ではあっても、一時的な“おのぼりさん”でもあるまいし、若者が地方から上京するからには、「就職か、進学か」このいずれかの目的があったはずです。
 しかし佳苗の場合これが今ひとつはっきりしないのです。高校に届け出た就職先として、「ケンタッキー・フライド・キチン」とあったようです。しかし同社では佳苗の在籍記録は確認できないようです。

 前回の「生い立ち(2)」で「佳苗は私書箱を設けて、男たちと連絡を取り合っていたようだ」と話した地元住民は、佳苗の上京の動機を次のように話しています。「別海町の農家の息子、と言っても40がらみの中年男ですけど、彼が東京に出たので彼を追いかけていったということでした。やがて男は地元に舞い戻り、縁は切れたそうですがね」。
 もしかして佳苗が卒業文集に書いた「だんな様に尽くす素敵な奥さんになるんだもん」と述べたのは、その辺の事情があってのことだったのでしょうか?今となっては佳苗本人にしか分からないながら、それにしてもそんないい加減で不純な動機の上京を厳格な両親が許したものです。もっともこの頃では、佳苗は両親も手がつけられないほどのモンスター少女になっていたのでしょうか?

 足取りがはっきりしない中、上京間もなくは埼玉県朝霞市に住み同年7月には都内目黒区祐天寺(家賃10万円)に転居、そして2年後の‘95年9月には同じ目黒区中町(家賃8万円)に転居した事実があるようです。
 そして上京から3年後佳苗が21歳の‘96年(平成8年)、東洋大学経営学部経営学科に入学しています。しかし同大学広報部によりますと、「記録上は学費未納のため‘97年3月除籍になっています。習得単位はゼロで、ほとんど大学に通っていなかったのかもしれません」とのことです。
 もし佳苗自身に学費納入が困難であれば、富裕な実家のこと父母に頼めば仕送りなどで何とかなったはずです。佳苗には「大学に入って経営学を真剣に勉強しよう」などという気は最初からなかったのでしょう。では何のための入学だったのか?首をかしげざるを得ません。

 いずれにしても、東洋大学除籍後ほとんど定職に就いた形跡が見られません。そんな中ネットの大手掲示板「2ちゃんねる」に、事件発覚直後の10月29日午後5時頃、佳苗の“元セフレ”を名乗る人物による、「こいつ(佳苗)と付き合っていたことがある」との書き込みがあり、びっくり仰天の佳苗の当時の東京生活の一端を暴露しています。
 その男性の話から判断しますと、東洋大除籍後1、2年経った‘99年から‘00年、佳苗が24、5歳の頃のことのようです。この男性と佳苗の出会いのきっかけは、何と「吉原の風俗店で働いていた時の客と従業員」としてだと言うのです。店名や源氏名もアップされているようです。
 店名はともかく。同店は当時を知る関係者によりますと、いわゆる“デフ専のソープランド”で、今から7年ほど前の‘02年に閉店したそうです。当時“ソープ嬢”としての佳苗の源氏名は「さくら」。20代を通して「吉川桜」「吉川さくら」という偽名を多用していたことは、福山定男さん、安藤建三さん事件などで既に見てきたとおりです。

 同男性の記述はかなり具体的です。「さくら」こと木嶋佳苗は男性に「朝霞に住んでたんだけど、うるさくなって、祐天寺などへ引越しを繰り返した」「シーズー(犬)のサークルを主催してたんよ。その関係でのお友達もいっぱいいた」などとプライベートな部分にもかなり突っ込んだ内容です。
 さらに書き込みには、「(バストは)Dですね。アンダーバストがあれだけあるんだからGくらいあってもよさそうですが。肌は普通です。でぶにありがちな吹き出物だらけというようなことはありません。(以下は生々しい記述のため省略)」というような、実際性交渉を持たなければ書けないような記述もみられます。
 とにかく佳苗は、「憧れの東京」で、現実に生きるのに精一杯の生活だったようです。そのため中学時代から身につけた“援交の技”を生かして、時に性的サービスもしていたということなのでしょうか?

 反面上記男性の話の中にも出てきましたが、佳苗はある時期独居老人などを相手に「シーズー犬の斡旋業」を営んでいたと見られます。都内に住むある女性(29)は話します。なお佳苗は‘02年春頃から、都内板橋区徳丸(家賃13万5千円)に引っ越しています。
 「(‘01年初め頃)シーズー犬を飼いたくなってネットで調べていたら、<シーズーサークルカインド>というHPを見つけたのです。“子犬紹介”“飼育相談”などと書かれていたので、すぐにメールで連絡を取り合いました。そのサークルの代表者は、吉川桜という女性になっていました」。吉川桜こと木嶋佳苗はこの時26歳。「彼女からは、次のようなメールがきました。“うちでは特に、お年寄りにシーズー犬を斡旋しています。セラピー犬として一人暮らしのお年寄りに譲るのです。慰問といいますか、私がシーズー犬を連れて老人ホームを訪れることもあります”」。

 偽名を使って独居老人に…。何やら後の事件を想起してしまいます。
 実際、<国立音大卒で今はヤマハに勤務していますが、ケンブリッチ大学に音楽留学したいと思っています。資金援助してくれる方を探しています。 吉川 さくら>の婚活サイト書き込みをして、千葉県松戸市のリサイクルショップ店主で“独居老人”の福山定男さん(当時70)と初めて接触したのが、この‘02年のことでした。
 この時の板橋区徳丸賃貸マンションの家賃を、佳苗は度々滞納しています。シーズー犬サークル主宰というまっとうな仕事ではダメ、かといってソープ嬢になってもなお思うように稼げない。『ならば…』と、「詐欺」という犯罪の道に傾いていったのがこの頃のようです。

 しかし当時の佳苗には怪し気なようすは全く見られなかったといいます。「雄の子犬を12万円で購入することに決め、引き取るために板橋区内の彼女のマンションに行きました。彼女は“品の良いオバチャン”という印象でした」とその女性。「髪を肩までのばし、化粧っ気はなし。ソファーの周辺に色とりどりの動物の縫いぐるみが並んでいる以外は部屋も普通でした」。本当の職業は“ピアノ教師”と言っているにも関わらず、部屋にピアノがないのを不思議に感じたそうです。
 「ただ犬に関する知識は本物でした。ある時、犬の耳が臭いので彼女に相談したら、即座に“それは耳ダニです”と。獣医さんに診てもらったら、実際耳ダニと言われました。彼女とはその後4年間くらいは連絡を取り合っていましたが、当時はまさかこんな事件を起こすようには全く見えませんでした」。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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『坂の上の雲』第1回を観て

 NHKが“プロジェクトJAPANスペシャルドラマ”と銘うって、鳴り物入りでスタートした『坂の上の雲』(第1部)第1回目。
 「鳴り物入り」というのも、同ドラマの制作発表は7年も前のこと、撮影期間も既に3年もの長期に及んでいる超大作だからです。そしてロケ地は現在ロシア、中国、イギリスなど海外8ヵ国と国内22都道府県にも及ぶスケールです。それに1話90分当たりの制作費は1億円規模、通常の大河ドラマ1話当たり6千万円を軽く超えています。
 全3部-13話を3年かけて逐次放映していく予定です。ちなみに今年は年末の27日(日)まで<第1部>5回分が放映されます。

 29日(日)夜8時から始まった第1話は、やがては日露戦争へとうねりのように高まっていくこのドラマのプロローグでした。欧米からは「サル」と揶揄されながらも、その欧米列強をおおまじめで見習い、近代国家としてスタートしようとしていた明治新政府。そんな明治期の青春群像のモデルケースとして、伊予松山藩士の3人の子弟たちがこの物語の主人公です。元下級藩士で愛媛県庁のお役人の秋山久敬(伊藤四朗)の長男の秋山好古(阿部寛)と弟の秋山眞之(本木雅弘)。そして少しましな元上士・正岡常尚の長男の正岡子規(香川照之)。

 第1回の「少年の国」は、松山でのまさに少年時代を中心に描かれていました。このドラマは特に秋山真之を中心に進めていくようですが、真之らの破天荒なやんちゃぶりには、我が子供時代も懐かしく思い出され、『オレももっと羽目を外しておけばよかったなあ』と思わせられました。(ただし「少年の国」の本意は、当時の日本は帝国主義の真っ只中の西欧列記という「大人」たちに囲まれた「少年の国」ということのようです。)
 秋山兄弟の父役の伊藤四朗そして母役の竹下景子。なかなか良い味を出していました。それに子規の母(原田美枝子)と妹(菅野美穂)は、後に予期せぬことで共に上京することになります。

 ところで3人の出身県の愛媛県松山市は、同ドラマで大盛り上がりのようです。作品ゆかりの地を巡るツアーが企画され、箱モノ施設「坂の上の雲ミュージアム」は休館返上の大忙し。日銀松山支店は、ドラマ化の経済効果を150億円とはじき出しているそうです。

 この3人、後にいずれも近代日本史に残るような偉業を各人の立場で打ち立てていくことになります。しかし曲がりなりにも「武士」という当時の特権階級の出ではあったものの、どちらかというと下級武士の子せがれたち。そして幕末・明治維新という動乱によってそんな身分保障も吹っ飛んでしまいました。そんな立場の士族の子供たちは、全国的に他にも大勢いたわけです。
 ドラマでは、彼らの暮らしの貧窮ぶりを余すことなく伝えています。彼らだけが予定調和的に「銀のスプーン」をくわえて生まれてきたわけではない。なのになぜ傑出した事業を為すことが出来たのか?伊予松山藩は進取・独立の気風が他藩に勝っていたのだろうか?ドラマの進行と共に探ってみたいところです。

 しかしいくら下級武士の子せがれとはいっても、貧乏町人や百姓の子せがれと決定的に違う点が一つだけあります。彼らには長ずるに及んで「学問」をする機会が与えられていたことです。「学問、知識、情報が“世界”を制す」というもので、後は本人の「向学心の有無」の問題だけで、当時の一般大衆に比してこの差は決定的だったはずです。
 そのとおり、3人とも10代半ば過ぎ次々に故郷松山を後にし東京に上って行きます。好古は大阪師範学校から東京の陸軍士官学校へ。子規と真之は東京帝国大学予備門へ。

 第1回後半は、東京での彼らの生活ぶりに移ります。開化期がやや過ぎた明治20年に少し前の、和洋折衷式の変てこな帝都の姿も垣間見られて興味深いところです。秋山兄弟が下宿しているのは、格式高い旧旗本の佐久間正節家のお屋敷で、後に好古の妻となる深窓の令嬢多美(松たか子)もいます。
 予備校の神田共立学校の英語教師が、何と後の「だるま宰相」高橋是清(西田敏行)で。子規は帝大で後に夏目漱石と無二の親交を結ぶはずで、第2回以降がいよいよ面白くなりそうです。

 なお何でも同じ時間、裏では(逆の立場からすれば『坂の上の雲』こそ裏かもしれない)、「因縁の対決」といわれた内藤大助vs亀田興毅のWBC世界フライ級タイトルマッチが中継されていたようです。今回は派手なパフォーマンスもなく、終始落ち着いた試合運びをした亀田が、12回3-0の判定で、チャンピオンの内藤を破ったとか。亀田にとってはこれでライトフライ級に次いで悲願の2階級制覇を達成したわけで、まずはめでたし、めでたしでしょう。(ただし亀田の真価が問われるのは、次の防衛戦か?)
 同試合があるというのは何となく分かっていました。亀田ファンには大変申し訳ないながら、『あのクソガキが』という思いが強い私はとても見る気がしませんでした。内藤も薬物の噂がちらほらあるし…。しかし世間一般は決してそうではなかったようです。同中継の視聴率が、当節としては驚異的な「43.1%」を記録したとか。『坂の上の雲』などは録画でも再放送でもいつでも観られる、しかしああいう試合はリアルタイムで観てこそのもの。その差だったのでしょう。ここのところ不振にあえぐTBSとしては、「亀田様々」といったところでしょうか。

 最後はとんだ余談になってしまいました。『坂の上の雲』次回が楽しみです。

 (大場光太郎・記)

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