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時の話題(4)

 三国志の英雄・魏の曹操の遺骨発見 !?

 中国国営テレビによりますと、中国河南省文物局は今月27日、河南省安陽市安陽県で後漢末期の政治家で、三国時代の魏の基礎をつくり三国志中の英雄として知られている曹操(155年~220年)の陵墓を発見したと発表しました。
 陵墓からは60歳前後とみられる男性の遺骨が見つかり、専門家によると60代で死亡した曹操本人のものだということです。

 曹操の陵墓の所在地をめぐっては諸説あり、これまで特定されていませんでした。そういえば後代の元の基礎を築いたチンギス・ハーンの陵墓も分かっていません。これは死後陵墓が暴かれることをおそれ、容易に発見されない場所に埋葬させたためと言われています。中国では古来、帝王や王族の陵墓に対する副葬品目当ての「墓荒らし」が横行していたのです。

 曹操は晩年は魏王を名乗ったものの、後漢最後の皇帝・献帝の丞相(じょうしょう)という政治的最高権力者の立場にとどまりました。死後長子の曹丕(そうひ)が後漢を終わらせ皇帝となって魏を建国しますが、その際父曹操に「魏武帝」という名を贈り帝王の列に加えました。
 曹操は建安25年(220年)病で世を去りますが、遺言は「戦時であるから、喪に服す期間は短くし、墓に金銀を入れるべからず」だったとされます。帝位をうかがおうかという地位にありながら、自分の死を飾らない曹操の最後まで透徹した合理主義者としての一面を見る思いです。しかし曹操には、公に目立つ陵墓に葬られて荒らされたくないという思いもあったのではないだろうか、と推測されます。

 今回の発見で、「曹操に関する謎が解明されるのでは?」と期待されています。陵墓は面積740㎡。2つの墓室などがあり、短剣や水晶、石碑などの副葬品が200点以上出土しました。その意味では、「華美にするでない」という遺言にやや背いた形ですが、子の曹丕らとしては偉大な父を最大限弔いたいという発露からだったのではないでしょうか?
 とにかくその中には、おくり名である「魏武帝」と刻まれた銘文も含まれており、曹操の陵墓であることを示す根拠の一つとなったと言われています。

 ところで話は変わってー。我が国の「三国志ブーム」のきっかけとなったのは、吉川英治の『三国志』でした。吉川は確か長大な同書のあとがきで、「三国志演義という百年物語の主人公は“悠久の時間”である。しかしそんなことを言ってしまえば身もふたもないから、何千人にも上る登場人物の中から、あえて主役を挙げるとすれば曹操と諸葛孔明ということになるであろう」として、晋による三国統一を待たずに、孔明の五丈原(ごじょうげん)での陣没をもって吉川三国志を終わりにする理由としていました。
 三国時代のことが民間伝承や口伝といった形で民衆に語り告がれていく間に、やはり“判官びいき”はどこの国にもあるらしく、三国のうちでも最弱国で後漢の血を引きその再興を願っていた蜀(しょく)の劉備玄徳や、その死後無能なその子劉禅を必死で補佐し、五丈原で果てた諸葛孔明の比類ない忠義心に同情や支持が集まったものなのでしょうか。

 その過程で曹操は、すっかり敵役、悪役にされてしまった嫌いがあります。今春封切りが終わった映画『レッドクリフ』も、当然のようにそれを踏襲していました。しかし曹操こそは、実に「魅力的な悪役(ヒール)」と言うべきです。
 思えばもし仮に曹操無かりせば、後漢の大乱世はさらに長引き民衆の塗炭の苦しみが際限なく続いたことでしょう。曹操の大野望とは、「王道」ならずして「覇道」だったかもしれません。しかしそのため曹操は、早くから帷幕のうちに武官、文官の有能の士を広く天下から集め、意のままに使うことができました。孫子の兵法だったかに、「兵に将たるは易く、将に将たるは難し」とあったかと思いますが、まさに曹操は「将に将たる大器量人」だったものと思われます。

 確かに覇道遂行の過程では、例えばその父が殺された報復として徐州を攻め、無辜(むこ)の民衆を数万人あるいは十数万人虐殺したというような冷酷な一面がありました。しかし曹操は何より、優れた政治家であり軍略に優れた兵法家であり、なおかつ次男の曹植とともにその時代を代表する詩人でもあったのです。
 私には曹操は、我が国戦国時代の信長、秀吉、家康を全部足してもなお余りあるようなスケールの大きな人物だったような気がします。曹操という敵役あっての『三国志演義』とも思います。

 曹操の死に至るエピソードをご紹介したいと思います。
 曹操は最晩年脳の病に冒されて亡くなったと言われています。その快癒のために、中国史上の名医として名高い華陀(かだ)を魏に招きます。華陀は今でも華陀膏(かだこう)という薬があるくらいですから、当時も大評判で、一時は肩に毒矢を受けた荊州(蜀の一州)鎮護の関羽を治療したこともありました。
 曹操の病状を診た華陀は、「丞相、脳の外科手術を行いましょう。脳を切開するのです。さすれば丞相の御病たちまちに快癒致しましょう」と言います。ところがさすがの開明家の曹操も、これには驚き怒り「貴様、このワシを殺す気か」と華陀を投獄してしまいます。獄中で華陀は拷問を受け獄死。しかし華陀は、曹操の病が今風に言えば脳腫瘍であることを見抜いていたのです。ですから脳を切開して腫瘍摘出を勧めたわけです。もし曹操が素直に快諾していれば、中国はもとより人類史でも最初の脳外科手術となったことでしょう。しかし曹操はそれを拒否し、結局それが原因で亡くなったのでした。

 話はさらに少し前に遡ります。魏の首都・許昌のある宮殿造営か何かで、遠い村の樹齢数千年という鬱蒼たる巨木がどうしても必要になりました。都から木の切り出しに役人たちが遣わされます。役人たちは村の人々に木を切るよう依頼しますが、「とんでもない。この木は神霊が宿るおそるべき木で、これまで村中で大切に守ってきたのです。もし切るようなことがあれば、どんな祟りがあるか分かりません」と、誰も近づこうとはしません。
 そこで仕方なく役人たちが斧を持って、その木を切りにかかります。しかしどうしたことでしょう。まったく歯が立たないのです。何度やっても同じなので、役人たちは都に帰ってありのままを上に報告します。それを聞いた曹操は、元来進歩的な人でそんな迷信をハナから信じる性質(たち)ではありません。「ならばワシが参ろう」ということになりました。

 巨木に近づいて曹操は斧をエイヤッとばかりに振り下ろします。すると斧はグサッと木に食い込みました。と、樹液どころか人間の鮮血のような真っ赤なものが吹き出してきたのです。これにはさしもの曹操も驚き、早々と逃げるようにして都に帰ってきたと言います。
 曹操が俄かに重い病を得たのは、その晩からだったと伝わっています。

 (大場光太郎・記) 

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