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冬の名句(1)

                   加藤 秋邨

   木(こ)の葉ふりやまずいそぐなよいそぐなよ

 …… * …… * …… * …… * …… * ……
《私の鑑賞ノート》
 加藤秋邨(かとう・しゅうそん) 明治38年東京生まれ。本名加藤健雄。昭和6年誘われて秋桜子の「馬酔木(あしび)」に投句。昭和14年第1句集『寒雷』を刊行。昭和15年俳誌「寒雷」を創刊、主宰となる。第9句集『まぼろしの鹿』で第12回蛇笏賞、第11句集『怒涛』で第2回詩歌文学館賞を受賞。ほかに第1回現代俳句大賞、紫綬褒章、勲三等瑞宝章、朝日賞受賞。『加藤秋邨全集(全14巻)』ほか、芭蕉の研究など。芸術院会員。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 この句における{木の葉」は冬の季語で、「落ちてしまった葉、あるいは樹上にとどまってまさに落ちんとする枯葉」のことです。この句は平明な句で、説明など必要としないだろうと思います。初冬、木の葉がはらはら降り止まないのです。そのさまを眺めながら加藤秋邨は『いそぐなよいそぐなよ』と思って見ているわけです。「急ぐなよ急ぐなよ」ではない、ひらがな言葉の呼びかけが、実によく秋邨の想いを伝えていると思います。

 О・ヘンリーの感動的な名短編に『最後の一葉』というのがありました。明日をも知れぬ重病の少女・ジョンジーが床に臥せりながら、隣の壁の蔦の枯葉に自分の命を同化させて残り葉を数えます。「あと6枚、5枚、4枚…。最後の一枚が落ちてしまうと、私も逝くんだわ」。しかし何という奇跡か。夜通しの雨嵐にも関わらず最後の一枚だけが落ちずに残っていた。それに勇気づけられたジョンジーは、見る見る元気を回復し死地を脱する…。
 やはり樹木から切り離されるようにして落ちていく木の葉には、「生命」との断絶というようなことを感じさせます。私たちが死ぬということは、肉体から「魂(たま)の緒」(シルバーコード)が切られ、魂(たましい)が静かに離れていくことであるように。

 ところで。私は先月下旬の晴れたある夕方、「木の葉ふりやまず」の情景に立会いました。所用で隣町のI市に行った時のことです。ある社の用事が済んでの帰り、とある住宅地内の道路を通ったのです。すると道路の両側に落葉がいっぱい吹き溜まっています。
 道路に接した小さな児童公園の木々が降らせた木の葉です。その公園はひっそり閑(かん)として人一人いません。時刻は午後4時少し前。眺めれば座れるベンチもありそうなので、私は車を停めて公園の中に入って一服することにしました。

 児童公園は普段あまり人が来ない上に、自治会の掃除も行き届いていないようです。というのも、公園の地面には落葉が一面に積もり放題なのです。周りには5階建てくらいの大きなマンションやら、住宅がびっしり建て混んでいるのにです。
 しかし私のような風変わりな者には、それが幸いしたというべきです。幅15m、奥行き10m強くらいの小公園はさながら、晩秋のすがれた廃園といった趣きなのです。何とはなしに郷愁を感じさせられる森閑としたたたずまいです。園内には桜の木が10本ほど、公孫樹(いちょう)の木が数本ほど一定間隔で植えられています。両木ともまだ十分落ち尽くしていない枝々からは、1枚、2枚、3枚…、ひらひらはらはらと静かに地面に落ちていくのです。誰も手入れをしないものだから、木の周りは桜落葉の赤い色、そして公孫樹落葉の真っ黄色い色が、互いに色分けされて地面を覆い尽くさんばかりです。私が腰掛けた白い色のベンチにも、桜落葉が10枚ほど乗っかっています。

 木が植わっていない公園の真ん中辺りには四角い砂場。その周りをライオン、ラクダ、アザラシ、ウシといった遊具の動物が取り囲んでいます。子供たちがちっとも遊びに来てくれなので、表情はどことなく寂しげで、所在無げにぽつねんとうずくまっている感じです。
 そして公園の東、西、北の際の方に、滑り台、シーソー、ブランコというお決まりの児童公園3点セット。私が座っているベンチにほど近いブランコは、小さいのが四つ並んでいます。なぜかその中の一つだけが、風に少しばかりゆらゆらと。
 木々の見えない所で、時折り小鳥たちが甲高い声でさえずったりしています。座って眺めやる北の方角の青空には、木々の少し上に夕の浮雲が見られました。

 そうしている間にも、木の葉はひらひらはらはらと…。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 個人的には当地において、11月29日の曇り日から『あヽいよいよ冬が来たなぁ』という感を深くしました。
 今年の立冬は11月8日だったとはいえ、それはもとより暦の上でのこと。いずれの季節の変わり目もそうですが、いったいどこまでが晩秋で、どこからが初冬なのか、判然としないことが多いものです。
 しかしある時、街を歩いたりしていて、どことなく微妙な事で季節が変わったことを実感させられることがあります。今冬の場合は、その日がまさにそうでした。鉛色の雲で覆われたうすら寒い街のようすからそのように感じたのです。
 
 街路樹や公園の木々も、落葉がかなり進んでいます。木の葉が一葉、一葉はらはら落ちるさまを見ていると、ついこの句のように「いそぐなよいぐなよ」とつぶやきたくなります。が、落ちなんとする枯葉を止める術などありません。

投稿: 時遊人 | 2011年12月 2日 (金) 03時58分

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