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米沢上杉藩物語(2)

 上杉藩米沢移封までの置賜地方の歴史

 和銅5年(712年)置賜地方は、それまでの陸奥国(むつのくに)から出羽国(でわのくに)と変更された国の一地方となりました。また平安末期には奥州藤原氏の支配下に入りました。
 
 ついでですから脱線しますが、奥州藤原氏のことを少しー。奥州藤原氏の遠祖は藤原頼遠(よりとお)とされ、平忠常の乱(長元元年-1028年)において平忠常側についた頼遠が、陸奥国多賀郡(現在の岩手県)の官吏に左遷されたものと推測されています。頼遠の子藤原経清(つねきよ)の時代、陸奥国内に荘園を経営するなどして勢力を拡大していきました。なお奥州藤原氏は、当時の藤原摂関家から係累を認められる家系ではあったようです。
 さて11世紀半ば、陸奥国には安陪氏、出羽国には清原氏という強力な豪族が存在していました。安陪氏、清原氏とも東北地方の先住民系豪族だったようです。

 このうちの安陪氏が陸奥国の国司と争いになり、これに河内源氏の源頼義が介入して足掛け12年にわたって戦われたのが「前九年の役」でした。同役では安陪氏が終始優勢に戦いを進めていたものの、最終局面で清原氏を見方につけた源頼義が安陪氏を滅ぼしました。安陪氏側についた藤原経清も斬首されました。
 しかしこれで、安陪氏、藤原氏の血筋が絶えたわけではありませんでした。殺された安陪頼時の娘の一人が藤原経清に嫁しており、経清死後清原武則の長男・武貞に再嫁することになりますが、この時経清の息子も武貞の養子になったからです。(安陪頼時の外孫でもある)経清の子は長じて、清原清衡(きよはらのきよひら)を名乗りました。

 永保3年(1083年)清原氏の頭領の座を継承していた清原真衡(武貞の子)と清衡そしてその異父弟の清原家衡との間に内紛が発生します。この内紛にまたまた源頼義の子の源頼家が介入してきました。内紛は真衡の死をもっていったんは終息しましたが、源義家の裁定によって清衡、家衡に3郡ずつ分割継承されることを家衡が不服とし、清衡と家衡との間に戦端が開かれることになりました。
 源頼家はこれにも介入し、清衡側について家衡を討ち取ります。この一連の戦いが「後三年の役」と呼ばれるものです。

 こうして清原氏の所領は清衡が継承することになったのです。清衡は実父の姓を再び名乗り、藤原清衡(ふじわらのきよひら)となりました。これが奥州藤原氏の始まりとなります。
 後に藤原氏は清衡の子基衡(もとひら)から秀衡(ひでひら)、泰衡(やすひら)と4代100年にわたって繁栄を極めることになりました。都を平泉に置き平泉文化を開花させ、平安京に次ぐ日本第二の都市と讃えられました。
 平家を滅亡した源頼朝の敵視政策により、源義経を匿(かくま)ったなどの咎(とが)により鎌倉勢の討伐を受け、文治5年(1189年)7月藤原泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅亡しました。

 その後鎌倉幕府の智将・大江広元(おおえ・ひろもと)が置賜地方を支配し、広元の子の時広(ときひろ)が頼朝の命により地頭(じとう)となり、後に時広は長井姓を名乗ることとなりました。この頃から置賜地方は「長井の庄」と呼ばれ、近世には「長井郡」とも呼ばれるようになったのです。
 長井時広から8代143年の間、その拠点であった米沢城は長井氏支配の中心地になっていきました。

 その後天授6年(1381年)伊達氏8代宗遠(むねとお)が長井領を侵犯し、時の領主の長井宗広は追放されてしまいました。
 新しい領主となった伊達氏は、主に高畠(たかはた)地方を根拠地として人心を掌握し、高畠城、米沢城をはじめとして、伊達、信夫(しのぶ)、柴田、伊具(いぐ)の諸地方にわたって各地に居城を構え、戦略上転々と本拠を移し、15代晴宗の時になって米沢城を根拠地にしました。ちなみに後に“独眼龍”と呼ばれることになる、伊達政宗は米沢城で呱々の声を上げたのでした。
 しかし恭順した豊臣秀吉の命によって、政宗は天正19年(1592年)25歳で米沢に名残を惜しみつつ、岩出山(現宮城県大崎市)に移って行きました。天正15年米沢城の西、館山の地に築いた外郭の跡は、今も政宗の雄大な計画の名残りをとどめていると言われます。
 政宗まで伊達氏が置賜を領すること、実に10代212年にも及んだのでした。

 次いで秀吉は、奥州の鎮護を考慮して、知勇兼備の名将・蒲生氏郷(がもう・うじさと)を会津に配し、会津に加えて伊達、信夫、長井三郡を与え、75万石の領主としました。氏郷はその将蒲生郷安(さとやす)を米沢城に配置し、3万8千石の領主としました。郷安は近江国(おうみのくに)松ヶ崎の人なので、米沢城を松ヶ崎と言ったとも伝えられています。
 蒲生氏郷は京都で40歳で世を去り、世継ぎの鶴千代がその後を継承しました。しかし彼が統率の才に乏しいのを見た秀吉は、蒲生氏を宇都宮に移し、越後の上杉景勝を会津に移して120万石を与え、奥州鎮撫の大任を課したのでした。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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