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米沢上杉藩物語(3)

 上杉藩米沢移封前夜

 豊臣秀吉の命により、長年住み慣れた越後から会津に移封してきた上杉景勝は、文武両道に秀でた第一の家臣・直江山城守兼続に、長井、伊達(だて)、信夫(しのぶ)30万石を任せ、米沢城を兼続の居城として与えました。慶長3年(1958年)正月10日、景勝44歳、兼続39歳でした。

 上杉家の会津移封は、豊臣家五大老の筆頭格として急速に台頭していた徳川家康を、その背後から牽制し、加えてこれまた強大化しつつあった伊達政宗も同時に牽制する目的がありました。さらに、五大老の一人の上杉景勝の越後も領民が上杉家になついている強大な軍事大国であり、秀吉はその力を恐れ勢力を削ぐ狙いもあったものと見られます。

 秀吉死後の関が原の戦いの折り、上杉軍は石田三成率いる西軍に味方し、徳川軍を背後から牽制する動きを見せました。そのため戦後天下を掌握し始めた家康によって、上杉家は家名廃絶の危機に立たされることになります。
 関が原の翌年の慶長6年(1601年)7月1日、徳川家康との交渉のため景勝と兼続の上杉主従は上洛します。大坂に入った直江兼続は、家康の重臣・本多正信と下交渉を行います。その席で本多は兼続に単刀直入に切り出します。
 「領地は置賜と陸奥信夫、伊達である。それでよしとせよ」。「ありがたきしあわせ」。兼続は一も二もなく平伏して答えます。

 山国かつ豪雪地帯である長井の庄(置賜)の他に、信夫と伊達が含まれていたことは、不幸中の幸いと言うべきでした。信夫、伊達は現在の福島県県北地方に当たります。いずれも旧伊達藩の領地で、阿武隈川が流れ、みちのく奥大道が通っています。地味も豊かで、交通の要衝の地でもあります。源頼朝が平泉の奥州藤原氏を攻めた時は、鎌倉の軍団がここを通ってまっしぐらに平泉を目指し北上していきました。
 会津時代の上杉の領地は、会津、置賜92万石、佐渡13万石、出羽庄内14万石という広大な領地を有する120万石の大大名でした。それがこのたびの家康の裁定により、かつては兼続に任されていた置賜、信夫、伊達の30万石に減封され、四分の一にまで削減されてしまったのです。
 しかし廃絶だけは免れ、家臣たちの生活が何とか可能な“思いやり”のある裁断と言うべきでした。

 しかしこれには家康の深謀遠慮があったのです。上杉上洛に当たって家康は本多正信に告げます。「謙信公の上杉じゃ。なくすわけにはいかぬ」。家康は続けます「それにのう、上杉の軍勢はなかなか強い。敵に回すよりは味方にして使うべし」。家康のこの一言で上杉の家名断絶は免れることになったのです。
 さすがは徳川250年の江戸幕府を開いた家康の大度量と言うべきです。しかし家康には老獪な読みもありました。家康が率いた東軍が勝利したとはいえ、大坂には65万石に減封された淀殿と秀頼親子が健在です。そんな折り「上杉断絶」を打ち出せば、上杉の軍勢は死に物狂いで歯向かってくる上、不満を持つ武将たちがそれに呼応すれば、第二、第三の関が原が起きることは必定です。「天下統一」という家康の大野望は潰(つい)えてしまうのです。

 ともあれ比較的穏便な沙汰が下され、領地に戻った兼続は同年11月中に家臣団を米沢と信夫、伊達に移しました。
 上杉家臣団を形成していた士族は6000名を数えました。そのうち1000騎が伊達、信夫に配置され、5000騎が米沢(置賜)に移りました。(なお米沢市に残る古文書には、移ってきたのは6005騎との記述もあるようです。)加えて越後以来の寺社や職人も移住し、その数は3万人にも達したと言われています。
 移住は冬季に当たり、昔から冬の難所である板谷(いたや)峠越えの苦労は筆舌に尽くしがたいものでした。 (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記)

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