『坂の上の雲・第2回』を観て
6日(日)夜8時(90分間)放送の第2回『坂の上の雲』は「青雲」でした。明治17年(1884年)秋山真之(本木雅弘)が伊予松山から上京して1年目の、故郷とは別世界のような東京での生活から始まりました。
9月真之と正岡子規(香川照之)は揃って大学予備門に合格。2人から報告を受けた真之の兄の好古(阿部寛)は、座右の銘である福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」を引用し、「今後とも自分を甘やかさず勉学に精進せよ」と諭します。
それにしても「青雲(せいうん)」、久しぶりで目にする懐かしい言葉です。今ではどこぞのお線香の名前としてしか知られていないと思いますが(笑)、私が高校時代を過ごした昭和40年代初頭くらいまでは、まあ何とか社会の一部では通用する言葉だったと思います。「青雲の志し」ーそこには大きな望みを抱くと共に、安直に経済的栄華のみは求めないという、「精神性」をはっきりと「物質性」の上位に置く、どこか硬派な心意気が込められていたように思います。
まさに当時の明治の新生日本という国も、そして「太政大臣(今の総理大臣)になって帰ってくるぞ」と言って松山を飛び出した子規も、「太政大臣は升(のぼ)さんに譲るけん」と言って後に続いた真之も。自分たちの未来や国の将来に、そんな大きな夢を抱けたわけです。当時といえども多くの難題はあったことでしょう。しかし「幻(まぼろし-ヴィジョンの意)無き国民(くにたみ)は滅びる」(旧約聖書)。国民誰もが将来にヴィジョンが描ける世の中は、幸せな世の中です。
「一身独立」。これまた良い言葉です。60歳にもなった者が言うのも何ですが、しかし「六十の手習い」という言葉もありますから言いますが、改めて「座右の銘」の一つにしたいくらいです。孔孟の教えの「修身斉家治国平天下」が想起されます。天下を治めようとする者は、先ずもって自分自身の身を修めなければならない。これを述べた福沢には当然その言葉が念頭にあったことでしょう。
福沢諭吉は若くして緒方洪庵に師事し、師の適塾で“洋学”の重要性に目を開かれました。しかしその素養の中には当然、儒学や論語的なものも備わっていたものと思われます。(なお『福翁自伝』は自伝文学中の白眉です。)
ドラマからは離れますが。思えば司馬遼太郎の原作がサラリーマンを中心によく読まれたのは、高度経済成長の真っ只中のことでした。日露戦争に到る明治期と戦後の高度経済成長期は、どこか相似形でシンクロしているようなところがあります。方や明治維新の開国によって方や敗戦下の米国統治によって、国の形の根本からの問い直しに迫られます。そして一方は富国強兵というスローガンの下、西欧列強に「追いつき追い越せ」。他方は経済成長をスローガンに欧米先進諸国に「追いつき追い越せ」。原作が大ベストセラーになったのは、そういう時代的共通性が大きかったのではないだろうかと考えられます。
その意味で司馬遼太郎の原作は、良くも悪しくも当時の高度経済成長政策を追認し、免罪符を与えた側面があります。
昭和50年代前半の頃、当時の会社の上司でなかなかの読書家がいました。司馬遼物もけっこう読破していたよし。ある時私は聞きました。「“竜馬がゆく”と“坂の上の雲”、読むとしたらどっちがいいですかねぇ」「そりゃぁ“坂の上の雲”だよ」。その先輩は即答しました。
それが心の片隅に残っていたのかどうか。私は40代前後「バブル崩壊」の頃、つまり司馬遼ブームはとうに過ぎた頃『坂の上の雲』を読んだのです。文春文庫で7、8冊、一冊がまた分厚くてなかなか読み応えがありました。しかし一旦読み出すと、これが手に汗握る面白さで、苦もなく短期間で読み終えました。重要な箇所には赤線を引きながら。
しかしその後はついぞ読み返すことなく、何年か後に全部処分してしまいました。ドラマ化された今となっては残念至極ながら、その時の私は「もう用済み」と判断したもののようです。
話を戻して。この回は「明治の青春」が実によく描かれていたと思います。その格好のサンプルが、我が国で初めてと言っていいくらい早期に「野球」に熱中した正岡子規であり、大学予備門から子規の親友となった塩原金之助(後の夏目漱石)であり、秋山真之であったわけです。後のエゲレス(英国)留学でノイローゼになって帰国する漱石も、この頃は青春を謳歌していたようです。
バンカラで自由闊達な彼らは、寄席や江ノ島への無銭旅行も敢行します。予備門から東京帝国大学へと進んだ子規と真之は、一時期下宿を共にし切磋琢磨して勉学に励みます。
しかしそんな中で互いの進路はおのずと決まって行き、それぞれが「一身独立の道」を歩み始めることになります。子規はやがて、太政大臣コースから大きく逸れた「俳句に新風を吹き込むこと」に己(おのれ)の活路を見出します。真之は学者になっても二流にしかなれない自分の限界を悟り、すぱっと東京帝大を中途退学し海軍士官学校へ。そして東京を離れ広島の海軍港江田島へと赴任して行きます。
秋山好古は、旧松山藩主がフランス留学するに当たって共に行ってくれるよう頼まれ、引き受けます。当時軍事はプロイセン(ドイツ)式が主流でしたから、プロイセンに敗れたフランスに行くことは出世コースから外れることを意味していました。しかし「万事塞翁が馬」というもの、何が幸いするか分かりません。何とフランス騎馬隊はプロイセン騎馬隊を凌いで、世界トップレベルだったのです。それを吸収した好古が組織した日本騎馬隊が後に、当時世界一と言われたロシア騎馬隊を死闘の末撃破することになるのです。
(大場光太郎・記)
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