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米沢上杉藩物語(4)

 米沢移封直後の苦闘

 上杉家が、徳川家康との交渉により家名断絶は免れたものの、会津120万石から置賜、伊達、信夫の30万石に移封という処置で決着したのは、関が原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)7月のことでした。
 直江兼続は、主君の上杉景勝より先に会津に戻ってきました。そして家臣団にこのたびの家康からの沙汰を通達し、間をおかず置賜米沢などに移る準備を開始しました。そして全家臣団6千騎のうち伊達、信夫に1千騎を、残りの全部を米沢に移すことをその年の11月末までに完了するよう通告します。兼続41歳頃のことです。

 「禄高を大幅に減らされた以上、この際家臣を減らしてはどうか」と進言した者も多かったと言います。藩の生き残りのためには当然そういう選択もあり得ました。
 しかし兼続の考えは違います。「危急の時にこそ人は第一に大切である」として、全家臣団を護ったのです。「もしこの際上杉から去りたくば名乗られよ。止めはせぬ」と告げたものの、誰一人藩を去る者はいなかったと伝わっています。謙信公以来の藩徳、兼続の人徳の賜物と言うべきでしょう。

 翻って現下の長期化する景気低迷により、かなり以前からどの企業もこぞって“リストラ(人員整理)”を進めています。経団連会長自身の会社(キヤノン)でさえ、有り余るほどの内部留保がありながら容赦ないリストラを断行しています。
 「これが資本主義システムよ」と言われればそれまでながら、決して尊敬されるやり方ではありません。対して、400年も前の兼続のこの“愛ある決断”はどうでしょう。昨年NHKが大河ドラマの主人公として、あまり名前を知られていなかった直江兼続を選んだのも、非情な現社会への異議申し立ての意味を込めてのことだったのかもしれません。

 いずれにしても旧暦11月といえば、新暦の現在では12月中旬過ぎから1月中旬頃までです。厳冬の真っ只中での移動となりました。それでも伊達、信夫に移った家臣たちは距離的にも近い上、雪もほとんどない福島側ですから比較的楽です。
 問題は板谷峠という難所を越えて置賜(米沢)に向かう家臣団たちです。私も冬の帰省の折りよく実感しましたが、板谷峠までは雪は全く見られません。ところがいざそこを越えるや大変な積雪となります。私の場合は山形新幹線ですから、暖かい車内からその白い雪化粧の風情を見物して通過するだけです。しかし家臣団5千人(米沢市に残る古資料では6千人余)とそれに加えて越後以来の寺社や職人たち総勢3万人もが、ぬかるんだ雪道を家財道具などを積み込んだ荷車引いて、あるいは牛馬を引いて歩きながら板谷峠を越えたのです。
 元は越後衆で豪雪に慣れているとはいうものの、おそらく想像を絶するご苦労だったものと思われます。

 ともかく以後明治初年まで上杉藩の拠点となっていく、置賜・米沢の地に大勢の者たちが移住してきました。その前も米沢の地は、主君景勝によって兼続に与えられていましたが、兼続はもっぱら会津若松で政務を執っていたためめったに米沢に来ることはありませんでした。ですから兼続自身にとっても、この時から改めて米沢、置賜開拓に着手していくことになりました。
 上杉移封直前の米沢はわずかに803戸を数えるだけで、四方の置賜盆地は原野と鬱蒼たる樹木ばかりの小天地でした。その時の米沢・置賜の石高はわずかに6万石に過ぎなかったのです。これでは早速にでも開墾により土地を広げ有効活用するなどしていかなければ、連れてきた大家臣団を養うことはおろか、上杉藩存続すら危うくなってしまうことでしょう。

 さあそこで直江兼続の民政家としての腕の見せどころです。そして兼続は実際、縦横にその手腕を発揮していくことになります。
 私が今回のシリーズにあたって参考にしております『米沢風土記』(昭和41年刊)には、「現在の米沢の町の形は、関が原の戦後、兼続が心血をそそいだものであり、米沢藩の施設はほとんど兼続の胸の中から出ているといっても過言ではない」とあります。そして続けて「米沢における上杉家の家風、制度というものはまず兼続によってその基を打ち出され、その後の歴代の藩公がこれに準じて兼続の政治理想である“善政”を布くの大本(たいほん)を行った。そして中ごろになり、上杉鷹山公が、これを更に色あげされたといえましょう」と述べています。

 こうして直江山城守兼続公の優れた民政力によって、置賜地方の治水、殖林、産業等が着々と進められていくことになるのです。  (以下次回につづく)

 (大場光太郎・記) 

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