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冬の水

          中村草田男

  冬の水一枝の影も欺かず

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《私の鑑賞ノート》
 中村草田男(なかむら・くさたお) 明治34年、厦門(アモイ)領事館生まれ。父は外交官で松山出身。東京帝国大学国文学科卒。成蹊学園に勤め、高校のち大学を教えた。俳句は「ホトトギス」に投句。詩人気質により清新な生命の俳句を多彩に作り出し、人間探求派と呼ばれた。思想性・社会性・宗教性をもつ多力の俳人。『長子』『火の島』『万緑』『来し方行方』『銀河以前』『母郷行』『美田』『時機』の句集と全集がある。昭和58年没。 (講談社学術文庫・平井照敏編『現代の俳句』より)

 溝、小川、池、沼…どこの「冬の水」なのでしょうか?この句の場合はそれらのどれでもよいのに違いありません。とにかくそれらのどれかの水のたもとに、一本ないしは何本かの木がある、そんなシチュエーションならどこでも構わない、普遍化しうる冬の水であるように思われます。

 「春の水」と比べてみると、その違いが際立ってくると思いますが、「冬の水」は澄んだ、透徹した、厳しいそして何より冷たいといったイメージが喚起されます。
 古来「水鏡(みずかがみ)」と言い習わされてきたように、分けても草田男が見ている冬の水はあたかも鏡のように滑らかなのでしょう。もしその水面(みなも)に何か映るものがあるとするならば、すべてありのままに映し出してしまう、やはりそういう厳しさや透徹さをこの冬の水は感じさせます。

 今草田男が見つめている冬の水に映っているのは、一木ないしは何木かの木の枝々。それを「一枝の影も欺かず」と詠みきった、草田男の鋭敏な感性、観察力、気迫には驚かされます。
 冬の水が厳しいように、草田男自身の句境がまた厳しいのです。このような草田男の広い意味での高い詩的精神によって、読者たる私たちも、冬の水に映し出された一木一枝をくっきりとイメージすることができるのです。

 こういう句こそ、正岡子規が唱えた「写生」の模範のような句と言えると思います。草田男自身のつまらない近代的屁理屈など捨て去って、観ることに徹底している、生を写すことに徹底している、何やら禅の修行僧のような峻厳さが感じられます。
 それゆえただ見ている事物の表面をなぞるだけの写生ではなく、まさに「生の実相」言い換えれば「自然界の深奥」に参入し、そこに潜む奥義を写し出したかのような名句だと思われます。

 (大場光太郎・記)

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コメント

 まさに「明鏡止水」のごとき冬の水。そこに映し出された冬木立。だいぶ前のウィスキーか何かのテレビCMではないが、「何も足たない。何も引かない」。あの世の閻魔大王の裁きの場にデンと置かれていて、生前のすべての所業をまざまざと映し出すという玻璃鏡(はりきょう)もかくありなん、と思わせられるまこと峻厳な冬の水の句です。

投稿: 時遊人 | 2014年1月14日 (火) 05時01分

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